Ⅱ530.刺繍職人は寛ぎ、
「へー、ネルちゃん城で働くのかぁ。兄妹揃って大物ってやつだな」
「いえ、働くとは少し違って……。ただ、私の品を取り扱って下さる方が城にお住まいで」
あはは……と、困ったように笑いながらネルはライアーへと両手のひらを向けた。
学校を円満退職し城へ商品を卸すことも口にはできるようになったネルだが、まさか噂の第一王女に卸すことになったなどと気軽に自慢するのも躊躇った。自分ですら未だに信じられないのだから。
まさか同じ部屋にもう二人、城に住むハナズオの王族従者がいるとはまだ思いもしない。
学校が二連休初日の昼下がり。いつもは夕食にファーナム家へ訪れるライアー達だが、もう彼らの家で寛いでいた。
広い居間のソファーに並んで掛けながら針と糸を動かす女性二人を、敷かれた絨毯の上に足を組み眺めるライアーは頬杖を突きながら目の保養に余念がない。
すぐそこのテーブルでは、双子兄弟二人がノートを広げペンを走らせていた。
いつもならば自室で勉強しても良かったディオスとクロイだが、ライアーが訪れた以上女性である姉達だけをまだ放っておけなかった。今も勉学を進めながら、いつライアーが人の目を盗んで自分の姉に手を出すのではないかと気が気でない。
騎士の身内を持つネルがいるからこそ、こうして自習と並行することができているがそうでなければ若葉色の両目を一瞬もライアーと姉から外せなかった。
学校が休みの日になり、特待生を維持しなければならない双子は勉学を怠らない。
毎日の仕事をしない分、これこそが彼らの〝仕事〟なのだから。
特に今は、早起きして朝食前に自習を済ませた姉と違い、週末セドリックに会えるということではしゃぎ過ぎて夜もなかなか眠れなかった二人は寝坊分勉強量で遅れを取っている。
いま姉がネルと共に自分の時間を嗜んでいる間にこそ、自分達も負けず勉強しなければと手を動かし続けた。明日のことを考えれば、僅かな期待にノートを纏める手にも力が入る。
できるだけ細かく、そして見せても恥ずかしくないノート作りに二人揃って目指す。
ふぉ~ん、へぇ~?と中身があるのかないのかわからない相槌を打っているライアーもその付添いも今は大人しいお陰で双子の集中しやすい。
「じゃあその服が城に献上するってやつか?城に住むような連中ってもっとギラギラした服だと思ったが」
「あっ違う違う違います。城に卸すのは服じゃなくて基本的に刺繍で、今縫ってるのは将来店に出す用の商品で」
「ネルさんもう刺繍の方は全部終えちゃったんですよね。あんな凄い刺繍を余裕をもって仕上げちゃうなんてすごいわぁ」
早口で訂正するネルへ、ヘレネもふふふと肩を上げて笑う。
糸を連れた針を手に、昨日見せて貰った刺繍を思い出す。精密に一つ一つ編み込まれていた刺繍は、ヘレネの目には宝石のように輝いて見えた。こんな精密な刺繍を依頼されてからひと月足らずで完成するなんてと、目を丸くしてしまったのを今でも覚えている。一緒に目にしたディオスとクロイもまた、陽の光に透かして確認した編み込みの細やかさに顎が外れていたことも。
ヘレネからの賞賛に「ほめ過ぎよ」と微笑みながら肩を竦めるネルは、視線を服から隣に座るヘレネへ移す。ミシンでも使っているかのように針の動きだけはずれも乱れもない。
「持っていくのは殆ど既存の刺繍やデザイン画で、新作は二枚だけだし……正直、これでも気に入って貰えるのか怖くてもう一枚作ろうか本気で悩んでて」
「いやいや俺様なら百年あっても一枚すらできねぇわ。あとあんま飛ばすのはやめとけネルちゃん。余計な手柄狙って深追いした上げく死ぬなんざよくある話だからよ」
「どこの話です?」
ぷっ……、と物騒すぎるライアーの言い方にネルもヘレネもいつもの冗談だろうと笑ってしまう。
煌びやかなな刺繍を思い浮かべて話していたのに、彼の言い方は明らかに別稼業の話だと察せられた。
しかしライアーは至って真面目だ。裏稼業で生きていた時、群れで生きている連中が手柄欲しさに作戦から逸脱した行動を取りドジを踏んで死んだり責任を問われて始末されたのをよく耳にしている。
当然ネルのような刺繍でそういった命の関わる出来事はないと思うが、相手が国の最高権力である城に住むような大物だとどうにも警戒してしまう。何より、……家畜業で働いていた自分もまた、当時「あともう少し働こう」と考えた結果疲労に追われた経験をよく覚えている。
よりによって騎士団副団長の妹に何かあっては自分が殺されかねないと、冷たいものが背筋を伝う。「いやマジでやめとけ」とあくまで冗談めかした口調で言いながら、念押しに徹する。
「それにネルちゃん店持つのが本命だろ?なら大人しくそれ仕上げとけ。店出す金だけあっても売るもんねぇなんざ笑い話にもならねぇ」
「でもネル先生もうお部屋にたくさん素敵な服を持っているから、あれだけでもすぐお店できちゃうわよね」
「わかってねぇなぁヘレネちゃん。城に住むようなお偉いさんに気に入られるほどの手腕だぜ?店なんか出したらバーッと売れて在庫なんざすっからかんだ」
そうね!と盛り上がるヘレネとライアーのやり取りに、「それはどうかしら……」とネルも流石に苦笑した。
兄からはパーティーで王侯貴族に好評だったと聞いたが、それもプライドが着ていたからこそ。今まで市場で手にも取って貰えなかった刺繍が、店を開いた途端に大売れすると思えるほど楽観的にはなれない。寧ろ、大量に作れば作るほど在庫を抱えることが少し前までの悩みだった。
今は広々とした部屋があるから実家に置く必要もないが、こうして今作っているドレスも売れるかどうかと考えれば王族に気に入って貰える刺繍をもう一枚の方が生産的だと思う。もともとデザイン画で良いと言われていたが、本物を見せて意見を聞きたい為作った。
数日前に卸す用の刺繍を終え、今日はこうして商品用に作りながらも、気付けばサイズをヘレネが着れるサイズに合わせているのも在庫を抱えた時の逃げ道を作っているのだと誰よりも自分がよくわかっている。
「あとヘレネさん、また私のこと〝先生〟って言っちゃってたわよ。もう私は先生じゃないんだから」
「あら?ごめんなさいネルさん。つい時々出ちゃうのよね」
恥ずかしいわ、と肩を竦めながら指摘されたヘレネは改めて「ネルさん」と楽しげな声で言い直した。
ネルが学校を正式に退職してから、先生呼びはしないで良いと言われたファーナム姉弟だがやはり元の呼び方が時々出てしまう。
しかし一緒に暮らし始めてからすぐに打ち解けられたネルと友人らしい呼び方になれたことはヘレネにとって嬉しかった。今もこうやって二人で針に糸を通すのは友人同士のやり取りみたいでほっこりと胸が温まる。
「あっ、そこの針。返しをもうちょっと手前にした方が良いわ。その方が座りがよくなると思うから」
「あら、そうなんですか?ありがとう。やっぱり本職の人がいると助かるわ」
「何言ってるの。家中に飾られている小物もぬいぐるみも売り物みたいに上手じゃない」
成人女性の服を縫うネルと違い、助言を得たヘレネが縫うのは小さなぬいぐるみだ。
本職のネルならば一日でも完成できる可愛らしい布人形だが、ヘレネにとっては倍以上の時間をゆっくりのんびり使って作る癒しの作業でもある。
家で飾り置いているぬいぐるみの新作を増やす彼女は、子どもの頃から針と糸とは親しい。プロであるネルからの言葉に頬を緩ませながら「ありがとう」と素直に受け取った。一緒にこうやって誰かと裁縫なんて何年振りだろうと思う。
弟達もボタンを付ける程度はできるが、小物となると家でできるのは母親と自分くらいのものだった。
今はうさぎのぬいぐるみを製作中だが、これが一区切りついたら今度は古くなってしまった星型の小物三つを作り直そうかしらと考える。
「確か来週だったか。また城に言ったらついでに騎士の兄貴様にも会いに行くのか?」
ネルとプライドとの約束の日まで一週間を切っている。
来週、という言葉に「そうですね……」と言葉を返しながらも次の問いにネルは一度手を止めた。
城内に入ることが許されれば、ついでに兄が所属している騎士団演習場へ赴くことも難しくはない。騎士団にも門兵はいるが、身内であることを明かせば話は通る。
ただ、実家に帰ればいつでも会える兄にわざわざ仕事中に何度も会いに行くのも気が引ける。寧ろ会いに行きたいといえば……、と兄とは異なるもう一人。物腰が丁寧な黒髪の騎士を思い出す。
ぽわんと頭が一瞬呆けそうになったが、そこはすぐに首を横に振って払った。会いたいといえばものすごく会いたいが、兄同様彼の邪魔もしたくない。兄の立場を使って毎日上官の命令で会わせられるなんて迷惑以外の何物でもないと思う。どちらにせよ兄を通じて差し入れの許可は得たのだし、そんな頻繁に会いに行くのは控えておこうと決めていたことを改めて思う。
相手が兄の部下である以上、立場を利用して距離の詰め方を間違うことだけはしたくない。
「会いに、はいかないかしら。兄も忙しいですし、どうせ実家でも会えますから」
「次会ったら是非とも〝ライアーさんの家は良い他人です〟の一言で良いから俺様の潔白伝えて置いてくれよ」
頼むから、と。言葉と共に背中が丸くなるライアーにネルも笑いを零しながらも了承した。
筒がなく挨拶ができた、と。兄からもライアーからもディオスからも聞いていたネルだったが、あの日から前にも増してライアーが自分の兄について警戒するようになったと思う。それでもこうして親しくはしてくれる分、自分としては問題はないがやはり騎士団副団長の看板は重く強固だ。
せめてライアーのフォローだけでもするべきかと、騎士団でなくても近々顔を見せに行こうかと予定を捻る。
まだ兄の友人宅へは挨拶に行っていないし、今度第一王女から依頼を取ることができたらその足で件の小料理店へ挨拶にいくついでに実家にも寄ろうかなと考えた時。
「……あっ。そういえば」
「??どうしましたネルさん?」
ぽろっと零れた独り言にヘレネの目が丸くなる。
何か忘れ物でも?とネルの小脇に置かれている様々な色や布を覗くが、いつも通りトランクごと全て揃っている。
急に視線が浮いたネルを、ライアーも短い髪を不必要に掻きあげながら言葉を待つ。
「ううん」と二人の視線へ首を横に振ってから、ネルは笑みを返した。
「この前会えた友達が、ちょうど今度誕生日だなと思い出して。刺繍を卸しにいく日にちょうど良いから何かした方が良いかしらと」
しかも、誕生日に翌日はプライドに刺繍を見せに行く日だ。
むしろまた彼には近衛騎士として顔を合わせることになるかもしれないと考えれば、一言挨拶どころか何も用意しないのは悪い気がする。
今からカードの一つでも用意するべきかしらと考えていると、低い位置からライアーに「女⁇男⁇」と首を伸ばされた。一択で言葉にすれば、次にはもう興味が失せたように大きな欠伸と伸びで返される。
「良いですね」と両手をぱちんと合わせながら、ヘレネの方は誰かもわからないその相手への誕生日を今から祝福したい気持ちでいっぱいになる。
「今まではどんなものを贈ったんですか?確か最近フリージアに帰ってきたばかりなんですよね。そのお友達に最後にお祝いしたのは結構前かしら?」
「結構……というか、子どもの頃かしら。私、一回やらかしちゃって。それからは誕生日に贈るのもあってクッキーとかくらいだったかな」
ぽわぽわと大昔のことを思い返しながら、途中で口の中が苦くなる。
アーサーが根に持つような子ではないとわかってはいるが、本当に悪いことをしたなと今でも思う。ヘレネが「クッキーなら一緒に焼きましょう」と提案してくれる中、とりあえずは頷いた。
もう子どもではないアーサーにクッキーだけというのは考えてしまうが、どちらにせよ今後もクッキーや軽食を焼く予定はあるのだしと思い直す。アーサーも甘い物は嫌いではない。
一緒に送る品を何にするかも今日中に決めようと思いながら再び針を動かした。どんな人?と尋ねられれば自然と感慨深い溜息が口から零れた。
「今は本当に立派になって……。背も伸びて、私より高くなって、最後に会ったのが別人みたいで、お父様にそっくりになってて……」
「なに、ネルちゃん惚れてんの」
遠い目をするネルに、ライアーも頬杖を突いて覗き込む。
「違いますよ」と笑い混じりに返しながら、期待を浮かべたヘレネにも丁寧に否定した。アーサーのことは好きだが昔から特別親しくしていたわけではない。家の中に籠る自分と、どういう理由であれ常に外に出ていることが多かったアーサーは接点も少なかった。兄と彼の父親が親しくなければきっと友人になることもなかっただろうと振り返る。
いっそ恋でもしていれば、もっと普段からアーサーに歩み寄れたしあの日傷つけることもなかったと思う。
「あの子は年下だし、今まで全然やり取りもしてこなかったから他人に近いしきっとあっちも私のことは存在くらいしか覚えてなかったかと……」
「いやいやそういうところから惚れた腫れたが生まれるんだろ。俺様なんてちょこ〜っとピンときた相手に限って」
「ライアー。くだらねぇ話ばっかしてんじゃねぇ、帰るぞ」
パタンと、本を閉じる音と共に会話の流れを両断する低い声が向かいの椅子から放たれた。
使い古されてこそあるものの座り心地の良いソファーを女性陣二人が使っている為、彼はファーナム家のテーブル前に置かれていた一番立派な椅子をわざわざソファーの向かいまで移動させていた。
足を組み座り、芸術的な左半分の仮面の下から睨みを利かせる。先ほどからずっと誰の会話にも入ろうとせず、憮然とした態度で本を読み続けていた彼の顔は未だに顰められている。仮面に隠されていない右半分の眉が中央に寄っている。
ラーアーに連れられいつもより早い時間からファーナム家に訪れていたレイだが、だからといって会話に入る気は最初からなかった。
勉強に集中したいディオスとクロイからすれば願ったりだったが、ただいるだけなら自分の家に居れば良いのにとも心の底で彼らも思う。
今日訪問してきてから最初の発言が帰宅命令であるところは、何よりも彼らしい。
不機嫌そうなレイの声に、床に手をつき背中ごと大きく反らすかたちで背後を向くライアーは逆さの視界で笑いかけた。「はいはい」と相槌こそ打ちながらも、ここを動く気はない。レイの機嫌を傾けた理由もわかっている。
「良いじゃねぇのレイちゃん、あと二、三時間もすりゃあ料理だぜ料理」
「テメェらの話し声がやかましくて本が頭に入ってこねぇんだよ」
「じゃあお前だけ帰ってろ。俺様はいま潤い補充中だ見りゃわかんだろ?」
潤いの言葉を強調しながらライアーが伸ばして示す両手の先には女性陣が並んでいる。
自分だけ、という言葉にピキリと眉が更に吊り上がったレイだが、炎は零さずに押しとどめられた。もともとお前が無理やり連れてきやがったくせにとも思いつつ、もし連れてこられなくても自分が付いていったことはよくわかっている。
そして今も確実にライアーは、言っても自分が一人では家に戻らないことをわかってほざいているのだとも。
黙して奥歯を噛み縛りながら、足を組み直すだけで座して留まる。フンと鼻息を吹かせ、奥歯の力を緩めたところで再び本を開き直した。
「ど変態野郎が」
「良いから本読んでろ〝元〟可愛こちゃんが。悪いなぁネルちゃんヘレネちゃん、未だにご機嫌斜め過ぎるんのようちのお坊ちゃん」
はいはいと、レイへ訂正も今は面倒になり手で払う。
変わって腰を低くして笑いかけてくるライアーに、ネルとヘレネも一言で応じた。今日までの間機嫌も悪ければ態度も最悪のレイにはこの場の全員が慣れている。
空気を悪くされることを嬉しくは思わないが、当たり散らす相手がライアー一人なのがせめてもの救いだった。ディオスとクロイに対しても今まで以上の口の悪さにはならない。…………寧ろ、双子と口喧嘩させている時の方が気がまぎれる分レイが調子を戻すからこそライアーは無理やりにでも連れて来ていた。
しかし、勉強中の双子は最低限以上レイにも関わらない。
ヘレネからも特待生を維持するために勉強の邪魔をしないようにと頼まれている上、ジャンヌからも迷惑をかけるなと釘を刺されている手前ライアーもそしてレイも自分からいま双子に関わろうとはしない。
「レイくんもどう?良かったら一緒にお裁縫やってみない?」
「いやいや無理無理ヘレネちゃん。今のレイちゃんじゃここにある糸も毛糸も布も一瞬で炭だから」
やめとけやめとけと、両手を振って全力で止めに入る。
突然の誘いに少しだけ本へ落としていた視線を上げたレイだったが、口を結んだままライアーの言う通りだと自分も頭で同意する。
今は特殊能力を抑えられているから良いが、黒炎の特殊能力者である自分はいつ苛立ちで周囲に炎を灯すかわからない。ライアーが傍にいる間は特に気が抜ける分、制御の為に自分で手を叩く癖も最近は減っていた。
近くに可燃物があれば火事もありえて、しかも黒炎を自分の意思で消す前に一瞬で炭になるような物体は尤も危険だ。
ソファー席の二人から一定距離で離れている今は安全だが、あまり可燃物には近づきたくない。
ここは以前の屋敷のように防火布の品は自身の衣服にしかないのだから。




