Ⅱ548.兄は案内される。
……来ちゃったよ……
ハァ、と。息を吐きながら青年は目を泳がせる。
前方で自分を引率する年配の男性を見つめながら、今日でもう何度目かもわからない溜息だった。
そう簡単にはいかない、いくわけないだろと思いながら気が付けばもう最終関門を潜った後であることに冷や汗が止まらない。
聞いていますか?と振り返るこれからの上司を前にピシリと姿勢を伸ばす。
「ええ勿論」とにこやかな笑顔を作って見せるがいつもより若干強張った。未だ、自分がここを歩かされていることが信じられない。正直、十回二十回の挫折くらい覚悟していた彼にとって、まさかもう〝あいつ〟が何かやってくれたんじゃないよな?と疑心暗鬼にすらなりかける。
整えられた黒髪が乱れていないかを手で触れ、確認する。更には侍女とすれ違う度に振り返られ、丸い目やこそこそと何か囁かれているのが視界に引っ掛かれば今更ながらこの〝顔〟はまずったかなと反省する。
アネモネ王国の王子に〝似せた〟顔に触れながら。
「顔採用、……と卑屈に思う必要はありません。君の技術は見事に城の使用人としての水準に達していましたから」
フ、と柔らかな笑みで顔だけ振り返る年配の男性、上級使用人はまるで背中に目でもついているようにフィリップへそう言葉を掛けた。彼の何気ない動作に、きっと顔だけで選ばれたと案じているのだろうと推察した。
フィリップ・エフロン。身分こそ下級貴族ですらなく教養のない庶民の青年は、今日初めての採用試験で無事フリージア王国の使用人として働くことを許された。
年齢は十八という青年は、その年齢に反して使用人としての職務経験は尋常でなく豊富だった。あまりの経歴に屋敷をたらいまわしにされたのか、それだけ長く続かなかったのかと最初は疑った面接担当者だったが、聞けば使用人として屋敷を転々としたのではなく〝一度に複数の〟家に仕えていたことには驚かされた。
通常、使用人というのは一つの家に生活援助を引き換えに仕える場合が多い。しかし彼の場合は毎日通い、金銭的収集を得て働き続けていた。
雇用希望に訪れた青年のその整った顔立ちを見れば、引く手数多だったことを誰もが心の底で納得した。使用人というのは第一に技術と実力が脆められはするが、〝顔〟さえ良ければ屋敷内を彩る為に調度品が代わりに置かれる場合も〝愛人〟のような立場として雇い入れられる場合もある。
良く言えば目を引く、悪く言えば妙な経歴の彼に身の潔白保証になるものがあるかを確認すれば、今度は城下の下級貴族とそして〝宰相〟であるジルべールからの推薦書。少なからず彼の潔白が保証された上でやっと彼の顔以外の実力を確認した雇用担当者は、そこで彼の実力が顔だけでないことも確認できた。
使用人としての必須技能は当然のこと、基準を上回る程度に気も回る。言葉遣いも勿論のこと姿勢や礼儀礼節も使用人として求められる教養は身に着けていた。
流石は何年何件も使用人を続けていたものだと、長年従者として貴族の元で働いてきた上級使用人も関心した。身のこなしや細部の所作などにはところどころ甘さが見えるが、少なくとも使用人としての技術だけでいえば上級貴族の推薦で訪れたその辺の侍女経験志望の令嬢よりもずっと板についている。
取り敢えずは従来通り案内を終えたら、最初は城内に住む貴族の館の一つにでも配属を考えようとあたりをつけながらまた別の建物を指で示す。
最初にフィリップの面接や技能試験を行った建物は城門に近い位置に建っていた為、そこから先の方が圧倒的に広かった。面接までの道のりすら視界に広がる景色の広大さに圧倒されたフィリップだが、それすらほんの手前に過ぎない。
あちらは立ち入り禁止、あちらは許可を得た使用人以外は入れない、今後はあの入り口から敷地内に入ること、この道は使ってはならないと注意事項が続く。
「確か、君は城内に住まず毎日通うことを希望していましたね。良いのですか?差し引きを入れても損ですよ」
「あ、ええ。良いのです。私は家に帰らなければなりません。早起きにも慣れております。御心配、ありがとうございます」
城内に住まなければ、その分給与から差し引かれることもなくなり手取りは増える。しかし、使用人用の区域とはいえ国で最も安全な城内で最低限の家具付きの部屋に住むことができる栄誉を殆どの使用人は希望する。城の近く、どころか城内に住むことは使用人でなければ上級貴族が金をいくら積んでも安易には許されない聖域だ。
だが、フィリップはやはり今までと同じく実家以外に住むつもりは全くなかった。
昔と違い、今はアムレットも学校の寮にいるが、それでも両親が残してくれた家がある。アムレットがいつ帰ってくるかも読めない今、なるべく兄である自分が家を守ってやらないと思う。その為に給料は割安になってでも一日中仕えるのではなく日も昇るより前の早朝から夜までの労働時間を強く希望した。
そうですか、と上級使用人はそこであっさりと会話を切った。長年使用人の雇用を任されている彼は、それなりに事情を抱えた人間にも慣れている。
役職や立場によっては家族で使用人区域に移り住むような者もいると頭に浮かんだが、「家族が待っている」ではなく家を理由にする彼にそれ以上の誘いは不要と判断した。
「侍女達の反応もまぁ気にせずに。君の顔が少々有名人に似ているもので、皆驚いているのですよ」
「……よく言われます」
知ってます。その言葉を飲み込んでフィリップは口の中を噛んだ。
自分がこの顔を参考に選んだのは、フリージア王国の第一王女と盟友で有名な王子なのだから。自分が目にしてきた顔で特に美形だと判断したのがその顔だったとはいえ、もうちょっと顔の造形をずらすべきだったかなと思う。
しかしもともとが雇い主だった貴族やジルベールの推薦である以上、今更別人の顔で採用されるわけにもいかないと考えた。貴族の屋敷で雇われることばかりを考えた時、とにかく〝顔が良い男〟を選んだ結果だ。
フィリップの答えに「ほう」と一言返す上級使用人は進行方向に顔を向けたまま僅かに目を丸くする。
城内に住む使用人である侍女達だからこそ、アネモネ王国の第一王子の顔を目にしたことがある者も多いが、庶民である彼の周りにもレオン王子を見たことがある者はいるのかと。自国の第一王女と共に城下視察に降りることもある〝盟友〟は自分が思っていた以上にもう城下に浸透した有名人なのだなと考えた。面接で特殊能力者であることすらを明かされていない彼は、フィリップの顔が偽物であることを知らない。
「アディソン様!お仕事中失礼致します!!!」
突然、進行方向とは別方向から飛び込んできた声に二人は足を止める。
見れば、上等な使用人服に身を包んだ男性が大慌てで駆け込んでくるところだった。アディソンと呼ばれた雇用責任者である上級使用人の名を呼ぶ彼は、ゼェハァと息を切らせながら服に皺を作った。
どうかしましたか、と両足をぴしりと揃えて立つアディソンは敢えて距離は詰めずに男性が自分の半径二メートル以内に入るのを待ち続けた。
本来であれば衣服の皺やそしてもっと落ち着くようにと、もっと至近距離になってから呼びかけなさいと注意しても良かったが、いつもは落ち着きのある動作が多いその従者が慌てていることに緊急度はすぐに察せられた。使用人について問題でも起こったか、執事からの呼び出しか、侍女長からか、それともと。思考を巡らせながら彼の配属先を思い出す。
いつもは落ち着きのあるその従者は、本来であれば城内で最も高位な場所である王居で働く男性だ。王居で働く使用人の従者内では立場は低いが、実力と教養が認められた者の一人でもある。
どうしました?と落ち着き払った声で尋ねるアディソンに、従者は一度息を整えたい欲求を抑えて細切れな息で耳打ちをした。
「実は……!」とそこから先は傍に立つフィリップにも届かない。
おや、なるほど、……ほぉ?と途中から怪訝に眉を寄せたアディソンはそこでチラリと視線を今日採用が決まった青年へと定めた。
ここ最近一部の上層部へ使用人についての報告を逐一行うようにと命令を受けていた理由の片鱗を、長い経験の中で垣間見る。
意味深な眼差しにフィリップもぎくりと肩を上下した。わかっていた顔をすれば良いのか、しらばっくれた方がいいのかもわからない今どんな表情をすべきかもわからず苦笑いで返してしまう。てっきり使用人が始まってから暫く経って気付いてくれたらそれから……と思っていたのに、まさかの初日に早速だ。
ゴホン、と全て業務連絡を聞き終えたアディソンは咳を払う。なるほどなるほどと自分の中だけで言葉を繰り返しながら、改めてこの妙に顔の整った青年を正面から捉える。
「フィリップ・エフロン君。この後、城内の案内を終えたら早速君を所属先へ案内しましょう。どうやらもう確定するようです」
わ、わかりました……と。今はフィリップもそれしか言えなかった。
確定、という言葉に本当にあいつは王子なんだなと思う。どうしてこんなに早く一介の使用人採用の自分がバレたのかと考えながら、今は新入りらしく深々と頭を下げて先輩達へと返した。自分がどういう所属になろうとも、彼らが目上の相手であることは変わらない。
アディソンから「ただちにとお伝えを」と言われ、足早に去る従者の背中を眺めながら彼らも再び足を動かした。
どちらにせよ、最も優先すべき城内の禁止区域を伝えてからでなければ王居になどとても連れていけない。あくまで彼は来賓ではなく使用人だ。
何事もなかったかのよに城内案内が再開されながら、順調に城内の奥へ奥へと進んでいく。貴族の居住区域もある程度説明する予定だったが、そこに今は説明を省いても良さそうだと判断したアディソンは、最奥にある聖域へと彼を率いた。
「……ここだけの話。フィリップ・エフロン君、隠し子と特殊能力者……どちらかですかね」
「…………隠し子ではないです」
ははは……と枯れた笑いに頭を掻きながら、それ以上素が出る前にもう一度フィリップは顔を引き締めた。
もうそこまでバレたかぁと思いながら、やはりまだ自分の特殊能力については口を噤む。国や城で優位に扱われる要因の一つが優れた特殊能力であることは知っている。そして、自分の特殊能力がまぁまぁそれなりではあるだろうということも。
少なくとも〝顔採用〟よりは名誉な扱いだったら良いかと思いながら、フィリップは口の中を飲み込んだ。王居へと入り、その王宮へと案内され、更に個室へと連れられたところで先に待ち構えていた
「どうも、フィリップ殿。良かったですねぇ、採用おめでとうございます」
宰相と。……客間で二度目の再会に、早くも緊張で喉が渇いていくのを自覚しながら。




