そして方針を決める。
一つ一つ名前を確認しながら、ネルは目だけでは頭になかなか入らず独り言よりも小さい潜ませた声で依頼人の名前を音読する。
自分が想定した五倍はある人数の羅列にそれだけで気が遠くなった。読むのが怖くて冷たい水に足先から慣らしていくように名前の列を下から順々に読み上げる。こういう時、位の高い人物から上位に書かれていることがはネルも常識として知っている。
下から順で殆どは聞いたことがない貴族だったか、途中からは自分でも聞いた覚えのある貴族も含まれそれだけでヒヤリと背中が冷たくなった。特に自分の実家地域統治している筈の公爵の名前は流石に二度見した。更に恐ろしいのは、その公爵すらも名前列の上位ではないことだ。
文字列の上部へ視線を上げる前に、まるで予防線を張るようにきっと上位はプライド達の名前だろうと考える。依頼書である以上、彼女達の名前が改めて記載されてもおかしくない。
しかし更に上部に記載された上層部の名前を目で撫で上げてから、とうとう上部の名前にネルは目が転がりそうなほど見開き心臓が一瞬止まった。
「あ、ああああぁあの……、こちら上位の御四人はもしや、お、おおおぉ……」
「ええ、ハナズオ連合王国と我が国の隣国の王族です。アネモネ王国はご存知ですか?因みにその下に書かれているジルベール・バトラーは我が国の宰相です」
きゃぁ、と。短い悲鳴がネルからとうとう漏れた。
〝ランス・シルバ・ローウェル〟〝ヨアン・リンネ・ドワイト〟その名にはネルもピンとは来なかったが、その下に書かれた〝セドリック・シルバ・ローウェル〟の名は流石に知っていた。自分が働いて学校にも体験入学で訪れていた今話題性の強い王子なのだから。その王子よりも上位に書かれた人間となれば、少なくとも王族に決まっている。
セドリックの次に記載された〝レオン・アドニス・コロナリア〟と聞けば自分がゆくゆくは商売に移住しようと考えていた国の王子でもある。しかも彼もまた、自分が講師として務めていた間に学校へ訪れている。美男という言葉をそのまま具現化したような中性的な顔立ちの王子は、ネルも一目見てからずっと頭に焼き付いている。
まさか王族が四人もと喉から飛び上がりかけた寸前、今目の前にいる三人も王族なのだと思い出す。
カチカチと身体中が石のように固まりながら目だけを動かせば、王族の下に書かれた〝ジルベール・バトラー〟にも目が止まった。先ほどはつい覚えがないと思ってしまったが、ステイルに指摘された通り自国の宰相だ。学校の講師募集での面談でも居合わせたと後から聞いたが、まさか講師を辞めた後にも接点が生まれることになるなんてと戸惑いを隠せない。
ふらりと眩暈まで覚えれば、すかさずステイルから「大丈夫ですか」と柔らかく声が駆けられる。まさか王族の冗談かとも一瞬ネルは過ったが、体勢を立て直し呼吸と整えた後にもやはり王子からネタバラシの様子はない。それどころか「先ほども言いましたが」と自分を気遣うように微笑みかけてくる。
「別に全員の依頼に応える必要はありません。ランス国王を始めとする王族の方々もジルベール宰相も全員、プライド第一王女と懇意にしています。我が姉君の仕事を優先すると断ったところで気を立てるような者ではありませんから」
「いっ……いえ!是非、お仕事をさせて頂きたいと思います……!こんな機会、人生で一度あるかどうかすら」
「ご心配なく。急がずとも今後は貴方の気が向くままに無数に訪れる機会です」
目の前に垂らされた黄金の糸に全力で飛びつこうとするネルへ、今度はステイルも少し強めに押し止める。
今まで彼女が苦労していたことを考えれば無理もないとは思うが、それでもやはり冷静に改めて立場を教え込む。今の彼女は仕事を受けるかどころか仕事を選べる立場なのだと、繰り返し理解させる。
もともと正体も謎のままにされている新生の刺繍職人。第一王女が発掘した彼女が仕事をいくら選ぼうが誰も疑問には思わない。むしろ希少性と共に価値が上がるだけだ。
プライドやティアラの刺繍を優先して欲しい気持ちは当然ステイルにあるが、最初はネルが望む相手とだけ交渉すれば良いと思う。もともと膨大な手間と時間が掛かる刺繍を一人で縫うのであれば、一度に受けたとしても一つ一つの商品が完成するまでの時間が伸び、質が落ちてしまっては意味がない。
いくら彼女が怪物並みに刺繍の腕が優れていたとしても、あくまで腕が二本しかない人間であることに変わりはないのだから。
「店を持たれる支援については僕らからも融資は勿論ですが、……一度持ち替えられてゆっくり考えて頂ければ良いかと思います。王族を優先せずとも、貴方の利になる交渉相手を選ぶことをお勧めします」
貴族に対しても、いつでも待てるという言質は取ってあります。と括りながらのステイルの言葉にネルは目をぱちりと丸くする。
「利になる……?」と溢しながら、王族以上に利になる相手などいるのかと少し考える。当然自分の収入や今後の活動を考えても優先するべきなのは王族だ。
しかしステイルの言い方ではまるで王族以外も視野にいれて良いとも聞こえた。
ネルの疑問に、にっこりと笑みを返すステイルは軽く両手を伸ばして見せる。「貴方が何を優先したいかです」と切りながら、試しに軽く思いつくだけでも提案をしてみようと考えた。
「例えばランス国王やセドリック王弟であれば黄金で有名なサーシス王国です。報酬にサーシス産の金を望むことも、もしくは発注された金糸を実際に使う機会もあるでしょう。チャイネンシス王国のヨアン国王であれば宝石関連で同様のことが言えますね。あとは隣国であるアネモネ王国のレオン王子。彼は第一王位継承者でもありますから、ランス国王やヨアン国王同様に国との繋がりを作るにはこの上ない相手でしょう。アネモネ王国は貿易は大陸でも最大手、世界屈指の貿易国です。今後貴方の商品を国外そして世界で取り扱ってくれることも見込めると僕は考えます」
レオン王子は良い品を取り扱うことに積極的ですから、と言いながら微笑みかければネルは瞬きを今度は忘れてしまう。
貴重な金糸、ドレスを飾るのにこの上ない宝石、そして貿易で世界にと。自分が選ぶには烏滸がましいとすら思う選択肢にそれだけで目が回る。思考がそのまま王族四人の中で巡りそうになれば、更にステイルはなだらかな声で話を続ける。
「また、もし店よりも先に貴方が手早く商品を多く流通させたいと仰るのならばウィンズレット公爵もお勧めですね。彼はもともと商会からこの地位を得た家ですし、貴方が求めれば今ある大規模工房の一つや二つを専用に作り替えてくれるでしょう。衣裳店を多く取り扱っていますし、やり方によっては大勢の従業員を使い貴方の刺繍が入った服飾を国中に数百や数千商業展開させることも可能です」
数百……!と、思わず言葉を途中で躊躇い飲み込む。
ステイルが告げたその公爵は当然同じ業界で生きるネルも名前は知っている。今では誰もが聞いたことのある最大商会の一つの名でもある。公爵の地位まで登り詰めたというのは軽い伝説でもある。フリージア王国どころか、王都にすらいくつも大規模な店を構えているその店の一つに自分の看板を立てることも可能なのかと思えば、もう現実離れ過ぎて夢見物語を聞かされているような気しかしない。
今まで自分一人で細々とやってきた刺繍を、大勢の従業員が一斉に力を合わせて作り上げてくれる。自分の人生でこの世に生み出せる作品が何倍何百倍にも増えるということはそれだけで空から金貨が降ってくるような幸運だった。
自分の手で心を込めて作るという愛着もあれば、同時に一人でも大勢に自分の刺繍を届けたいという欲も当然職人として持っている。
「もしくは商業規模は比較小さくなりますが、クロックフォード公爵も良いかもしれませんね。御存じの通り城下でもプラデストを含む中級層から下級層範囲を統治している方です。こちらも商会には力を入れたいと話していましたし、工房や授業員は勿論のこと、奥様がなかなかの商才を持っておられるようです。今後、貴方の刺繍を主要商品として取り扱いたいと仰っていました。これから伸びるでしょう。商会で、もし刺繍を売り出したい層が一般的な市場にでしたら彼らと協力する方が流通もさせやすいかと」
上級層に多く売り出したいのならばウィンズレット、中級層を中心に流通させたいのならクロックフォードかと。そう言われながら、どちらも悩ましいと正直にネルは思う。
社交界や上級層の煌びやかな世界で、自分の刺繍が認められたい着て欲しい。同時に、プラデストの生徒や市場を行き交う自分と同じような女性達がその刺繍を手に笑って歩いてくれるようになったらそれも幸せだと思う。
まさか自分がそんな大それた選択肢で悩む日がくるなど思ってもみなかった。
「あとは、クロックフォード卿の奥様以外に女性で言うならばティレット公爵は年頃の令嬢が四人います。来年長女が婚姻するとのことで、その結婚式でのドレスに是非貴方のデザインを使いたいと仰っていました。他の令嬢も皆さん流行に敏感ですし、毎日のように社交界を巡っておられるので良い宣伝になるかと」
貴族は特に頻繁に社交界に出る女性は多い。つまりそこでネルの刺繍が入ったドレスを着れば規模だけでいえば一回の式典以上の宣伝になる。
自身は一度も訪れたことがない社交界のお茶会や夜会。そこの令嬢が自分の刺繍を身に纏う姿を想像するだけでネルの目が輝いた。そして何よりも〝結婚式のドレス〟と聞けば女性として憧れないわけがない。
女性の人生で一生に一度の晴れ舞台の衣装を自分に任せて貰えるのかもしれないとそれだけで胸が大きく跳ねた。そんな大舞台、兄夫婦の結婚式以来だ。
これには胸が最も正直に跳ね上がり「け……結婚のドレス……」と口から溢してしまえば、ステイルもやっと彼女の指し示す方向が見えた。
にっこりと笑んでから「他にもありますよ」と、当時話を聞いた令嬢や貴族を含む依頼人の話を纏める。
「僕が記憶しているだけでも、結婚式の花嫁衣装に使いたいという希望は四件。娘が初めて主催するパーティーで着せるドレス、舞踏会や婚約予定の相手へ初めて会いに行く為のドレスというのもありましたね。ジルベール宰相も結局は奥様と娘さんへの贈り物ですし、今度第二子が産まれるのでその出産祝いかもしれません。彼は愛妻家で娘を溺愛していると有名ですから。あとランス国王とヨアン国王、セドリック王弟は三人で揃いの刺繍モチーフをという希望でした。サーシス王国とチャイネンシス王国は今はハナズオ連合王国という一つの国で、国王同士も仲が良いので。今回、我が国へ移住した弟君であるセドリック王弟殿下の住むフリージア王国で、誕生祭に姉君の刺繍を目にしたこともきっかけに是非フリージアの刺繍職人にフリージアに根を下ろす弟と共にハナズオ連合王国の兄弟の絆の一つとしての品を依頼したいと……」
やります、やります!やります!!と。
ネルは今度こそ王子相手に喉を張り上げそうなのを必死に堪えた。代わりに、全て聞き届けてから「やります……!」力いっぱいの感情を込めながらか細い声でそう返した。
国外に自分の作品を広めるのも、王族との繋がりを増やすのも、上級層やもしくは民の間で流通させるのも全てが全て夢絵図であることには変わりない。
だが今はその全てを上回り、そんな記念すべき人の一瞬を彩る衣装に自分の刺繍が使われることへの魅力が勝った。最初にステイルから「選べる立場」なのだと伝えられたことも手伝い、選べるのならば是非そういう仕事を優先したいと思う。
ステイル第一王子へ一言一言慎重に選びながら自分の希望を改めて言葉にするネルは、舌を回しながらも落ち着かず何度も指を組み直した。こんな贅沢過ぎることを言っちゃっていいのかしらと思いながらも、今は出世や稼ぎよりもそちらを優先したい。
少なくともプライド達の依頼の刺繍が出来上がれば店を持つ頭金も揃うだろうと採算する。
「あとは、……その、今既に抱えている在庫の商品を買って頂ける方を探そうと思います……。部屋の在庫が空けけばその分またお金も稼げますし、材料費も……」
「ああ、それでしたらレオン王子を通すのが一番効率的かと。勿論、紹介させて頂いた貴族の家へ回るのも良いとは思います。どの家もプライド第一王女紹介の刺繍職人であればいつでもと仰っていましたし。しかしアネモネ王国ならば恐らく全てを最高額で買い取ってくれると思いますよ」
後はリストに入った全員に今度アネモネで取り扱うと伝えれば良いだけの話ですから。そう続けるステイルに、ネルは口が俄かに開いたまま固まってしまう。
全て?買い取る?最高額??と、目を皿にしていく彼女とステイルのやり取りに、アーサーとエリックも耳を傾けながら無言で頷いた。
誕生祭であれだけプライドとティアラの手により噂の的になった商品をレオンならばこの上なく価値を上げて売り捌くと確信があった。彼も等しくネルに刺繍依頼も新商品も依頼したい希望者の一人ではあるが、同時に貿易国の王子だ。彼女から既存の商品を譲ると聞けば、喜ばないわけがない。
ステイルから言葉巧みにその旨を説明されたネルは、口から魂が零れそうだった。
やっと方針が見つかったと思ったらまた別の王族ともこれから関わるのかと心臓が足りなくなってしまう。
レオンとの取り引きに案が具体性が出たところで、若干ではあるが熱の落ち着いたプライド達も二人の会話に耳が反応する。
ネルの既存作品??レオン王子ならきっと!まだあるのなら是非また私も買いたいわ、と燃え上がりきった眼差しを向けてくる王女にネルは思わず肩を反らしてしまう。よ、宜しいのですか……?と、既に自分の作品を数点購入し早々に王族のパーティーでお披露目した王女二人にそれがお世辞でもない本気なのだと理解する。
「どうしますか?宜しければ今度レオン王子を紹介しますが」
「定期訪問で月に何回か来てくれるから、良かったらその時にネルもお茶でもどうかしら?貴方に会いたがってるの。私の大事な盟友で、彼も是非と言ってるの」
「あっ……わ、私がお会いするのはまだっ……心の準備が……」
「それでは、一度私達からお話を通してからはいかがでしょう?私も父上から時間頂いてお姉様と一緒にお話ししたいです!」
決まったら使者を出すわと。
ステイルの提案に、プライドとティアラも乗り上げる。ネル本人の代理として一先ず自分達の口からレオンに尋ねてみることにする。
さらなる王族との接触を、肯定の言葉を放つ前に自分の中で覚悟したネルは一度大きく息を吸い上げ止めた。、既存の品を全てアネモネ王国に、ならばその感謝も含めてレオン王子にも刺繍の注文を受けようかしらと考える。他にもステイルから聞いた結婚式や出産祝いと早速受けたい仕事依頼もたくさんある。彼らには直接自分が接触を図り具体的な契約や発注から期限まで決めなければならない。一気に自分の人生が忙しく慌ただしくなる。
できることなら王族関連はプライド達とレオンを優先し、後は素敵なイベントに自分の刺繍を起用してくれるという貴族達の依頼を優先したい。しかし中でも
愛妻家娘溺愛宰相による妻への出産祝いと異国の王族兄弟の絆のモチーフは、絶対携わりたい。
お向かいさんの炎二人組の服を作るのとも似た楽しみだ。
……つまりは、自国の宰相とハナズオ連合王国の王族ともゆくゆくは関わらなければならないのだと。
自分の欲求を素直み認め、今後の心臓の危うさも受け入れる。
ステイル達との打ち合わせも含め、そのまま流れるようにプライド達からも数点の刺繍依頼を得たネル・ダーウィンは気持ちで王居を後にした。
プライドから重ね重ね「お願いだから無理はしないでね」と忠告を受けながら。
……
「副団長。今朝頂いた焼き菓子、問題なく全て食しました」
「ああ良かった。どうだった?口には合ったか」
「はい、甘かったです」
同刻、アーサーの誕生日祝いと共に兄へ託したクッキーが無事完食されたことはまだ知らない。
「ついで」と思われぬよう敢えて一日ずらし渡したクラークの気遣いも水泡に、何の疑問も深読みもなく受け取られた。




