Ⅱ77.支配少女は監督する。
「………………え……ええと、……これは」
軽い朝食を終えての勉強会から三時間。
私とステイルは、それぞれ目の前の現象に固まるしかなかった。顔が笑顔のまま引き攣り、頬を一筋の汗がなぞる。目だけを動かしてステイルを見れば、二人の書き終えた紙を無表情のまま睨んで固まっていた。
私達を見つめ返すディオスとクロイ、そしてお姉様にとうとうどう反応すれば良いかわからなくなる。確か彼らには二日前には会ったはずなのに。
そう思いながら、私はもう一度固まる口を動かして目の前にいるお姉様に問いかける。
「……ちなみに、ここの計算問題で途中式がないのは?」
「ジル君に簡単な暗算方法を教えて貰えたの。足し引きくらいならもう一目で大丈夫よ」
……昨日まで、計算問題は一個一個と解いていたお姉様が。
確かに簡単な計算式ではあるし、カンニングを疑われるほどの途中式がないとおかしい計算ではない。だけど、こんなにあっさりと暗算しちゃえるものなのだろうか。昨日まで苦手だった文章問題すら今のところ全く間違いがない。もう完全に授業でやった範囲は内容も理解してしまっている。
「ディオス、クロイ。……綴りミスも脱字もありませんが、一体どんな勉強方法をすればこんなにあっさり治るのですか」
ステイルも淡々とした声で尋ねだす。
無表情のまま肩が少しぷるぷると震えている。昨日まで続いていた書き間違いがどうやら全くないらしい。昨日まであんなにステイルが一生懸命直してくれていたのに。
ディオスとクロイはステイルの言葉に顔を見合わせると、自分でもわからないように首を捻った。その様子からすると、単に何度も同じ文字を繰り返し書かされたとかではないらしい。「ジルの書いた文を複写してただけ」とか言うから、本気でどんな魔法を使ったのか私まで聞きたくなる。
言われた途端、若干黒い気配を放ったステイルがガサゴソと書き終えた後の紙の束を捲りだした。たぶん複写する題材だった紙を探しているのだろう。
「す、……フィリップ、今それは後でいいんじゃないかしら……?それよりも書き間違いがなくなったのなら、本格的に授業内容の方を」
「既にこの一週間の授業内容全て網羅していました。……筆記で書かせた答えは全問正解です」
くっ……と物凄く悔しそうに私の言葉を遮るステイルのは、紙の束に皴を作るほど掴む手に力を込めた。
ジルベール宰相に依頼してくれたのはステイルだけど、予想を遥かに上回って先を行かれたからだろう。かくいう私も実はなかなか落ち込んでいる。
お姉様の方もこの一週間分の授業内容全て完璧に理解してしまっていた。いくら中等部も高等部も授業範囲がそこまで変わらないとはいえ、たった二日で本当に覚え切るなんて。しかもファーナム姉弟の話だと家事とか片手間にしながら教えていたのよね?と思うと余計に信じられなくなる。彼らに勉強の面倒を見ると啖呵を切った翌日からの勉強指導が全く意味のないものだったんじゃないかと思うと余計に落ち込みたくなる。
絶対これ、私とステイルが休み時間返上で勉強教えなくてもジルベール宰相だけでここまで仕上げられたわよね?
そう考えればステイルに続いて私まで敗北感で立ち直れそうにない。
「どうしてジャンヌ達がそんな落ち込んでるんだよ。せっかく覚えたのに……」
「ていうか褒めてくれるところじゃないの?言っとくけど僕らもそれなりに努力したんだからね」
「ジャンヌちゃん達が基本や苦手なところを先に確認してくれたから、ジル君との勉強も捗ったのよ」
ディオス、クロイ、お姉様に続けて言葉をかけられ、なんかもう泣きたい。
特にお姉様に至っては完全にフォローをいれてくれている。にこにこと笑ってくれているけれど、もうこっちは敗北感ズタズタだ。別に勝負していたわけじゃないのにもう無力感がすごい。三人の力になるぞーと気合いいれておいてジルベール宰相のお陰でなんとかなってしまった。
いやもちろん、三人が元々すごく優秀なのと何よりも本気で勉強しようという意思と努力あってのものだということはわかっている!三人がちゃんと勉強が間に合っていることだって喜ばしいことに間違いない。むしろ勉学が進んでいることを残念がるなんて失礼極まりないことだ。
ごめんなさい……と謝りながら、私は重く垂れかかった首を頭ごと持ち上げる。三人一人一人と目を合わせれば、ディオスは若干頬が膨れているし、クロイは眉間に皺寄せているし、お姉様は困ったように眉を垂らしている。三人ともこの三日間本当に頑張ったのだから、ここはちゃんと褒めないと!
「……三人とも本当にすごいわ。ディオスとクロイなんて、文字の習得からここまでできるようになったのは本当に頑張った証拠よ」
心からの笑みで返し、両手を胸の前で合わせて賞賛する。
本当に、えらい。しかもジルベール宰相にここまで教えて貰っただけで満足せずに、自主的に昨夜だってテーブルで寝ちゃうまで勉強をしていたのだから。本当に本気で勉強を頑張ってくれたのだなと思えば嬉しい。言い出しっぺの私が役立たずでごめんなさい、と心の中で謝りながらも今はまず三人の頑張りを喜んだ。
すると嬉しそうに微笑むお姉様と違い、ディオスとクロイは私達から顔を左右に逸らしてしまった。唇を同じように結びながらうっすらと頬が紅潮している。もしかしてあまりお姉様以外に褒められ慣れていないのかもしれない。小さい声でうっすらと「……うん」「まぁ……」と返してくれるから、やはり怒っているというよりも照れている。
すると、ステイルも気がついたように顔を上げた。紙の束を両手でゆっくりテーブルに下ろしながら「確かに、三人の努力の賜物でしょう」と同意してくれる。するとステイルにまで褒められたのは素直に嬉しいのか、ディオスとクロイの口元が僅かに緩んでいた。嬉しいのを隠そうとしている様子が可愛らしい。
その様子にステイルも小さく笑うと例の紙を探すのは諦めたのか、眼鏡の黒縁を指先で押さえると気を取り直すように三人に向き直った。
「一度、前回の実力試験をやり直してみましょうか。それを全て解説して満点を取れるようになったら今日は最後の復習だけで十分かと」
そうね、と私もその意見に頷く。
本当は授業内容を全て網羅し終えた後に時間があったらやろうと思っていたけれど、ジルベール宰相のお陰で大幅に短縮できた。流石に満点は難しいだろうけれど、きっと以前よりいい点数は取れる筈だ。
当時の実力試験は試験というよりも生徒達一人一人の学力確認の為に実施されたものだから、どのクラスでも試験内容の解説などは行われていない。まだ授業で教える予定ではない範囲まで初等部、中等部、高等部纏めて入っていたのだから当然だけれど。
問題用紙を取り出し、当日と同じように制限時間を設けて早速三人にそれぞれ解いてみてもらうことにする。最初は解説から始めようと思っていたけれど、時間はあるし、今の三人が自分達の学力向上を実感するにも良いだろう。特待生試験がどういう形式で出してくるかはわからないけれど、念には念をいれるべきだ。
始め、の合図を出してから三人は同時にペンを走らせる。それぞれ自分の名前を答案用紙に書き、早速初等部の問題から解き始める三人はスラスラとペンを走らせていく。最初の問題は文字さえ書ければ誰でもわかる内容も多いし、カリカリと考える間もなく順調に解いていた。
「五枚解けるまで時間がありますし、……エリックさん。宜しければ僕と一緒に昼食の買い出しに付き合って頂けませんか?」
そろそろお昼ですし。と続けるステイルの言葉に、話を振られたエリック副隊長よりもディオスとクロイが勢いよく顔を上げた。
問題用紙から離してカッと見開かれた目がステイルとエリック副隊長に突き刺さる。
昨日もジルベール宰相に食べさせて貰って、今朝もスープを食べていたのにもうお腹が空いたのだろうか。いつもより食べられた、お腹いっぱいになったと話していたのに。もしかしなくても食欲増進しているのでは。……いや、年頃の男の子ならむしろこっちの方が普通かもしれない。ディオスもクロイも食べ盛りの男の子なのだから。
私の前世での中学生男子なんて、隙あらばおやつ摘んで帰りはコンビニで軽食買って晩ご飯もおかわりするのが普通だった。しかも彼らはずっと肉体労働でお金を稼ぎ続けていたのだからお腹が空かない方が本来はおかしい。
するとエリック副隊長も察したように「ああ」と言葉をぎこちなくステイルに合わせ、彼らにも目を配った。
「お邪魔していることですし、今日くらいは自分が奢ります。君達も何か食べたいものは?」
何でもどうぞ、とファーナムお姉様に続き心強く言うエリック副隊長の言葉に二人とも目が輝く。
その途端、制限時間が刻々と過ぎているにも関わらずディオスもクロイも同時に手を上げた。その素直な反応にエリック副隊長が笑って促すと、二人とも声を揃えて希望したのは「具が多いサンドイッチ」だった。……オムライスじゃないのかと少し意外だったけれど。
まぁ持ち運びできる料理ではないから、そこを考慮してくれた結果だろう。私も作ろうとすれば作れるけれ……、……駄目だ、ティアラがいないと作れない。試験前日に三人のお腹を壊しちゃったらそれこそ目も当てられない。
お姉様はジルベール宰相のスープがあるからと、柔らかなパンだけを所望してくれた。やっぱり身体に優しいものが好きらしい。何より本当にあのスープは美味しかった。
エリック副隊長一人では護衛に抜けるのは難しいけれど、護衛対象の一人であるステイルと一緒なら問題無い。「気をつけてね」と声をかけると、ステイルは可笑しそうに笑ってくれた。
「ジャンヌこそちゃんと家に居てくださいね。何かあればすぐに合図を。まぁ、熊を倒すジャックが付いていれば安心でしょうが」
なぁ?と言いながら、ステイルはおもむろにアーサーの肩を叩いた。
いや熊って……とアーサーは小さく呟いたけれど、最終的には「任せとけ」と返してくれた。エリック副隊長に「宜しくお願いします」と頭を下げると、少しためらいがちに一歩一歩私の隣に並んでくれる。
勉強会が始まってから、アーサーは「自分は教えれることは」と言ってなかなか前に出ようとしなかった。綴りミスくらい確認しろと事前にステイルに言われたけれど、ディオスもクロイも全く間違わないからすぐにお役御免になってしまった。
エリック副隊長と一緒に家からでていくステイルを見送りながら、私はアーサーが勧めてくれた椅子に掛ける。さっきまで立ちっぱなしで教えていたから腰を下ろすだけで、ふぅっ……と溜息が出る。
玄関が閉まる音の後、アーサーが駆け足で扉を閉めて戻ってきてくれる。彼が駆ける度に廊下がギシギシッと若干不安な音をたてる。私から戸締りのお礼を言った後、私は試験監督気分でゆっくりと視線を三人に向けた。
当然ながらカンニングの心配なんて無いけれど、三人ともすごく集中した様子で紙にペンを走らせ続けている。特にディオスとクロイはご褒美が確定したからか、気合の入り方が目でわかる。肩を異常なほど上げてペンを握る手に力を入れる様子はもうやる気の塊だった。
「……たぶん、もう三人とも俺よりできると思います」
ぼそっ、と少し前屈みになったアーサーが私の耳元に顔を近づけて囁いた。
アーサーの具体的なテスト結果は知らないけれど、そういうのを正直に言っちゃうのはアーサーらしいなと思わず笑ってしまう。三人の集中を切らないように声を抑えてくれるアーサーに私も倣う。顔だけで背後に控えたアーサーに振り返り、耳元に顔を近付けてくれた彼に今度は私が囁き返した。
「一番強くて格好良いのはアーサー騎士隊長よ?」
今だけはジャックと呼ばず、そう告げる。
勉学なんて気にすることはない、アーサーはもう充分世界中に胸を張れる人なのだから。
そう思いながら悪戯気分に笑んでしまう。すると次の瞬間、ぐわッッと急激にアーサーの顔がのぼせ上がった。顔が近くにあった所為でダイレクトにアーサーの体温の急上昇が肌でわかる。
熱気を放つ彼に驚いて思わず声を上げそうになり、両手で口を押さえた。目だけが正直に皿になってしまいながらアーサーを見返せば、無言のまま私の耳元から顔ごと上半身を仰反るようにして引いてしまった。半歩だけ足を背後に下げ、腕で口を押さえつけたまま僅かに顔の角度を私から逸らしたけれど、目だけはしっかり私に合わせてくれていた。……焦点が合っていない気がするけれど。
掠れた声で「すンませっ……ありがっ、……〜〜っ」とぼそぼそ呟くアーサーは、言葉に詰まれば詰まるほど更に顔の火照りが増して心配になる。……もしかして今の発言が「そうでなくては困るわよ?」と圧をかけているようにでも聞こえたのだろうか。むしろもう立派な騎士だからアーサーはそのままで良いと言いたかったのだけれど。
遅れてアーサーが緊張で赤くなった理由を理解した私は、アワアワと唇を踊らせながら言葉を必死に選び直す。その間にもアーサーは何か必死で弁護してくれるように「違います……!」と開いた右手を私のほうに突き付けながら、声を霞ませた。いやどうみても上司にパワハラ受けた新入社員みたいになっているし‼︎
「…………ディオス。うるさい。集中して」
「……何も言ってないだろ」
「思考がだだ漏れ」
私達の迷惑な雑談の所為で、ぼそぼそとクロイ達の方からも話し声が聞こえてくる。
「私語厳禁!」と自分を棚に上げて二人へ振り返った私はそのまま正面に向き直った。
すると二人は授業中に先生に怒られた時と同じように肩を狭めて揃って唇を絞る。もう本当に試験官さえまともにできない自分が情けない。
ステイルと大量の荷物を抱えたエリック副隊長が戻ってくるまで、本当に私もアーサーも何一つ話せなかった。




