把握し、
「どうりで準備ができたというのが早いと思ったんだ‼︎本当に二、三日で準備を整えたから流石だと思ってやったが……!ジルベールめ、一度ならず二度までも……‼︎」
なんだか怨敵を噛み締めるような言い方に、不謹慎ながらちょっと笑ってしまう。まぁステイルがジルベールに敵意満々なのは今に始まった頃じゃないけれど。
でも最近は仲良さげな時も増えているし、今日も帰って来た時は珍しく二人揃ってご機嫌だったのに。いやでもこの様子だと今回悪いのはジルベール宰相かもしれない。…………ジルベール宰相、もう二児のパパになるのに相変わらずステイルにはちょっと大人げない。
ステイルの言葉とジルベール宰相の有能さから鑑みるに、どうやらジルベール宰相はエフロンお兄様の誕生日前日に合わせてステイルを引き合わせてくれたらしい。
流石にお誕生日にはエフロンお兄様も休みを取っていた可能性が高いし、その上でのちょっとした配慮だろう。ただしエフロンお兄様の御誕生日が翌日とはステイルに伏せたままだったと。…………ああ、だめだ。もう「てっきりご存じだったかと?」とにっこり笑うジルベール宰相の顔が頭に浮かぶ。
「い、意外だわ……ステイルは覚えてなかったのね……?」
「覚えていませんよ‼︎祝ったことがないのに!子どもの頃は祝われることを望んでいませんでしたから⁈」
ギラリと恐らくここにはいないジルベール宰相に向けてだろう眼光を鋭く光らせながら、力いっぱいステイルが拳を胸の前まで掲げる。
ティアラが料理長に料理は問題なかったと弁解してくれる中、ステイルの発言に枯れた笑いが零れてしまう。祝われることを望んでいないというのはどうしてかと気になったけど、それ以上は踏み込んじゃいけないわよねと口の中で飲み込む。
そういえばゲームのアムレットもアムレットで「私も兄さんの誕生日、あんまり祝ってあげられなかった」と妹を誕生日に亡くしたブラッドに打ち明けていた。貧乏だったこととお兄様がいなくなったことを理由にあげてたけど……普通に考えれば、周囲の助けを得て成長したというアムレットがささやかでも祝えなかったってちょっと変なような。
ゲーム上の言葉の綾と言われればそれまでだけど、今のステイルの発言から考えるとなんだか心配になる。アムレットが心を込めた贈り物だけはせめてエフロンお兄様も喜んで欲しい。アムレットが贈り物に悩んでいた理由ってそれもあったのかしら。
そんなことを呑気に私が考えている間もステイルの憤りは収まらない。食後の紅茶を最後の一口まで飲み切ると、「お先に失礼します!」と強めの口調で布巾を降ろした。
「ジルベールはまだ恐らく城内にはいるでしょうから!少し話を付けて来ます!!」
「兄様っジルベール宰相なら今日は父上に早めに帰るって許可得ていたわよ?多分もう帰り道だと思うわ」
あ、の、お、と、こ、は!と、ティアラの言葉にステイルが再び唸る。流石ジルベール宰相、引き際も心得ている。
エフロンお兄様にとっては嬉しいバースデーサプライズになったのだろうけれど、どうやらステイルには最悪のサプライズネタバラシになったらしい。
たぶん、ジルベール宰相に上手く日付けを合わせて黙されたことよりも単純にエフロンお兄様の誕生日を祝い損ねたのが悔しいのかなと思う。
やっぱり誕生日事情もちょっと気になるなと思いながら私もカップを置いて席を立つ。今すぐにでも自室から瞬間移動でジルベール宰相に文句を言いに行きそうなステイルを宥めることにする。少なくとも今は帰路を歩いているだろうジルベール宰相の前に王子の身分で姿を現すほどは怒り狂ってもいない、筈。それに明日が誕生日なんて知ったら、ステイルだって勧誘に遠慮したかもしれない。
落ち着いて、明日ジルベール宰相と会うのだから、と。私と紅茶を飲み切ったティアラと二人でステイルを宥めながら私達は食堂を後にした。廊下に出て、自室へと向かい歩きながら間に挟む私とティアラにステイルも一歩一歩歩くごとに少しずつだけど湧き上がる覇気の矛を収め始めてくれる。
「エフロンお兄様にとって嬉しい誕生日祝いになったことに変わりはないわ。おめでとうの言葉よりステイルに会えたことの方がずっと嬉しいわよ」
そうですっ!と力いっぱいティアラもステイルの腕にしがみつきながら応戦してくれたお陰で、次には肩のこわばりを緩めてくれた。
それでもジルベール宰相がまだ屋敷に戻ってないかと時計を目で確認するステイルに、私もティアラと一緒に反対側の腕にしがみつきながら話題を変える。
「エフロンお兄様も帰る頃だと良いわね。アムレットと早速話せたら嬉しいわ」
明日も楽しく過ごせる為に。
そう続ければ、ステイルもやっと笑顔を見せてくれた。「……そうですね」と鎮まった声で、力強く踏んでいた足並みが止まっていつもの足取りに戻る。
あと数時間に向かえるエフロンお兄様の御誕生日がよりよいものになりますようにと願いながら、ティアラと一緒にステイルを部屋まで丁重に送った。
…
……
………
「ッハァ……ハ、ハッ……………ッッ…………ハッ……」
逃げろ。
「…………ッ……ッッハッ……ガハッ…………ハッ、ハッ…………」
逃げろ逃げろ逃げろ頼む、まずい、誰か‼︎
真っ暗な夜の中、訳も分からず息の限り以上走る。もう走り過ぎて口から血も内蔵ごと吐き出しそうなくらい苦しい。でも逃げる足が止まらない、ここで立ち止まるなんかできない。
帰る筈だった方向と正反対に走り続けた所為で、やばいくらいさっきより人気のない裏通りだった。どっかの町でも市場でも市街地に着けば助けを呼べると思ったのに、むしろ裏通りだとわかればそれだけで血の気が引いた。本当はこんなところ真昼間でも来たくなかったのに最悪だ。
誰か、助けてくれとずっと叫びたかった喉が、渇きとも息の切れとも別の理由で全く出ない。
今ここで叫べばもしかしたら助けじゃない別のやばい連中が湧くかもしれないと思えば声が出なくても心臓が裏返る。怖い、叫びたい、誰かと言いたいのに声が、一言も。
裏通りさえ抜ければ、こんな時間でもきっと誰かいる。家があれば扉を叩いて逃げ込める。もしかすると巡回中の衛兵や騎士に会えるかもしれない。そんな糸みたいな希望が過っては崩れそうな膝を無理やり動かし角を曲がり続ける。
誰か、と出ない声の代わりにただでさえ暗い視界が滲んでくる。怖いからか苦しいからかも何もわからない。明かりを探し続けて、知らない道で、人影もない通りで必死に探す。
首だけで振り返れば、小さな明かりがゆらゆら揺れていた。あれに捕まるのだけは死んでも嫌だ。
もう何キロ走ったかもわからないのに、いつまでもいつまでも追ってくる。わざと距離も詰めないで、それでも永遠と追ってくるこれは絶対遊ばれていると俺だってわかるけど逃げるしかない。息がもう出ない、足を回して回して、必死に口を開けても身体に息が届かない。
滲んだ視界が次第に今度は眩む。ここがどこどころか、上か下かもわからなくなった瞬間にとうとう足がもつれて顔面から地面に転がった。やばい、逃げねぇといけねぇのに。
身体が、足が、肺が動かない。ゼェハァと口だけの呼吸音を繰り返し、涎と汗でで地面を濡らして吐き出した。次の角こそ助けがいてくれと這いずる為に腕を前へ噛ませて必死に進む。耳が自分の息と心臓しか拾ってくれなくて、人の声があるのかどうかもわからない。
なんでこうなった、って空っぽの頭で思う。おかしい、なんで、今日はもう真っすぐ帰るだけの筈だったのに。日雇いの仕事も時間通りに今日は終わって時間に余裕できたからちょっと良いペンとノートを買ってあとは、あとはあとはアムレットが待つ家に帰るだけだった筈なのになんでこんな
「アッハハハハハハ‼︎すっごいじゃなぁい!こんなに走れるなんて上出来だわぁ」
アハハハハッ!アッハハハハハ‼︎と、身の毛のよだつ高笑いが背後で響く。
その声を聞いただけでまた全身の血が凍った。あんなに息が欲しかった喉ごと一回止まって、這いずりたかった指先一つ動けなくなる。
あの明かりに追いつかれたんだと嫌でも思い知る。あんなに気になって仕方がなかった背後を振り向くのが怖い。首が固定されたみたいに動かなくって、正面の暗闇を見つめながらガタガタ歯が鳴った。
夢なら覚めてくれと、一秒の間に何度も何度も思う。背後の声を聞いただけで、もう何も動かない。怖くて怖くて心臓が今にも止まりそうなほど気持ち悪い。
ずっとずっと、ただ俺を追って来た連中が馬車から降りる音が急に信じられないくらい脳まで届いた。まるで死刑の秒読みみたいで、走って来たのと違う汗がぶわりと全身から噴き出した。歯だけじゃなくて指先まで震え出して、誰か誰かと誰もいない暗闇に頭の中だけで呼び続ける。
本当に、いきなりだった。
帰り道に、途中で明かり一個ぶら下げた馬車が近づいてきた。この辺を馬車なんて珍しいなとしか思わなかったのに、急に名前を呼ばれてつい振り返った。知り合いでも乗ってたのかなとか思ったら、次の瞬間〝それ〟が来た。耳を疑う暇も頭を疑う暇すらなかった。
アムレットがいる家にだけは絶対近づけられないって、それだけを確信して必死に反対方向に逃げた。
振り切りたくてもいつまでたっても馬車はずっと俺を追いかけてきて真っ暗で知らない道で方向もわかんなくなるし、俺に選ぶ権利なんか最初からずっとなかった。ただただ逃げる俺を見るだけに走らされてるだけだって頭じゃわかっていた。
タンタンタン、と二つの足音がゆったりした足並みで近づいてくる。俺がもう逃げられる足もないとわかって、きっと向こうは芋虫を踏み潰す気分と変わんないんだろうと思う。
フフフッ、ハハハッ……ってずっと怖気の走る笑い声が心臓の音を押しのけて響いてその度に震えが酷くなる。馬車の中で俺に呼びかけて来た女の声だ。
馬車の中からで姿は見えなかったけど、誰かはわかる。信じたくないけどそれしかない。この声も、喋り方も、それに
「残念ねぇ?あともうちょっとで裏通りを抜けられたのに。ハハッ‼︎」
『汝の隷属の主として命ず。……お黙り?』
〝隷属〟……そう言われた瞬間。あの悪夢が、顔が浮かんで声まで重なったら本当に何も口が利けなくなった。
最初は不自然に唇が固く閉じて、その後は開くし閉じたけど何もしゃべれない。「なんで」も「まさか」も何も言えずただ頭にだけ溢れかえった。
最初はその場に身体が勝手に平服して動けなくなったけど、…………今の女王は誰かと思い出したら後からやっと身体が動いた。もう奴は王族じゃない。
俺が頭を起こしても立ち上がって背中を向けても女の笑い声が聞こえるだけで御者も誰も捕まえようとしなかった。ただただ馬車でのんびり追いかけられて、時々俺が逃げ込もうとする道に差し掛かったら「そっちはだぁめ」って言うだけで後はひたすらただただ追いかけて来た。
絶対その先に誰かか何かいた筈なのに、命令された声に俺も逆らえなくて必死に別の道を選んで逃げて逃げて、…………結局裏通りだ。母ちゃんと父ちゃん達のことがあってから、絶対近づかないって決めてたのに。
わかってる、馬鹿でもわかる、ただ俺が逃げるのを楽しんでたって。
最初から捕まえたかったら動くなって言えば良いだけだった。それでも怖くて怖くて助かりたくて逃げずにはいられなかった。
あの悪魔が生きていたなんて今だって信じたくない。




