Ⅱ471.宰相と義弟は受け取る。
「……まさか、ステイル様から私に頼み事とは驚きました」
そう言いながらもジルベールは優雅に笑んでから書類をまた一束積み上げた。
動作からも表情からも全く驚いている気配もない。ただ静かにステイルの話を聞いていた彼は、王配であるアルバートへの提出書類を纏めている最中だった。
プライドと共に騎士団演習場から戻って来たステイルはその足で最初に向かったのが叔父であるヴェストではなくジルベールの元だった。
二人きりでの会話を狙った為、宰相の執務室にいなければまた機会を改めるつもりだったが幸いにも丁度彼が宰相室で腰を下ろしたところだった。ノックの音直後にステイルから呼びかけられれば、ジルベールも当然のように入室を受け入れた。
彼一人がヴェストの用事もなしに自分の元へ訪れることは珍しいと思いながらもテーブルへ迎えれば、要件はジルベールにとっても意外なものだった。
「相談がある」と苦々しそうに口を動かしながら、自分に頼ること自体が遺憾だと言わんばかりに眉間に皺を寄せて語る彼の話を聞く間はジルベールも書類を纏める手を止めた。
にこやかに笑むジルベールに、話し終えたステイルもフンと鼻を鳴らす。相談をすること自体はもう決めていた分余裕があったが、話し終えればあとは返事を待つだけだ。
ジルベールが頷こうとも断ろうともそれ自体は受け入れる気があるが、返事待ちに弄ばれる時間は腹立たしい。
腕を組み、胸を反らせて背凭れに身体を預けたステイルは、漆黒の眼光をジルベールへと向けた。
「断るなら遠慮はいらない。どちらにせよヴェスト叔父様にも相談するつもりだ。お前の協力が得られずとも方法自体はいくらでもある」
「いえいえ勿論ご協力させて頂きますとも。他ならぬステイル様からの頼みを断る理由を探す方が私には困難ですから」
低めた声であくまで淡々と言ってみせるステイルに、ジルベールも両手の平を振ってなだらかに返した。
ステイルの提案に聊か思い切ったものだとは思ったが、相変わらずの策謀が織り込まれているところは流石だと感心もした。
今までの彼のことを考えれば、決して思いついても実行どころか口にも出さない策をここまで切り詰めたとなればどんな心境の変化かとも思う。学校視察でなんらかのきっかけを得たか、それともプライドかアーサーかもしくは……と。様々な憶測を思考の中で上げながら言葉だけは余裕のある口調で続けて笑む。
「二、三日お時間を頂ければ十分かと。ヴェスト摂政にもご相談なさるのならば、こちらとしても最小限の手間で済ませられますから」
必要ならばヴェストとも自分が話を通しても良いと思ったが、ステイル本人が自ら動くというのならば余計な手を回す必要もない。
今彼に聞いただけでも充分に構築されている言い分であれば、ヴェストに対しても充分立ち会えるだろうと考える。むしろ一番の難題はそれを〝ステイルがヴェストへ〟言うことだが、それもステイル自身わかっての行動だ。
最終的には王配にも女王にも遅かれ早かれ知られることでもあるが、ヴェストさえ説得できればその二人も納得させられる。
ステイルの表情から見ても、きっと感情や責任に流されたのではなく彼なりに考え抜いた結果なのだろうと理解することもできた。そしてだからこそ、思う。
「ただ、少しばかり意外でしたので。ステイル様がこういったことは寧ろ嫌われる御方かと」
「咎めたいならば遠慮はいらないぞジルベール。どうせお前が咎めるようなことならば、この後ヴェスト叔父様に叱咤されることは変わらない」
「いいえ私から異議は何も。…………因みに、プライド様はこのことをご存じで?」
「当然だ、ティアラもアーサーも知っている。それがどうした?」
彼はどうしてそれに思い立ったのかと。
プライドにも話した、と躊躇いない宣言にジルベールは「ほう」と短く呟いた。
最近の彼は特に水面下での動き方を知った故か、嬉々としてその腕を振るっていた節があることはジルベールも把握している。
ファーナム兄弟へ家庭教師の件や部屋貸出の時にもなるべくプライド本人に責任がないようにと動いていた。彼女の意思と望みを叶える形で、あくまで自分の判断もしくは責任になるように彼女自身もそう納得できるように動き続けていた彼が、ここにきてプライドへ事前に相談した。
ついこの前の彼ならば、自分とヴェストの許可を取り付けてからの報告に済ませていただろうにと思う。
今、アーサーやティアラはまだしもプライドに話したのならば、それは間違いなく彼女がステイルに〝許可を降ろした〟と同義なのだから。
そしてプライドにも当然話したと語るステイルが、その懸念を失念しているとは思えない。つまりはそれだけの覚悟も、持ち合わせたということになる。
プライドと〝共に〟責任を被るという覚悟が。
ステイルの性質を考えれば、自分一人が責任を被るよりも遥かに難しい覚悟だっただろうとジルベールは考える。
少なくとも摂政としては必要な覚悟だ。単なる補佐であれば、プライドの〝代わり〟に罪や責任を負う覚悟で充分だが彼が補佐するのは国一つの命運を握る次期女王なのだから。自分が背負い消耗されたかといって、間違いを犯した主が変わらなければ意味がない。
昔から〝代わり〟にといった部分はジルベールの目にも垣間見えたが、奪還戦以降は特にその色が強かった。
当時の彼の地獄のような日々と苦悩を思い起こせば無理もない反動だとは思うが、まさかこのたった一か月で持ち直すとはと関心させられる。
常人であれば数年はかけて癒していく必要があるほどの傷だった。現摂政であるヴェストすら体験したことがないであろう、自分の仕える主がその立場を完全に追いやられる姿を誰よりも間近で見せつけられたのだから。プライドへ恩者として〝以上〟の感情を持ち合わせない自分ですら当時のことを思い出せばラジヤ帝国の皇太子の皮と肉を一枚一枚骨が見えるまで剝ぎたくなる。
問いで返してくるステイルに「いえ」と一言返しながら肩を竦めた。
積み上げた資料の上に手を置き、「それではお話は宜しいでしょうか」と言葉を掛ける。いつもならば何か用事があっても要件さえ伝え終えれば「以上だ」と自分から話を終わらせ去るステイルが、今は一通り落ち着いても腰を下ろしているのは珍しかった。
それだけ今回の頼みは彼にとっても自分に頼むのには重いものだったのだろうと思いながら、ジルベールは敢えてまだ積み上げ切れていない書類をトントンと机上に当てて整えだした。
自分も宰相業務があるように、ステイルにも摂政としての仕事があるのだと、頼んできた側である彼が切り上げやすいように言葉を選ぶ。
「ご依頼の件は、三日以内に整えておきます。その際は、こちらで計らう為にもステイル様のご予定をお尋ねさせて頂きますが宜しいでしょうか」
「俺が合わせる。好きにしろ。……忙しいのは知っているが、そっちも〝ついで〟に頼む」
話を切り上げる機会を投げても、やはりステイルはソファーに腰かけたままだ。
むしろさっきよりも居座る意思が強いと示すかのように今は足を組み、眼鏡の黒縁を指で押さえた。硝子の向こうから冷ややかにも見える落ち着けた視線を向ければ、ジルベールも二度瞬きを返した。
「ついで……?」とその文脈に違和感を持つ。一瞬、宰相業務のついでに頼むという意味にも聞こえたが、話の流れからしてそうとも聞こえない。異様に含めた厚みのある言葉に手を止めれば、目を合わせられたステイルはすぐに自分で逸らした。
変わらずソファーに居座ったまま、唇だけがきつく絞られた。組んだ上の膝を自身で抱え、自ら落ち着けるように深呼吸する音が微かにジルベールの耳に届いた。
意図して何も言おうとしないステイルに、ジルベールは切れ長な目で見つめ続けながら思考を回す。自分しかいない宰相の執務室を選んで訪れ、今この場でステイルがいつまでも話を切り上げず、そして今も含みのある言葉を投げて去らない理由。
何か自分に言いたいことでもあるのか、言い辛いことかまだ相談でもといくつか候補を思考で上げれば、最有力候補はすぐに上がって来た。
まさか、と口にはせず僅かに瞼を開くまでてとどめたジルベールだったが、整えた書類がまた僅かにずれた。
ジルベールから目を逸らし続けるステイルも、口の中を数度飲み込んでから今度は顔ごと逸らした。
部屋に訪れた時から、ジルベールへの頼み事を依頼する以上に心臓だけがばくばく鳴るのを自覚する。口にしてもし間違いであればと気付かれないように舌を噛む。膝を抱える手の平も湿っていた。しかし、あれからどう考えても結論は変わらなかった。むしろ〝そう〟でないと納得できないと思えば、やはりこの機会を逃せない。喉を鳴らし、肩ごとあがるほど深く息を吸い上げる。
その様子にジルベールは笑みを作って見せた。「なんでしょうか」と穏やかな声で、彼が話しやすいように投げかける。ジルベールからの促しに、今度はステイルも嫌味を返す余裕もなかった。むしろその落ち着いた笑みに、やはりこいつがと自分が何を言いあぐねているかも察しがついているのだろうと確信をもって声を低めた。
「無事受け取った。…………この上なく、お前らしかったよ」
それは何よりです。と、想定通りの要件にジルベールも静かに笑んだ。
書類を再び整え直し、また束の上に置く。さっきまで凝視続けていたステイルから離した視線を書類へと向けて今度は整えるだけでなく資料作業を進め始めた。
パラパラと紙をめくる音が断続的に耳を突く中、ステイルは大きく息を吐き出した。ジルベールの涼やかな反応にやはりかと、若干忌々しくも思いながら膝から手を離した。
組んだ足を降ろし、今度は肘置きに頬杖を突く。「ヴェスト摂政の元へは急がなくて宜しいので?」と流れるように尋ねてくるジルベールへ「既に報告済みだ」とだけ棘のある声で返された。
最初からそちらの話題で時間が掛かることも織り込み済みかとジルベールは思わず一音だけ笑い声を落とした。
「当初はもっと別の形でのお受け取り頂く予定だったのですが」
「流石のお前も姉君の予知は読めなかっただろう。……よくもここまでやってくれたものだ」
「ステイル様のお誕生日祝いですから。今年こそお喜び頂ける方法をと足りぬ頭で練りに練らせて頂きました」
苦い声で低めても、茶飲み話のような軽さで返すジルベールにステイルもそこで鼻で笑い飛ばした。
頬杖のままに傾いた顔で顎を反らし、眉を寄せながらの眼差しは口よりも妙実に「抜かせ」と吐いていた。
『なにぶん、届くのに調整がつかないものでして。御誕生日から前後してしまう可能性もありますがご了承ください』
数週間前にあったステイルの十八歳の誕生日祝い。毎年ステイルに誕生日祝いを贈っていたジルベールだったが、今年は当日から数週間経った今でもステイルの手元に品が届くことはなかった。
ステイル自身、プライドの極秘視察や予知で忙しく半ば頭から抜け落ちていた。ジルベールからの贈り物が気になっていなかったわけではないが、どうせ忘れた頃に届くだろうと思っていた。…………まさか自分の想像もしない形で用意されているとは思わずに。
「流石はプラデストの〝寮母〟を含む教職員採用を担った宰相だとでも言っておこうか」
ぐったりとどこか敗北感すら感じる重みのある声で放たれたステイルの台詞に、ジルベールはゆるやかに笑みを広げた。
フリージア王国新機関である学校プラデスト。その教職員を全員選抜しているのはジルベールだということはステイルもプライド同様知っていた。校内の教師も講師も、守衛もそして女子寮で働く母も。その全員と面接し、採用か否かを選別していた。
そして当時、ステイルが養子になった頃から王配の右腕として宰相の任に付いていたジルベールは彼の元の家族構成から母親の名前も記憶している。当然、教職員募集に訪れた彼女の書類と相対すればそれがステイルの元の母親だと気付くのは当然だった。採用し、プラデストの女子寮寮母として働かせることなど造作もない。
母親との再会にジルベールが絡んでいると気付いたのも、昨晩アーサーと語らい思考も心も全て落ち着いてベッドに入ってからだった。
「ご存じとは思いますが、違法ではありませんのでご心配なく。寮母に採用したことについても彼女自身の実力も鑑みてです。家事にも慣れており人柄も申し分なく、賢い女性でしたので」
流石はステイル様の、と。その言葉は飲み込んで書類をまた一枚捲る。
義弟の過去関係者であろうとも縁故採用でなければ規則には反しない。家族としての接触は許されないが、関係者というだけで仕事の幅が狭められることはない。元の家族が貴族であっても城との職務が可能であるように。そして〝偶然〟出会った程度は元の家族であろうとも咎められない。
元の家族として会わなければ。
プライドの予知による潜入視察。それによりステイルが生徒として潜入することになったこと自体はジルベールも想定外だったが、そうでなくとも〝第一王子〟である彼がプライドと共に学校へ視察や見学へ訪れることは予見できていた。
そしていつか、どの機会かまでは読めないが校内で働く母親に〝女子寮の案内〟として会うかもしれない。そうでなくとも学校見学中に一目姿を見ること程度はできるかもしれない。
全てが多くの可能性の内の数パーセントだったが、結局はジルベールの目論見通りステイルは母親と再会できた。
子どもも夫も居らずせめて将来を担う子ども達を支える為に尽くしたいと語った彼女は、寮母にはうってつけの人物だったと思う。実際、一か月経った今も学校からの報告書に寮での問題は何も上がっていない。
ステイルと彼女が具体的にどのような接触と再会になったかまではジルベールもわからない。そして、自分が知る必要もないと思う。あくまで自分はその場を構築しただけで、あとはステイルと母親の選択だ。もう〝二度と〟二人の繋がりを穢したくはなかった。
『いえ、私はそのような特別処置はと散々申したのですが…ああ、処置の内容は黙秘せねばなりません。これもプライド様と王配殿下の御命令でして』
当時の、自身が犯した大罪を思えば。
過去に、養子になったばかりのステイルへ特別処置を行ったプライドとアルバートの行為を敢えて悪意に変えて広めた己の行為は今でも自身が許していない。まだ幼かったプライドの評価を陥れ、何の罪もないステイルへの思いやりを穢したのは自分だ。
当時、自身がそんなことを触れ回ったなどステイルは知らないとジルベールは思う。勘付いている程度はあっただろうと彼の態度を思い起こせば考えられるが、彼が知るのはあくまでプライドへ告白したのと同じ彼女を様々な手で陥れたという決定的事実だけだ。やり口全てを細かく語るには時間も余裕もなかった。
当然本命は機会の重なったステイルへの過去を上回る最大のサプライズも兼ねた誕生日祝いだったが、少なからず当時の贖罪も入っているのだろうとジルベール自身自覚がある。
彼が知らずとも、自分の中ではまだいたいけだった少年少女の絆を利用したという罪悪感は永久に残っている。そして母親との再会を叶えさせられた今も、この程度で許されていいと思っていない。
「本当によくもやってくれたものだ。お前に二度と一歩先に行かれるものかと思ったことは数知れないが」
そういって疲れた声で言いながら眉を寄せ口だけが笑う表情は愚痴めいていた。
とんでもない。言葉を返しながらジルベールの笑みは褒められたように柔らかかった。少なくとも彼の反応を見ても、納得のできる再会になったのだろうと思う。
自分の前だからか眉に力こそ入っているが屈託のない口元が隠せていないことが何よりの証拠だ。更には緩んでしまった口元を隠すように「長年悪行を隠し続けただけある」「まさかお前が接触を図るとは」「俺へのサプライズだけの為と立証すればお前が重罰だ」と続ける嫌味にも笑顔で返した。
敢えて人聞きの悪い言葉を脅しめいた内容にしているが、それも彼の本音であり事実であることはわかっている。
王族の規則も全て把握しているジルベールが、彼女を雇うにしてもそれなりに手も打った。
講師教師と異なり、学校で雑務を望んだ彼女へ男子禁制の女子寮に配属も自身が決めた。少なからず男性であるステイルとの接触を自分も避ける努力はしつつ実力を鑑み雇いましたと言い訳が立つように、そしてか弱い女性ではあった彼女に万が一でも危険がないように。
ステイルに会わせる可能性を狙うならば男子寮でも不可能ではなかった。現在男子寮は男性二人管理人だが、男女両方とも寮母というのも案にはあった。
しかし血気盛んな男子生徒にどんな目でみられるかもわからない。年配でこそあったが、顔の整った女性だ。今や同盟諸国の令嬢王女を虜にするステイルが母親似であることが一目で理解できる程度には。
寮生としか接触のない職務であれば、ある程度は身の振り方を考える生徒のみ。学校自体、今後騎士の守衛は引かれてもそれなりに警備の敷かれた施設だ。住み込みで働くにも安全な職場だという自負もジルベールにはあった。
「気付いた時は、最後の最後にお前にしてやられたなどと考えれば実に腹立たしく…………、……本ッ当に驚いた」
愚痴めいた話し方が最後だけ砕けた。
ははっ、と笑い声まで漏れたステイルは整えられた前髪を掴むとそのまま掻きあげた。
ジルベールが視線を向ければ、まるで子どもの可愛い悪戯に気付いたような毒気のない笑みのままステイルは視線を落としていた。その眼差しがさっきまで自分に向けていたものと違い、遠い何かを眺めるように揺れていることにジルベールは気付くと微笑のみを残した。
彼が今思考の中で見ているのは執務室の床ではないのだと理解する。
光栄です。と、その言葉を春風のような柔らかさで吹きかければ、指先で眼鏡の位置を直したステイルは苦笑にも近い笑いを浮かべて顔を上げた。
悔しそうに顔を歪めながらそれでも笑っているステイルの表情に、まさか自分にもそういう表情を向けてくれるようになるとはとジルベールは頭の隅で過去と比べてしまう。
「どうだジルベール?そんなお前に依頼した俺の人選も確かだろう?」
「ええ、勿論ですとも。ステイル様のご期待にお答えするのが私の喜びでもありますから」
「今回の誕生日祝いのことを父上が知ったらどうお考えになるかは知らないがな」
はっ、と短く息を切ったステイルはそこで反動をつけてソファーからとうとう立ち上がった。
自分の為にジルベールが手を回してくれたことも、これは規則違反から免れた策謀だともわかった上でもう一度だけ言葉で爪を立てる。
ジルベールの過去の大罪を知らない自分の父親だが、ここでジルベールがそんな手を回したと知ればもともと鋭い目を更に研ぎ澄ませるだろうと容易に想像できた。
既にプライドのお陰で手紙のやり取りを許されている自分が、更にはその事実を知っているジルベールの策略で再会まで叶ったと知られればどうなるか。
その時は助けてやらないぞ、俺の所為でお前の弱みが増えたなと負けた悔しさ半分に冗談を言ってみる。父親とジルベールがどれだけの交友関係かは知らないが、少なくとも一度父親がジルベールを部屋で怒鳴りつけていたのをステイルは知っている。
立ち上がったまま服の皺を伸ばし、無言のジルベールをまだ見ない。「邪魔したな」と一言掛けて扉へと足先を向けて歩き出す。
横目でちらりと時計を見てちょうど良い時間になったと思いながら扉へと手をかけた。握ったドアノブを引く前にと、ジルベールへ最後に振り返
「ご心配なく。王配殿下も黙認されていることですから」
ジルベール、とその名を呼ぼうとした口が途中で固まった。
確認し終えた資料を一束机上で叩き整えた音が直後に無音だった部屋に響いた。
ソファーを立ち上がってから敢えてジルベールを見なかったステイルと同じく、ジルベールもまた視線すらステイルに向けない。あくまで資料整理の傍らに相槌を打つ程度の気軽さで返された言葉に、ステイルは口を引き結んだまま無表情に固まった。
さっきまでの豊か過ぎる表情の数々が嘘のように固まるステイルは、冗談じゃないかと一瞬だけ疑った。
しかし思わず黙してしまう自分へ、積み上げた資料の束を纏めて重ねるジルベールは訂正などしない。それどころか作業が一区切りついたところで、扉前に佇むステイルへゆっくりと時間をかけて座ったまま身体を捻らせ振り返った。切れ長な眼差しを淡く光らせながら、驚愕に固まる彼へ微笑みかける。
「ステイル様より遥かに前から、お気づきでした。プラデストの教職員採用リストは殿下も目を通されておりましたから」
女王陛下にまでお伝えしているかはわかりせんが。そう静かな流れで続けながら薄水色の瞳にステイルを映す。
国内の治安を司る王配が、フリージア王国独自機関である学校の教職員に目を通さないわけがないとステイルも遅れて理解に及ぶ。
そして、当時自分と母親に二週間の別れの猶予を与えてくれた父親が自分の元の名前も知らないわけがない。その上で今日までも黙し、ジルベールの考えも見通した上で寮母採用変更を命じず見逃してくれていた。
自分がプライドと共に生徒として潜り込むことが決まり、母親との接触の可能性が高まっても、尚。
唐突に突き付けられた第二の事実に声が出ないステイルを眺めながら、ジルベールはプラデスト稼働初期の頃を思い出す。
ステイルとティアラが訪れる前に、彼は敢えてそのリストが子ども達の目には留まらないようにと配慮してくれていた。
『あと二時間でステイルとティアラが来る。それまでに見られたくない書類は片付けておけ』
「…………ただ、感謝の言葉は不要だと思いますよ。殿下も敢えて〝黙認〟で止めておられました」
だからこそ敢えて自分の行動にも触れてこなかったのだろうと、ジルベールは理解する。
ステイルを自分の息子として想っている彼だからこその、親心だろうとも思う。自分にとっては我が子でも、ステイルが元の親とも手紙のやり取りをしていることも知っている。そしてその手紙すら中継間に内容確認の為目を通している一人でもある。
ステイルの母親への気持ちが変わっていないからこそ、敢えて触れることもせず黙認し続けていた。
職員リストを見れば、そこにステイルの元の母親がいることも、そしてそれに気付かず採用したジルベールではないこともアルバートはよくわかっている。
「それだけステイル様への信頼が厚いということでしょう。少なくとも今のステイル様は、元の家族に〝偶然〟会っただけで自身の役目を放棄するような御方ではないと殿下もご存じですから」
何も言わないステイルに言葉を重ねる。
もしステイルが母親に会った途端我を忘れ任務も本分も放棄し私情に振り回される人間であれば、いくら可愛くてもステイルと母親の接触は避けさせただろうとジルベールは思う。しかし、先の奪還戦や今までプライドの為に摂政業務も早くから始め、そして一時期は王配業務まで補佐兼任の勉強を始めた彼の行動こそが今回の黙認を勝ち取った。そしてそれはジルベールも同じだ。
突如突き付けられた新たな事実に、ステイルは唇を結んだまま口の中を噛んだ。
心臓が今日一番酷く動悸するのを感じながら息を止める。頬や額にまで汗が滲む感覚に扉に掛けていた手も落ち拳を震えるほど握り、ジルベールへ集中していた視線まで揺れ彷徨いだした。
咽喉が上下してもまだ事実を飲み込みきれない。何故、どうして、こんなに、そんないきなりと。自分と母親との再会だけに、プライドやジルベール以外の存在も関わり許されていたことに喉が声を発する前から枯れた。
「プライド様は、アイビー王家の歴史上でもあまりに若くして予知に目覚められた御方です。その為に義弟もそうならざるを得ませんでした。ヴェスト摂政殿のように望んで摂政となられる者が歴代摂政で多かったのも事実。ですが、……ステイル様自身がお望みになれば〝次の〟義弟の選出方法を変える道ならば不可能ではないと私は思っております」
自分へこの上ない温かな笑みを浮かべてくるジルベールに返せる言葉が見つからない。プライドに続き、自分の父親までもが二度も実の母親とのつながりを許してくれていた。
そして今自分だからこそこの先に繋げるべき未来があると知る。
信頼、とジルベールの言葉が自分でも驚くほど肩にのしかかった。どれだけ自分は狭い視野で過ごしていたのかと思い知る。
王配である父親が気付いている可能性だって少し考えればわかった筈なのに、〝気付いた上で黙っているわけがない〟と思い込んでいた。
「さぁ、ステイル様そろそろお時間でしょう。ヴェスト摂政がお待ちですよ、私もそろそろ資料を殿下にお持ちしなければ」
明るい声をわざと放ち、その場の空気を切ったジルベールはパチンと両手を叩いてみせた。
あくまで黙認、触れる必要のないことに彼が受けとめきれない気持ちもわかる。養子とはいえ、父親に前の母親に会った可能性を知られていたと知れば戸惑わない方が無理な話だ。
そんな戸惑う姿を自分にも見せてくれることは嬉しいが、今は彼の気持ちを切り替えさせることを優先する。
目を覚まさせるようなジルベールの落ちつきのある明るい声に、ステイルも肩に妙な力が入りながらも再び時計を確認した。
行かなければと、現実に心がはやりながら誘いのままに扉に手を掛けた。最後の最後まで結局ジルベールの手のひらでまた上手く扱われてしまったと思いながら扉を開けた。宰相室から摂政の執務室は遠くない。
それでは、とジルベールが仕事机の前に変わらない態勢で声をかければ、そこでステイルはぴたりと途中で動きを止めた。あとは扉を潜れば良いだけの、既に前足を出していた態勢のまま呼び止められたかのように固まる。
突然のステイルの一時停止に笑顔の表情のまま背中を見つめるジルベールは僅かに首を傾けた。また何か、と言おうかと考えたが今度はすぐにステイルから振り返らないまま「ジルベール」と呼びかけられた。
「…………………………………………………………ありがとう」
バタンっ!と。
直後には廊下へと姿を消したステイルにより勢いよく扉が閉められた。
さっきまでのどの声よりも小声だったが、静まり切った部屋ではしっかりとジルベールの耳にも届いた。
あまりにも予想をしなかった言葉に今度はジルベールが力なく口を開いたまま固まった。
今放たれた言葉が自分に対してで、聞き間違えではないと。一人残された部屋で一分以上じっくり時間をかけて受け入れていく。
まさかよりにもよってステイルに直球で感謝を言われるとは思いもしなかった。
父親に言えない分か、とも考えたがよくよく思い返せば最初に部屋を出ようとした時から彼が何か自分へ言おうと去り際に呼びかけていたことを思い出す。まさかあの時にもそれを言おうとしてくれたのかと思えば、次の瞬間には口元が耐えられず緩み笑んだ。
ふ、はははっ……と、なるべく廊下には聞こえないように声量を抑え片手で口を覆ったが背中を丸めて笑ってしまう。
顔も見せずに言い逃げしたところも実に彼らしいと思えば、たまらず破顔した。いっそ事実を確かめる為よりも、その一言を自分に言う為だけに彼はここに訪れてからずっと不機嫌に振舞っていた可能性すら理解した。
天才謀略家によるステイル十八歳への誕生日祝いは初めて、感謝の言葉で幕を下ろされた。
Ⅱ149
Ⅱ6
Ⅰ13
Ⅱ8
次の更新は9日からに致します。
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