Ⅱ592.刺繍職人は奮起する。
「本当にごめんねヘレネさん。こんな手伝いまでさせて………」
「いいえ、ネルさん。ディオスちゃんもクロイちゃんも今日はお仕事でお手伝いできなくてごめんなさい」
良いのよ仕事が大事!と、ネルは明るい声でヘレネ・ファーナムに言葉を切った。
学校の二連休二日目。学校を退職し本業となる刺繍職人としての仕事に精を出しているネルだが、今日は講師時代よりも忙しい。昨日から殆ど夜通しかけ自室で作業をしていたネルだが、それでも自分が予想した以上の量だった。昨日も夕食後早々に自室に戻った自分を手伝ってくれたファーナム姉弟だが、まさか今日も朝からヘレネに手伝わせることになるなんてと寧ろ申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
ファーナム家に引っ越してきた時には自分なりに完璧に整頓した部屋が、今は泥棒でも入ったように再び散らかり服と布で散乱していた。
唯一の救いは散乱したそれが全て畳まれた状態を保持されていることくらいだ。てっきり昨夜の内には準備を終わると甘くみていた自分を今は叩きたいくらいの後悔に駆られてしまう。
三日前どころか昨日も朝は刺繍に熱中し、ヘレネがディオス達と祭りから帰ってきてからは仲良くマフィンを焼いてと時間を甘く見過ぎていた。王族である摂政の誕生祭というお祭り騒ぎに浮かれていた部分もある。
そして今、部屋に散乱といえる服と刺繍の山々を一秒でも早く箱に仕舞わなければならない。
アネモネ王国第一王子への品出しの為に。
『定期訪問で月に何回か来てくれるから、良かったらその時にネルもお茶でもどうかしら?貴方に会いたがってるの』
その日が、とうとう来てしまったのだから。
後日、本当に城からの使者に日取りを指定した書状を受け取った時は心臓が口から飛び出るかと思った。
昨晩の内に、売りに出して良い商品の仕分けはファーナム姉弟の協力も得て完了した。もともと実益よりも趣味の為に何年も量産し続けたドレスや刺繍は売れるものなら売ってしまいたいものが多い。ただでさえ、今は別の発注をいくつも受けて新たな商品を作る為の作業スペースを空けたいのだから。
複数の発注を貰える立場になった分、どうせなら発注刺繍を全て併行で作業したい。その為にも持て余しているドレスや、大きさが違うだけの同じ刺繍は全て売るべく床に積んでいった結果、……散乱という言葉が相応しい壮絶な服の山がネルの部屋の床を埋め尽くしていた。
畳めるような服だけならばまだしも、畳むのには難のある衣装もあるため余計に嵩張る。
今はその嵩張る衣装や刺繍をなるべく皺がつかないように箱へと詰める作業に集中していた。まんぱんになるまで服を詰められた箱から部屋前に置いていくが、それでもまだ部屋の中は梱包待ちの作品商品で埋め尽くされたままだ。
まだ馬車の時間まで余裕はあるが、本来であれば今頃箱詰めも終えて馬車へ積み込むだけだった筈の作業にそれだけでネルは溜息も零れる。
「もし間に合わなそうなら、レイ君とライアーさんにもお願いしてみる?あとグレシルちゃんも」
「良いのよ。グレシルもまだ私のことは慣れてないみたいだし、………レイ君はうっかり怒ると大変だから」
あ、はは……とヘレネから枯れた笑いが小さく零れる。
最近レイの使用人として住むようになったというグレシルはヘレネにも淡泊だが、それ以上にネルには警戒気味である。話しかけると必ず緊張の色を露わに、まるで借りて来た猫のように小さくなる。
ネルとヘレネとしては女同士仲良くしたいが、まだ知り合って数日しか経過していない為無理もないとも考える。
ライアーとは仲良くなることができた二人だが、彼の場合は高確率でレイも一緒に来る。そして、怒らせれば発火する彼は今の火気厳禁の部屋にいれるのはネルも遠慮したかった。
同じ炎の特殊能力者のライアーなら制御もできているからとも思うが、一緒に付いてくるレイが制御ができていなければ結果は同じである。
実際昨晩も、手伝うと夕食後に申し出たライアーだが、衣服関連と聞けば「レイちゃん撤去」が一番の手伝いと判断し向かいの家に帰ってしまった。そして二人もあれは英断だったと思う。
ネルもヘレネもレイのことを好ましく思っているが、彼が小火を起こしやすいことも夕食の時間によく思い知っていた。
ディオスとクロイがいれば今頃終わっていたかもしれない作業だが、女性二人でも箱詰めだけならば時間内に間に合う。
「それに」と言葉を続けるネルは、そこで廊下からの足音に首だけで振り返った。
「今日は兄さんも来てくれているもの」
「ネル。早めに馬車が来たが、玄関まで運んだ物は全部積んで良いか?」
ネルが振り返ってからすぐ。開け放しにしていた扉から、兄であるクラークが顔を出した。
クラーク・ダーウィン。ネルの兄であり、騎士団副団長を務める男性は今は騎士団の団服も来ていない。護身用に剣だけを腰に差した彼は、妹の手伝いの為に休息日を取っていた。
ええ、ありがとう。と笑みと共に言葉を返されたクラークは、軽く部屋を見回す。自分が手伝いに来た時よりは大分片付いたが、まだ結構な量があるなと考える。部屋前に積まれた箱を玄関前まで運ぶ力仕事を担っていたが、ここは箱詰めも手伝った方が良さそうだと見当づける。ただでさえ雑に扱ってはならない刺繍や衣装だ。今朝訪れた際も、部屋の惨状に「オリヴィア達も連れてくれば良かったな」と思わず笑ってしまった。
馬車と荷運びの為に力仕事を手伝って欲しいとネルから頼まれたが、その時は「荷物は前日の内にこっちで詰めとくから」と言われていた。その為、力仕事だけならと妻と母親には断ったが、実際は引っ越しと同程度の作業量だ。
プライドの直属刺繍職人になったと聞いた時も驚いたが、今度は在庫の商品全てをアネモネ王国の王子自ら引き取ってくれると聞いた時もクラークは眩暈を覚える程度には動揺した。
しかもこうして来てみれば、ネルもネルで馬車一台分になんとか積み切れるほどの量を売りつけようとしている。もともと趣味といつか売る為の在庫として作っていたものを手放すことは良いと思うが、こんなことになるのなら引越しはもっと後の方が良かったとこっそり思う。昔からわりとしっかりしていた筈の妹が珍しく詰めが甘い。
「私も荷造りを手伝おう」と言いながら、雇った御者の待つ玄関へとその場で声を張り呼びかける。
「ハリソン。すまないが荷運びの方を任せて良いか?」
私はこっちを手伝う、と。そう続けるクラークの言葉に、廊下からは即答が短く返って来た。
その名を聞いた途端、一瞬だけ身構えたネルだがすぐにまた作業を進行させる。兄が手伝いに彼を呼ぶことは一週間以上前に確認されていた。今更緊張するわけにもいかない。
もともとは、クラークからの提案である。
ネルの荷物運びと馬車の手配の為に休息日を合わせることにしたクラークだが、知れた時にはちょうどハリソンの非番も二、三日程度なら調整できる時だった。そしてハリソンが基本的に休日は鍛錬以外予定を持たないこともよく知っている。
ネルから求められていたのはあくまで単純な力仕事。そして、ネルはハリソンを……と、全てを最もよく把握してしまっているクラークはそこで妹に黙っていることもできなかった。自分から下世話の押し付けはしないと決めているが、妹に騎士団演習場へ頻繁に訪れられるよりはずっと良い。むしろこの機会があって、黙っている方が自分がネルを〝邪魔〟しているように感じられれば言うしかなかった。
ハリソンがちょうど休息日になるかもしれない。良かったら私から手伝いを誘ってみるが、どうする?と。
ネルに意思を求めれば、二時間以上掛けた返答を得た。一度は引越し作業の手伝いを断り機会を無に返したのもネル自身である。もしハリソンさんが本当に予定もなく、お暇であれば。けれど無理強いはしないで絶対と。そうネルから返された時点でクラークはハリソンが手伝いに来ることが確定した。
ハリソンに予定がないことも、何より他でもない自分が頼めばハリソンが大概の予定は踏み潰してでも優先してくれることはよく知っている。今までもハリソンを外出に誘ったことはあったが、こうして休日に荷運びを頼むのは初めてである。しかし、それでも間違いなくと。
結果、クラークから「予定があるなら断ってくれ」と前置いて言われた妹の荷運び作業にハリソンは迷わなかった。
妹が二時間もかけて依頼することを決めた荷運びを、ハリソンが即答で返したことはクラークも流石に苦笑した。
放っておけば四時間前には待ち合わせ場所で待機するだろうハリソンへ事前に手を打ち、共に騎士団演習場から出た。私服の自分と異なり、ハリソンは騎士団服のままだった為城下でも無駄に目立った。
顔つきの柔らかなクラークだからこそ誤解は生まれなかったが、そうでなければハリソンの物騒な雰囲気も合わさり騎士と連行者である。
「今までいらっしゃった騎士様とは雰囲気の違う方ですけれど、寡黙な方ですよね。あちらの騎士様」
「ああ……、ハリソンは交流が苦手で。決して機嫌が悪いわけではないので気にしないでやって下さい」
ははは、とクラークはヘレネからの言葉にやんわり返しながらも、冷たい汗が頬に伝う。
今までハリソンの面倒をみ続けて来たクラークだが、一緒に居てここまで肝を冷やさせられたことはなかった。しかも今までの緊張感とは全くの別種である。
今のところ自分が命じた通り特殊能力の使用は最低限控え荷物も丁寧に運んでいるハリソンだが、彼が紳士的に振舞う相手は限られた人物だけだ。
自分の妹であるネルには紳士的に振舞うが、同じ女性でもヘレネには一般人に対してと同じ対応だった。目は淡々と合わせるが、言葉も短くそして長い会話をしたがらない。今朝も挨拶した際に「宜しくお願い致します」と言った後は全く必要以上会話しようとしない。
このまま何事もなく済めば良いが、いつ自分の妹がハリソンという男を正しく理解するかどうか考えれば、王族への品出しに緊張感する隙もなくなった。それよりも今は妹の精神状態ある。
あくまで自分は妹に押し出すことも引き離すこともしたくない。
自分が少し手を加えればどちらも簡単に全て叶うのだから、余計にだ。しかし、妹がどこまでハリソンを勘違いしているか。もしくはどこまでハリソンに許容できるかは兄であるクラークにも全く想像がつかなかった。
クラークの言葉に「もちろんです」とにこやかに返すヘレネにも、その心境を全く気取らせない。
「ネルさん本当にすごいですね。こんなにたくさんの作品を買って貰えるんですもの。お兄様もきっとご自慢でしょう?」
「ええ、勿論です。私も妻も、それに母も喜んでいます。出来の悪い兄に似ないでくれて良かった」
そう言いながら、荷造り一つでも始めれば誰よりもクラークの手が早く的確だった。
兄の謙遜に、ネルも「兄さん、またそういう謙遜して」と溜息まじりに返すがもう長くは指摘しない。間違いなく昔から優秀で出来が良く器用だったのは兄の方だが、子どもの頃からそうやって自分を立ててくれる。それは兄の卑下や皮肉でもなく、ただ単に兄がそれだけすべてにおいて要領も良い証拠なだけだと判断した。
一瞬「そうやってオリヴィアとも仲良くなったのよねきっと」と言ってやりたくなったが、そこは飲み込んだ。自分がそうされたくないように、兄と親友とのプライべートにも悪戯に囃し立てないと決めている。………だからこそ、家を出たくて仕方なかった。
自分が子どもの頃から兄に勝てたことなど、それこそこの刺繍の腕だけである。
そして、刺繍すら兄はそれほど興味を持たなかっただけで、必要であれば自分より熟達していたのではないかと今でも思う。それくらいに自分の兄は昔から向き不向きはあっても下手や苦手というものがない。
兄の作業参加のお陰で、みるみるうちに荷造りの作業効率が上がっていく。更に廊下に出した荷物も、ハリソン一人でも余裕で廊下から馬車まで滞りなく積み運びの往復ができた。
高速の足を使えばもっと早く終わったが、クラークから使用制限をされた以上自分の足の速さだけで丁重に一個ずつ運んだ。それでもたかが布しか詰められていない箱は運ぶのも軽い。
騎士が一人で大量の荷物を馬車へと積む光景は何かの撤去や押収のように第三者には見えたが、幸いにも人の通いの少ない近所では目撃者も少なく済んだ。
やっとネル達が部屋の積荷全てが箱に詰め終えた時には、ハリソンも玄関の荷物は全て馬車に運び終えていた。
ネルとヘレネも最後くらい自分が詰めた箱を手に馬車へ運ぼうとしたが「ああ、私が持とう」と三箱全て一度にクラークに運ばれた。廊下に出てすぐハリソンから「お持ちします」と言われたが、それも軽く断り最後の三つも無事馬車へと詰め込まれる。
時計を見れば、予定時刻の三十分前だった。
終わったー!と馬車の前で両手を広げて伸びをするネルに、ヘレネもぱちぱちと拍手した。自分の力不足でネルが間に合わなかったらと心配だった部分もあった為、無事に終了して心から安堵する。
「少し早いけれど、出発した方が良いですよね。ちょっと待ってて、今軽食だけ持ってきますから」
「ヘレネさん本当にありがとう!軽食は私取ってくるから大丈夫!帰りにお礼買ってくるからゆっくり休んでね!」
じゃあ一緒に取りに行きましょうと、少なからず疲労しているにも関わらず達成感が勝り笑顔で家へと戻っていくヘレネにネルも続く。
二人の背中へ手を振りながら、御者と共に荷物を見張るクラークもその姿に自然と笑みが零れた。最初は心配な部分もあったが、妹が無事新たな家で仲良くやっているようだと思う。
時間も余裕も持て、天気も恵まれている今幸先も良い。あとは城にこの馬車をネルと共に送っていくだけだと考えた時。
「副団長」
「?どうしたハリソン」
さっきまで必要な業務の会話以外何も話さなかったハリソンが、不意にクラークへと口を開いた。
もう帰って良いかという確認かとも思ったが、ハリソンが自分との業務で早期帰宅を望むとも思わない。むしろこの後も馬車の護衛をすると言い出すと思っていた。
軽く目を向けるクラークに、ハリソンは紫色の眼光をまっすぐに向けた。本当はもっと早く言いたかったが、業務を優先して今の今まで自粛した私語である。
「〝出来が悪い兄〟は副団長を表現するにはあまりにも不適切過ぎるかと」
「………。そうか、ありがとう」
聞こえていたのか。と、その言葉を敢えて飲み込みながら、真っすぐ自分を見るハリソンにクラークは俄かに笑う。
決して自分を卑下したつもりはない返答だったが、ハリソンには引っ掛かったのだろうと理解する。自分を慕ってくれるハリソンには、本人からすら否定の言葉は認められない。
それをわざわざ時間が経っても訂正を求めるところは、ハリソンらしい。そしてそういうところも自分はまた気に入っていると思う。
「すまなかったな、私も発言には気を付けよう」
「いえ」
その後、ハリソンから「この後の馬車の護衛もお共して宜しいでしょうか」と言われれば、クラークもくっくっと喉を鳴らし笑いながらその肩へと手を置いた。
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