そして求めた。
「ところで……先ほど、私は何故貴方の腕を……?何か言ってませんでしたか」
「え?……えーと。レイ?だったかしら。〝レイちゃん〟ってそう呼んで、…………おじさん?」
話して、わりとすぐだった。本当に。
私も手を掴まれてからは咄嗟だったしあまり思い出せなかったから、ちょっと頭を捻ってた。なんとか思い出しながら口を動かしていたら途中で急に細くおじさんの呻く音が聞こえて来た。
う゛、う゛ぁ゛……って。歯を食い縛って頭を痛そうに抱えるおじさんは、井戸の淵に座ったまま背中をこれ以上ないほど丸くして蹲っていた。
何かの病気かな、それとも私に会う前に誰かに殴られたのかなと。まだ私もそこまで驚かない。
下級層の人間なんて大怪我や病気になればそこでハイ終わり。革命前に医者も過労死するくらい人の手が足りなくて、下級層どころか中級層の人だってベッドが足りないと騒ぎだった時期もある。
城下解放後は数少ない医者も地方に逃げていったらしいし、私達みたいな下級層を診てくれるまともな医者なんているわけない。いたとしてもきっと馬鹿かお人よしだから絶対長生きしない。
だから、こうやって目の前で駄目な身体引きずって野垂れ死ぬ人も普通にいる。
このまま死んじゃうかなと、あまりに痛そうに頭を抱えるおじさんを見て思った。どうせならここで死んでくれたらちょっとは面白いのにと身体ごと向けて眺めてみたけれど、数十秒程度苦しんだ後は「なんでもありません」とまた顔を上げて汗ダラダラのまま持ち直した。
「失礼しました。……やはり、駄目ですね……。せっかくこう教えてくれる方が現れてもこれじゃあ……」
「?今のも記憶がないのに関係あるの?その子は妹?それとも娘とか恋人?」
わかりません、と。
首を力なく横に振って笑うおじさんは、脱力するように肩を落とした。今までも、私みたいな子とすれ違っては無意識に口走って引き留めちゃうことがあったそう。それでも大体は逃げちゃうし、自分でも口走った言葉は思い出せない。
〝レイ〟がどんな子なのかちょっと気になる。「今回は特に心臓がひっくり返るかと思いました」と笑うから、一瞬まさか〝レイ〟は私の母親の偽名かなとも思った。
あの人がどういう人生だったかは興味もないけど、私は母親と髪色も同じ青みがかった緑だし、おじさんはあの人と年齢もわりと近いかもしれないし子どもの頃の知り合いだったとか。
「今みたいに記憶を思い出しかけると頭痛が酷くなる時も多くて……痛みが治まったらまた忘れてしまうんですけどね」
「カワイソウ。そんななら最初から思い出そうとしなければ良いのに」
ツマンナイ。
カワイソウな人とは思うのに、あの人が何に縋っているのかわからない。どうせろくでもない人生に決まってるのになんで思い出したいの?
私でそんなにびっくりしたってことは、本当に私の母親の知り合いじゃないかと思う。急に気持ち悪くまでなってきた。
せっかくいい気分だったのに、あの人の知り合いとかまた新しい男だと思うと凄い嫌。あの人じゃなくて、あの人の関係者と過るだけで吐き気がする。
思い出そうとする度に痛い思いをするなら思い出そうとしなければ良い。似た背格好なんか見つけても無視すれば良い。咄嗟に無意識に動いちゃうとか言って、結局その後に何を言ったか聞かせて欲しいって言ったのは自分なのも往生際が悪い。そのうち人攫いとかと間違われて衛兵に捕まっちゃえば良い。それでも追いかけるような価値のある過去なんか期待するだけ無駄
「どうにもならないのです。気付けば目で追ってしまう。……顔も、名前も知らないその子を。記憶が過った瞬間衝動的に見過ごせない。きっと、記憶が戻るまで一生こうなのでしょう」
「……?…………〝名前も知らない〟……?」
なにそれ。意味が分からない、ふざけてるの?今さっき、私が教えたばかりなのに。
ちゃんと聞いてなかったのか、それとも今までの話なのか、記憶の人と〝レイちゃん〟とは別人なのか。
よくわからないまま、言葉をそのまま返す私におじさんはちょっとだけ目を合わせてから肩を竦めた。意味もなく短い自分の髪を掻きあげる癖は格好つけみたいで、このおじさんには似合わないし不気味に見える。
「申し訳ありません」と力なく言うおじさんは、井戸に備えつけの桶を再び底へと放った。
「……忘れてしまうのです。せっかく記憶の手がかりを得ても、頭の激痛と共に」
これでも今は症状は良い方なんですよと、頭を片手で押さえながら苦笑するおじさんは、私よりもずっと空っぽだとわかった。記憶だけじゃない、それ以外も全部。
酷い時は何か怖いものが込み上げて、もっと一人で何か喚きながら頭を抱えてる時もある。裏通りや下級層でもその所為で白い目で見られたことが多いと笑うおじさんは、本当に〝おかしい〟の種類が違った。
今日もパンを貰えなければそろそろ動けなかったかもしれないと言うおじさんは、まだ他人事のようだった。
井戸の水を汲むために縄を手繰りながら「きっとまともな生き方はしてこなかった代償でしょう」と穏やかな声だった。
「これでも前科者なのですよ。最初の記憶が裁判を始める前に目を覚ましたところで。もう罰は受けましたし、衛兵に追われることはないのが救いですが」
「どんな罪?」
「確か……、……反逆罪……?」
それって公開処刑になるような罪じゃなかったかしらと、最初に思った。
法律や罪はよく知らない。けれど、革命前は広場で何度も見た公開処刑で女王への「侮辱罪」とか「反逆罪」と読み上げることが多かったからよく覚えてる。
でもひと月前までの記憶ってことは革命後だし、それで命拾いしたのかもしれない。革命前だったらこのおじさんはきっと死んでいる。
当時の裁判も記憶を取り戻したばかりで混乱しててよく覚えていないというおじさんは、裁判の後はそのまま野に放たれて終わりだった。記憶を失ってどこに行けば良いかわからなかったけれど、犯罪者相手に国がわざわざ帰る家を探してくれるわけもない。
そのまま勝手に生きろと放り出されて、それからずっと下級層の端で細々生きて来たらしい。
大人だしその日暮らしの日雇いも何度か当たっても、時々さっきみたいな発作で仕事にならなくなってどこも長くは続かない。今も次の仕事を探してるところだと話すおじさんは本当に処刑された方が楽だったんじゃないのと思った。
「今も一応こうして引き留めてしまった相手には尋ねてみるんですけどね、もう最初の時のように道行く人に「私を知りませんか」と尋ね回るのは止めました。今はこの城下で生きていく方法を探すことを優先しています」
「城下出ようとは思わないの?貴方みたいなのは田舎暮らしの方がまともに生きていけるんじゃない?」
例えばあの村とか。
そう、頭に浮かんだ言葉を気付けば飲み込んだ。もうあの村はないんだった。
こんなのっそりとしたおじさんは、下級層にいてもいつか死ぬだけだと思う。子どもならそれまでだけど、せっかく身体の大きな大人なんだから肉体労働だけ欲しい田舎に引っ込めば良い。お人よしの都会を知らない田舎で畑弄りで作って食べて寝る生活の方がずっとここよりお似合いだと思った。
田舎、性に合っているかもしれない、参考にします。と、笑いながら言うおじさんはそれが本心か建前かもわからない。ただの腰の低い人だと思ったけれど、なんだか冷たいものを感じる。笑った後に一度口を閉じた静かな笑みに、背筋がひんやりとした。
「それでも、城下にはなんとなく居たいのです。……どうせ行く当てなど、ありませんから」
城下の外に家族や友人が居ても、大国フリージア中を探し回って見つけられるとは思えない。それよりも、身体が妙に離れたがらない城下で細々分相応の暮らしで生きていきたいと。
そういうおじさんに、変なところだけ現実的だと思った。こんな下級層の浮浪者のまま城下の最下層暮らしなんて、ほとんど死んでも良いっていってるようなもの。おじさんは、ここにいて野垂れ死ぬばそれで満足そうな言い方で。
「田舎暮らしは参考にします」と笑うおじさんは、そこでやっとのんびり手繰っていた井戸の桶を上げ、掴んだ。もう少し飲みますか、と水がたっぷり満ちた桶を私に少しだけ傾けてくれる。飲める時に飲んどくのは下級層では当然。
水を貰おうと最後のパンのかけらを押し込んだ私は、そのまま両手で器を作った。そのまま注がれる水を飲もうとしたその時。
おじさんの呻く音が、溢れた。
「ァ……」と、いう微かな声はすぐには反応できなかった。水を掬おうと視線を下げていた私は、音を拾うのも後だった。
次の瞬間には、顔を上げるよりもおじさんの手が桶を手放して落とす方が先だった。容赦ない水飛沫と一緒に私は頭から水を被る。
ゴロゴロと縄のついた桶が転がって、拾う人も足を止める人も誰もいない。水浸しになって怒鳴ってやりたくなったけど、そんなの聞こえないんだろうとすぐに理解する。
目に見えて苦しみ出したおじさんは、水を浴びた私以上に震えていた。
見開いた目が、瞼も無くしてギョロリと私を見ている。さっきみたいに踞らずに、指先をブルブル震わせながら私からも目が離せないようだった。
呼吸の音が距離があっても聞こえるくらいはっきりで、まるで何キロも走ったみたいにゼェゼェと荒く苦しそう。桶を手放した両手で顔を覆いながら、指の隙間の目玉はずっと血走っている。さっきまでのヘラヘラ笑いが嘘みたいに顔中の筋肉を引き攣らせるおじさんは、息も絶え絶えにまた口を動かした。
何度も何度も繰り返し動く口の動きだけじゃ何を言ってるかわからなかったけれど、少し待つとその口から息と一緒に言葉が出た。
また「レイちゃん」だ。
「なんッ、違う‼︎‼︎アイツは俺様がッ……!ッッッッやめろ‼︎‼︎来るな見るな‼︎アァアアァアアアアアアア‼︎」
繰り返して呼ぶ名前が終わったと思ったら、急に口調まで変わり出す。
何も話しかけていないのに一人で勝手に怒鳴って、最後は誰に叫んでいるかもわからなかった。私への目の照準が離れた瞬間、喉を震わせながら空に吠え出す。抱えた頭を右に左に大きく振って後退ってまるで本当に目の前に誰かが迫ってるみたいに一人で暴れ出す。
来んじゃねぇ‼︎‼︎って怒鳴っても、後ずさるおじさんに近付く人なんかどこにもいない。何かを払うみたいに左右に振られた手から突然火柱が上がった瞬間、やっと私も眺めるだけではいられなくなった。
特殊能力者。
商品として売るには価値があって、火の特殊能力だけどすごい火の量だって私でもわかる。火というより炎くらい、手の中から走った熱量だけでも濡れて冷えた身体が怖いくらい熱くなった。
アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ‼︎
怒鳴るおじさんを置いて、私はその場から逃げ出した。
服の水が跳ねて、身体が重くて足が滑りそうになったけどとにかく必死で逃げる。ここは裏通りで、きっと探せば知り合いの裏稼業にも会える。この場でおじさんを売らせてあげれば、私もきっとおこぼれを貰える。そう確かに頭に過ぎったのに、……ただただ逃げたまま、二度と会う気も探す気もなくなった。
遠くなっていくおじさんの悲鳴のような怒声のような叫び声を背中に、聞こえなくなる距離までひたすら逃げた。
「違う‼︎俺様はッ俺様はあんなッッ……」
過去の記憶を無くしながら、その記憶を死ぬまで探す。
思い出しても、すぐに忘れないと耐えられない記憶。
思い出す度にあんなに苦しむのに、終わると何を言っているかも忘れる記憶。
下級層の浮浪者なのに、餓死しかけても国どころか城下からも離れられない。
本来の自分を全部失って、思い出したい人の記憶がなによりも自分を苦しめる。
そんな毎日を繰り返さないといけないことが、奴隷になるよりも、死ぬよりずっと
〝可哀想〟だと思ったから。
……
…
「……?」
……どうしたのかしら。…ぼうっとしてたみたい。
髪をかき上げる、見回す。なにか気が遠くなったような感覚に、何となく胸が絞められる。
立ったまま寝ていたのかしらと思ったけれど、確かにずっと目は開いている。きっと気が抜けたのね。だって今
役割通り、村からの抜け道を通り終えた後だから
「これでっ…良いのよね……?」
どこに誰がいるわけでもない。ここにいるのは私一人。
それでも、滝の上から見渡す空に私は投げ掛けた。あの男の言う通り、ちゃんと解放されてすぐ私はここに来た。
これで良い筈。これで自由。
良いのよね、良い、大丈夫、もう自由と。馬鹿みたいに独り言を溢しながら、私はもう一度抜け道へとフラつく足を動かした。
あとはこれで、ちゃんと村が九日後襲われればもう安心。あの気味の悪い男とも二度と会わずに済む。
食べ物、食べ物を探そう、食べようと。よくわからない愉快感に笑いが込み上げて、空の喉を鳴らす。
ハハハハ、ハハハハハッと、笑いながら自由を謳歌した。はやく食べたい、寝たい、それで
「ケメト……。ケメト……?まだ、ちゃあんと残ってるの……」
ハハハハハッ……!
高い場所でよく響く中、また笑いを吐き出せば、今の私は誰よりも自由だった。
Ⅱ250-2
Ⅱ290
本日二話更新分、次の更新は来週火曜日になります。
宜しくお願い致します。




