Ⅱ70.支配少女は固まる。
「ねぇ、本当にジャックは平気……?」
アーサーが上級生を廊下まで引き摺っていった後、数秒だけ静まり返った教室でディオスが弱々しく呟いた。
クロイとお姉様も心配してくれているらしく、同意を示すように私やステイルに不安げな眼差しを向け出す。
大丈夫よ、と言葉を返すと同時にステイルがペンで軽くディオスとクロイの頭をはたく。
「そんなことよりもペンを動かしてください。熊を倒せるジャックにとって、たかが高等部三年など一捻りです」
ぺしっ、と軽い音の後に二人はほとんど同時に肩を竦めた。
叩かれた頭を片手で押さえながら、仕方なさそうにペンを走らせる。続けて紙面に視線を落としたステイルが小言のように彼らに投げかけた。
「ディオスは綴り間違いが多過ぎます。クロイは同じ母音の単語を一緒くたにしないてください」
的確な二人のケアレスミスを指摘するステイルに、ディオスもクロイもぐりぐりと間違えた文字を塗り潰す。
改めて書き直せばステイルから「正解です」と一言が返された。集中していないと出るうっかりミスが二人とも違うタイプなのが、少し面白いなと思ってしまう。やっぱり性格が出る。
二人の様子を私と一緒に見守っていたお姉様が「あのっ……」と潜める声をかけてくる。しまった、私も口を動かさなきゃいけない。
ごめんなさい、と慌てて振り返って謝ると、お姉様は無言で首を左右に振った。眉を垂らしたままの表情で机越しに私へ前のめると「違うの」と口を開く。
「本当に、心配で。さっきの人達、私に用があるようだったのにジャンヌちゃん達まで巻き込んでしまって……本当にごめんなさい。私に合わせなければ別の教室で勉強だってできたのに」
次第に声が萎れていったお姉様はそのまま綺麗な背中が丸くなってしまう。
気にしないでください、と笑いかけながらもテーブルに俯いて肩身を狭くするお姉様の頭をうっかり撫でたくなる。今は間違いなく彼女の方が年上なのに!
まるでティアラを前にしているような感覚に、うっかり立場を忘れる。頭に伸ばしかけた手を一度引っ込め、ぐっと閉じた。それから再び今度は両手でお姉様のペンを握る手を包む。
突然手を握られたことにびっくりするようにお姉様は顔をあげたけど、手は振り払わないでくれた。それどころか手だけは微動だにしないまま。綺麗な灰色の瞳が私を映した。彼女の目の中の鏡に向かい、私はにっこりと笑って見せてから再び言い聞かす。
「気にしないで下さい。貴方は全く悪くありません。それより勉強を頑張りましょう?それだけが私達の願いです」
フィリップも、ジャックも。とそう続ければお姉様が更に丸い目を見開いた。
それから少しだけ唇をきゅっと結んだ後、はにかむように笑んでくれる。小さく頷き「がんばるわ」と言ってくれるお姉様の笑顔は本当に柔らかい。
お姉様とは会ってまだ三度目だけれど、本当に丁寧だし優しい人だなと思う。物腰も柔らかくて、まさに理想のお姉さん像そのものといった感じだ。
身体が弱いことを抜いても、ディオスとクロイが過敏気味になる気持ちもわかる。こんなに綺麗で大人しくて洗練されたお姉様なら、周囲に集まってくる男の子に威嚇しちゃうのも仕方ないと思う。正直、こうやって見ると私よりもティアラと血が繋がっていそうな雰囲気だもの。
ティアラが綿菓子だったら彼女は氷菓子だろうか。ふんわりしたインスタ映えする気品ある綿雪かき氷のような……というか、むしろ氷の結晶のような美しさと儚さだ。もう本当にこうやって至近距離でいくら眺めても飽きないくらいの綺麗な人だもの。ディオスとクロイもお姉様に似ているし顔も中性的で女性にも見えるけれど、やっぱり女らしい美しさはお姉様の圧倒的勝利だ。……本当に。
ふと、目の前で微笑んでくれるお姉様とゲームの彼女の設定が重なり、眉に力が入る。指まで力を込めてしまわないうちに手を離して膝の上へ戻すと、誤魔化すように私は彼女に読解問題の解説を再開する。
私の焦りに気付かないでくれたお姉様は、落ち着いた表情でうんうんと私の話を聞いてくれる。フランス人形のように綺麗で柔らかくて、ちょっとぽけぽけした女性らしいお姉様。本当に、この人がゲームではあんな状態になるなんて。
『ごめんなさい……ごめんなさい……全部全部お姉ちゃんが悪いの。ごめんね、ごめんねごめんね……』
少なくとも一つの悲劇は回避されている今、彼女がああなる心配はない。……だけど、彼女がそれまではどんなことをしていたのかと考えれば胸が痛んだ。
こうしてディオスともクロイとも普通に会話できているし、不自然な感じはしない。ならやっぱりゲームの〝あの〟設定もなしになっているのかなと期待したくなる。できればそうであって欲しい。攻略対象者でもないのに、ゲームが始まった時の彼女の傷は深い上に多過ぎる。だって彼女は二人の為にー……。
「あ」
誰からもなく、声を漏らす。
昼休み終了の予鈴が校内中に響き渡った。結局お姉様とは一教科しか勉強できなかったと今から反省する。いやでもそれなりにお姉様の学力確認はできたし、ディオスとクロイもある程度文字を覚えられたことも確認できた。ステイルも紙とペンを二人から回収しながら「まぁまずまずですね」と呟いている。二人とも表向きはまだ不服そうな様子はあるけれど、ちゃんと言ったとおりに昼休みまでの間も復習してくれたのだろう。
私も早々に教室へ戻るべくお姉様の机の上に広げた文房具を回収しながら席を立つ。見回せばもう結構な人数が教室に戻ってきている。
三年を追い払ってくれたらしいアーサーもひょっこりと扉から顔を出した。「すみません、遅れました」と声を掛けてくれる彼は当然ながら無傷だ。衣服の乱れすらない彼の姿にファーナム姉弟からそれぞれ安堵の溜息と瞬きを忘れた眼差しが返ってきた。
「ありがとうジャック。お陰で勉強を進められたわ」
任せてしまってごめんなさい、と続けながら両手に紙とペンを抱えて歩み寄ると、アーサーは謙遜を返してくれながら私から荷物を受け取ってくれた。ステイルからも荷物を受け取った彼は、それをまとめて一度自分の鞄に詰める。お姉様とパウエルにも挨拶を交わした私達はファーナム兄弟と一緒に高等部を後にした。
双子が「三年生は」「本当に勝ったの?」と交互に尋ねてくる中、アーサーはすごく言いにくそうに取り敢えず大喧嘩するまでもなく三年が退散したことを教えてくれた。
まぁアーサーのことだから手心も加えてくれると思った。彼が本気を出したら確実に三年生の骨は折れるもの。
軽く振り向くと、ディオスが何か言いたげな表情でアーサーを睨んでいたけれどそれだけだった。唇を一文字にして結んだ彼は、視線に気がついたアーサーが目を向けるとすぐに顔ごと逸らしてしまう。私にならまだしもどうしてアーサーにそんな態度なのだろう。
クロイがその様子に鼻で息を吐いた後、呆れたような眼差しでディオスの背を一度だけ叩いた。それでも未だにディオスの肩は内側に入ったままだ。
「……本当にこんなんで学年一位なんて間に合うのかな。僕ら、……まだ満足に文字も書けないのに」
最初こそ悪態も交えた声だったディオスだけど、途中からは不安を露わにしていた。
まだ一日目といえばそうだけど、試験も近い。文字でもミスを指摘されてしまったことが、少なくともディオスには不安材料だったらしい。すかさずステイルが「間に合わせる」と断言してくれたけれど、それでも彼らの表情は曇ったままだ。
渡り廊下を歩き、中等部に辿り着く。窓の外を見回せば何人かの生徒が校舎に向かい走っていた。授業に遅れる!と声をかけ合っているのが聞こえる。外にいる少年少女の声も聞こえるくらい静まりきってしまった二人に、私は明るくした声で笑い掛ける。
「大丈夫よ。二人とも覚えは早いわ。それにまだ始めたばかりじゃない!今日の宿題も出すからそれもしっかり復習しておいてね」
確かに二人が不安なのはわかる。
私だってお姉様に勉強を教える要領の悪さに自分でも驚いている。途中で邪魔が入ったりディオス達に注意が向いてしまったこともあるけれど、時間を掛けすぎた。もっと効率的にやれば一日二教科だけの授業を初日分くらいは昼休みで網羅出来たんじゃ無いかと思う。
自分で勉強して覚えるだけなら自己責任だし簡単にできたけど、やっぱり人に教えるというのは違う。特にステイルとティアラは頭も良いし物覚えも早かったけれど、相手は高等部一年のいたいけな少女だ。一回言って百覚えてしまうようなステイルやティアラと違う。冷静に考えれば、お姉様はまだしも兄弟が苦戦するのも考えられる。二人も頭は良いけれど、文字が最初から書ける生徒とのハンデが大きい。……だけど光明もある。
もう仕事を辞めた彼らは、放課後もみっちり勉強できる。
その間に二人へ宿題を出せば、必ず彼らはしっかりと勉強して下積みを築いてくれる筈だ。明日と明後日の学校の定休日にどれだけ私達が彼らに勉強を叩き込めれるかが勝負の分かれ目だ。いっそ今日の放課後もステイルに城へ伝言をお願いして彼らの家で勉強を
「おかえりなさいませ、ジャンヌ。いやはや教室に居ない時は驚きました」
……へ⁇⁇
私達の教室前。廊下へ出たすぐの所に彼はいた。
その存在に思わず私は穴が開くほど凝視してしまう。おかしい、目の錯覚かしらと目をごしごし擦ったけれど間違いなく彼はそこに居た。
にこやかに優雅な笑みを浮かべ、昼休みから帰ってきた私達を待ってくれていたのは、明らかにディオス達よりも幼い少年だった。ぱっと見で十三歳くらいだろうか。……というか、いや、これは、もう。
引き攣ったまま笑んだ顔が治らない。口端から痙攣してしまった私は無理やり口を動かしながら、彼を呼ぶ。ディオスとクロイが初対面の少年に向かい小首を捻って見返す中、彼らだけでなくアーサーも唖然とした表情を浮かべていた。そして何も言わないで悪い笑みを浮かべるステイルに変わり、私から彼に向けて口を開く。
「こんなところで何をしているのかしら………?……じ、ジル……?」
「もちろん、遠縁であるジャンヌ達の為に一肌脱ぎに来ました」
ジルベール宰相。
見かけ年齢十三歳くらいの少年は、どっからどうみてもキミヒカ第一作目の攻略対象者であるジルだった。
彼のこの姿を見るのは二度目だけれど、もうあまりにサプライズ過ぎて心臓に悪い。にこやかに笑う彼は軽く周囲を見回した後、視線をディオスとクロイへ向けた。……そういえば昼休みの終わった直後の今なら、護衛についてくれているだろうハリソン副隊長もアラン隊長も入れ替わりの為にいない。まさか、近衛騎士が手薄になる今を狙ったということだろうか。
「彼らが件の双子ですか。……今日の放課後と明日、お世話になりますのでどうぞ宜しくお願い致します」
今日、明日。
ジルベール宰相の貴重な二連休。その言葉の意味と……まさか、と。
思わず引き攣った顔のまま、悪い笑みを浮かべ続けるステイルに目を向けてしまう。まさか、まさか、まさか!昨日、ジルベール宰相にお話ってステイルまさか
「今は顔見せだけですが。私はひと足先にフィリップからお聞きしたお二人の家でお待ちしておりますので。それでは」
やっっっぱり⁈‼︎‼︎
一方的に値踏みをするように二人を見たジルベール宰相は、最後に深々と頭を下げると優雅な足取りで階段へと去り出した。
本当に顔見せだけの為にここまで忍び込んだの⁈いや確かにのんびりしていたらアラン隊長に見つかるけども‼︎‼︎
勉強頑張って下さいね、と角を曲がる前に手を振ってくれたジルベール宰相に私は行き場の無い手を俄かに伸ばしたまま放心する。
待って、と言いたいけれどあまりの展開に口をぱくぱくしたまま声が出ない。そのまま角の向こうに消えたジルベール宰相にもう思考を放棄したくなった。
「ジャンヌ、今のやつ初等部の……いや中等部……⁇遠縁って」
「いやその前に顔見せってなに。僕らの家で待つって言ってたけど。知ってる通り僕らの近所あまり治安良くないのに大丈夫?」
……絶対大丈夫です。
ディオスとクロイに向けたいその言葉も呆然とした中では出てこなかった。
ステイルが「次の休み時間に説明しますから、先に戻っていて下さい」と二人を教室に促す中、ポクポクと私は現状を頭の中で整理する。そして、第一に理解したことは。
……最強家庭教師召喚しちゃった……。
プラデストですら叶わない、我が国の宰相による特別個別講習会が決定した。
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