Ⅱ551.兄は近づき、
「ステイル、私よ。お待たせしてごめんなさい」
コンコンッと。
ノックが鳴らされてすぐ扉の向こうから掛けられた言葉に、誰よりも大きく反応したのはフィリップだった。
ノックが聞こえた瞬間にはソファーから跳ねるような勢いで立ち上がり、凛とした声を聞けばそれだけで鼓動を大きく脈打つのを自分の耳の奥で聞いた。ごぐりっ、と唾を飲む音まで鈍く響く。「どうぞ」と軽やかな声で返すステイルに反し、こちらは心の準備など全くできていない。
近衛兵のジャックの手により扉が開かれれば、それ以上何も勿体ぶられる間もなく姿を現した。波打つ深紅の髪か豪奢なドレスか、それとも釣り上がった紫色の眼差しにも負けない整った顔立ちか。
「ご機嫌よう。初めまして、第一王女のプライド・ロイヤル・アイビーと申します」
それを総じた王族の威厳か。
本物だ、と。微笑む第一王女を前に目が眩む。ゆったりとした足取りで歩み寄ってきた王女が、ぴしりと両足を揃えて立ち止まる姿はそれだけでも絵になった。
おおおおぉぉぉ……と、気を抜けば声が溢れそうなほど目を見張る。装飾だけでも煌びやかさは王都でみかけたどんな女性にも勝るが、瞬きしたいほど眩しいのに瞼がなくなる。きらきらチカチカとするのが物理的な煌めきなのか威厳なのか空気なのか美しさなのかもわからない。
遠回きには一度見たことがあフィリップだが、至近距離ではまた別物だった。彫刻のような顔なのに歩いて立ち止まり喋っていることも信じられない。
従者としての心構えでなんとか直立不動で呆けず顔も間伸びさせずに済んでいるが、頭の中まで平静を保っていられるわけではない。
しかも目の前に立たれれば、余計に萎縮する部分があった。ドレスで隠しきれないのは、すらりとした身体つきだけでもない。その背丈もまた、男性であるフィリップですら気圧される。目の前の女性と目線を合わせる為に自分が見上げる体勢になっていることに、悔しさや敗北感を覚える余裕もない。
完全に棒立ちのまま固まるフィリップを横目に小さく笑うステイルは、そこでゆっくりと音もなく立ち上がった。手で示し「ご紹介します」と落ち着いた声で代わりに口を開く。
「彼はフィリップ・エフロン。ジルベールが俺の誕生日祝いに紹介してくれた新しい従者です」
た、誕生日祝い……⁇と、レオンに似た青年を前にその前置きでプライドの顔がヒクつき、片方だけ肩が上がる。
一体どういう流れになったのかと眼差しをジルベールへちらりと移せば、この上なくにこやかな笑みで返された。その表情から鑑みてもきっと二人の間で何かあったのだろうということだけ察する。
どこまで言えば良いのか明かして良いのかもう明かしたのかと考えながら、取り敢えずはステイルに合わせる。宜しくね、とフィリップへ手を差し出せば一秒の躊躇い後に握り返された。
微弱に震える手に握り返される感覚に、アムレットの兄としての姿とは色々違うなとプライドは思う。姿も当然だが、それだけでなく口数の少なさも凄まじい。そこまで考えれば、初めて校門前で見た時は女子生徒へ無言のまま手振り身振りで返していたなと思い出す。もしかしたら仕事中は寡黙な人なのだろうかと、笑みを守りながら新しい従者を見つめ直した。
「ステイルは私の大事な義弟だから、今後も支えてくれると嬉しいわ。どうか末永くよろしくね」
宜しくお願いします、と。つい第一王女としてではなく、ジャンヌとして口調が滑りそうなのを意識的に留める。
少し強張った肩のまま挨拶を進めてくれるプライドに、ステイルも小さく笑んだ。更には握手を交わすフィリップは全身が強張っている。
末永く、という言葉につまりそれだけ永くステイルとだけではなく目の前の王女とも関わることになるのだという事実にフィリップは心臓が危うく硬直しかけた。勿論です、こちらこそ宜しくお願い致します、光栄ですと、形式に則り言葉を返しながら途中から途切れ途切れ掠れ掛けた。
そう、永くと。その事実と共に避けられることでもそして敢えて避けるべきでもない事実に、ステイルが「ところで」と話を切り替えようとしたその時。
じーーー……
フィリップの固まりかけた視線が、握手を終えた時からプライドではなくその背後に控える騎士へと釘刺さっているのにステイルは気が付いた。
ん?とまさかプライドよりも注目するような事態は想定しなかった為、話そうとしていた口を止めるままフィリップの視線を追ってしまう。見ればフィリップの視線にすぐ気付いたアランも、エリックもそれぞれ半笑いで見つめ返していた。
あー、気づいた、と。口以上に物語る彼らへ応えるように、これには流石のフィリップも「つかぬところをお尋ね致しますが……」と断りを絞り出す。
「そちらの騎士様が噂に名高い近衛騎士の方々と存じますが、……お二人とも先日まで学校の校門前におられませんでしたか……?」
校門前。その言葉で全て充分だった。
毎日アムレットへ会うべく校門前に通い、彼女の授業終了まで待ち続けた彼が、よく居合わせていた騎士に気付かないわけがなかった。
片や王族であるセドリックと共に、片や校門前で自分がアムレットの送迎に通っていた時期は毎日目にしていた騎士だ。更にはその騎士が一体誰を待っていたかも、フィリップは覚えていた。
確かあの時ー、とアムレットの友人があの時に誰と去って行ったかを思い出す。そして当時のことを覚えているのは当然、フィリップだけではない。
顔が半分笑ったまま、すぐに言葉で返事はせず目の動きだけをフィリップからステイルの方へと移す騎士二人にプライドまで口元がぎこちなく笑い出した。この状況もまた、想定できることだった。
「ああ、会ったことは当然あるだろう。アラン隊長はセドリック王弟の護衛、エリック副隊長は〝俺達〟の送迎で毎日学校に訪れていたからな」
優雅にカップを片手に珈琲を味わうステイルの言葉に、火蓋は切って落とされる。
来た、とプライド達が心の中でくるべき時を叫ぶ中、フィリップの目が大きく開かれる。俺達⁇⁇と疑問符ばかりが頭に浮かぶ中、理解が追いつくわけもなかった。
俺達、という言葉の意味を考えても、アランはともかくエリックについてしっくりこない。自分が知らないだけで、ステイル達も学校見学か視察に訪れていたかと納得しかけたが、〝毎日〟という言葉が引っかかる。噂の体験入学の王弟以外の王族が毎日来ていたなど聞いたことがない。
パウエルやアムレットから聞いた話は、学校見学もティアラとレオンくらいだ。だが、ステイルに憧れているアムレットがまさか彼の訪問を口にも出さないとは思えない。パウエルだって出会った頃からずっと王族のことに興味が高かった。
それなのに二人から一度もその話題を聞いたことがないなど考えられない。
目上の存在ばかりが周囲にいる中、ステイル一人相手に取り乱すわけにも容易に言及するわけにもいかない。どういう意味だ?の一言を言いたくて言いたくて仕方がないままに空っぽの口だけが力なく開いてしまう。
「……さて。私は先に公務へ戻らせて頂きます。取り敢えずステイル様に御紹介できた時点で、要件は済みましたから」
核心へと潜る前に、一人早く敢えての離脱を決めるジルベールはカップを空にして静かに立ち上がった。
あ、ジルベール宰相殿、本当に、この度はと。まだ頭が纏まらない内に取り敢えず挨拶と共に頭を下げるフィリップに、ジルベールは優雅な手の動きだけで応えた。
フィリップに感謝されることもなければ、自分はあくまでステイルの為に糸を紡いだのみ。むしろこれからの真相解明で、フィリップの目に自分までなんらかの繋がりを察せられるよりもこの場で先にいなくなった方が都合が良い。
全てが全て関連があったと疑われれば、この場に座っているだけで偶発的に自分にも何かしらの関連を見出す可能性は高い。
それでは失礼致しますとプライド達一人一人へ礼を尽くし、流れるようにジルベールは退室していった。
ぱたりと殆ど音もなく扉が閉じられるまでも、フィリップは呆けた頭が核心へたどり着くことはなかった。閉じ切られるのを確認してから、扉に背中を向けるステイルはそこで早速「姉君」とプライドへ呼び掛ける。
「件の物は、用意して頂けましたでしょうか」
「!ええ、勿論よ。……お願い、します」




