Ⅱ552.兄は潰れ、
「だーーあああああああーー‼︎つーかれたぁああああ……」
ばったん!と、叫びソファーへ飛び込むフィリップは次の瞬間には両手足を垂らしたまま動かなくなった。
いつもならば妹の前でなくともここまで大っぴらに疲労を出さないフィリップだが、今日はもうどうにもならない。身体の疲労程度ならここまで叫びたくはならないが、今は頭が何より疲れていた。
十五分以上経ってから両手が動いたが、その途端ガシガシと頭を掻いてしまう。朝一番に整えた髪がバサバサになり、そこでやっと首元も緩めた。上着だけは皺がつかないように服掛けにかけていたが、解いたネクタイを握った手をソファーの下へ落とし、ボタンを第三まで緩め、そこで大きく胸を膨らませてから吐き出した。
コンコンッと玄関からノックの音が聞こえたが、すぐに動く気力もない。いつもは自慢の声も出す気になれず、このまま居留守にしようかなと考えればそこでガチャリと鍵の音がした。その途端にノックを鳴らした相手もわかり、フィリップは思わずぐっと一度だけ顔を顰めてから足元の下敷きにしていた毛布を顔まで引き上げた。
「フィリップー?まだ帰っ……ッッて‼︎帰ってるじゃねぇか‼︎‼︎」
パチパチパチと小さく弾ける音も今では聞き慣れた。
それよりも直後にパチンッと!と少し大きく響いた音にまたいきおいあまって何か壊してないかなとそれだけ心配になる。ここ最近は全くそういった事故はしなくなったが、少しずつ特殊能力を制御する練習を始めていた頃は頻繁だった。
自分とそして妹であるアムレットの他にもう一人、家の鍵を持っているのはパウエルだけだ。そしてノックをわざわざ鳴らしてから鍵を開けるのはパウエルだけでもある。昔から家族同然だからと、真夜中でも怖かったらいつでも会いにこいと言ってフィリップが半ば強引に鍵を持たせたが、結局は別の用途で鍵を使うことになった。
「お前、いい加減蝋燭一本だけでも付けろよ‼︎アムレットが帰る日は玄関にもランプ付けてるくせに!」
パチンッ、パチンッとまた簡易灯り代わりの指先の電気の粒が膨らんでは弾けて消えて、また新たに光らせる。
それを繰り返しながら自分の光で明滅する視界の先目を凝らすパウエルは、真っ暗な居間へまっすぐに進んでいった。昔からフィリップの節約癖はよく知っているが、それでも未だに慣れない部分はある。
アムレットにばかり金銭を使いたがるフィリップは、妹不在になると家の生活物資を最低限以下まで使おうとしない。住み慣れた家なら目を瞑っていても自室のベッドまでは余裕だと自慢し、マッチ一本すら使いたがらない。
パウエルの叫び声に、あー、うー、と寝たふりを通そうと呻きしか返さないフィリップは足先だけ出た毛布の下でもごもご蠢く。同時にうっすらと食べ物の良い香りがすれば、そこで少しだけ毛布から顔を出した。見れば思った通りに呆れ顔で眉だけ吊り上げているパウエルが立っている。
「今日城の面接日って言ってたから折角夕食持ってきたのに……」
疲れてると思って、と。
そう言うパウエルの手には見慣れた籠が吊るされていた。パウエルが生み出す光だけを頼りに籠の中身へ注視すれば、パンの表面がちらりと見えた。
おおー!とやっと感嘆の声と共に身体を起こすフィリップは、そのまま目を輝かせた。
「パウエルが作ったのか⁈今日リネットさん学校だもんな⁈ありがとなあすげぇなぁあ‼︎パウエルが食事なんか作れるようになっちまったんだもんなあ!」
「いや、その……また、ただのサンドイッチだけど、……リネットさんが今回こっちのパンも結構焼いていってくれて」
突然褒められ、ついつい指で頬を掻くパウエルも一気に機嫌が直る。
今まで何度も自炊をしたことも披露もしたことがあるパウエルだが、それでも大袈裟に誉められると気恥ずかしくなる。ただパンの間にハムと野菜を挟んだだけなのに、具を確認してもフィリップの喜びようは変わらないことも知っている。今も「ありがとなぁ」を繰り返しながら、さっきまでの狸寝入りが嘘のようにソファーに座り直し、食べる体勢を素早く整えた。
今ではこうしてリネットからの差し入れを渡す際、パウエル自ら家の中にまで届ける為に鍵が使われることになっていた。
風邪を引いたアムレットやフィリップを看病する時にも大いに役立った家の鍵は、始めは所持することにすら萎縮していたパウエルも今では手放せない。
何度差し入れを持っていっても遠慮一つなく「ありがとな‼︎」と気持ち良い反応で喜んでくれるフィリップを見ると、今までも街の人が彼ら兄妹を支え続けた理由がわかった気がした。もぐもぐと大口を頬張る姿を見ると、年下の自分すらまた食べさせてやりたいと思う。
「リネットさん女子寮行ってからパウエル腕上がったんじゃねぇか⁈」
「変わらねぇよ、もともと自炊も少しはできたし……ただ、リネットさんが作る方が美味いから」
甘えてただけで。その言葉を飲み込み、少し頬が高調したパウエルは口を意識的に閉じた。
今までリネットと共に住んでる間も料理を手伝ったことは度々あったが、やはり自分が作った料理よりもリネットの作った料理を食べたいと、料理以外の家事手伝いに徹することが多かった。
今も定期的にリネットも帰っては家を守る自分の為にパンやスープなどをいくらか作り置いてくれるが、それでも必然的にパウエルの自炊の数は増えていた。
小間物行商の仕事を失い、日雇いで稼いではいるが家にいる時間も増えたパウエルと、そして城の従者としての職務に就く為に仕事の数を減らす事になったフィリップは互いにこうして食事を共にする時間も一時的に増えていた。
「で、……その、どうだった?城の、……」
ソファーの前に足を崩して座り、もぐもぐもぐとフィリップが目の前で咀嚼する間に投げかける。
ぱちぱちと指先を光らせるのも止めてしまえば、再び部屋の中が暗闇に戻される。以前はパウエルも部屋の蝋燭に火をつけようとしたことがあったが、蝋燭が勿体無いとフィリップに全力で断られてからはそれもやらなくなった。
パウエルを家に住まわせている間こそアムレットと同列に家の生活物資も惜しみなく注いだフィリップだが、パウエルがリネットの家へと自立し、更にはパウエル自身からも遠慮がなくなってからはパウエルも節約側に回らされることも増えていた。
パウエルも、己の能力と更には近所に住むフィリップの家まではランプを持たずとも道を間違えず歩ける為、ランプを持参していない。リネットの家の生活物資を節約したいのはパウエルもまた同じだった。
そして今だけは暗いまま顔が見えない方が都合も良い。親友に聞きにくい質問をしたパウエルも、そして
「えーーーと、……なんか、採用された」
ごくんっ!と喉を大きく鳴らし飲み込んだフィリップもまた、言いやすかった。
長く言葉を濁したわりには、最後はあっさりと結果を口にすればパウエルからの反応は早かった。「えっ⁈‼︎」と声を上げ、見えない真っ暗な視界の先へ目玉が落ちそうなほど大きく開く。途端にパチンッとまた一瞬だけ周囲が瞬き、頭を掻いて間の抜けた顔をしたフィリップを見せてからまた消えた。
すげぇじゃねぇか‼︎と思わずその場でパウエルは立ち上がる。フィリップがいるだろう方向に目を凝らし、ならなんであんなにソファーでぐったりしてたのかと思う。
あの姿を見た瞬間から、てっきり今回は面接に落ちたかその上で城から厳しいことを言われたんじゃないかと気を揉んだほどだった。
城での面接だとフィリップから聞いていたパウエルだったが、まさか一回目ですんなりとは思えていなかった。フィリップのことを信用はしているが、屋敷で働いている姿を見たことがないパウエルにとって、フィリップがそう簡単に城で採用されるとは予想していなかった。
だからこそ励ます意図も込めてわざわざパンだけでなくサンドウィッチを作ってきたが、結果としてお祝いのご馳走になった。
ここはしっかり話を聞くべく、「蝋燭使うぞ⁈」と許可を得てから手近なランプに火を灯す。ポワリと小さくだが安定した光に、落ち着いて互いの顔を確認できるようになった。
「それで!なんで受かったのにあんなぐったりしてたんだよ‼︎ッまさか城の人らに嫌な扱いとか……‼︎」
「いやすげーどの人も親切でさ……親切っつーかもうモーズリー家よりも良い扱いだったかもしれねぇ……気疲れた……」




