そして招かれる。
「頭の良い妹さんなのですねぇ。私は娘がいるのですが、今度もう一人産まれるのですよ。娘は弟でも妹でも良いから早く会いたいと毎日のように言っております」
「妹は良いですよ。もちろん弟も良いですけれど……うち、ッ自分の、傍にも弟みたいな存在がいて。どちらも可愛いものです」
やっぱり今から逃げようか。
話を聞く場所も、窓からの景色から城へ真っすぐ向かっているようではないけれどこのまま話が進んだら本当に逃げられなくなる。また給料をぶら下げられて、しかもこの宰相さん相手だとまたさっきみたいに頷いちまうかもしれない。
旦那様が怒る以前に、宰相から逃げて不敬罪とかで殺されたらやばいけど。俺が死んだらアムレットが苦労するしパウエルは泣く。ステイルに迷惑かけるくらいなら死ぬけどやっぱり死ねない。
目の前にいるジルベール宰相さんは、話している分はすごく良い人だ。
物腰も柔らかいし、宰相っていうのに全然怖くない。目は切れ長だけど、虫も殺せなさそうな雰囲気でにこにこ笑う。さっきから話すのもモーズリー家のこと以外はお互いの家族のことばっかだ。
俺のアムレット自慢もついつい口が滑って長くなったのにご機嫌で聞いてくれた。流石にステイルやリネットさんのことは名前を伏せても宰相には話せないけど、パウエルのことは楽しく話せた。アムレットと兄妹みたいに仲も良いんだって話したら「……なかなか複雑かつ面白い関係になっていますね」って眉を垂らして笑われたのは未だにわかんないけど。
逃げる方法と逃避で頭がぐるぐる混ざる中、そこで急激に馬車が減速した感覚にぞっと背筋に冷たいものが走った。やばい、うだうだしてる間に着いたっぽい。
ゆっくりと馬車の速度が遅くなるのをジルベール宰相さんと窓から眺めながら、今飛び出せば!今逃げれば!と頭だけで思って身体が動かない。馬車から出た途端誰かに首を飛ばされそうな気がして勝手の手のひらがべったり湿った。
不安になって濡れた手のまま自分の頬に触れて、窓に反射する顔を確認する。緊張し過ぎて顔が戻ってたらそれこそ死ぬ。ジルベール宰相さんだって奥様の前では実力って言ったけど、従者なんてこの顔を含めての実力で見られているに決まってる。
昔は、普通に使用人でも皿洗いとか掃除とか洗濯とか安給料でも働ければ良い方だった。
頼み込んでも門前払いされることの方が圧倒的に多かったし、物乞いと間違われることもあった。街の人が親切なお陰で子どもの頃は大人の手伝いとかすれば食事や金を貰えたけど、身体がでかくなればその分やっぱりアムレットの為にも世話になった人達に返す為にもちゃんとした仕事で稼ぎたかった。
稼げるなら力仕事でもなんでもしたけど、特に使用人は見習いの間は家でもやったような家事とか掃除が多いから慣れてたし普通の仕事より給料が良かった。その分、雇ってくれる先を見つけるのは苦労したけど。
でも特殊能力で見かけを弄るようにしてから、街以外でも一気に仕事もポンポン雇って貰えるし給料も込みで可愛がられるし良いこと尽くめになった。アムレットは母さん似で美人だけど、俺は父さん似だし正直この特殊能力には助けられてばかりだった。お蔭でアムレットをこの年まで育てていけたし、今も苦労なんてない。…………俺だけが。
「…………あの、申し訳ありません。やはり自分はここで失礼致します。私のような人間が宰相様や上級層の方々の元で働くなど烏滸がましいので」
「おや、少なくとも烏滸がましいかどうかを決めるのは貴方ではありませんよ。どうしてもと仰るのなら強くは止められませんが、私も馬車の中で楽しく話をさせて頂けましたし。……いかがです?せめて珈琲を一杯ご馳走してはいただけませんかね。先ほどは生憎一口しか味わえなかったもので。そうすれば、私もモーズリー家に言い訳が立つのですが」
それくらいなら。と、思ったより穏便な言葉にほっと胸を撫でおろしながら了承した。
この人は話すのも上手いし、珈琲一杯で穏便に旦那様達にも角を立てず収めてくれるかもしれない。モーズリー家には顔向けできなくなっても、これ以上は宰相にも城の関係者にも関わらないで済む。正直、そんな宰相なんかにまでご馳走するほどの腕じゃないけど。
それは良かった!そう少し大げさにも聞こえる抑揚で笑うジルベール宰相さんにそっと背に触れられ、促されるまま俺は馬車を降りる。
城の中じゃないよな?と一度ぐるりと見回せば、立派な門と兵や庭園が目に入って一瞬心臓がひっくり返った。でも、よく見ると遠目に城が景色の中に見えてここはやっぱり内側じゃないと安心する。
思いっきり背後を振り返ったら、ジルベール宰相さんに「こちらの方ですよ?」と馬車の前方を手で示された。
綺麗な屋敷だった。今まで働いてきた屋敷とは比べ物にならない。毎日磨いているのかと言いたいほど白く陽の光に反射する壁にやっぱり城じゃないのかと錯覚する。扉の脇には衛兵がいるし、やっぱり下級貴族とは金や人の使い方が違う。
あまりにも自分とは別世界にうっかり喉が鳴った。こんなところでもし働けたらどんだけ良い暮らしだろう。
「おかえりなさいませ、旦那様」って侍女が挨拶と一緒に門とは別の、今度は屋敷自体の扉が開かれる。
開けばまた別の使用人の侍女が深々とジルべール宰相さんを迎え、明らかに従者服を着ている俺にも頭を下げる。
使用人は見慣れていても、頭を下げられる側は慣れていない所為でうっかり頭を何度も下げ返してはまた頬に触れた。
大丈夫、うっかり解けたことなんかないし今も絶対解けないと言い聞かせてもやっぱり手のひらも顔全体も湿ってる。
「このまま客間に案内しようと思ったのですが、珈琲のみというお約束ですし早速淹れて頂きましょうか。侍女が案内しますので、私は先に待たせて頂きます」
楽しみにしてますよと笑まれて、もう何しに来たのかもわからないまま頭だけ勢い良すぎるくらい下げた。
侍女の人が給仕室に俺だけを案内して連れて行ってくれて、ジルベール宰相さんと離れればそれはそれで安心と一緒に不安になる。
こんな広い屋敷じゃ他の屋敷みたいに勝手もわからない。侍女の人も俺がいきなり珈琲だけ淹れに来たことに疑問に思わないのかなと思ったけど、使用人がそんな主人の用事や客全部を気にするわけもないかと考え直す。以前働いた屋敷は使用人同士の私語すら禁止されていた。
そういえばここの侍女の人はあんまり俺の顔にも反応しない。結構従者としてでも注目浴びること多かったけど、ここじゃ余計に今が元の顔か従者用かもわからない。もしかしたらもう一つの熟年者顔の方になっているかもしれないとまで考える。
やっぱり主人のジルベール宰相さんがあんな美形だから見慣れてるのかな。ジルベール宰相さんも絶対モーズリーの奥様が好きな顔だ。……………………あれ、まさか紹介された時点で俺よりジルベール宰相さんの方に奥様見惚れてたんじゃ。
屋敷に招待とか話してたけど、単にジルベール宰相さんに見惚れて俺を手放したと言われても納得できる。
やっぱ天然物には勝てないか。アムレットも俺のこの顔はまだしもパウエルの顔にも見慣れてるだろうし、変に面食いにならなければ良いなぁ。
「こちらでお願いします。一式揃っておりますが、もし慣れている者と異なり扱いが分からなければなんなりとお申し付け下さい」
…………やば。また頭が逃避してた。
ぴしりとした動作で俺を給仕室まで案内してくれた侍女さんの言葉に我に返った俺は慌てて感謝を返す。
モーズリー家も珈琲器機はわりと高級なものを使っていた筈だけど、こっちのは明らかに煌めきからして違う。装飾までなんでか凝ってるし、使い方はわかるけど器具として本当にモーズリー家と同じものなのか疑いたくなる。少なくとも絶対値段は違う。
こんな高いもん、傷を付けたら弁償代いくらになるんだろうと考えるとうっかり触れた指が震えた。まさかわざと割らせて弁償するまで馬車馬みたいに働けとか言わねぇよな??
そう考えると気付けば手に持ったばかりの器材を置いて、何度も手を握っては開くを繰り返しちまう。
どうせここで雇われる気はないんだし、試験でもないんだから緊張することはないと十回自分に言い聞かせて深呼吸を十一回繰り返してから今度こそ取り掛かった。
豆を挽き、抽出して珈琲を淹れるまでの間、壁際で控えていた侍女さんが「お上手ですね」と褒めてくれた。…………嬉しいけど、すごく嬉しいけど絶対この人の方が上手いんだろうなぁ。なにせ宰相付きの侍女だし、絶対厳しい審査とかあっての採用された猛者だ。ここで働けるならどこの屋敷でも引く手あまただろう。それに綺麗だ。
珈琲自体はわりと覚悟したよりも普通に淹れられた。
カップに注いだところでトレイに置いたら侍女さんが運ぶと言ってくれたけどここは俺がやる。客といっても使用人候補だし、侍女さんに任されたのは俺の案内だけだ。ここで変にサボるほうが怖い。
トレイを三本指で持ち、侍女さんの案内通りにジルベール宰相さんの待つ客間へ向かう。
屋敷は見た目通り広く、一人じゃ簡単に迷いそうだった。客間の前には屋敷の扉を開けてくれた時の侍女が控えていて、そういえば男は衛兵以外まだ見ない。
奥様と娘さんは外出中でそこに誰かしら付いてるんだろうけど、まさかモーズリー家と同じような理由で女性しか雇わないとかじゃないよな…⁈いやでも馬車で奥さん自慢を聞く限りかなりの愛妻家に聞こえたし。
嫌な予感が拭いきれず、導かれた部屋の扉前で侍女さんに思い切ってここに使用人は何人いるのか聞いてみる。
こんな広い屋敷だし人数もモーズリー家の数倍……の筈なのに、実際は料理人を入れても有り得ないほどの極小人数だった。むしろ今まで雇われた屋敷のどこより少ない。
そんな数で屋敷を回していることも信じられないけど、……宰相がそんな数しか必要としないのも驚いた。たったそんな人数じゃ、日常の雑務全部を任せきれるわけもない。まだ小さい娘さんもいて、子どもが産まれる前の奥様もいて、それを小人数でこんなでかい屋敷を回せるもんなのか。まさか宰相やその奥様が家事育児をするわけもない。
俺が考えたことがわかったのか、それだけ顔の間が抜けていたのか、クスリと微笑む侍女さんは「どうぞ、冷めない内に」と手で扉を示した。
慌てて扉をノックし、返事を待つ。許可の声が扉越しに聞こえ、なるべく音を立てないようにして扉を開けた。あまりに広いお屋敷に反して国の宰相とは思えない使用人環境が衝撃過ぎてノックに返してくれたジルベール宰相さん
─の声が、違うことに気付かなかった。
「久しぶり」
静かなその声に、息が止まった。
朝日の光を窓から浴びた黒髪の男が、ソファーにも掛けずたった一人で佇んでいた。ジルベール宰相さんの姿は影も形もない。
でもあの人がいないことよりも、目の前の男に覚えがあり過ぎてどうでも良くなった。毛先まで整えられた髪と、同色の漆黒色の瞳。
そして〝あの頃〟には掛けていなかった黒縁眼鏡を掛けた男を、……俺はよく知っている。




