そして兄は知り、
「もう御戯れは宜しいのですか我が君。最近は足が壊れるまで逃げ続けろと命じられておりませんね」
「だぁってぇ、アレはその所為で死んじゃったじゃない。せっかく見つけたのに無駄足踏まされるなんてもうこりごり。……これだから老人は嫌いよ」
始めて聞こえる男の声と、そして甲高い女の声。聞けば聞くほどあの女の声だ。
忘れたかったのに耳にへばりついて剥がれない、ねっとりとした感触が耳から首筋にまで這いまわる。
背後を振り返れば見える二人の会話に震えることしかできない。誰か、とまた叫びたかったのに空っぽの息しか出ない。急に足を止めた所為でさっきより心臓がばくばく言っているのに嫌でもこの女の声を全身が拾おうとする。
地面に潰れたまま震える手で耳を塞ごうとしたらその瞬間右手が男物の靴に踏み潰された。
グリッと地面との隙間を作らないようににじられても悲鳴が喉の奥だけで消えいった。代わりに肩が上がって地面にくっついていた胸が少し浮く。いつの間にか手が両方拳を握って痛みを潰すために力が入っていて、……アムレットへの土産をどこで落としてきたかもわからない。いつから持ってなかったんだっけ。
手の痛みに悲鳴すら上げられなくて、舌を抜かれたみたいな音を叫べば女から「ちょっと」と尖った声が耳を触れた。同時に男の靴が今度は女物の固いヒールでぐりりと押し付けられる。
手を潰す足の重さが増えて、声にならない悲鳴を上げる中ねっとりとした声は世間話みたいにゆっくりだった。
「アダム。私の〝物〟に勝手に傷をつけるなと何度言ったらわかるのかしら。またお仕置きされたい?」
「これは失礼致しました。この塵が不審な動きをしましたので貴方様を想うあまりに、つい」
激痛の後、ゆっくりと俺の手から足が二つ分降ろされる。
暗くてよく見えないけど、信じられないくらい熱いからたぶん血が滲んでる。指が折れたかどうか確認したくても、もう力が入らない。獣みたいに唸る音しかもう零せない。命乞いすら許されない。
一体なんでこの悪魔が生きてる?城は死んだって言ってたろ、もうこの世にいない革命で討伐されて死んだって。なのになんで死んでない?なんでここにいる?なんで野放しで、なんで俺なんかをこんな
「〝姿を変え映す特殊能力者〟フィリップ・エフロン。……この子はとぉっても特別なんだから」
ぞわっっっ、とその瞬間背中に蛆虫が這いまわったような錯覚に襲われた。振り向けばあの引き攣った口端の笑みで笑っていると頭に浮かぶ。
口を結んで、身体が強張って、心臓の音だけがこれ以上ないくらい早くなる。ほんの数秒涙も止まった。全身の血が止まって、視界が黒くて白く点滅してる。一瞬死んだんじゃないかと思うくらい何も考えられなくなった。
何度も何度も大岩を落とされ続けるみたいにこいつがあの悪魔だと現実をつきつけられる。今までこの特殊能力を使ったことなんて殆どない。アムレットと、それにアイツにしか教えてない。…………あの、特殊能力者申請義務令を覗いて。
今だって、角を曲がる度何度も何度も姿を変えた。別人だと思われたくて、素通りされるのを期待してわざと棒立ちになったりもした。服だって脱いだり裏返したりしたのに、馬車は何度も何度も俺だとわかって疑いもせずまっすぐ追って来た。
「本当にあの法令は正解だったわぁ、ジルベールには感謝しないとね」
「流石は神に選ばれし真の女王。国中の特殊能力者の名前も住処も能力も全て記憶されておられるとは、まさに王の鏡」
「ハァ?全員なわけがないでしょう?隷属を結ばせる〝価値〟があった特殊能力者だけよ。凡人の能力者なんか興味すら湧かないもの」
化物。
その言葉が最初に浮かぶ。
ジルベール、が誰かはわからない。ただ、俺もよく覚えてる。
特殊能力者申請義務令で俺達特殊能力者は全員申請した。名前も、住んでる場所も、どんな能力かも全部。そん中で〝優秀か希少な特殊能力者だけ〟が隷属の契約を強要された。でも、…………だけ、って何人いる⁇
何百、何千、いやもっといた。俺が契約を結んだ時だってあのだだ広い広間に敷き詰まって、それでも何度も何度も日も回数も分けて国中から城に収納されていたって聞いた。
そんな全員の全部をこいつは〝記憶〟しているなんてありえない。どんな頭してればそんだけの情報量を覚えられるんだ?人間業じゃない。
素晴らしい、って男の高揚した声と手を叩く音にそれだけで撃たれたように全身がびくりと大きく震えあがった。逃げたい逃げたい、ここから今すぐに。
「やっぱりこっちが正解だったわぁ、辺りかまわず攫ってくる馬鹿な貴方達のやり方よりずぅっと効率的。見なさいなアダム、何日も無駄に安物をかき集めたアンタ達と違って私はもう三人。……あの子が城下解放したお陰で貴族連中には逃げられたけれど、やっぱり野良は野良よねぇ?」
「お言葉ですが我が君。我が手の者でもいずれこの程度の野良鼠を手にするのは時間の問題だったことでしょう。貴方が自ら危険を冒さずとも必ずや私の手だけでも望む能力者を」
「お黙り。私が望む全てをと誓った口は何処にあるのかしら?黙って私の言う通りにすれば良いのよ。神に選ばれし私に間違いなどないのだから」
逃げれば良かった。
何年も城下から出ることを禁じられた特殊能力者がティアラ女王のお陰で城下にも出られるようになった。でも、城下から逃げたのは金がある貴族だけ。それまで悪魔の命令で城下にかき集められた特殊能力者のほとんどは今もずっと城下にいる。
まだ革命があって半年も経っていないのに逃げられる資金なんかあるわけない。俺だって本当はアムレットと一緒に逃げたかった。田舎でもどこでも良いから、…………嫌な思い出しかないこんな土地から抜け出したかった。
金さえあれば、雇ってくれる貴族達が逃げてなければ、こんな国じゃ、女王がいなかったら。
「まぁ城下解放も悪いことばかりじゃないわぁ。〝民に自由を〟〝城下に居らずとも我が国に住まう者は等しく民〟だっけ?ハハッ‼︎…………民が何人城下から消えても気付けないように自分達からしてくれたのだもの」
鼻で笑って、最後は抉るような鋭い声に心臓が貫かれた。
〝城下解放〟……そのお陰で俺達は自由になれたと思ったのに。
でもそうだ、今ここで俺が、それどころか家族丸一個がいきなり消えても誰も不思議に思わない。城下から逃げる人間は年々増えている。本当にあいつら皆逃げたのか?逃げられたのか⁈もし今の俺みたいに人身売買とかに捕まっても誰が気付ける?誰が騎士団を呼べる⁇逃げたか攫われたかなんかわかるわけがない。国で一番狙われる特殊能力者達のほとんどが、この城下に今も取り残されているのに。
例えば今俺が消えても。…………そう思ったら暫く息が出来なくなった。脂汗で全身がべたべたして泥の中に押し付けられてるみたいだ。駄目だ、俺は、帰らねぇと、アムレットが家に
「貴方にねえ、ずぅぅっと会いたかったのよぁ?」
頭上から、急に深紅の髪が垂らされた。
同時に見開かれた紫色の瞳が眼前に突き付けられて、全身の筋肉が縮こまる。ヒュゥッって変な音が喉から零れた。
爛々と光った眼球に移された俺の顔は、いつの間にかもう元の顔だった。今まで能力が解けたことはなかったのに、もう能力を無意識に使うような余裕もないんだって思い知る。
人間じゃないようなでかい目が、包帯の隙間から俺を逆さに見下ろしていた。地面にへばりついた俺を上からわざわざ前のめりに覗き込んできたとわかるのは、心臓が痛いほど鳴るのが収まってから。
声が出せれば悲鳴を上げてたくらい、その女はバケモンだった。
深紅の髪に紫の瞳、それ以外が包帯で殆ど隠されたままでも馬車の明かりに照らされたそれだけで悪夢がまた脳裏に蘇る。
こんなおぞましい人間、この世にたった一人しかいない。
口端が限界まで引き上がって笑ってきた女に、銃口みたいに目が逸らせない。アイタカッタの言葉の意味もわからないまま瞼を無くして歯を鳴らし続ける俺に、悪魔は一方的に話す。
顔を上げ、深紅を垂らしヒールの高い靴でくるりと回って俺の前に正面を向けてしゃがんだ。池の魚を見るような目で、にやにやと裂けた口を開く。
「本当困ってたの。ラジヤの〝商品〟全部かき集めて怪我は治せても、私のこの美しい顔に傷は残っちゃったんだもの」
申し訳ありません我が君、と。男が囁いたけど悪魔は無視をする。
しゅるりしゅるりと悪魔は自分から包帯を外していく。その下にあの悪夢の顔が待ってるというだけでも手足が冷え切って心臓がきりきり削られるみたいに痛んだのに……もっと、酷かった。
黒く塗りつぶされてわからない。なのに、はっきりわかる。吊り上がった目元、額から鼻下にかけてまでいくつも重ねるようにくっきり残った傷跡が馬車の明かりに照らされる。
頬がどっちも別々の大きさに陥没して、瞼も片方無くなっていた。馬車に敷かれた死体の方がずっと美人だと思うくらい、……生きているのがおかしいと思うくらいの顔がそこで笑ってた。
声が出れば絶叫してた。大量の息を吐き出して空っぽの叫びしか出ないまま、正真正銘目の前の化け物を前に喉が張り上がる。化物の悪魔が、本物の化物の姿で帰って来た。
バケモン、バケモンと口だけが衝動のまま勝手に繰り返して今だけは言葉を潰されていて良かった。そうじゃなかったら殺された。
恐怖でしか顔を維持できずぐちゃぐちゃに顔中の筋肉を引きつらせる俺に、悪魔は腹を抱えて笑い出した。怯える俺を見て、心から楽しそうに声を上げる。
「アッハハハハハハ!!……あ~……そうよねぇ?酷いでしょう??」
この為だけに顔を晒すのも悪くないわ、となんでもないことみたいに笑う悪魔は化物を前にした顔をしてる俺に上機嫌のままだ。
外した包帯を夜風に流して、しゃがみ込んだまま長い髪を指で遊んで背後に払う。「せぇっかくの美人が台無し」と紡がれる声が前以上に顔と一致しなくて余計気味が悪い。
背後から「とんでもない」「お美しい」「何晩でも愛せます」と訳の分かんない世辞を並べ立てる男の声が、悪魔が軽い手の動作をしただけでぴたりと止まった。
「だ・か・ら・治してね?貴方の特殊能力を使えば元の顔に復元して見せるくらいわけないでしょう?」
その言葉に、口だけが空っぽのまま動いた。
勝手に返事をした舌が、声は出せないまま爪が一枚剥がれた右手が悪魔に伸びる。俺の意思とは関係なく、身体が動いて悪魔に触れた。瞑れた蟻の最期みたいな動きをする俺に、悪魔は引き上がった笑みのまま振り払うことも自分から触れようともせずただ眺めた。見開かれた目が恍惚に光ってる。
本当はしたくない、こんな悪魔の、……あいつを壊した女の願いなんて一つも聞きたくないのに。
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