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フリージア王国備忘録<第二部>  作者: 天壱
誘引王女と不浄

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そして運ばれる。


「見ろ、あれはそうだろ」

「でもまだ若い子じゃない。下級層だし裏稼業にでもやられたんじゃ……」

「よく背を見てみろ。傷は知らないがあの焼き印は間違いなく罪人の証だ」


見ないで、見ないで、見ないで、見ないで、見ないで、見ないで、お願いお願い見ないで気付かないで話さないで振り向かないで指を差さないで。

頭では何度でもそう言えるのに声に出ない。カラリと乾いて「ァ……」と枯れた声しか出てこない。痙攣するまま舌だけは中途半端に開いた口の中で踊る。

私を狙っている裏稼業の噂が聞こえないことだけが救いで、それ以上の噂話全部がまるで針で串刺すみたいな拷問だった。

首を回すこともできないくらい全身の動きが止められる。もう、あの目で見られたくないのに。


あの人達が見てるのは〝私〟じゃない。身体に刻まれた〝罪人〟の証だ。


手足を切り落とされないだけ、幸福だった。

それをわかっていても、薄い布越しにでも布の隙間からでも見えてしまうだろう鞭の跡とそして罪人の証の焼き印。投獄される前に一生消えない罪の証として残された。

今後どんな軽犯罪でも一度捕まれば、この証を元に国中のどこにいても極刑しか認められない。処刑をしていい許可証代わりの印。


髪が長くて良かったと初めて心から思ったけれど、それでも薄い服と髪じゃ隠しきれなかった。男にいつでも誘われるように肌が見えやすい服で良いと思ったのを、今は死ぬほど後悔する。

鞭の跡すらこの先消えるかどうかも私の頭じゃわからない。肉が抉られる感覚はまだ肌に張り付いたまま思い出そうとすれば簡単だった。


罪人の証を隠せても、今度は上げた顔にみんな血色を青くしたり白くする。目を剥くか逸らすだけで、きっともう誰も気を許してなんかくれない。

鼻の横から右頬にかけての一本傷。

顔にまで醜い傷を顔に負った下級層の女を、誰が同情してくれるわけもない。そんなこと私が誰よりよくわかってる。


本当なら傷どころか手足の一本や指や目や耳を抉られてもおかしくなかったらしい罪人に、〝生活に苦労しない〟この程度の刑罰は幸運だと牢屋で傷の熱にのたうちまわった私に衛兵も言っていた。

けど、私みたいな女にとって顔と身体に傷を作られたのは腕一本捥がれたのとあまり変わりない。これが商売道具だったんだから。

裏稼業からこんなのでも気にしないような男もいるけれど確実に数は減る。もう今までみたいに人を上手く使うことなんかできなくなった。

娼家街にでも行けばこういう傷物も受け取ってくれる?


「傷が真新しいぞ。ということはまさか釈放されたばかりの……」

「一体何を……どこの奴らかにでも唆されたんじゃねぇか?」

「〝────〟」


逃げなきゃ。

まるで探るような声をと眼差しに、ぞくりと背中から震えて足に力を込める。最後の言葉は聞こえない聞こえなかった。

このまま私の正体がバレたら今度こそ奴らの耳に届くかもしれない。バレたら追われる、追われたら殺される。そうなる前早く人の通りから離れようとやっと地面を蹴れた。

慌て過ぎて伸び切った爪が地を引っ掻いてガリリと嫌な振動と感触が骨の芯まで伝わって肌の毛が逆立った。


目の前にで立ち止まっていた人を両手で押しのけ、まず服を調達しなきゃと探す。塵でも良い、テーブルクロスでもカーテンでもボロ布でも何でも良いから背中をちゃんと隠せる厚いもの。それと、口元を隠す布も欲しい。正体全部すっぽり隠してくれる帽子か、フードがついた服でもなんでも良いから早く


『このフードですか?えへへ……ヴァルとお揃いなんです。セフェクも仕事の時はお揃いですよ!』


羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい妬ましい私だって。

一瞬脳裏に過った記憶に、口の中を勢いのまま噛み切った。前後に振る両手で拳を作って、それでも抑えきれなくてぎゅっと目を絞る。嫌だもうあんなずるい子に会いたくない。


私のところまで堕ちてくると思ったのに、弟にしてあげても良かったのに、全部全部持っていたくせに何も私にくれなかったあんなガキ。

家族自慢を聞かされて、何度唆そうとしても絶対揺らいでくれなかったあんな分からず屋死ねばいい。

いつまでもいつまでもうじうじ決めないで、何度言っても何度誘ってもその日はヴァルと仕事あるからって断りやがった。崩す為に金を貰わずあそこまで色まで撒いてやったのに私の物になるのも断りやがった頭の悪い馬鹿ガキ信じられないうざい死ね懐柔する価値もなかった。


あんな城の王族や宰相とまで知り合いなんて聞いてない。

そんなすごい奴に拾われたなら最初から私みたいなのを選んでくれるわけないってわかったのに。

そうだきっと全部計算で最初からケメトは金だけが目当てで仕方なくヴァルに媚び売っているセフェクにだってうまくご機嫌取りしてるだけに決まってる。あんなガキのくせにまんまと騙された。

王族を紹介したのだってただ私より権力もあるんだって自慢したかっただけに決まってる。


必死にここじゃないどこかへ逃げることだけ考えて走りながら、どこに向かっているかもわからない。ただただ推進力を探すみたいにケメトのことが憎らしくて堪らない。今この場にいたら首だって絞めていた。


そうじゃないそうじゃないそうじゃない。私だってまだ充分下がいる。

確かに罪人にはされたけど極刑どころか手足もちゃんとある。あんな頭の可笑しい人身売買相手に一か月も生き永らえた。もっともっと私より不幸な人間は沢山いる。いるに決まってる。そうじゃないと絶対駄目。

駆けて駆け続ければ、私に振り返る奴らもその声も聞こえなくなってきた。自分の膝に手をついて息を整えればそれだけで頭がクラクラした。どうしよう、もっとちゃんと朝食も食べれば良かった。


今日牢屋を出ないといけない、追い出されるんだと思ったらとても食欲なんか湧かなかった。

こんな目立つ傷と罪人の証の焼き印までつけられたら、もう目立たないようになんて生きられない。

あの人身売買の奴隷商と、ケメトが捕まえちゃったあいつらが探そうと思えば今の私じゃすぐに見つかる。いっそ髪でも切れば印象が変わるかもと考えるけれど、それじゃ今度は背中の焼き印を隠してくれるものが一つ減る。

何処へ逃げれば良い?どこになら逃げられる?

人の目に晒されない、でも裏稼業のいる裏通りでもない、路地でもない、人が居なくて一人にならない場所。人の中に溶け込めて誰にも見られない場所。世界で一番安全で、死なないで、狙われないで殺されないであいつらにも誰にも見つからないような


「ッあ……」

カッと爪先が小石にぶつかって、重量に負け躓き滑る。

喉の奥が反応できたのも一瞬で、次の瞬間には身体が宙に浮いた直後に全身地面へ叩きつけられた。また転んだまた倒れたまた痛い思いした。

けれど今は手を貸してくれるような甘い男の子はいない。


膝の痛みより、背中がむき出しにみられるのが怖い。

起き上がろうと手を付いたら、わけもわからず指ごと腕全体がブルブルと震え出した。転ぶなんて今までだって何度もあった。都合よく手を指し伸ばされたことの方がずっと少ない。

けれど今は転ぶだけでも周りの誰かに見られるのが怖い。この前まではちゃんと、ちゃんと都合よく同情してくれる人や路傍の小石みたいに気にすらしないでくれる人ばっかだったのに。

立つことすらできない自分がそれだけで悔しくて、歯を食い縛ればその間にもまた聞こえて来た。今度はさっきみたいな普通の人じゃない下級層の親子のささやき声だ。いつものくせで下級層に逃げ込んでいたみたい。

私が当たり前みたいに見下してきた連中が、今はしらじらしく私より高い位置で見下して子どもが私を指差した。来るな来るな来ないで見ないでしゃべらないで息するな。


「お母さん、あの子痛そうだよ。背中すっごいの」

「あら……ねぇ大丈夫?この辺じゃ見かけない子だけれど、もしかして逃げて来たの?」

違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う私は貴方達とは絶対違う。

下級層のくせに子どもを産むな下級層のくせに母親と手を繋ぐな下級層のくせに親子で仲良くするな下級層のくせに人の心配なんかしないでよ。


女の言い方に、ここで酷い父親か恋人でもでっち上げれば上手く利用できると確信する。

女ならこの顔にも同情するかもしれない。けれど、顔を上げれば間違いない〝あの目〟を向けていて、虫唾が走って息まで止めた。

今にも貧相な唇があの形に動きそうで、気持ち悪いのに目が離せない。そうだ女はこうだから嫌いなの。男に媚びて男にばっかり助けて貰いたがって男に擦り寄って塵みたいに捨てられて唯一自分より弱い存在の子どもにばっか擦り寄るアンタ達が大嫌い。ケメトだってケメトだって結局ヴァルとあの女のことばっかだった。

あの女なんかケメトになにもしてあげられないくせに当然のようにケメトの姉になってあいつも目の前の女もどいつこいつも地面に一生這いずっているべきなのに。なんで私が今こんな、私は、違う、違う違う。ちゃんと私はもっと上手くやってきて、誰よりもちゃんと上で上手くやっていて裏稼業とだって繋がってた時なんて



「〝────〟」



「ッッッッうるさい!!!!!!!」

考えるより前に、喉を張り上げた。

一瞬で目の前が真っ赤になって、あんなに震えていた喉から破れそうな声が出る。地面に手をつく力もないのに、私を見下して差し伸ばしてきた手で気安く触れてきそうな二人に歯を剥く。ふざけるなふざけるななんでこの私がこんな奴らに見下さなれないといけないの私が本気になれば貴方達なんか簡単に地獄へ突き落として離れ離れにだってできるのに。


自分の声に耳の奥がキンと鳴る。指どころか全身に身震いが広がって自由がきかない。

地面と一緒になりながら、これくらいのことで目を白黒させる親子に爪で地面を抉る。食い込ませ過ぎて爪が割れるような感触がしたけれど今はどうでも良い。どうせこんな姿で爪の美しさなんか気にしてくれる男もいない。

血の流れが激しくなるのが内側からわかって身体が熱くて背中の傷が開いてもおかしくない。歯を食い縛り過ぎて激痛が骨に響き出す。許さない許さないこの私にあんな下級層がそんなことほざくなんて誰を相手にしていると


「私はそんな゛んじゃない!!!!!貴方達なんかと違う!!わがるわげない゛!!!」

こっち見るなどっか行けもしくは死ね。自分でも途中から何を言っているかわからずただ身体の熱を吐き出す為に叫ぶ。口の中を食い縛り過ぎて飛ばした唾に血が滲んでいた。

最初は馬鹿みたいに茫然としていた親子が、やっと顔まで真っ青にして逃げ出した。行きましょうと子どもの手を引いて駆け出す母親が、最後の最後まで胸糞悪い。吐き気がする。


目立っちゃいけない筈なのに、それでも今は叫ぶしかない。バンバンと意味もなく拳を地面に叩きつけて両足を振ってバタつかせて地面に暴れる私はきっと陸に上げられた魚と同じ動きだと妙に冷静な頭の部分で思う。

あああああああああ!!と、もう誰もいない筈なのに訳も分からず叫ぶ。もう逃げたし誰も見てない筈なのに、それでも腹の中に蜷局巻く気持ち悪い黒いものを全部内臓ごとでも良いから吐き出したい。

息が止まるまで吐き切っても、また吸い上げてまた叫ぶ。誰にも見ないで欲しいのに誰にも見つけてほしくないのに見つかったら困るのに誰もいないことに腹が立つ。なんで私がこんな目にと、もう今日まで何百も考えたことをまた思い喉へと力を込める。

叫び過ぎて息が足りなくて頭がぼやけて視界も滲んでよく見えない。それでももうどうでも良い。なんで、なんでこの私がこんな目に遭わないといけないの。私は被害者で、上手く生き延びた頭の良い人間なのに!!

私があんなことをしないといけない状況を作った全部が悪い!私は悪くないのに!勝手に不幸になった周りが悪い!!私は!何も!!




「貴方が悪いわ」




あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛?!!!!

自分の叫びに紛れるように聞こえた声が、本物か幻聴かもわからないまま喉から口が汚く泡立った。

静かな水音のようなその声に向けて、濁った視界で顔をあげる。自分でもこの上なく人生で一番醜い顔で睨む。

あんな下級層の塵親子を跳ねのけたぐらいで説教なんか垂れるな。偉そうな、私を見下す姿勢で覗き込むのはまた、女だった。


いつの間に歩み寄ってきたのか、路地の向こうで覗いていたのかとその女の背後がうっすら見えて思う。

しかも女一人じゃない、まだ二人ううん三人に見られてたとわかった瞬間、ぞっと身体中の毛が逆立つような感覚に息が詰まった。

見ないで、見るな、気持ち悪いと衝動的に喉から競り上がるのを奥歯を食い縛って堪える。こんな、一度どころか二度も見下されたくないのに、もう大勢の目で見られたくない見下されたくないあの目であの言葉を吐きかけられたくない消えてしまいたくなる。

また怒鳴って追い払いたいのに大勢に見られてると思った瞬間声が出なくなる。あんなに漲っていた喉が枯れ木みたいに力を持たない。


「貴方も、さっきの親子と一緒よ。違いなんかないわ」

うるさい、うるさい、偉そうに宣わないで。

一緒なんかじゃない。何も知らないのに偉そうに言うな。絶対あんな下級層の塵溜め人間と私は違う。少なくともひと月前までは間違いなく違ったんだから。


突然その場に屈み出す女に、視線がずれる。男達の顔は視界から消えて、はらわたの煮えくり帰る女だけが目に入り息を吐く。

言いたいのに声が出ないまま、女へ剥いた歯だけがガチガチ鳴った。これだけ醜い姿を見て、どんな顔をしているのかと思う。汚れた視界で女の輪郭すらもはっきりしない。

両膝に手をついて私を覗き込んでくる女に手が届けば目玉から抉って落としてやるのにと思う。そうすれば女のこの気味の悪い紫の瞳だけは私より下の位置に落ちてくれる。

見上げれば太陽逆行してる分際でそれでも白い肌がはっきりわかる。悔しい、悔しい、悔しい、この顔全部を取り替えたい。この女の顔がどんな醜くても構わない。この傷が入った顔よりずっと良い。


唾でも吐いてやろうかと思ったら、タンッと女の背後に立っていた奴らがまた近付いてきた。

身体を屈めている女と違って、もっと高い位置から見下ろしてくる奴らに心臓がきゅっと縮んで止まった。あああああいやだ、いやだ、その目、その位置で私を見降ろさないで。

視界が滲んでいて良かった。そうじゃなかったら恐怖で死んでたかもしれない。

「陥れて見下して、切り捨ててきた人達と貴方自身は全く変わらないわ、グレシル」


だれ。


なんで知ってるの?なんで、なんで、誰なの??

さらりと呼ばれた名前に、それだけで血がひんやり冷たくなった。きっと鏡を見たら色がないくらい。あんなに熱が回ってた筈なのに、こんなに早く私を知ってる奴らに見つかるなんてと一気に汗が噴き出した。汗まで信じられないくらい冷たくて、まるで頭から井戸水をかけられたよう。

息がハッハッと小刻みに肺から直接出ては吸い上げて、いくら呼吸をしても息苦しい。手足の感覚が切り落とされたみたいになくなって、首が掴まれているみたいに動かせない。私を見下す紫の目玉から一秒も。

乾いた眼球がゴロリとそのまま自由を奪われる。どうしよう。もう見つかって、あの人身売買の奴らだったら。女の知り合いなんて私は全然いない筈なのに。


「…………特別、になりたいの?」


どくん、と。

心臓が急に大きく高鳴った。

丸い声に、尋ねるようなその柔らかさに胸がそのまま結んで絞られる。まるで頭を開いて脳を弄られているような気持ち悪さに足がピンと伸びて固まった。

ゆっくりと、意思とは関係なく自分の目が懐かしく瞬きする動きを確かに見た。一瞬だけ閉じて黒の視界から、次に開ければ目を覆っていた涙の大粒が頬を撫で落ちる感覚まで全部がはっきりわかった。

馬鹿みたいに口を開けて、地面と一緒になったまま目が串刺されたみたいにやっぱり離れない。紫色の目にばっかり奪われていた視界が、気付けばもっと広がった。女の目だけじゃなく、血のように赤い深紅の髪が意味もなく引っ掛かる。

特別、特別、特別、と。

女が投げて来た言葉を何度も反芻して涎の垂れた口の中で転がし噛み切れない。不思議なくらいその言葉が聞き逃せない。

特別になりたいなんて、考えたことがない。だって下級層でももっと不幸な奴より上に私はいて、普通以上と思ってた。頭良くて上手くやっていて、あの人身売買から生き永らえた時だってやっぱりと。なのに今、この女の言葉に信じられないぐらい心臓が荒れ狂うように騒いでる。


まるで今、私が〝特別〟じゃないみたい。


「…………違う」

それを理解した瞬間、細く霞んだ声が零れ落ちた。

冷え切った身体の所為か、頭もなんだかさっきより風通しが良くて叫ぶ気にもなれなかった。

殆どガラガラ音に近い中、女は「違う?」とそのまま馬鹿みたいに聞き返してきた。そうよ違う、私は違う絶対に。

だって私はもっと前から最初から母親に解放される前から生まれ落ちたその日から。


「私は、……もう特別なの。本当は、こんな目に遭う人間じゃないの。こんな、アンタ達なんかに見下されるようなそんな」

「特別なんかじゃないわ。下級層で生まれ育って、人を陥れることばかりに夢中になって、最後は村を見殺しにしようとしたただの元罪人よ」


私を知ってる、ことよりもずっと怖い。刃で斬られたようだった。

さらりとまるで本当に当然のことみたいに、私を知ってる人に言われることに顔を上げる力すら消えそうになる。手足の感覚がないままべったり動かない。せっかく自分の口で生み出せた言葉全てを否定されて、このまま消えてなくなった方が楽だと思う。


なんで?なんでこの私がそんなこと言われなくちゃいけないの?〝ただの〟なんて、そんな酷いことなんで言えるの?特別じゃないなんてそんな否定をなんでされないといけないの?

身体が冷え切って動けない。頭が馬鹿みたいにつまらない疑問しか考えられない。

私を見下す目が降りる。ゆっくりと裾を汚い地面につかないように慣れた手つきでたくし上げ、私と視線をもっと合わせてしゃがみ込む。そこまで下がっても、それでも地面にへばりついた私はこんな女に見下されている。

間抜け顔、冷たい、女のくせに吊り上がった鋭い目。白い肌と赤い髪の派手な女。こんな奴、絶対皆に嫌われるに決まってる。傷さえなければ私の方が綺麗だった絶対に。


「だけど」

この女は、酷い。

嫌いだと、これ以上話を聞いちゃ駄目だと全身が髪の先まで叫んでる。淡々と、私と目を合わせてそこに何の感情もない。紫色の鏡みたいに私を移してる。私を苦しめたいのか嘲笑いたいのかもわからない。

何の復讐?いつ会った?私が今まで陥れた誰か?なんでこんな目にあってる時に限って来るの?良いからもう消えて死んでいな


「ケメトにとっては特別な友達よ」


「っっ⁈」

ケメト。

過去ではなくそう言われた途端、また視界がさっきの倍滲んで見えなくなった。ボタリと、顎まで伝うことなく落ちた涙の音まで汚かった。

女の声を、聞くのが怖い。この先を聞いたら戻れないような、戻りたくなるようなどっちも怖いことが待っている気がして仕方がない。一度止まった心臓の音が煩くて、全部がどうでも良くなる。

歯を食い縛ろうとして舌を噛んだ。こんな女に見せたくない。それでももうボロボロの顔が隠せない。

会いたくないのに、縋りたい。


「戻ることはできないわ。だけど一度だけ、特別の可能性をあげる」

そう言って初めて手が伸ばされた。

また差し出されるかと思ったら、私の眼前を抜けて横髪を気安く触れて掻き上げた。何日も水も浴びてない油と汚れだらけの固まった髪に何度も指を通す。梳くまでいかず、途中で引っかかって時々頭皮を引っ張った。下手くそと、心の中だけで言いながら舌の皮ごと歯を立てる。

最後は私の耳に髪を束ごとかけながら、それでも吐きつけられない。こんなに憎らしい女なのに〝特別の可能性〟がチラつかされるだけで逆らえない。陥れるつもりに決まってるとわかっているのにまだ捨てられない。

女の手に続いて白い顔まで私に近付いた。ギョロリとした紫の目に、まるで呑まれるような錯覚に胃が浮いた。ふっ、と吹きかけられた息の感覚だけで肌寒い。


「……私と〝同じ〟貴方に」


こそりと擽る声は、拾えたけれど意味がわからない。

きっと私にしか聞こえなかった潜ませ声。さっきまでの淡々としたものじゃない。感情がどこか乗った声に、頭の中が全部吸い込まれる感覚。

同じ?どういう意味⁇どこが、なにが、どこまで私を知ってるの?

まるで目の前の女が、人間じゃないんじゃないかとも思えてくる。今の今まで全部私の妄想で幻聴で、夢で、もしかしたらもう死んでるのかもしれない。

捕まって、本当は身体はまた奴隷商の荷馬車かも。それともまだ地下牢にいるの?

私から顔を引く女が、そこで視線を背後に回す。「お願い」と声を掛けると、背後に立っていた奴らが歩み寄ってきた。誰?人身売買?裏稼業?少なくとも絶対一人は違う。だってあの服は騎士の


「立てますか?」

低い声に、男だったんだと今わかる。

ずっと滲んだ視界と、女にばかり目が奪われてわからなかった。

残りの二人も男で、だけど皆高い位置で私を見下してく る。視線の数にまた喉が干上がると、身体がまた縛られたように動かなくなる。微弱に震えることしかない私に、そこでもう一人の男が「俺が」と前に出た。


立てないなら仕方がない、運ぶと言ってそのまま訳もわからない内に今度こそ捕まった。

重さなんてないみたいに持ち上げられて、両腕で赤ん坊みたいな形で抱えられた。私が知る人身売買や誘拐の抱え方じゃない、女性用の抱え方。

視線が上がって持ち上げてくる男以外、皆が私より視線が下になる。途端に、……呼吸が深く通った。


ちょっと落ち着いて改めて顔を上げれば、取り敢えず売られるわけじゃないとその男を見て理解する。

行きましょう、と。女の声に合わせて、全員が一方向に歩き出す。何処へ連れていくのかも、抱える男の腕の温度に上手く舌が回らない。男に抱かれるのは慣れてる筈なのに、今は抱えてる男が男だから落ち着かない。

さっきとは違う感覚で声が出なくなりながら、目だけがバタバタ泳ぐ。手足を身体の中心に縮こませ、それから初めて自分で目を擦って拭いた。

晴れた視界の先でさっきの女を見下ろせば、震える唇が僅かに動く。「私をどうするの」と、自分でも信じられないか細い声に、女はくるりと振り返りまた目を合わせた。



「最初で最後の機会です」



この一度だけ。

そう、まるで念を押すように続けられた声は今までで一番通って、……一番低かった。

ちょっと怖いと思うくらい。

鋭い目で睨まれて、さっき見下ろされた時よりも何故か身が強張った。何か言ってやれる筈なのに、言葉が出なくて唇を噛んだ。


今度は眼鏡を掛けた男が私を覗き込むように見上げてきた。女に一言断りを置いてから、私を運ぶ男の隣に並ぶ。眼鏡の黒縁を指で押さえながら、何の感情もない目で私を見る。軽蔑も欲もない目が逆に気持ち悪い。

「これから向かうのは」と。落ち着いた声で言った男の答えに、聞き逃さないように口を閉じる。傷の入った私の顔を真っ直ぐ見て、この男もまた眉一つ動かさない。そして告げられた行き先に、……余計わからなくなった。

牢屋でも、詰所でも、医者でも、ましてや騎士団演習場でもない。この人達が私を連れて行く場所はそれこそ特別とはかけ離れた














「遅い。俺様を何度待たせれば気が済む?」















ジャンヌ、と。

そう女を呼んだ仮面男が待っていたのは、中級層の寂れた家の前だった。


Ⅱ418


本日二話更新分、次の更新は金曜日になります。

よろしくお願いします。

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