そしてときめいた。
ねぇ。私悪くないわよね?
…。なにしているのかしら。
ぼんやりと、薄らぐ頭で考える。
気付けば透き通った空を見上げていて、固いベッドに仰向けに転がっている。一瞬外かなと思ったけれど、天井に穴が開いているだけだった。……うん。よく知ってるこの光景。
だってここは、私の家だもの。
……なんで帰ってきたのかな。こんなところ、一人でも一生帰りたくない場所の筈だったのに。
久々に帰った家は、思った通り別の浮浪者が住んでいた。下級層の空き家なんてそうなるのが当たり前。天井に穴が空いていても、壁に空いていても窓が吹き抜けでも、やっぱり建物の中は人が沸く。
今もベッドを占領する私に怯えた子どもが二人、部屋の隅で小さくなっている。私が入ってきた時も喚くより逃げ惑う方が多かった。ごめんなさいとか、殺さないで殺さないでと喚いても今更あんなの二人わざわざ殺す気分じゃない。私はその程度の女じゃないんだから。
頭を少し上げて見て、また降ろす。ぼんやりと、どうしてここに戻ってきたのか思い出す。だからここまで帰ってきて、なんとなく懐かしくなって眠ってしまった。
もう少し休んで、休んで。そしたらちょっと散歩でも行ってみようかしら。……そうだ、あの子。
「あの子……元気かしら?」
フフッ、とつい笑いが漏れる。
ふと思い出すのは、一ヶ月ぐらい前の古い酒場に来ていたおじさん。古くて汚い酒場だけれど、だから私みたいな人間でも出入りしても気にされない。汚い人がたくさん詰まって、裏稼業も普通に溜まって不味い酒を浴びるほど飲んでいた。皆でお酒も薬もオモチャも奴隷遊びも楽しんで、顔が青か白になるまで狂ったみたいにげらげら笑った楽しいお店。裏稼業の遊び場だ。
『クソッ‼︎‼︎アーニャの野朗、借金踏み倒してネイトと田舎に引っ込むだああ⁈ふざけるんじゃねぇ‼︎‼︎』
ガシャン‼︎と。
カウンター全体が揺れるくらい拳を叩きつけたおじさんは、顔を真っ赤にして歯を剥いていた。出来の悪い妹夫婦がお金をいつまで経っても稼げない。何度怒鳴り散らしても脅してもまともな額も自分に用意できない。それどころか息子の生活ばかり優先してお金を使う。
借金は田舎で変わらず返すからとにかくこんな城下にはもう居られないって。唯一お金になるネイトって子も、命令した通りの仕事ができないから役立たずで困ってる。何度殴っても蹴っても使えない。自分に従順なのに、嫌なことだけは曲がらない。
どうやってそんな子が稼いでいるのかそれまで何度聞いてもわからなかったけれど、その日とうとうやけ酒だけじゃなく薬にも手を出したらぺろりと滑らせた。
『ネイトの発明を売れる相手なんざこの酒場以外どこで捕まえられるってんだ』
ピンと来た。
発明、って子どもが作ったものなんかと思うけど、特殊能力者の発明だったら高級品。貴族すらまともな生活ができていないと有名なのに、こんなおじさんがどうして羽振りが良いのかも不思議だったけどやっとわかる。
おじさんが酒場にくる度に時々会っていた人達。入り浸るおじさんと違って、すぐに酒場を去っていなくなってたけれど、あの人達と発明の取引をしていたんだと。
だからおじさんは困ってる。ネイトの発明を売るにはこの酒場が必要。だけどネイトが遠くに行っちゃったらもう発明を手に入れることも、追いかけても今度は酒場が遠のいちゃう。
おじさんが困ってて困ってて、いっそネイトだけ拐おうかと話してたから私が教えてあげた。
『そんなに欲しいなら奪っちゃえば良いのに』
おじさんはきょとん、と少しだけ両眉上げてから「なんだって?」と聞き返してくれた。
本当にわからなかったのかなと思いながら私は優しく笑ってみせた。おじさんはとっても馬鹿だからわからないのかも。折角裏稼業の社交場に来て子どもの玩具とはいっても特殊能力者の発明を違法で売っているのに、そういう稼ぎ方はまだ知らないみたいだから。
私達下級層の人間には当たり前に掲げられる第三の選択肢。死ぬか、悪いことして稼ぐか、家族を売るか。
ちょっと裏通りに足を踏み入れれば、フリージア人を買ってくれる人にはすぐ会える。革命の後から市場はたくさん潰されたけれど、全部じゃない。知ってる人ならちゃんと〝市場〟に行けるし、行けばどこを見ても商人で溢れ返ってる。……ううん、そんなことしなくても今この場の酒場にだって何人も。今なら私が紹介だってしてあげる。
折角なら飛び切り危険な相手との繋がりを。
『その妹夫婦を売っちゃえば良いのよ。だってその出来の悪い人達は借金だってまともに返せないくらいお金にならないんでしょ?折角おじさんが頑張ってたくさんお金貢がせるように仕組んだのに。その上ネイトって子まで連れていかれちゃうなんて、私だったら嫌だなぁ嫌だなぁ。それならお金を稼げない妹夫婦もお金にしちゃえば、あとはネイトって子も一生おじさんの物になるでしょ?』
ね?
そう、にっこり笑顔で教えればおじさんの目はまん丸に開かれた。ぽっかりお酒しか注がなかった口まで顎から落ちて、最後はとっても素敵な顔で笑ってくれた。
…………嗚呼。
『ッ放せ‼︎放せぇええええ‼︎‼︎ふざけんな‼︎‼︎父ちゃんと母ちゃんをどこに連れて行くつもりだよ‼︎⁈』
あの夜は、本当に本当に……楽しかったなぁ。
『ガキからの提案なんざとも思ったが、ちょうど良かったぜ。〝市場〟は潰されてもフリージア人なら高値で買ってくれる〝商人〟に会えたからなぁ』
おじさんに紹介をしてあげた商人。
つい最近裏稼業で有名になったその人身売買組織は、足がつかないフリージア人なら何人でもいくらでも買ってくれる。お金だって値切らない。ただ、その商人に一度でも関わった人は取引の後には皆口を揃えて「二度と関わりたくない」としか言わない。お金を値切られたわけでもない、言い値で買ってくれたのにそれでも永遠に。
話を持ちかけてすぐに〝回収〟を決めた商人とのやり取りを聞いていた仲介人の私も、こっそりそこに行ってみた。
もしかしたらカワイソウな妹夫婦と一緒に、おじさんかネイトも連れていかれちゃったりとかも期待した。何よりも裏稼業も人身売買も誰もが恐れる商人の手際も見たかった。
それは、私が思った何倍何百倍も苛烈で魅入られて。
『なら、要らないわね?』
ズパンッ。
あの音が、暫く耳に残って離れなかった。
遠目でこっそり見ていただけなのに、それでもうっすら届いた音は直後の悲鳴を際立たせた。
おじさんに踏まれて潰された小さな小さな男の子。あの子だけは商品じゃない筈なのに、馬車から出てきた黒い影に刃を振り落とされた。
あああああああああ、と男の子なのか女の子かもわからない甲高い悲鳴がずっと続いたのに、刃を落とした影が馬車へ向かい始めた頃にぷつりと途切れた。
「ぁ」の音が最後はとても小さくって聞こえた気がしたくらいのプツリ、で。……すっごく可愛かった。
カワイソウカワイソウカワイソウカワイソウカワイソウカワイソウと。
頭の中で信じられないくらい繰り返して、心臓がドキドキして見つかっちゃ駄目なのにその場で悲鳴を上げて拍手したくなるぐらいに高鳴った。
去っていく馬車を追うように、少しずつ少しずつおじさんとネイトに近付いて耳を凝らしたら、数メートル手前の影で聞こえてきた。こんなに騒ぎでも誰も出てこないから、てっきり皆に見捨てられたのかなと思ったらネイトの家以外どこも全部空き家みたい。
えぐっえぐ、としやくり上げた濡れた声がもう聞こえただけでカワイソウで。男の子の声かも女の子の声かもわからない声に、おじさんが潰す音で怒鳴った。
「うるせぇ黙れ‼︎‼︎‼︎どうすんだこの腕‼︎‼︎発明っ、左手で発明しろよ⁈おまっ、こんなんで発明できねぇって言うんならテメェも売り飛ばすからな‼︎‼︎‼︎」
吃ってひっくり返った低い声に、それだけでおじさんが焦っているのが滲み出るようだった。
ガスッと薄い影と一緒にまた蹴り飛ばす音がした。ゴロリと転がったのが多分ネイト。悲鳴も聞こえなかったから、そのまま気を失ったみたい。おじさんが何度も、立って歩け、殺して埋めるぞ、起きろってその場で怒鳴ってはまた蹴り上げる。ボールみたいに何度も何度も小さな身体が転がって、腕が飛んだ後なのにあんなに蹴ったらそろそろ死んじゃってるんじゃないかと思う。
もうそれを見るだけで、おじさんなんかどうでも良くなった。
おじさんの太い足に蹴飛ばされて、唯一の存在意義の特殊能力すらもう使えなくなっちゃって、両親二人とも騙されて借金まみれで最後は売られて一生帰ってこない。なんて、なんてカワイソウなのかしら。
思えば思うほど、心臓がまたうるさくなって胸を両手で押さえつけながら荒くなった息でそっと物陰から首を伸ばす。声だけじゃなく、カワイソウな男の子の顔がちゃんと見たくって。
そっと。そぉっと。こんなところでおじさんに見られたら、紹介した私まで八つ当たりで殴られちゃう。だってわざと一番危険な人身売買の商人を紹介したのは私だもの。
バレないように、バレないように覗けば、そこでちょうどおじさんがネイトの足を掴んで引き摺り始めた。「クソッ」と悪態吐きながら、荷車でも引き摺るみたいずるずる背中から後頭部まで地面に跡をつけて擦らせる。勇気を出して顔を出せば、一生忘れられない光景だった。
涙と汗で濡らし、地面に押しつけられて顔中が泥まみれ。頬は擦り切れ、鼻や口にまで泥が入り込んでいる。
引き摺られている間足も腕もだらりと垂らした姿はまるで木偶人形。
右肘から下を無くして、腕どころか顔まで血が飛び染み付いていた。
無事な腕も何度も何度も暴れて抵抗して地面に齧り付いたのがわかる。爪が二枚割れて真新しい象徴に血が滲んでいた。おじさんに引き摺られるまま服が土にすれてめくれれば、お腹は真っ黒に見える痣だらけ。怪我人を運んでるのか死体を運んでるのかもわからない。そんな姿が本当に可愛くて愛しくて、全身の血が沸き立つのを感じながらおじさんが家へと放り込むまで釘付けになって目が離せなかった。
あんまりにも、カワイソウで。
Ⅱ242-2
本日2話分、明日の更新はお休みで次は明後日水曜日に致します。




