そして受け入れた。
「パウエル―!ほら、暖炉の前来い!温かいから!!」
「これ、毛布使って下さい。まだ身体寒いでしょ?椅子もあるからどうぞかけて」
手招きされて、よろよろ歩けば今度はカラッと乾いた毛布を肩からかけられた。今度は石鹸の匂いがうっすらした。
暖炉の前で椅子まで進められて、だんだんわかんなくなる。なんか考えるのも難しくなってきて、それでも暖炉の温かさに釣られるまま椅子に腰を下ろした。久々に見る気がする火の明かりが、こんなに優しいもんだったんだなって妙に呑気に思う。
茫然と顎の力も入らないまま座ると、フィリップは暖炉の前に落ち着くことなくまたどっかに行く。
急に不安になって顔ごと向けて目で追えば、台所らしいところで何かガサゴソやっていた。「パウエル水飲むかー?」って言われて、つい前のめりに返した。
もうカラカラだった喉で、水が最高のご馳走みたいに思えて来た。思い出したように腹まで鳴れば、今度は俺の傍に立っていたアムレットまで台所に駆けていく。
「!兄さん、それ兄さんの」
「大丈夫兄ちゃん向こうで食ってきたから!それよりアムレットはパウエルの頭拭いてやってくれるか?まだ髪濡れてるし風邪引く」
それなら明日の私の分を、って細い声を最後にとぼとぼとアムレットが戻って来た。
机の上に積んでいたタオルを一枚手に取って、本を読んでいた時に使っていた自分の椅子を引きずりながら俺の方に来る。
自分で拭く、って俺からタオルを受け取ろうと手を差し出したけど「今は温かくしててください」って椅子に乗り上がったまま頭にタオルを被せられた。わしゃわしゃと伸び散らかった髪を覚束ない手の動きで一生懸命拭いてくれて、……また心臓がじんわり揺れた。
頭を拭いてくれてるのか、タオル越しに頭を撫でているのかわからない手の温もりがそれだけで込み上げる。
ずっとこのままでいたいくらい、天国にいるような気分だった。
「私あまり兄さんみたいに上手じゃなくて」「痛かったら言ってください」って言ってくれるけど、こうして頭を拭いてくれるだけで上手とか下手とかどうでも良くて。
何も知らないとはいえフィリップと同じように触れてもらえてるのに、何故かこの子に触れられるのにそういう怖さもない。なんか触れて貰えるだけでほっとして、身体に張り付いた怖い物が和らいでいくのがわかる。
「兄さんが本当にごめんなさい。湖、冷たかったですよね。うち本当に貧乏でろくなおもてなしもできませんけど、せめてゆっくり身体を休めて下さい」
そんな優しいこと言われたらまた泣きたくなる。
口の中を噛んだら、勢い余って鉄の味がした。本当に普通の人間みたいな扱いをされるのが、こんなに幸せなんだと思う。
この子も俺の特殊能力知っても兄みたいに怖がらないでくれるかなとか変な期待まで持つ。フィリップがおかしいだけで、優しいだけで、普通はそうじゃないって俺が一番わかってる筈なのに。
そこまで思ってから、ふと最初に思った疑問が頭に過る。「あの」って、覚束ない声で首ごとアムレットの方へ向く。フィリップと同じ朱色の瞳が丸く俺を映して、そこにはもう最初に会った時みたいな怯えもなかった。
「あいつの名前って……」
「?兄ですか?兄はフィリップです。フィリップ・エフロン。兄さん!まだ自己紹介もしてなかったの⁈」
したぞ⁈って、直後にはアムレットの倍の声が台所から響いた。……やっぱり本当に〝フィリップ〟だった。
続けてアムレットが自分の名前を改めて教えてくれる。家名まで名乗ってくれた二人に、俺は名前しか言わなかったことにちょっと悪い気がしたけど、もう家の名前は口にもしたくない。
アムレットも、それにそういえばフィリップも全然俺の家名は聞こうとすらしてこない。
なんでこんなに初めて会う相手に優しいんだろうと思いながらぐるぐる考えていると、急にふんわりと良い匂いが鼻を掠めた。
思わず馬鹿正直に首を向ければ、フィリップが「今夜は食べれるのこれしかねぇけど」ってパンとグラスに入った水を差しだしてくれた。久々の皿に置かれたパンを自分の手で食べる感覚に、一瞬だけ違和感で目が眩んだ。
流石に食いもんまでは、って遠慮したけどぐいぐいと「早く受け取ってくんないと鍋が焦げる」って言われて慌てて両手と膝に置く。
最初に水を一気に飲んで、それだけでも喉が潤う感覚に目が覚めた。それから膝に置いた皿に置かれたパンを齧る。中に混ぜ込まれてた干した果物の甘さが、歯に響くように沁みた。こんなに美味いもんがあるのかと、甘い物を食べるなんてすごく久々だった。
でも、さっきの良い匂いはこのどっちでもない。一つは水だし、パンも焼いたわけじゃない。鼻を近づけたら甘い匂いがしたけど、さっきのとは違う。そういえばさっき鍋が、って言われた気がすれば
「アムレットーごめん。テーブルもっとパウエルに寄せられるか?ないとゆっくり食えないだろ」
湯気の立ったカップを二つ両手に持って、フィリップが戻って来た。
さっきの良い匂いも絶対そこからで、思わずパンを食ってる途中なのに喉が鳴った。アムレットがテーブルを俺の近くまで引っ張りよせてくれて、フィリップがそこにカップを二つ置いた。
空になったグラスを取り上げられてテーブルに置かれると、今度は入れ替わりに湯気の立つカップを持ち手から渡された。
ふんわりとした良い匂いを湯気ごと顔から浴びて、真っ白の水面を凝視する。さっきの良い匂いの正体はこれだ。
「ほらアムレット~兄ちゃん特製ホットミルクだぞ~」
「私じゃなくて兄さん飲んで。身体冷えてるのも兄さんの方でしょ?」
もう一個のカップをアムレットに渡そうとしたフィリップが即答で断られてる。折角作ったのに、って肩を落としたけど「兄さん本当はお腹空いてるでしょ」って言われた途端、ににこにこの笑顔で妹の頭を撫でた。
「アムレットは優しいなぁ」って言いながら質問には答えずフィリップが自分でカップのミルクを飲む。勢いよく口を付けて直後に「あちっ!」って舌を出したけど。…………絶対優しいのはフィリップも同じだと思う。
まだ飲み込むのが勿体ないパンを口の中で噛み締めながら、さっきの台所の会話を思い出す。
たぶん、今日のこいつの夕食を俺にくれたんだろう。つい押されるまま手が出たけど、アムレットも怪しんでたし多分間違いない。
少しずつカップを傾けながら口を付ければ、ミルクの甘い風味が口いっぱいに広がった。
パンよりもずっと、びっくりするくらい甘くて奥歯までじわりと痛いくらい味が広がって舌が躍る。思った百倍美味くて、思わずほんの一口で止めると横からアムレットが「甘すぎた??」って覗き込んできた。
フィリップが作るのは蜂蜜がたくさん入ってるって教えてくれて、……「私の好きな味だから」とちょっと照れたように笑った。
やっぱり凄い仲良いんだな。こんなに優しい兄ちゃんと妹なら仲が良い方が当然だ。
「…………俺も。すげぇこれ好きだ」
可愛いな、って笑った顔を見て思えば、自然と俺まで頬が緩んだ。
俺から返事があると思わなかったのか、アムレットの目が皿みたいに丸くなった後今度は嬉しそうに微笑んでくれる。
フィリップもアムレットも天使みたいに優しくて、夢の中かなとまた疑う。もう今日一日で何回夢だと思ったか数えきれない。
だって本当に、もしいまここが俺の夢じゃなくて現実だとしたら、今まで生きて来たのと違う別の世界じゃねぇかって本気で思えるから。そっちの方がずっと納得できる。
ぼんやりと霧がかかってきた頭で「この国は?」って聞いてみたら、フリージア王国って両眉を上げた顔で言われる。
でも、俺が知るフリージアと違う。特殊能力を見て、痛い思いされてもこんなに優しくて、温かくて、笑いかけてくれる世界は俺が知るフリージアじゃない。
「国外から来たの?」
首を傾けたアムレットから言われて思わず首を横に振りまくった。
頭に掛けられたタオルをアムレットの両手ごと振り落としそうなほど勢いつけて嘘を吐く。本当はわからない。あいつらに捕まってから国内にいたのか国外にいたのかも別大陸にいたのかもわからない。
でも、あんな場所に捕まっていたこと自体知られたくない。知られた途端こいつらに冷たい目で見られたらきっと死にたくなる。
「パウエルはフリージア人だよなー」
フィリップが得意げに言ってくれて、今度は縦に思い切り振った。
パンを食べきった後も、ミルクを飲み切るのが勿体なくて両手で持ってちょびちょび小さく飲む。ほんの一口でもすごく口いっぱいが幸せで、喉を通したら深く息を吐けた。
いつの間にか椅子の背凭れに身体全部が体重を預けてて、暖炉の火を眺めながら段々とすごく瞼が重くなった。
カップを落とすんじゃないかと一度両手で持ち直してから、そういえば今度は全然飲むのを警戒しなかった自分に気付く。前もこうやって薬か何か盛られて捕まったのに、全然学習してない。…………それとも。
「兄さん、パウエル眠そう」
「飯食って身体暖かくしたら眠くなるよなぁ。ちょっと待ってろ、兄ちゃん床に敷けるもん持ってくる」
声も、足音も。すごく近くなのに、遠く聞こえる気がする。
被せられたタオルが降ろされて、軽くなった頭がそっと撫でられる感触に少し肩が強張った。でも何度も、何度も優しく髪を撫でおろされると逆に心地よくなる。
まるで催眠術みたいに身体全部の力が抜けて、飲みかけのカップが俺の方に少し傾いた。半分以上飲んだお陰で零れなかったけど、まだ全部飲んでないのにここで終わるのが勿体ない。
「寝て良いよ。寝る準備できたら起こすから」
「…………寝たくない…………」
日差しのような温かな女の子の声に、自然と正直な気持ちが口から零れた。
凄く気持ちよくて幸せで温かくて、このまま眠ってしまえたら本当に天にも昇る気持ちだと思う。でも、眠ると思った途端に頭では必死に起きていようと抵抗したくなる。指に力を込めては緩めてまた込めて、息を何度も深く吸って吐いて、瞬きを増やして瞑らないようにする。首を左右に振っても足を毛布の下で組み直しても完全には眠気が消えなくて、落ちる感覚が怖くなる。
なんで?って、アムレットの声が尋ねた。とにかく寝たくなくて、口を動かして覚ましたい俺は聞かれるままに応える。頭がぼうっとして上手く考えられない頭で。
「目が……覚めて、また……あそこに戻ってたら……嫌だから……」
そう自分で言って、数時間前までの狭くて暗い世界を思い出したら勝手に涙が零れた。
薄くしか開いてないだろう目を塞ぐぐらいの量で、瞼が閉じる前から視界が塞がった。自分でも何を言ってるのかわかんなくなって、寝ちゃ駄目だと口を動かせば「戻りたくない……」って意味もなく舌から落ちる。
起きてたいのに、このまま良い夢を見続けていたいのに。寝るのが怖い。夢から覚めるのが怖い。違う意味の筈なのに、なんだか同じ意味な気がしてどっちも怖い。
こんなに幸せで温かくて甘いのが、二人のフィリップもひっくるめて全部が俺の夢だったらと思うと死ぬより怖い。目が覚めて、今のこの幸せを全部忘れたくない。ずっと、ずっとこのまま夢の中に居たいから寝たくない。
もう、アムレットの顔も見えなくて暖炉の炎が滲んで見えるだけで自分でも目が空いてるか閉じてるかわからない。もう、このまま目が覚めたら全部終わっちゃうのかなと思ったらまた目の奥が熱くなって顎まで伝った。
意識がだんだん柔らかくて深いところに沈んできた時、……また別の温かいものに包まれた感触がした。また懐かしいような、……幸せな匂い。
「大丈夫だよパウエル。目が覚めても絶対一緒にいるから。今日はゆっくり休んで、明日はもっともっと笑顔を見せてね」
そう言われて、細い指に目元を拭われた。
一緒にいる、って言葉を聞いた途端信じられなくて朝日を浴びたような感覚で目が覚めた。大きく瞬きをして、見ればアムレットが細い腕で椅子に座る俺の頭を後ろから抱き締めてくれていた。
触れて貰えるだけでも信じられないくらいだったのに、身体の半分がぴっとりとくっついている感触がする。
あぶねぇから、って言おうとして舌が浮く。引き離したいような、このままでいたいような感覚にこれが人の温もりなんだって思い出した。
「よっしパウエル!一緒に寝るぞ!!アムレット!パウエル狭い場所苦手みてぇだから今日は兄ちゃんもここで寝るからな!」
「わっ、私も一緒にいる!一緒に寝る!パウエルこのままにしておけないもん!」
フィリップの大声が聞こえた途端に腕を引っ込ませたアムレットは、今度はフィリップに負けない大声だった。
二人の大声を続けて耳に刺されて、……一気に眠気が引っ込んだ。
さっきまで俺なに話してたんだっけ。何か譫言を言ってた気がすると思いながら、カップを持ち直すのと反対の手で頭を掻く。アムレットが抱き締めてくれて何か言ってくれたのは覚えてるけど、あとがぼんやりしてる。
ぽとりと顔が濡れた感覚がして指で擦れば結構濡れてた。いつの間にか泣いてたのか。それで宥めてくれてたんだなと思えば、あんな小さい女の子に宥められたことが少し恥ずかしくなる。
黒髪のフィリップも俺より年下だったし、そう思うと振り返った先にいるフィリップが年上なことに少し安心する。
フィリップは丸めた絨毯を床に広げているところで、アムレットの発言に「ええ?!」と困ったように眉を寄せていた。
「いや、でもアムレットはなぁ。ほら、女の子だし兄ちゃんは良いけど他の男と一緒に寝るのはちょっと……」
「寝・る・の!!兄さんが連れて来た友達なんだから良いでしょ!」
「で、もなぁ~……別に本当に寝るだけだし床じゃ身体痛くなっちゃうぞ?ソファーはパウエルに貸すからアムレットも床で寝ることになるから」
そんなの良いよ!ってまたアムレットが叫ぶ。
背後で二人が凄い元気よく言い合いながら、絨毯を仲良く広げる。俺がカップの残りを飲みきる間にアムレットが自分の部屋から毛布を持ってきて「絶対一緒にいるから!!」「兄さんが間に入れば良いでしょ!!」って先にソファーから一人分離れた場所に転がった。それを見てフィリップが仕方なさそうに首を垂らした。
最終的には俺が一人だけソファーを使って、その隣の床にフィリップ、次の隣にアムレットが自分の家なのに床で寝ることになった。
俺が床で良いって言ったのに、二人とも「お客さんだから」ってそこは声を合わせて引かなかった。お客さんじゃなくて、本当に厄介になってるだけでこんなに色々してもらった後なのに。
二人掛けのソファーは横になって足を伸ばしたらギリギリだったけど、地面に寝ていた時と比べたら雲の上みたいだった。
アムレットが横になったまま俺に手を振って「ここにいるからね!」って呼びかけてくれて、フィリップが「暗くない方が寝れるか?」って明かりを消す確認をしてくれて、本当にこのまま寝るんだって思ったら胸がいっぱいになる。
パンとミルクも飲んで、それでもまだ多分腹は減ってる。でも、胸がいっぱい過ぎて多分今目の前にご馳走を出されても食べられないと思う。
俺の為に小さな蝋燭の明かりがテーブルの上に灯ってる中、あんなに眠かった筈なのに変に目が冴えた。ずっと開いた目で蝋燭のゆらめきを眺めながら、夢じゃないことを何度も確かめる。
カチ、カチって時計の音が気になったけど、同時に現実って気がして安心する。
「眠れねぇか?」
不意に、アムレットの寝息が遠く聞こえだした後に呼びかけられた。
てっきりとっくに二人とも寝てると思ったから、肩が大きく跳ねた。心臓も飛び上がって、さっきまでゆっくりだった脈音がドクドク耳に響いた。
反射的に「すまねぇ」って謝ってから視線を向ければ、ソファーの下でフィリップがこっちを見上げてた。
アムレットを起こさないように、って人差し指を口元に立てながら顰めた声で笑う。
「人ん家じゃあんま眠れない方か?」
「いや……。……………………なぁ、聞いて良いか?」
人の家に泊まったことだって殆どない。
鎮まって小さな明かりの止まった建物の中で、ずっと静かだった空間に気持ちが落ち着いた。そのお蔭か、自分から言えた言葉にフィリップは「なんだ?」ってこっちに寝返りを打った。
アムレットを起こさないためかぎりぎりまでソファーににじり寄ってきて、わざわざ上半身を起こして俺の口元まで耳を近づけた。本当にひそひそ話で、それだけアムレットを起こしたくないんだなってわかった。
わざわざ身体ごと起こさせたのが悪い気がしながら、俺も横向きになって自分の口元に手を添える。本当はもっと早く聞くべきだったと思いながら、やっと浮かんだ疑問を聞く。
「なんで、お前……俺に、ここまでしてくれるんだ……?俺が、悪い奴だったら…………」
自分で言いながら、勝手に胸がざわついた。
本当にそうで、ここで追い出されても仕方がない。今俺が言った所為で急にフィリップが不安になって外に出ていけとか言われたらどうしようと遅れて後悔した。
唇を噛んで止まる俺に、フィリップは「んーーーーー…………」とちょっと考えるように首を捩じった。腕まで組んで、絨毯の上に足を組んで座って。ちょっと白々しい気もしたけど顔だけは本気で悩んでるようだった。
カチ、カチって時計の音が百回は続いたと思った頃に、フィリップは「なんかさ」とやっと口を開いてくれた。
「あの湖で泣いてるの見たら、あいつもこういう気持ちだったのかなぁって思って。…………放っとけなかったから」
「あいつ……?」
暗闇の所為か、夜の所為か、さっきまでと違う静かな声の所為か、別人みたいに遠い目で瞳を揺らすフィリップに息を引く。
口元は笑ってるのに、なんだか泣きそうな表情が急に苦しくなった。
俺の問いに「昔の友達」ってまた明るい顔で笑い飛ばすフィリップは、俺の方に軸ごと傾くようにまた寄った。腕まで伸ばしてきて、さっきのアムレットみたいに抱き締められるのかと思ったら、……ポン。と背中を叩かれ始めた。
赤ん坊を寝かしつける時のような仕草に一瞬口を結んだ。俺、年言った筈なのに。こいつより背もでかいのに。
「大丈夫だぞー、兄ちゃんがついてるからな。アムレット寝かしつけるので慣れてるしこのままちゃんと寝るまで見ててやる。こっちの方が怖くないし、安心だろ?」
「…………別に俺の兄ちゃんじゃないだろ……」
「兄ちゃんって呼んでいいぞ?俺の方が年上だし、頼ってくれて良いからな??」
そう陽気な声で言われて、絶対コイツを兄ちゃんとは呼ばないって決める。まさかここまで距離を詰められるとは思わなかった。
「いや良いって」と一度背中をはらったけど、腕を降ろしたらまた同じようにポン、ポンと一定間隔で叩かれた。どこまでも子ども扱いされるのがモヤリとして、……足の指先からじわじわと震えが上がって来た。
嫌なのに嬉しくて、……もう触れるなと言うのも馬鹿らしいくらい力が抜けてる自分が信じられなくて。
もう寝たふりしようかなと目を閉じても、ずっと横で「大丈夫だ」「明日は晴れると良いな」「パウエルは良い子だな」って同じような言葉を柔らかく繰り返される。
自分だって眠い筈なのにひたすら優しい言葉をかけてきて、妹のアムレットがなんであんなに優しいのかよくわかった。
こんな家族欲しかったな、と。…………そう思った瞬間。何かがぷつりと切れて、視界が歪んだ。
「っ…………ひっ…………ぐ…………っっ」
「大丈夫だ、怖くない怖くない、兄ちゃんついてるからなー、泣いても良いぞー」
ポン、ポン、ポンと。
一定間隔に叩かれる背中を丸めて、震えないように堪えたけど無駄だった。目を瞑って瞼を絞ったら、余計込み上げてしゃくりあげた。
もう一生分泣いたくらい何度も何度も泣いたのに、足りていない。鼻を啜って、身体が全部震えて絶対フィリップの手のひらにも伝わった。歯を食い縛っても逆に嗚咽が大きくなって、自分じゃどうにもできなくなった。
堪えようとすればするだけ苦しくて、まるでこうなることを知ってたみたいにフィリップから繰り返される「泣いても良いぞ」に途中から耐えきれなくなる。
ぐずぐず泣いて、ソファーに鼻垂らして、今までずっと忘れてた恥ずかしさまで戻ってきて、人間〝みたい〟に泣いた。
泣いて、泣いて、いくら泣いても目は覚めなくて現実で。今日一日だけのことを思い出すだけで震えまで歯が鳴るほど大きくなって止まらなくなった。
それでも「大丈夫だ」「明日は洗濯日和だと良いな」「風がきっと気持ちいいぞ」「雨が降ったら空気が綺麗になるな」「怖くない怖くない」って繰り返されるのが変わらなくて、被っていた毛布に爪を立てるほど握り締め続けた。
『帰る場所なら、ある‼︎』
「っ…………フィリッ……」
「んー、なんだー?」
ここに居ない、もう一人のフィリップを呼ぶ。
今日会ったんだって、信じられないくらい懐かしい気がする恩人を呼ぶ。もうここには居ない、俺を助けてくれて逃がしてくれて、…………次がいつ会えるかもわからない。
プライド王女の時世まで、それが何年後かもわからない。でもそれでも俺があのままだったらと約束してくれた。あいつが、まるでもう俺の全部を叶えてくれたようだった。
─ ここは、どこだろう
「フィリップっ…………ふぃり゛っ……」
「いるぞー。ちゃんといるからなー」
まるで世界全部を作り変えてくれたような。
救ってくれたフィリップと、迎えてくれたフィリップ。
返事をくれないフィリップが与えてくれた温もりの中で、返事をくれるフィリップの声が返される度に鼓動が遅くなるほど安堵する。
─ 温かくて、優しい
「フィリップ……ふぃりっぷ…………ヴぃりっぷ…………!!」
「大丈夫だー。いるぞ、ちゃんと。兄ちゃんここにいるからなー、寝ても起きても一緒だぞー」
一度唱えたら止まらなくなって、何度も何度も呼ぶ度に瞼の裏にもう一人のフィリップが浮かぶ。
助けてくれた、助かった、逃げ出せた、ここにいる。朝になってもきっと温かい場所にいる。神様みたいにこっちのフィリップに引き合わせてくれた。こんな良い人達に会わせてくれた。本当に、フリージアにもちゃんと優しい場所があった。
─ 生まれた国で一人じゃない世界。
「何度でも呼んで良いからなー、泣いてもいいぞー、パウエルは良い子だなぁ、生まれてきてくれてありがとうなぁ」
えぐえぐ泣きながら途中からどっちを呼んでるのかもわかんなくなって、……どっちも呼んでいて。〝フィリップ〟の名前をおまじないみたいに唱え続けながら眠りに落ちた。
明日の陽の光の世界が、待ち遠しくなりながら。




