Ⅱ465.貿易王子は誘い、
「じゃ、お疲れ様」
カラァンッと、軽やかな音が広々とした部屋に響いた。
滑らかな笑みを浮かべるレオンが自らグラスを当てた先の褐色の男性は反して笑顔の一つもない。眉間を僅かに寄せながら、無言でレオンに当てられた酒瓶を睨んだ。
代わりにその隣の席から「おつかれ」「お疲れ様です!」とジュースの入ったグラスを手にセフェクとケメトが言葉を返す。
アネモネ王国にあるレオンの自室。今日がプライドの潜入視察最終日であることを知っている彼は、以前からヴァルに今夜飲みを誘っていた。
実際に彼が来てくれるかはいつも通りの期待半分の賭けだったが、公務を終えて一息置いたところで配達帰りのヴァル達が訪れた。アネモネ王国への配達物込みだった彼に謁見の間まで直々に迎えに行き「飲もうよ」と再び誘えば、反論はなく部屋まで付いてきた。
いつものようにテーブルを挟み相対し、元の年齢に戻されたヴァルの隣に座るセフェクとケメトも今はレオンに出された遅めの夕食を楽しんでいた。
いつもは菓子や果物くらいだったが、今回はまだ夕食を食べていないからと皿ごと料理を用意させた。カチャカチャとテーブルマナーを知らないケメトはフォークを手に取った途端に音をたて、そこをセフェクに教えて貰っている姿はレオンの目には相も変わらず微笑ましかった。
以前は用意した菓子や果物を無言で食べてはまだ自分を警戒していた彼らが、こうして夕食を一緒に食べてくれるようになったことがまた小さな一歩かなと胸が温かくなる。更には今回は「お疲れ」と自分に挨拶まで言葉で返してくれた。
「もう難しいなら手づかみで良いのに!」と言うセフェクに、それでもケメトは「選択授業で教えてもらったのをやってみたくて」と時々金属同士の金切り音を零しながらも一口サイズへ切ろうと果敢に挑んだ。
「お疲れも何も疲れるようなことしちゃいねぇがな」
「そんなこと言ったら僕なんて今日は学校にも行っていないよ?君は毎日通っていたんだから充分だよ」
敢えて言葉を折るヴァルに、レオンもにこやかに返す。
労っているようにも言い返されたようにも聞こえる耳触りに、ヴァルは否定はせずに酒瓶を傾けた。グビッと軽く飲めば、思ったよりも口当たりが軽い。一度口から離し、瓶のラベルを今更ながら確認すれば「また新商品だよ」とレオンに思考を読まれた。
酒であれば大概は味わうこともなく気にしないヴァルだが、それでも自分の反応を待たれたということは実験されたかと少し思う。今までも時々レオンが変わり種を何気なく混ぜてくることがあった。ヴァル自身気に留めないことも当然あるが、そんな中で一種類でも気に留めるか違った反応を示す酒は市場に出しても〝変わり種〟として通じるものとレオンとしても勉強になった。
舌が敏感で優れている自分では、味の違いは当然わかるが寧ろわかり〝過ぎる〟。ワイン通でも気付くか気付かないかの差異もしっかりわかるレオンにとって、ヴァルの感想は試飲としては良い参考だった。
口当たりが軽めだよね、と同意を求めるレオンに「水と同じだ」とヴァルが言い返せば、充分に味の評価も立証される。それでもやはり気にせずぐびぐび喉を鳴らして酒瓶を傾けるヴァルは、あっという間に半分まで瓶を減らした。
「テメェに労われたくもねぇ」
「プライドに労われたいのかい?なら今夜は彼女の部屋へ行くべきだったかな」
悪態を吐けば、それも楽し気に冗談めいて返すレオンにヴァルは鋭い眼光を更に研ぎ澄ませた。
チッ、と舌を打ちながらまた一口酒を傾ける。しかしやはり欲しかったよりも軽すぎる軽口に、面倒になり残り半分も早々に空にすべく一気を仰いだ。
別にプライドからの労いなど求めていなければ、無駄に気を遣われるほどが面倒だと思う。だからこそ、まるで自分がそれを求めているような言葉に変えられたことが不快だった。レオンは敢えて言っているとわかるから得に。
今ここで自分が言い返したところで無駄だとわかるのが余計に腹が立つ。
明らかに不機嫌そうなヴァルにも構わず、レオンはグラスに一口しか口をつけていない内にヴァルへと二本目三本目の酒瓶を足元の箱から用意する。
貿易で届けられた梱包状態の箱から今度は一般的な味に近いものを選んだ。空にした酒瓶を床に転がし、レオンに差し出された二本目の栓を指で抜くヴァルはその一口目でやっと少し気も晴れた。
「どうだった?最終日のプライドは。やっぱり名残惜しまれていたかい?」
「知らねぇな。下校時間が過ぎても暫くグダグダしてやがったのは違いねぇ。校門前で騎士と馬鹿王子が溜まっていやがった」
「そうよ!ヴァルが来てくれるのが遅かったからずっと私もケメトも暇だったんだから!」
レオンとヴァルの会話に、セフェクがケメトの口を布巾で拭いながら叫ぶ。
いつもならば下校時間と共に配達へと去るヴァルだったが、最終日である今日は校門の見える校舎の壁上で長らく寝ころんでいた。遠距離からだったが近衛騎士らしき騎士達と王族が校門に集まっているのを見れば、プライドがまだ合流していないことは明白だった。
〝あの〟プライドがどんな面倒ごとを最終日に呼んでくるかもわからない現状で、仕方なく彼女が去るまでは校舎に留まざるを得なかった。最終的に無事合流して去っていったことが意外だったほどに、プライドに対してそういう信用はない。
どうせまた校門に騒ぎを持ち込んでくるんだろとさえ思っていた分、寧ろ肩透かしだった。
不満を声にするセフェクへ「良いっつったのに配達に付いてくるっつったのはテメェらだ」とヴァルからもうんざりとした声を返す。
どうせ遅くなるから付いてこなくて良い、と事前に断ったヴァルだったが二人揃って今日も一緒に配達へ行くと聞かなかった。
二人を待ちぼうけにすること自体はどうでも良かったが、国外と治安の境目である国門前に二人だけを長時間待たせるわけにもいかず結局中級層の広場のお待ち合わせになった。プライド達を待ってただでさえ出発が遅くなった上に、徒歩で遠回りまですることになり余計に面倒だったと今でも思う。
「どうせまた二日後には会うってのにごねやがって……」
そう言ってまた舌打ちが零される。
学校へ通う必要がなくなった今、今後は毎日学校の登下校や配達を共にすることはなくなった。明日には校内に〝不良生徒〟が〝退学処分〟を受けたという張り紙が張られる手筈にもなっている。
しかしヴァルがケメトの特殊能力を受ける為、二日に一回は会う必要がある。明後日になればまた会えるのにも何故今日も会うのかと、無駄とも思える二人の配達同行希望はヴァルにとっては面倒でしかなかった。
なによ!とそこで放水をしようと手を構えるセフェクをケメトが慌てて止める。フォークとナイフを持ったままの手で彼女を押さえた所為で、食器についていたソースがそのまま彼女の服に跳ねた。
服が汚れること自体は気にしない三人だが、それを見たレオンが手元の布巾をセフェクへ手渡した。「着替えを用意させようか」と尋ねるレオンにセフェクもふき取りながら首を横に振る。レオンが用意させてくれる服は好きだが、学校には汚れていてもこの格好の方が目立たない。
手のひらからじんわり水を出し濡らしながらふき取る彼女は手慣れていた。ソースをつけてしまったことを謝るケメトだが、セフェクも「悪いのはヴァルよ」と弟にではなく自分を怒らせた本人へ唇を尖らせた。
その様子にセフェクが怒っていないことにほっとしながら、ケメトも小さく笑む。今日もヴァルに会いたいと思ったのは自分もセフェクと一緒だ。
「でも、僕もちょっと寂しいです。明日からヴァルもいないですし、主もいなくてレオンやティアラも遊びに来ないんだなって思うと……」
「どいつも学校じゃ殆ど会っていねぇじゃねぇか」
「居てくれるのが大事なの!!」
ビシャァッ!と、不安を言葉にするケメトへもそっけない態度のヴァルにセフェクが今度こそ顔面に水を吹っ掛けた。
ぶわっ⁈とヴァルも慣れた攻撃に顔を顰めながらも酒の口だけを手で掴み守る。自分が濡れることは構わないが、折角丁度良い味の酒が薄められてはたまらない。
今度は布巾で足りないかなとレオンが立ち上がり、棚から侍女に用意させておいたタオルを一枚取れば今度は席から離れたケメトが自分から目の前まで受け取りに来た。
このままヴァルへ投げようかと思っていたが、わざわざ取りに来てくれたケメトへ手渡せば「ありがとうございます!」と目を輝かせてヴァルに渡しに行った。
今までもセフェクが放水することはあったが、時々こうやって当事者の二人より先にタオルや拭くものを探す彼は健気だなとレオンは思う。……そして自分も大分このやり取りに慣れたとも。
侍女にタオルを用意させるようになったのも、ヴァルとセフェクが部屋を濡らすか汚すようになってからだ。
ケメトからタオルを受け取り「クソガキが」と溢したヴァルは、セフェクの尖った目をそれ以上に鋭い目で睨み返す。
それに対しセフェクもフンッと鼻を鳴らすだけだった。
相変わらずな彼らに微笑ましくすら思いながらレオンも席に戻る。グラスを手に、口へ運ぶ前に「僕も気持ちはわかるよ」と今回はセフェクを援護する。
「だけど二日に一回は会えるんだし、ティアラやプライドはまた視察として何度か来るんじゃないかな?プライドが来るならステイル王子もそれに護衛でアーサー達も来ることがあるだろうしね」
僕はたまにだろうけれど。と、そう続け首を軽く傾ける。
大事な存在が同じ空間のどこかに居る安心感や幸福感は、自国の民を愛するレオンにはよく理解できた。
自分だって貿易や外交で国を出ることはあるが、それで民と心が離れるとは思わない。しかしそれでもやはり自国にいる時が一番心が落ち着くと思う。
自分にとってのアネモネ王国が、セフェクとケメトにとってのヴァルに近いものなのだろうと考えながら自分なりに安心材料を提示してみた。一か月近く優先的に学校見学を得た自分は暫くはもうたまにしか見学に訪れられないと思うが、フリージア王国の王族であるプライドとティアラは違う。
特に創設者であるプライドは、公務であれば学校へ訪れることも許される場合はあるだろうと思う。城下へ視察に降りることは暫く制限されている彼女だが、プラデストは彼女自身が手掛けた帰還だ。
レオンの言葉にセフェクもぴくりと肩を揺らす。ティアラやプライド、と嬉しい訪問者を想像すれば少しだけ胸が浮き立った。
ティアラが自分の教室へ訪れたことは少ない。その時もあくまで他人のふりをしたセフェクだが、気付かれないようにティアラが一度自分に微笑みかけてくれた時は嬉しかった。今度はプライドもそうしてくれるのだろうかと思えば、今から楽しみですらある。
少し緩みかけた唇を絞るセフェクに、ケメトから「楽しみですね!」と笑いかければ素直にこくりと頷いた。
今や二人にとってもティアラやプライド、そしてその周囲の人間も充分身近な存在だ。
セフェクの機嫌が直ったことに、短く溜息を吐くヴァルは拭ったタオルを後ろ手で放り投げてから再び酒瓶を手に傾ける。
未だにたかが同じ敷地内にいるかいないかでセフェクがぎゃあぎゃあ不安がるのは共感できないが、彼女の不安がりだけは知っている。
また二撃目を受けるくらいなら機嫌の良いままにしておこうと酒で自分の口を塞ぐと、レオンが滑らかな笑みを自分に向けてきているのが視界に入った。
「どうだい?一か月の学校生活は楽しめたかい?」
「…………クソガキ共をいびった時程度だな」
ケッ、と酒を飲み込んだ後に吐きつけながらレオンに軽く睨みを投げる。




