そして知った。
「えっと……不快にさせてしまったなら謝ります。けど、別にノーマンさんだけじゃなく他の騎士にも」
「他の後輩騎士や新兵にもアーサー副隊長が同様に接されていることは存じております。ですが僕が入隊時には他の新兵や後輩と同様にそのような言葉遣いではおられませんでしたよね?」
なのにあの日を境に急に言葉も態度も改められた。
翌朝には「おはようございます」「今日から宜しくお願いします」と頭を下げられた時の違和感は忘れられない。最初は何かの冗談かと思った。
僕の言葉にぎくりと肩を揺らし唇を結んだまま喉を反らすアーサー副隊長は、また泳がすかのように目を左右に動かしまた僕に合わせた。今もこうして副隊長にも関わらず僕なんか相手に追い詰められている姿も胃を沸かす。
八番隊でも、ハリソン隊長であれば無視してその場を去るし、他の隊員でも去るか言い返すか何らかの反応を返してくるのにこの人だけは逃げ腰だ。新兵の頃は気付けなかったが、この人は僕が思っていた十倍以上腰が低すぎる。
アーサー副隊長がどういう基準で言葉遣いを選んでいるのか、あれから毎日のように考えたけれど未だに全くわからない。
言葉遣いを砕いている相手がアーサー副隊長の同期以外は全く共通点のない者ばかりだ。あの日話したことをきっかけに僕へそういった態度を取ることにしたというのならば。
『尊敬します』
「まさかとは思いますが、自分への嫌味か何かでしょうか。もしそうだとすれば心から軽蔑します」
あの日の言葉は単なる見下しだったのか。
「ちがっ……‼︎」と直後に目の色を変え表情筋を伸ばしたアーサー副隊長を真正面から睨む。
尊敬と言いながら、その裏の意味は馬鹿にしていたのか。
あの日はただでさえ僕は口を滑らせた。何を話したが自分でも全部は思い出せないが、父と祖父が志半ばで殉職したことも、サラブレッドのことも、もしかしたら村出身ということも話してしまったかもしれない。そのどれかで見下されて、敢えてそういう態度を取られているのであれば他の新兵や騎士も、そしてこの僕も全員アーサー副隊長に馬鹿にされているということになる。
こうして腰を低くみせているアーサー副隊長への印象が真逆に変わる。
唐突に詰められた距離を直後に突き放された理由。考えればもう、それしか思い浮かばなかった。
「違います‼︎嫌味とかそんなっ!!自分はただっ、…………っ」
ただなんですか。そうまた遮ってしまいそうな喉を意識的に止め、眉の間を狭める。
気付けば前のめりに首を伸ばし踵を浮かしかけていた僕に、アーサー副隊長は喉だけでなく背中ごと反らした。首を摩り、深呼吸でもするように大きく息を整えたアーサー副隊長は一度顔を顰めてからゆっくりと口を開く。
いっそこんなことになるのであれば、アーサー副隊長が昇進する前に問い詰めるんだったと心の隅で思う。だけどこんな早く昇進するなど予想もしなかったし、……まさか副隊長にもなって未だ僕に同じ態度を取ってくるとは思わなかった。ここまで来るとアーサー副隊長が言葉を整えない相手の方が騎士団では貴重だ。……僕も昔はその一人だった筈なのに。
あの日間違いなく言葉も心も砕いて語り掛けてくれたことが僕は嬉しかったのだと、まるで傷口に沁みるかのような感覚で思い知らされた。
「自分は」と一度口を開いてまた閉じたアーサー副隊長の続く声は夜の闇に飲まれそうな声だった。
「……その、自分は昔。騎士の修練とか稽古とか全然やってなかった時期が……すげぇ、本当にすげぇ長くて。しかも一年とか二年とかじゃなくて、やっと騎士の稽古を始めるようになったのも十三の頃からなんです」
やっぱり嫌味か。良くて自慢だ。
アーサー副隊長が入団したのは、最年少つまりは十四歳。短くても二年以上の空白を置いて、たった一年程度の稽古と鍛錬で入団できたなんてと驚くと同時に自分が惨めになる。
僕が一日一日必死に十年以上努力し続けてきたのに、この人はそれをたった一年の再開で叶えてしまった。
アーサー副隊長や騎士団長がサラブレッドやエリートとは聞いたことがないが、改めて自分と目の前の天才との格の差を痛感させられる。
首の後ろを摩った手のまま、活舌も悪く一音一音言いにくそうにするアーサー副隊長は僕から視線がまた地面に落ちた。話し方は柔らかく、むしろもたついているようにも聞こえる声は決して自慢しているようには聞こえない。むしろまるで自分の恥を語るように苦い色が顔から滲んで見えた。
たった一年で新兵になれたなど、誰が聞いても騎士の武勇にしか聞こえない。
そう平行して思考を巡らしながら僕はアーサー副隊長の話に傾聴する。きっと無意識に顔からも軽蔑の色が出ていただろうと思う。
「だから、尊敬しています」
またその言葉だ。
思わず今度は僕から顎を引く。顔の筋肉が硬直し、あの日の記憶が心臓を大きく鳴らした。
一瞬思考し過ぎてアーサー副隊長の言葉を聞き逃したと思った。嫌味でなければ一体今の話からどうして尊敬に繋がるかもわからない。心臓の音が連続して自分の中だけで聞こえてきたと自覚した時に、この人は別に僕を尊敬しているとは言っていないと思い直した。
一度言葉を切ったアーサー副隊長に続きを言われる前に鼓動を落ち着けようとした僕は、無意味に眼鏡の位置を直し押さえつけ
「ノーマンさんみてぇに。ガキの頃からずっと騎士を目指してそれを貫いてきた人を、自分は心から尊敬します」
…………息が、止まった。本当に。
眉間に入っていた力も抜けて、間の抜けた顔になっていたと思う。鼓動の音が必死に起きろと内側から僕を呼んでいた。
年齢でもましてや新兵や本隊、入団入隊経歴すらも関係ない。この人が自分よりも後に入団した新兵にも敬語を使っていた理由はあまりにも単純で、純粋だった。こんな真っすぐな人がいるのかと疑いたくなるくらいに。
この人が敬っているのは、騎士としての歴史が長い相手だけではなかった。
信じられないと頭を左右に振りたくても首も身体も自由が利かない。この人が言っていることが嘘でも誤魔化しでも裏返しでもないと今ならわかる。
僕に向け、苦そうに笑んでそう言ったアーサー副隊長はそこで肩を揺らして笑った。「あの日、聞いちまったンで」と言われ、それが何かはすぐに思い出せた。
その日、僕がこの人に語ったのは出生だけじゃない。あの時この人が僕を「尊敬します」と言ってくれた理由は家系でも血筋でも出身でもなんでもなかった。ただ
『物心ついた時から騎士を目指すと決めてこの努めを怠った覚えはありません』
「それを知ったらもう、……できません。騎士になりてぇって思ってそれを貫き続けることが生半可なことじゃねぇことを知ってますから。そんな人相手に偉そうになんて、とても」
俺は逃げちまったンで。
そう弱弱しい声で最後確かにそう言った。肩を竦め、枯れた笑いが短くだけ漏れた。
アーサー副隊長にとっても、恥らいたい歴史があったこと自体想像もできなかった自分が恥ずかしい。目の奥が突かれているかのように痛むし、うっかりですら言葉が出ない。
そしてこの人が〝騎士の経歴〟以上のものを見ていてくれたことに胸が炙られるように熱くなった。
新兵期間を含めた騎士の経歴で相手を見る人もいる。だけど、まさか騎士を〝目指し続けた経歴〟を見る人なんて聞いたこともなければ僕自身考えたこともない。
騎士であれば、幼少から騎士を目指して鍛錬を続けてきた人が当然だと思っていたのに。騎士に〝なれず目指すしかなかった期間〟を誇ることなんて想像もしなかった。
急激に熱くなる胸を押さえたくなって堪え拳を握る。
「以前ノーマンさんは俺のことすげぇって言ってくれましたけれど、絶対ノーマンさん達の方がすげぇです」
血も、経歴も功績も関係ない。
いつの間にかほどけていた指の感覚がなかった。それほど強く手を結んでいたからか、それとも頭に回り過ぎて血が巡っていないのか。
照れたように笑いながら、前に垂れた銀髪を背中側へ払う。気を取り直すような動作で「俺なんかよりずっと」と淀みのない声で僕に言う。
「自分が入団するまで、騎士への志を持ち続けていられたのは前後合わせても十年満たないです。騎士になる前からそれより長く、そして欠けず志と努力を貫き続けてきた騎士を自分は尊敬しますし憧れます。…………格好良すぎます」
くしゃりと子どものような笑みで最後に笑った。
あの時ともまた違う、本当に子どもが騎士を見上げるような顔を僕より高い位置にいる人に向けられた。仄かに紅潮した頬が嘘じゃないと示している。
僕にとっては、…………いやどの騎士にとっても短いことが誇らしい筈の経歴が、この人には二度と手に入らない経歴なのだと思い知る。唇を閉じたのに、喉が干からびるような感覚に口の中を強く噛んだ。
手足の感覚がわからなくなったと思えばまるで浮き上がるような感覚で、胸を中心に自分まで全身に熱い血が廻り出していた。
「なるべく入団が自分より後の人には先輩らしく振舞いたいと思っているんですけれど」と頭を短く掻いて恥ずかしそうに笑うアーサー副隊長に、飲み会の日が鮮やかに蘇った。
やっぱりあの時僕に話しかけてくれたのは、八番隊の後輩として気にかけてくれていたのだとわかれば全身が薄く痺れるような感覚が襲った。身震いといって良いのかわからないほど薄く柔らかく、……泣きたくなった。
「…………でもやっぱ、これだけは変えられなくて。ノーマンさんがどうしても嫌っつーなら直します。!でもその、誓って嫌味とかそういうンじゃないことだけ信じて欲しくて!本当に自分は、ノーマンさん達のことを尊敬しているだけで‼︎ッいや他にも俺が知らねぇだけで入団は後でもすげぇ努力してきた騎士の人もいるとわかってるンですけど!せめてそれが知れた人にはやっぱ!!!」
「もうわかりました」
途中から熱の入った口調で必死に過剰な言い訳めいた口調になるアーサー副隊長に、そこでやっと僕も力が抜けた。
眼鏡の丸渕を中指で押さえ、息を大きく吐いて整える。溜息に似た感覚に勝手に眉が寄れば、アーサー副隊長が緊張するように顔を強張らせ僕を見た。「すみません」とまた短く不毛な謝罪を告げてから。
在らぬ疑いで腹を立ててしまったことも、アーサー副隊長にこんな話をさせてしまったことも申し訳なく恥を覚える僕が必死に表情だけでも取り繕い平静に見せる中、アーサー副隊長は焦燥を露わにするばかりだった。
折角僕が落ち着いて見せているのに、この上なく居心地悪そうに頬に汗を伝わせ両拳を握るアーサー副隊長へ向き直り、頭を下げる。
「大変失礼致しました。立場も忘れ図々しい言動を犯したことを謝罪します。アーサー副隊長がまさか僕のような騎士にも敬意を表して下さるとは考えもしませんでした。全面的に僕の誤解でした。お時間まで割かせてしまい申し訳ありませんでした」
「!い、いえ‼︎わかって下さったなら良かったです‼︎こっちこそ誤解されるような態度を取って申し訳ありませんでした!」
深々と頭を下げる僕の前で、ブンブンと首を振っているのであろう音が頭上から聞こえた。
「顔を上げて下さい!」と言われるのを合図に頭を上げる。その途端、目を皿のように開いていたアーサー副隊長が「熱でもあります?」と肩に触れてきた。
熱は熱でも理由なんか言えるわけもなく「己への羞恥心です」と半分事実を言って誤魔化した。頭を下げて靴を睨んでいたのは時間で言えばほんの数秒。その間、ただただ僕は─
「自分のことなんかよりもアーサー副隊長、自分や他の騎士に言葉を整えて下さる理由はわかりました。ですがそれでもその態度はどうかと思います。今やもうアーサー副隊長は隊長格の一端なのですからもっと毅然とした態度で僕らに接するべきなのは変わりません。僕に今謝罪に謝罪で返して下さったこともそこはただ受け取ることに徹するべきかと思います。……自分で言って烏滸がましいですが。アーサー副隊長は僕ら騎士や後輩に対してまで腰が低すぎます。確かに八番隊に所属する騎士はその殆どがアーサー副隊長よりも入団が先の騎士と存じておりますが」
こんな格好良い騎士がいるのかと。信じられないほど無数の感情が込み上げた。
実力も圧倒的で、功績も歴史に残るような新記録を次々と打ち立てた若き騎士。
僕とたった一つしか違わないアーサー副隊長は、まるで語り継がれるだけの物語にでもいそうな人だった。
父を亡くしてからただ想像だけを膨らませ、記録や書物と噂を追うだけだった僕にとってここまで実力に比例せず驕らず騎士全てを尊ぶアーサー副隊長は理想そのものになった。亡き父よりも、英雄と名高い聖騎士達よりも、現王国騎士団で騎士の理想そのものだと名高い騎士団長よりも、僕にはずっと。
記録を上塗るほどの実力と強さを持ち、器も大きく、人格者で、誰一人見下さず、己を特別視せず、驕ることなく、敗北からも死からも遥か遠い眩しい場所に一人立ちながら僕らを見下ろすことなく膝を付いて見上げてくれる。
こんな絵に描いたような騎士に自分もなれればと、そんな夢まで頭に浮かんだ。
八番隊に所属して、……この人が副隊長になってくれて良かったと心から思った。
今日から何の憂いも迷いもなく僕がこの人の背中を追っていけるのだとわかった瞬間、嬉しくて感情が高ぶった。頭を下げている間に目が回ってしまったほどに。
よりにもよって八番隊でそんな騎士に出会えるとは思いもしなかった。この人ならいつか本当に書物の中でしかあり得なかった伝説だって打ち立ててしまうんじゃないかと本気で思えた。
生まれて初めてこの人に付いていきたいと、まるで騎士伝説の一節にでもありそうな言葉が自然と胸に浮かんだ。
すみませんすみませんと、今も僕の発言に一声で押さえつけることもせず腰を低くするこの人を前に。…………恥じない騎士になろうと、強く思った。
Ⅱ42
Ⅰ31
Ⅱ479-2




