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フリージア王国備忘録<第二部>  作者: 天壱
嘲り少女と拝辞

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幕間 老人と訪問者


「…………オーレリアさん……?」


そう、静まり切った部屋で細く呟いたのは老人の声だった。


全盛期より衰えていた目は窓から零れる月明りを特別眩しいとも思わない。

一日の大半をベッドで過ごすその女の老人は、先ほどまで閉じていた瞼を寝ぼけた頭でうっすらと開ける。耳だけはまだ遠くなく、身を起こさないままに隣に眠るもう一人の老人が零す大きな寝息だけが今は聞こえていた。

隣でぐーすか眠る老人はお世辞にも寝息が静かとは言えないが、長年連れ添い続けた彼の寝息に彼女はとっくに慣れていた。しかし、今だけは僅かに眉を寄せてしまう。


部屋でいつもは呼びかければ返事をしてくれる義理の娘から、今は返事が聞こえない。

夫の寝息で聞こえなかっただけかと思ったが、目だけを開けて見回してもそこにはいつもの知る彼女の姿はない。何か理由があって目が覚めた気がしていた老人は、とうとうボケてしまったのだろうかとも自分で考えた。

ぱちりぱちりと皺の中で瞬きし、細く開いた目で見慣れ過ぎた部屋をもう一度見る。部屋を唯一月明りで照らす窓と、使い慣れた家具に夫のお気に入りだった椅子。今は殆ど座ることもなくなったが、外でその椅子に座って揺れる夫と景色を見るのが好きだった。

ベッドの横に立てかけた杖は夫婦揃いを孫が買ってきてくれたものだ。足の状態が悪化した夫も、そして動くのが辛くなった自分も今は殆ど使わない。

夫も自分もともに寝たきりの生活が最近では当然になってしまった。

今も部屋を見回す為にも身体を起こしたいのに、それだけで咳き込み夫を起こしてしまうから動けない。咳が酷ければ義理の娘が心配して様子を見に来てしまうと、ぼんやりと思考だけを思いめぐらせていたその時。


「っ⁈ぁ……」

「‼︎っ……」


突然、先ほどまでずっと開いていた筈の視界に二つの人影が表出した。

瞬きすらしていない。一瞬自分はずっと起きているつもりで寝ていたのかと思うほどに瞬く間の一瞬にその人物は現れた。

月明りに逆光で黒い影しか見えないが、間違いなく人間だ。

しかも見慣れない背丈からしても義理の娘でも息子でもない。耳の遠くない老人にも聞こえないほど微かな音を漏らしたその人影を見つめてしまう。


そして老婆に見つかった人影二人も流石に焦燥した。

つい数分前に訪れた時は、歩み寄った時点で老婆が「オーレリアさん」と細く声を上げたことで急ぎ瞬間移動で撤退した。少し待ち、今のは寝言ではないか、そろそろもうまた寝ていることだろうと再び瞬間移動をしてみれば寝ているどころか老婆の両目はぱっちりと開いていた。

しかも今度はまっすぐ目撃されてしまった彼らは、被ったフードや帽子を深く引いた。


逆光で老婆にはどんな姿かもわからなかったが、頭から全身を包み隠すローブのフードを被る青年とその隣には帽子を深く被った青年だ。もしここが明るい陽の下であろうとも青年達の顔を見ることはできなかった。

フードの青年は全身、帽子の青年も目元まで鍔で隠されている。


ここで騒がれたら一度退散しようと考えた帽子の青年と息を飲んだフードの青年だが、老婆は何も騒がなかった。ぼんやりと青年達を眺めながら強盗の類よりもお迎えかと思ってしまう。

老婆の反応が薄いことに、数秒だけ膠着状態が続いた」二人は次第に一歩一歩足音を消して彼女に近づいた。ぺこぺこと腰を低くしてフードを引っ張り降ろし続ける青年に、帽子の青年も「しーっ……」と声を上げないで欲しいと口に当てた指先で示す。しかし音は聞こえても影の塊になっている青年の仕草は彼女にはわからない。それでも口を閉じ、近づいてくる影を両目で見つめ続ける老婆にフードの青年達はベッドの傍らで腰を落とした。


「突然すみません……。絶対危害も加えませんし盗みませんので、少しだけ静かにしていて下さい」

「どなた……?」

息に近い音で潜ませる青年に、老婆はやんわりとした口調で投げかける。

突然部屋に音もなく入って来た男達の言うことを信じるほど耄碌はしていないが、背丈も大きい二人相手に自分達が勝てるとも思えない。

語られた内容から彼らがお迎えではなく人間だったのだと理解しながら、フードの青年を見た。その背後には帽子を深く被る青年が口を結んで佇んでいる。いつでも瞬間移動で逃げられるように、その青年の肩にだけ手を置いていた。

老婆からの問い掛けにフードの青年の喉が鳴る。誰かと、それを語れないからこそこうして姿を隠している。

言葉もすぐに出ず、だからといって無理やり手を伸ばすこともできない青年を、間近に見上げ老婆は小さく笑んだ。


「落ち着く匂い……」

そう呟きながら、枯れ木のような手をそっと青年に伸ばした。

捲られるのではないかと、フードを自分から押さえる青年に老婆は指先でちょんとその袖を引いた。自分で触れられたことにやはり幻ではないのだなと思いながら老婆は笑う。

青年が自分の元へ腰を落として近づいた時から、ふんわりとその香りが鼻についていた。

灯りもつけられず月明りにしか照らされない部屋で、衰えた目では青年達どころかその上着が茶色であることも、どんなものかもはっきりはわからない。しかし鼻孔を引っ掛けたその香りは、老婆もよく知る匂いだった。

摘まんでみればその質感に、皺のついた皮膚が余計に似ていると教えてくれた。


「うちの孫とねぇ……買い物に行ったのよ。だけど雨が降って、傘を持ってなくて。あの子ったら自分ばっかり濡れちゃって」

ふふふっ……と、常闇に柔らかな笑い声が零される。

まるで昨日のことのように老婆が語る記憶は、もう随分と昔のものだ。まだ老婆も元気に杖もなしで歩けていた頃、買い物に付き合ってくれた孫と城下を歩いた日を思い出す。足の悪い夫の代わりに、孫が買いものに付き合ってくれた。

あの頃は自分も体調は良かったというのに、道の真ん中で雨に降られ出した途端に孫が自分の着ていた上着を傘代わりに貸してくれた。俺は良いから、と言いながら自分の足並みに合わせて家まで雨から守ってくれた時のことは今も胸に温かく残っている。


正体もわからない男二人に対し、不思議と恐怖がわかなかった。

既に老い先短い自分の元へ訪れてくれる訪問者など少ない中、いっそ話し相手になってくれるような気持ちで口にする。

抽象的な思い出しか話さない彼女の話に、それでも青年達は良い思い出なのだろうということが幸せそうな笑い皺を見てすぐにわかった。

老婆の細い声に、フードの青年は少しだけ引っ張った布を緩めた。以前借りてから洗って返すと提案した自分へ「もう古いし良かったら使ってくれ」と譲られたローブだ。そして今回が使って二度目になるローブの持ち主が、誰だったか。




「…………エリック、さんは本当にすげぇ良い人で」




ぽつりと、抑えた声だったがそれは落とされた。

フードの青年の顔は見えないが、その口元が笑んでいるのが老婆の目にははっきりわかる。孫の名前を語る青年に、どこかで会ったことがあるだろうかと思うがわからない。成熟しきった男性の声では、自分の耳にも覚えがない。

孫を知っているの?と尋ねたがそれについて明確な返事はなかった。

背後で帽子の青年も口を結ぶ中、フードの青年は自分の袖を摘まむ老婆の手をそっと優しく取り、彼女が指を離せば自分が両手で包んだ。

老婆の手よりも遥かに大きなその手は信じられないほど温かい。


「いつだって人のことを心配してくれるし、格好良くて努力家で、謙虚で。……本当に当たり前みたいに人の力になってくれる人です」

そんなエリックのことを尊敬もしている。

そう思いながらも言葉には出さない。ただ、意図せず触れられた老婆の細い手を包みながらフードの下で笑いかける。


そうなの、そうなのと。にこにこ笑いながら相槌を打つ老婆は、自分がどんな問いをしたかも寝ぼけた頭で忘れた。それよりも孫のことをそんな風に言ってくれることが嬉しくてたまらない。最近では来客も、曾孫か孫の先輩の親戚だけだった。

訪れた時には挨拶に来てくれたが、お別れが言えなかったことだけが残念でならない。しかし、あの日は咳も酷く心配をかけたくもなかった。

夫も、妻が会わないなら自分も会わないで良いとくだらないところで付き合ってくれたが、本音を言えばもう一度あの良い子達にお菓子をあげたかったなと思う。

特にひと際背の高い男の子は、お菓子を受け取る時すらも委縮して手のひらに広げたお菓子だけを摘まみ取っていた。あの男の子も成長したらこんな手の大きさの人になるのだろうかと、まるで本当のひ孫のような気持ちで思う。


「人のこと心配したり気を遣ってくれても、信じられないほど努力を重ねても、……そういうの微塵も人に押し付けたりもしないし、見せびらかしたりもしないんです」

今回の極秘視察でも、騎士の先輩達からどれだけ褒められても全然と言っていた。

実際は家族が巻き込まれて、王族が絡むとなれば家族の安否を心配しなかったとも思えない。家族にバレないようにしつつ、良い関係ではあれるように取り持ってくれた。

ノーマンに誤解を受けても怒ることなく、そしてプライドや自分達にも気を遣わせないようにしてくれた。校門前で子ども達に囲まれながら質問に答えているエリックは、騎士として理想的な姿だったと思う。

しかもプライドの護衛や送迎さらには休日返上で、それでも午後から騎士団の演習に参加した。演習監督以外も自分の倍は仕事をしていたなとアーサーは知っている。


午前はセドリック、午後はプライドの護衛についていたアランの負担を減らす為に隊長の業務も午後中にかなり肩代わりしていた。

何度かアランが「別にここまでしてくれなくても後でやっから」と言っても「アラン隊長はお忙しいですし、自分もこれくらいは」と断っていた。一番隊は八番隊ほど書類仕事も少なくはないにも関わらず。

プライド、そして特別任務にアランの補助業務という誰もが頷く免罪符を持ちながら、それでも演習場にいる時は休憩時間も全て自主鍛錬に費やしていた。自分も深夜に何度か手合わせに付き合って貰った。

自主鍛錬も演習も、そして副隊長としての業務も、当然プライドの護衛もたった一つすら手を抜いていなかった。


「孫はね、騎士なのよ。しかも本隊の、副隊長で。もう一人は家庭教師で、末の子は新聞社……皆自慢の孫なの」

「自慢ですね」

思わず老婆の言葉をそのまま返してしまう。

弟さんも知らなかったということは、目の前の女性も近衛騎士ということは知らないのだろうかと思う。

極秘視察中、護衛についていたのは自分も同じだが〝保護者〟として振舞ってくれたエリックは心強かった。あんな兄がいたらそりゃあキースさんも真ん中の弟さんも立派に育つよなと心から納得できる。

そしてたったひと月だけでもわかるほど親切で優しい家族に囲まれたからこそ、今のエリックがあるのだとも。……だからこそ。


「なので」と、そこでフードの青年は言葉を切った。

良い騎士で、良い兄で、良い孫で、自分にとっても良い先輩騎士であるエリックとその家族が、これからもそのまま笑っていて欲しいと願いながらローブの下で笑いかける。


「どうか、これからもご家族仲良く……ンで長生きして元気でいて下さい。エリック、さんもご家族も皆それを望んでいます」

そう言いながら、そっと老婆から両手を離した。〝もう必要ないと〟わかった彼は、壊れ物のように細い腕をベッドに降ろさせてから一度立ち上がる。


目線だけでそのローブと背後に続く青年を追う彼女は、まだ寝たきりのままでは自分の変化にも気付かない。

寝ている間だけでも楽に呼吸ができるように、義理の娘が尽くしてくれたベッドのお陰で無理さえしなければ苦痛はなかった。

今も細い声を出す分には辛くもない。しかし、目で追った男二人が今度は自分の夫のベッドに近づけば「どうするの?」と声が出た。思わず出たその声が、いつもならば咳き込んでしまう量だった。


しーっ、と、帽子の青年が振り返りもう一度指を立てる。「大丈夫ですよ」と柔らかく言ってくれた青年の前で、フードの青年は再び両膝をついて今度は老婆の夫の足へと毛布越しに手を添えた。

一体何をしているのかと、自分の身体の変化にも気付けない。横になったまま落ち着かない胸を押さえる老婆を置いて、青年二人は小声で交わす。

どうだ?いけそうだ、と。そんな会話に不穏すら感じ取った老婆だが、それもほんの僅かな時間だ。

ぐーすかと寝息を立てる夫の音は一度も途絶えず、苦しむ声もない。そして、再びベッドの傍らから立ち上がった男達はくるりと振り返り自分の元に歩み寄って来た。


「今日のことは、どうか秘密にしてください。明日になれば多分わかります。…………今度、その足で是非旦那さんとプラデストを見に行ってみて下さい」

こんな夜中に起こしてすみませんでした。そう言いながら、フードの青年はもう一度だけ老婆の手を取った。

プラデスト、という言葉に、つい最近できた施設という建物を思い出す。孫の連れてきた子どもたち三人もそこに通う為にと、そう聞いた。

今の自分の身体ではとてもそこまで行けないが、エリックはやっぱり車椅子を二つ買おうかと言ってくれたしロベルトは自分の家の馬車で迎えに来ようかと言ってくれた。キースは何度も部屋に来ては、学校やそれ以外にも面白い話を聞かせてくれた。


そうね行きたいわ、と。思い出せば自然と老婆は肯定を返した。

当時はそんなお金や手間をかけるなんてと夫婦ともに全て断ったが、あの子ども達が通っていたという学校を一目死ぬ前に見てみるのも良いかもしれないと思う。

すると、今度は帽子を被った青年が前に出た。フードの青年の隣に並んで腰をかがめ、そして重ねるようにフードの青年と一緒に自分の手を取り包んだ。


「貴方方、先人が築き上げて下さったフリージア王国の未来がそこにあります。……貴方達のお孫さんが守る御方が、繋いだ未来です」


穏やかな声だった。

まるで預言のような口調に、やはり彼らは人間ではなかったのかとすら思ってしまう。

孫が守っていると言われても、どの孫か今はピンとこない。しかし、学校を創設したのは孫二人が大好きな王女だということは知っている。

不思議な心地になりながらゆっくりと瞬きだけを繰り返す老婆へ、……エリックの祖母へと最後に二人は姿勢を正すと深々と礼をした。





「ありがとうございました」





どうか、お元気で。

その言葉を最後に、瞬きの途中で青年達は姿を消した。

何も残さず、ただ語らい、手を取り去っていった青年達が消えた後では夢か幻か現実かも彼女はわからない。何故最後にお礼を言われたのかすらも考えが及ばない。

しかし、二人に包まれた手のひらが毛布の外でも温かく残っていた。

窓も扉も開けずに消えていった青年達に、今更叫ぼうとも思わない。目だけで何度も何度も部屋を見回し、そして夫の寝息だけを聞きながら目を閉じた。

足が動かない筈の夫が寝相で足を組み直すのがシーツの音で聞こえたが、彼女は気付かなかった。



『……いえ、祖父母は奥の部屋に。祖父は数年前から足が悪く、祖母も最近は肺を悪くして寝たきりなので』

『!でしたら私達からお部屋へ挨拶に伺っても良いですか?ギルクリストさんの大事なご家族だもの、是非ご挨拶がしたいです』

『良いですね、アランさん。僕らもジャンヌと共に挨拶へ伺いたいのですが』

『自分、もご迷惑でなければ……!!』

『だってよ、どうするエリック?』

『?!い、いいえ祖父母は喜ぶでしょうが、玄関だけ借りるジャック達はきっと会う機会もないでしょうしお気持ちだけで……』

『良いじゃねぇか兄貴。挨拶くらい。じいちゃんも婆ちゃんも喜ぶだろ』



万物の病を癒す特殊能力者。

握手一つでも病を癒してしまうフードの青年は、せめて潜入視察まではと敢えて挨拶時も老夫婦に触れなかった。

自分の特殊能力がエリックに気付かれるだけでなく、ジャンヌ達に会った日から身体の調子が良くなればギルクリスト家にも怪しまれるかもしれない。せめて極秘視察が終わるまでと決めていた〝ジャック〟は、…………密かに最初から決めていた。


聖騎士と第一王子から受け取ったギルクリスト家への〝お礼〟に息子夫婦が腰を抜かすのは、朝食の時間から間もなくのことだった。


Ⅰ221

Ⅱ11-2.466-4

Ⅱ154

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