Ⅱ79.支配少女は後にする。
「じゃあ明日は頑張りましょうね。試験の前には会いに行くから」
お邪魔しました、と挨拶をしながら玄関を出たところで私達は振り返る。
ステイル、アーサー、エリック副隊長も続けて彼らに声を掛ければ、ディオス達も一言ずつ答えてくれた。
もう夕暮れになり、外全体が薄暗くなってきていた。そろそろ城に帰らないと遅れてしまうし、夕食にも間に合わなくなってしまう。
昼食後は三人も随分集中して試験勉強ができた様子だった。実力試験の解説を一通り終えた後はもう一度同じ問題を解き直してみて貰ったけれど、問題なく三人とも満点を取れた。余った時間にもう一度授業内容を総ざらいしたけれど、全部理解できていたし先ず安心だろう。
本当にありがとうね、とお姉様が頭を丁寧に下げてくれる。
ずっと勉強で缶詰にしてしまったけれど食事をちゃんと食べたお陰か、こうして玄関まで来てくれても全然ふらついていない。今なら階段の上り下りも全く心配ないだろう。
お姉様に続くように、今度はディオスが一度絞った口を開いた。
「あ、のっ……本当に、あれ全部貰っていいの?紙、もだし……ごはんとかまだあんなに余って……」
不安そうに私に目を合わせ、次に背後に控えるエリック副隊長にも目を向ける。
私達が持ち込んだ手製の問題集と、エリック副隊長が買ってくれたお昼の食事はどちらも余った分はファーナム姉弟家に置いていくことにした。
「良いのよ。だって貴方達の為に作ったものだもの。好きに使ってちょうだい」
ふふっ、と笑いながら顔を軽く傾けてエリック副隊長に向ければ、彼も同意するようにお姉様達に向けて「傷まないうちに食べて下さい」と言ってくれた。
多分エリック副隊長のことだから最初からそのつもりで多めに買って来てくれたのだろう。キースさんは本当に良いお兄さんを持ったなと思う。
ステイルが時間が余った時の確認テスト代わりに使うようにと、ジルや私達と纏めた授業範囲はちゃんと学校に持参して何度も見直しで復習するようにと助言をしてくれる。流石ステイル、しっかりしている。
「今日は早く寝てね。ちゃんとベッドで。試験中に寝ちゃったら大変よ」
ん、と。ディオスとクロイが私の言葉に目だけで互いを見合わせた。
今日みたいに机で突っ伏さないようにと、お互いがお互いに思ったのだろう。まぁ今の二人を見ると、少なくとも夜更かしはせずに眠ってくれそうだなとは思う。
勉強中は集中していたけれど、お昼をお腹いっぱい食べて頭をずっと動かし張り詰めていた彼らは今こうして玄関前に立つと緊張感が緩んだのか、かなり眠そうだった。クロイの方は既に半分目が溶けている。ディオスよりいつもテンションが低めな彼だけれど、今はさらにぽやぽやしている気がする。
そう思っていると、今度はクロイが半分開いた目で私を見ながら口をゆっくり開いた。
「…………まだ、僕はお礼言わないから。特待生になれたって全然決まってないし……まだ、わかんないし」
言葉こそ僅かに棘がチクリとした気がするけれど、もう声が寝ぼけ声のようにまったりしている。
ディオスと全く違う態度なのがなんだか微笑ましく見えて、私から笑って返す。
確かにまだ特待生になれるかなんてわからない。二年には多く中級層の子もいるし、特に城下であるここには元々文字の読み書きもできて、勉強もできる子だってペンと紙に困らない子だって普通にいる。彼らだって発表されてからきっと一生懸命勉強している筈だ。範囲も一週間分と狭いし、きっちり仕上げている子は少なくない。
「お礼なんていらないわ。代わりに今日はちゃんと明日に備えてね」
じゃあねと私が手を振ると、何故かクロイが肘でディオスを突いた。
途端に、ディオスが未だ不安そうに歪めていた顔を今度はグニャリと顰め出した。嫌そうな顔でクロイを睨む彼は、そのまま仕方がなさそうに前へ出る。
とぼとぼ、とまるで今から先生に怒られに行くように背中が丸いまま私達に歩み寄ってくる。ファーナムお姉様もどうしたのかわからないように自分の隣に並ぶクロイとそして私達へ歩み寄っていくディオスを見比べる。もともと大して距離の空いていなかった私達の目の前まで来ると、顔を顰めたまま私の
隣に立つ、アーサーへと近づいた。
俺⁈と、短く声を漏らすアーサーが背を反らす。
どうして自分に急に近付いてきたのかわからない顔だ。ご飯を奢ったのはエリック副隊長だし、勉強を教えたのはステイルだから余計にだろう。
ディオスは背中が丸いまま上目で背の高いアーサーを覗く。「あの……」と口の動きだけで何かを言うと、絞って飲み込んだ。それから今度こそ意を決したように潜めた声をぽつりと投げる。
「……ね、……姉さん助けてくれたのに、……ジャンヌを殴ろうとして、ごめん。あんなに、ジャックはジャンヌと仲良しで……なのに。…………あれは、クロイじゃなくて……。僕、だったから……」
ぽつり、ぽつり、と限界まで潜めた声は、多分アーサーか隣に居た私にしか聞こえなかっただろう。
それぐらいに必死に潜ませて隠した声だった。入れ替わっていたことをお姉様に聞かれたくないのもあるのだろうけれど、それ以上に恥ずかしさがあるのだろう。
初対面の時、私の言葉に怒って手をあげようとしたディオスだけれど、あれはもともと私が詰問をしてしまった所為だ。けれど……多分今となってからかその前からか、ずっとアーサーに対しては悪いと思っていたのだろう。どんな形であれ、お姉様を階段から落ちるのを助けてくれたアーサーの親戚に手をあげようとしてしまったのだから。
そこまで考えた時ふと、そういえばディオスは一週間前の記憶が〝自分〟だとわかったのだなと気付く。三日前には記憶が混ざっていると言っていたのに。
早期に止めたお陰で後遺症も改善しているのかもしれない。クロイもディオスも今はあの時よりも言動がバラバラだもの。
言い切ったディオスは、すぐに見上げた目を伏せてしまった。
そのまま流れるようにペコ、と頭を下げる動作はきっとお詫びの気持ちだろう。ディオスからの謝罪にアーサーは戸惑いで背中を反らしたまま、全くの予想外と言わんばかりに目を大きく見開いていた。ぽかんと開いた口と丸い青色の瞳が、いっそもう忘れていたと思えるくらいに驚愕色だった。
それでもディオスが頭を下げるとやっと思い出したかのように「あっ、いや!その、確かにプッ……けど!」としどろもどろに声を上げる。
気にしていない、と言いたいけれど、殴られかかったのは私だから簡単に了承できずに惑っているようだった。私も全く気にしていないわと意思を込めてアーサーに笑いかけて見せると、こっちに目を向けたアーサーが一度大きく喉を鳴らして頷いた。それから再びディオスに向き直ると「大丈、……です!」と声を上げる。
「こっちこそご丁寧に、ありがとうございます……!…………明日、頑張って下さい。自分も、応援しています」
つんのめった声の後、やっと調子を取り戻したようにアーサーの優しい声が返される。
その途端、唇を絞ったままのディオスが首の動きだけで顔を上げた。
アーサーを見上げる目が本当に真っ直ぐで、若葉色の瞳が僅かに揺れていた。「ありがとう」とまた控えめな声で返したディオスは、また短くペコッと頭を下げると今度は隣にいる私に目を向けた。
まさか私にまで謝ろうとしてくれているのだろうかと思ってしまうと、彼は一度合わせた目を逸らして結んだ唇をちょこっとだけ動かした。
「ぼっ、僕も……まだ、言わないから。…………まだ」
消え入りそうな声で、何故かすごく弱々しい。
不安と申し訳なさが入り混じっているような表情で曇らせるから、謝罪なんかよりも彼のことの方が気になってしまう。
謝らない、というのはつまりまだ根に持っているということだろうか。それともクロイと一緒で、特待生になれるかもわからないのに軽々しくもうなったような発言はしないぞという意味なのか。
どちらにしてもここまで来てまだ不安そうなディオスの顔を見ると、何だかこのまま帰るのすら躊躇いたくなってしまう。よく考えれば試験なんてクロイは初めてで、ディオスに至っては一度〝クロイ〟として受けて赤点を取っている。もともとクロイの立場を借りていた学校生活が、今度こそディオスとして継続できるかの瀬戸際だ。
仕事も辞めて本気で勉強に懸けてくれた二人が、もし特待生になれなかったらと不安に思わないわけがない。
私の返事がないことを気まずそうにしながらも、待つようにその場からひこうとしないディオスは顔ごと私から逸らす。唇を結んで、絞って、肩が微妙に上がっている。お姉さんや弟のクロイが落ち着いているから余計に弱みを見せたくないのかもしれない。……なら、せめて。
「大丈夫よ。ディオスは凄く頑張り屋さんだもの。ちゃんとその分の結果が伴うわ」
彼が自分を、信じられますように。
そう願い、そっと彼の白髪を撫でる。さらり、と心地良い絹糸のような肌触りの髪は綺麗だった。雪よりも無に近い白色はまるで光の中のようだと思う。
突然触れられたことか、それとも励まされたことにか。私に顔ごと逸らしたまま目を丸く見開いたディオスは石のように動かなかった。おまじないの気持ちで私が再び梳くように髪を指でなぞると、一瞬だけピクッと片方の肩が上下した。
くすぐったかっただろうか。三度目は擽ったくないようにもう一度手のひら全体で彼の髪の表面を頭の輪郭に合わせて撫でる。
「貴方が踏み出した一歩は決して間違っていないわ。せめてこの三日の努力だけでも信じてあげて」
相当の覚悟が必要だったことも、今も後悔しないか不安なのもわかる。
けれど絶対に間違ってなんていない。彼もクロイも自分達の未来を開くために選んだのだから。どちらかが不幸になるのでもなく、一緒に幸せになる為に。
硬直したディオスの肩がだんだんとプルプル小刻みに震えてくる。逆に不安を押し上げてしまっただろうか。背けた顔を今度はそのまま俯けてしまったからわからない。
心配になり、彼の名前を呼びながら震えが酷くなった頭の手を下ろす。そのまま細いディオスの肩をそっと撫でると
ドン、と押し飛ばされた。
両手で至近距離の私を突っぱねるように伸ばして押しやられる。
痛くはなかったけれど、勢いのまま隣にいたステイルによろけて受け止められる。ジャンヌ⁈と呼ばれたけれど、突然押し飛ばされたことの方がびっくりして瞬きも忘れてディオスを見返してしまう。
私がステイルに受け止められた後も、まだディオスは突き飛ばした腕のままロボットのように固まっていた。俯けた顔をそのままに、肩の震えが今は大きく上下している。
また怒らせてしまったのかと、彼の言葉を待てば数秒の間の後に弾けるように声が発せられた。
「ばっ……‼︎……ばっ、ばっか‼︎‼︎お、お前だって十四のくせして‼︎ぼ、ぼぼ僕よりチビのくせに!頭は良いけど馬鹿のくせに‼︎ばっ、なんっ、…………ばーーーーーーーーーーか‼︎‼︎」
……何だろう。すごく語彙力が死んだ罵倒をされた。
図星をつかれた小学生男子のような怒鳴りに怒りどころかショックも受けられない。
叫びながら途中で顔を僅かに上げてくれたディオスは、それでも私達に目を合わせない。というか焦点が合っていない。
抑揚が壊れたような波立った声で荒げ、最後は感情を発散するかのような叫びだった。さっきの曇った表情よりは生気のある顔なのは良かったと思ってしまうけれど、代わりに今度は上気している。うっすらと桃色になった肌が白髪と本来の白い肌に映えた。
つまりは、同い年のくせに偉そうなことを言われたのが腹が立ったということだろうか。実際は彼らよりずっと年上なのだけれど。……そして、頭は良いけど馬鹿とは。
言葉の綾なのか、それとも今までの私の言動にお馬鹿っぷりがにじみ出ていたのか。肩で息を整える彼を眺めながらそこだけを考えてしまう。
ステイルやエリック副隊長、そしてついさっき私のことで謝られていたアーサーもこれには呆然としていた。……いや、エリック副隊長はちょっと笑っている。
様子を見守っていたお姉様が「ディオスちゃん、女の子に乱暴はっ……」と声をかけたけれど、息を整える彼には聞こえていないようだ。すると、立ち尽くすお姉様に代わって溜息を吐いたクロイが歩み寄ってくる。
息を整え終えたディオスも、やっと視線を睨むように私に合わしたと思えば、ハッとしたように顔色を変えてアーサーを見た。謝ったそばからやってしまったと後悔しているのが目に見えてわかる。顔色まで赤から
青に代わっていく様子は白のキャンパスのようにわかりやすかった。「あ……その、今の……」と口篭るディオスに、アーサーもぽかんのままだ。怒ってはいないだろうけれど、アーサーもアーサーでどう反応すればいいのかわからないのかもしれない。
「ディオス、子ども過ぎ。謝ったそばから同じことしてどうすんの」
「っ、だっ、て……いまのは‼︎‼︎………………。………………………………ごめん、なさい……」
離れていたから聞こえていない筈なのに、まるでディオスがアーサーに謝ったことが聞こえていたようなクロイは、呆れたように口を動かしながら膝で軽く突くようにディオスを蹴った。ディオスもディオスで慌てて振り返っていたけれど、クロイの顔を見た途端一気に沈下するように俯いてしまった。ぺこっ、と力なく私とアーサーにまた頭を下げてくれて、多分喧嘩早い子なだけなんだろうなと思う。
私こそ、と両手のひらを見せて私からも謝るけど、ディオスは下を向いたまま項垂れてしまった。
すると、溜息混じりにディオスを見ながら肩を落とすクロイが視線を私に移してきた。じっ、と見つめられ、これは君も悪いからとかお咎めが入るのかなと身構えると、……予想外に丸い言葉から投げられる。
「…………ねぇ、僕には?」
へ?と、間抜けな声だけが出た。
僕には、とは⁇と言葉にも出ずに首を捻ってしまえば、クロイが私を見つめながら眉の間を狭める。視力が合っていないのかしらと思うくらいの顰め顔の後、再び低めた声が重ねられた。
「……僕にも。ディオスみたいに励ましとかないの」
まさかの励まし要求。
ちょっとクロイには意外過ぎる発言に思わず引き攣った笑いで返してしまう。
お兄ちゃんのディオスより大人っぽい印象のクロイだったけれど、こうしてみるとやっぱり十四歳なんだなぁと思う。いっそ素直で可愛い。
ズボンのポケットに両手を突っ込んだまま佇む姿は、完全に〝待て〟の構えだった。
クロイも表情に出さないだけで実は不安だったのかもしれない。そうね……と言葉を漏らしながら私は再び口を動かす。
「クロイも、大丈夫よ。クロイだってたくさん頑張ったからあれだけ出来るようになったのだもの。それに貴方は視野も広いから落ち着いてやればきっと平気よ」
「六十点。……視野はともかく勉強の方はディオスができたんだから僕ができても普通でしょ」
「ディオスにできてクロイにできないことがある方が普通でしょう。勉強ができるようになったのは貴方自身の努力の成果よ」
「…………………」
……あれ、黙ってしまった。
突然点数をつけてきたと思えば黙秘って、もしかして論破されたのがショックだったのだろうか。私をじっと見つめたままのクロイは表情こそあまり変わりない。言葉を探しているかのように無表情で固まったままだ。十四歳相手に正論で論破は大人気なかったかもしれない。
あまりの長い沈黙に、ディオスも顔を上げてクロイに振り返る。クロイ⁇と兄が尋ねた途端、やっと諦めがついたかのように息を吐いた彼は一度視線を落としてから再び顔を上げた。そして
「ばーか」
っっっまた馬鹿って言われた‼︎‼︎
人生でこんなに馬鹿連続呼びされるのは初めてかもしれない。棒読みとも思えるくらいものすごく平坦な声で言われたせいか、ディオスの時よりショックを受ける。
馬鹿って言った方が馬鹿なのよ‼︎と言い返したくなったところを、大人の矜持をフル動員して耐える。結んだ唇をぷるぷるさせながら耐えると、その間にもクロイはディオスをせっつくようにして肩をぶつけた。
「話終わったんだから良いでしょ。もう家入ろうよ。お腹空いたし、今日早く寝たい。姉さんをいつまで待たすつもりなの」
あっ、とお姉様を待たせていたことに気がついたようにディオスが声を漏らし振り返る。
慌てた彼の視線の先では、困ったように玄関の前から身体だけを傾けて二人の様子を覗き込もうとするお姉様がいた。
私の方も、早く帰らないとと気が付き、アーサー達に振り返る。最後に視線をステイルに向ければ私の意を汲んだように「僕らもそろそろ帰りましょうか」と促してくれた。
大分立ち話をしてしまった私達はその場を早足で帰宅を急いだ。角を曲がるところでふと彼らの家を振り返ってみると、……三人ともまだちゃんと私達を見送ってくれていた。
彼ら三人がこの先もずっと揃っていて欲しいと心から思いながら、私は手を振りその場を後にした。




