Ⅱ474.騎士子息は満喫し、
「うーわー…………」
ぽかりと大口を開けたまま、ブラッドは思わずそれ以上進むのを躊躇った。
アーサーが珈琲を飲む間に寝衣から着替えたまでは良かったが、扉の向こうへ出る時は少なからず緊張した。兄と一緒に出た時は馬で、行先も学校だったから良い。しかし今回は人通りの多い市場で、馬の上からでもない十四歳の目線からだ。
見知った村でもないそこで何が待っているかはわからない。急かす心臓と勢いに任せて出てきてしまったが、実際に大勢の人波を見ればそれだけで気圧された。村を出たことがない彼にとって、祭りでもないのにこんなに人が行き交うこと事体が壮観だった。
城下は人の数が比べ物にならないと、兄からも聞いていれば宿の窓からも想像できた。しかし聞くと自分の目で見るとででは全く違う。
「取り合えず腹は減ってませんか。昼飯は食いました?」
アーサーが選んだのは、ブラッドの滞在する宿から一番近い市場だ。
郊外にも近いが、それでも城下の中級層に値する市場はそれなりに品数も潤っていた。果物や野菜、パン屋、川魚や吊るし肉に花と様々な物が売られては今日の夕食を買い付けに女性も多く出歩いている。
城下や王都を歩き慣れているアーサーにとっては品数も食材中心で少ない方だがブラッドには広すぎる。しかも肩を狭め身体を縮めても気を抜けば人にぶつかりそうなほどに店と店の中央路は狭く、人が多い。
向かいから道の真ん中を悠々と歩いてくる体格の良い男に気付き、ぶつかる前に端に寄ろうとすれば一瞬で壁ができた。見上げれば、さっきまで自分の背後に立っていたアーサーが男と自分の間に入って肩を支えてくれている。
自分より遥かに高身長のアーサーは、体格の良い男よりもさらに高かった。しかも騎士の団服を身に纏う彼を前に、それだけで体格の良い男も周囲の民も自然と道を開けて歩いていく。民にとって憧れの存在である騎士に振り返り、目を丸くする者もいる。
「まだです」とアーサーからの問いに空っぽの口から返事をした。しかし頭ではベッドの上で全く動かず減ることもなかった腹よりも、目の前の人が本当に〝アーサー隊長〟なんだなという事実でいっぱいになる。
「何か好きなもんとかあります?気になる店とかあれば行きますよ」
「……。じゃあアーサーさんの好きなものが食べたいです」
俺の⁇と予想しなかった言葉にアーサーは周囲を見回す視線をブラッドへと落とす。
遠慮しているのかと思ったが、自分を見上げる笑顔は全く影もない。むしろきらきらと水色の瞳奥が光っているようにも見えれば、現地のおすすめ料理を聞きたいということなのかなと考える。しかし自分は普段この辺では買い物をしない。行きつけの店はどれもここからだとそれなりに歩く距離だ。
頭を捻るアーサーに、そこでブラッドは「なんか美味しそうだなって食べ物選んで欲しいです」と付け足した。取り敢えず今は自分の好物よりもアーサーの好きなものを食べてみたい欲が強かった。兄にも良い話題になる。
ブラッドの言葉に、アーサーは高身の目線からぐるりと店を見回し直す。郊外近い市場では殆どが出店にあるのは食べ歩きよりも食材関連が多い。いっそどこか酒場や料理屋にでも入ろうかと考えれば、一つの店に目が留まった。ブラッドに一言確認を取り、彼を護衛しながら共に方向を決めた。
一度店の中に入り、狙いの商品を剥き出しのまま片手に持って二人は店を出る。
「なんか意外です。不死鳥さんってパンが好きだったんですね」
「いや、……ちょっと似た形のあるなって思って。ブラッドこそ俺と同じので本当に良かったんすか」
はい、と。パン屋を出てすぐに大口でかぶりつくアーサーにブラッドも倣いながら笑う。
てっきり聖騎士なんて最強の称号みたいな騎士なら好物も肉関連だと思っていたが、これはこれで美味しいと思う。普段口にする形と違い、半分に切ったオレンジのようにまん丸の形をしたパンはちょうど焼き立てで店頭に置かれたばかりだった。
家でパンを焼くこともあったブラッドだが、やっぱりプロの焼きたてパンはずっと美味しいと口いっぱいの麦の甘味に思う。「うまいっすね」とアーサーに言われれば、口元に食べ零しをつけたまま同意を返した。
歩きながら食べていた二人だが、途中で立ち止まったアーサーが水売りから二人分の水を買い取った。一つはブラッドに手渡せば、「まだ入ります?」と尋ねてみる。
既にパンと水分だけで腹の空き容量は満足はしたブラッドだが、ここで外出を終わらせたくもない。右手にパン、左手に水を持ちながら視線をぐるりと見回せば今度は吊るし肉屋が目に入った。パンを持つ手でそのまま店を示せば、早足になる。
やっぱり男だし肉が食いたかったのか、と若干配慮が足りなかったと反省しながら背中に続くアーサーだが一人首を傾けた。視線の先には確かに肉があるが、どれもこの場で食べるには難しい骨付きの塊肉が殆どだった。
食材中心の郊外では、食べ歩けるような大きさの肉はあまり並べられない。これが食べたいのなら、やはり台所がある実家へ行かないと難しいなと考える。
「なんか食いたい肉ありました?」
「いいえー、でもこういう大きな塊って村ではゆっくり見れなかったんで」
見るだけでわくわくしてしまう。村でも山で獲れる肉は皆で分け合ったが、解体されるまでゆっくり眺めることができなかった。解体が終わることにちょろっと家を出て、一塊の分け前を貰うくらいだ。
城下で生まれ育ったアーサーと違い、鳥が丸丸一匹吊るされているだけでも猟師の知り合いもいないブラッドには貴重な光景だった。
最初から自分でも食べきれるとは思っていないブラッドは、そのまま店の全体図を呑気に眺める。眼前で肉屋本人が冷やかしに最前列を取られていることを睨むが、その背後に騎士がいれば安易に追い払えない。
ギロリと鋭い眼差しが視界に入るブラッドだが、目を晒すどころかにこりと笑って返した。買う気がないなら失せろと言いたい店主に、アーサーの方が冷や汗をかいて「すみません」と謝ってしまう。むしろ何故ブラッドはこんなに平然としていられるのだと言いたい。
彼の笑顔には黒い影も嫌味も繕いもない、本当にただ愛想の良い笑顔だったから余計に焦る。理由はどうあれ、折角楽しんでいるブラッドをこの場から引きはがすのも躊躇った。
「………………すみません、そこの肉一つ下さい」
「?あれ、アーサーさんそんな大きいの食べきれます??」
仕方なく、冷やかしにならないように買うことにする。
出費自体は気にしないが、今持っていても邪魔になるだけの塊にこっそりアーサーは肩を落とす。両手を開けるべく、ばくりばくりと大口でパンを食べきり水も飲みきるアーサーにブラッドの方が意外そうに声を掛けた。
「食いませんけど……」と溢すアーサーに、もしかして自分がねだっていると思われたのかなとだけ考える。店主の視線の意味はわかっていたブラッドだが、村でも白い目や厄介者として見られていたことに慣れた彼には店主に受けた視線も日常だった。
「……ノーマンさんに土産で良いですかね。今日明日にでも二人で食ってください」
「ああ~兄ちゃん細いし小さいですもんね」
「ッそういう意味じゃねぇですけど!!!!」
容赦ない弟の言葉に、思わずアーサーも声を荒げる。
単にあそこまで気を遣わせてしまった詫びにでもなればと思った提案なのに、まるで自分がノーマンに「これでも食ってでかくなれ」と喧嘩を売ったようだと思う。騎士団では比較低い方に入るノーマンだが、選ばれた実力ある本隊騎士には変わらない。
あまりに心外な代弁に目が零れ落ちそうなほど大きく開けば、それを見てブラッドはけたけたと腹を抱えて笑った。冗談半分だったが、そんなに焦られるとは思わなかった。兄からの話通りの人だなと思う度に楽しい。
肉を受け取るアーサーへすみません冗談ですと言いながら、また笑いかける。
「兄ちゃんならお土産に食べ物より生活用品の方が喜びますよ。今ならちょうど何にもないから洗濯板とか掃除道具とかランプとか工具とか」
「良いっすね。ンじゃあちょうど良いんでこの辺だけでも回ってみます?」
良さそうのあったら教えて下さい、と。大ぶりの肉を片手に今度は生活雑貨のある方角を指すアーサーに思わずブラッドは「えっ」と声が出た。
冗談のつもりで言ったのに本当に買ってくれるのかなと思う。昨日の兄の無駄遣いを思えば幸運だが、アーサーにそんなものを買わせたら兄がまた帰ってきて頭を抱えそうだと思う。……が、そんな兄を見るのも面白そうだなと敢えてそのまま飲み込んだ。
食べかけのパンを片手に明るい返事をしたブラッドの笑顔に、少しだけ含みに気付いたが悪戯に近いそれにアーサーも深くは気にしなかった。
行きましょうかと、水だけでも持とうと彼へ手を差し出した。




