Ⅱ462.義弟は、知る。
「こうすれば、私だけの責任で済むから」
─ 間違った。
無理に作られた笑みで告げられた言葉は、まるで断頭台の刃のようだった。
母さんに会えた時は、ただただ混乱と目の前のことばかりで頭が飽和していた。だが、時間が経てば経つほどに……疑問が一つ一つ頭の中に沸き上がった。
何故、プライドは母さんのことを知ってからずっと秘密にしていたのだろう。最終日にしたことも、プライド自身が母さんに用事があるという建前で俺と邂逅させたこともわかる。だが、俺を驚かせたかったというだけで渡る綱にしては危う過ぎる。
もし、せめて前日にでも打ち明けてくれていればもっと確実に母さんと接触しても罰せられない方法を打ち合わせることができた。ただでさえ母さんを前に一度は怖気てしまった俺が、もしくは母さんが感情に先走って規則違反を犯してしまうことだってあり得た。
まるで。プライド一人が先行し、全てを進行させたような行動が段々と喉奥に引っ掛かった。
自分一人が全てを負おうとしているような危うさに、思い出したくない悪夢が一瞬だけ重なった。「何故、あのような」と、一秒でも早く聞かずにはいられなかった。
一生会えないと覚悟していた人に会えたことも、姿絵を渡せたことも俺にとっては幸いだ。だが、プライドが負う不利益を考えればずっと浮かれていられるわけもない。
冷えた頭で帰路に何度も何度も繰り返し考えては、鼓動が激しく鳴って突き破れるかと思った。顔色に出さないように意識しては、歩きながらも肩が震え胸が騒ぎ爆音のように内側から耳に響いた。二度ほどプライドに気付かれないようにアーサーに背中を叩かれた。
大丈夫、これも、あれも、あれも、あれもこれも、抵触はしない。あくまで〝フィリップ〟として出会い、正体も直接明かしていない。気付いただけでは罪にはならない。
プライドの補佐である俺が、彼女の個人的知り合いとして会うのに居合わせてしまうことは問題ではない。姿絵も、親子として共に入ってはいない。あくまで〝他人〟の姿絵を持つことは規則違反ではない。
俺はステイルとしてではなく、フィリップとして接触を固めた。母さんだって一度も俺の名を呼びはしなかった。周囲の生徒にも親子としての接触とは思われないようにした。
そういくつも懸念材料を確認すればするほど、どれだけプライドが危ない橋を渡り考え抜いてくれたのかがわかった。
彼女があそこで俺達を見かねて俺か母さんを紹介すれば、それだけで今度はプライドの方が規則違反になりかねない。あそこで俺達全員が口を噤めば良いという話ではない。規則を犯したか否かは俺達自身の問題だ。
ただでさえ彼女は規則違反行為に過敏な環境下に置かれている。
それに一歩間違えて母さんが〝ステイル・ロイヤル・アイビー〟の関係者だと周囲に勘付かれれば、城に知られて罰を与えられるだけではなく嗅ぎづけた悪しき存在に利用されるかもしれない。そんな、いくつもの危険を全て掻い潜れるように全て用意してくれた。
だからこそ、尋ねた。既に俺達へ特別な処置も含めて多くを費やしてくれた彼女が、何故知ったからといってここまでの危険を一人冒してまで断行したのかと。
何故、いったいいつから、一人でまた、俺にもアーサーにも相談せずに、と。言いたいことは口を動かせば無数に零れそうだった。
ただ、俺達の為に危険を侵し策を練ってくれた彼女を言葉攻めにしてはならないとその意識だけで奥底へと抑え込んだ。…………なのに。
「本当にごめんなさい。だけど大丈夫よ、私が一人で勝手にやったことなのだから」
それは、駄目だ。
苦しみを抑えるように笑う彼女に、心臓が引き絞られ激痛が走った。
嫌でも理解する。彼女がそう語る根本が、元凶が誰にあるのかを。ただ俺のことを、母さんのことを想ってやってくれた行動ではない。
ただ優秀な彼女が一人で〝できるから〟ここまでやったわけではない。俺を驚かせたくて喜ばせたくなどという可愛いだけの理由ではない。第一王女である彼女が、第一王位継承者である彼女が、ただただ補佐である俺を守る為に罪を被ろうとした結果だ。
義弟である俺と母さんを会わせたいと。彼女の優しさが、俺と母さんに罪を被せない方法を得る為だけに穢されかけた。たった一人で俺達を守る為、自身だけに危険を浴びせて笑っていた。
アムレットの部屋に呼ばれてから一週間。ずっと彼女が俺と母さんを守る為に考え決めていたのだということに、総毛が立った。
第一王女である彼女が、よりにもよって俺の責を浴びるように仕掛けるなどあり得ない。
俺は第一王子だがそれ以上に補佐だ。彼女を女王にする為に義弟となった存在で、彼女を守り支え責を負い被るのがこの俺の役割だ。なのに、逆に彼女が俺の為に責を抱えるなど許されない。それは俺の役目だ。
彼女の意思で会わせてくれたとしても、母さんのこともプライドの行動も全て俺が責を負うべきだ。俺なら良い、補佐である俺ならいくらでも彼女の為に責を負える。いくらでも責任を覆い被されるように策に自らだって組み込める。俺一人が責を負えるように、彼女を穢さずにいられるのならば守れるのならばいくらでも俺が、俺一人で、…………そう。
俺の行動が、そうさせた。
「レオン王子。もし宜しければこの後は僕ともお話して下さりませんか?」
「私はひと足先にフィリップからお聞きしたお二人の家でお待ちしておりますので。それでは」
「〝次期王妹〟として、レオン王子に姉君の創設された学校を案内したいとは思わないか?」
「どうぞ、受け取って下さい。僕らからの特待生祝いです」
「言ってみるだけは損になりません。ファーナム姉弟に協力を依頼してみましょう」
「パウエル。お前、確か小間物行商の手伝いをしていると言っていたな」
鮮明に浮かぶのは、全て俺一人で決めたことばかりだ。
守秘義務でプライドには語れずとも、〝俺が〟語ってしまえば良い。プライドが極秘視察に行くことを先立って話し、レオン王子とも協力を交わす。もともと協力して欲しいと望んでくれたのは彼だ。だから彼との約束の為にも秘密裏に俺が語った。そして母上にも許可を得てレオン王子に学校見学を銘打った定期的な護衛騎士の周回も試みた。もしレオン王子に極秘視察について先に語ってしまったことを知られても、プライドは何も知らなかった。俺一人がレオン王子を部屋に招いたことも城の人間が周知している。〝俺一人〟が責任を負えば良い。あくまでプライドの補佐として最善を考えた結果俺一人が暴走した結果として罰せられるならば充分釣り合いは取れている。
結果的にレオン王子の協力も得られ、ネイトの件ではプライドもレオン王子へ協力も得やすくなった。レオン王子を巻き込んだのも〝俺だから〟プライドも気負うことなく協力を受け入れられた。
ティアラの協力だって、優しいプライドが妹を巻き込みたがらないのはわかっていた。
いくらティアラが望もうとも彼女はそういう人だと知っている。だからこそ俺から父上に打診し話を進ませた。あくまで定期的にレオン王子を学校見学へ紹介するだけだ。大勢の騎士を付けている以上、危険もない。何よりもしプライドからティアラに依頼したことで、噂で「プライド第一王女が妹の王配業務補佐につくのを妨げている」などとティアラを陥れている誤解を生まずに済む。
あくまで補佐である〝俺が〟父上に頼み、そしてティアラも自らプライドの学校の為に望んでくれた。利用的な姉弟妹関係をまた一つ主張できるたった一つの綻びも許さない。プライドが望まずとも、俺達が望んでそうしたのだと上層部や上級層にも印象付けられる。
ジルベールならば子供に勉学を教えることくらい訳もないと確信があった。プライドが彼らの生活環境を案じていることも予想はついた。
ジルベールがたった一日二日でファーナム兄弟の生活を改善して見せたことへの競争心が沸いたことは否定しない。しかしどちらにせよプライドが望むのならば俺もそうしたいと思った。彼女がいつかは思いつくであろうことを先回って動いてみせた。彼女がそれを望むのならば、補佐である俺が動いた方が言い訳にもなる。
ファーナム兄弟への家補強は一目見た時からヴァルの能力を使えば可能だと見当づいた。無事特待生になれた彼らにプライドが何か祝いたいと望んでいるだろうとすぐにわかった。
ジルベールを派遣したことも、必要物資を提供したことも、家の補強もいつかは彼女が望み、そして迷うであろうことだ。
だからこそ俺が相談される前に依頼すれば問題ない。全ての責は俺にある。もし万が一正体がバレて王族一人が生徒に力添えしたと思われても、全て依頼したのは俺になればプライドに責はない。あくまで最低限、ジルべールもヴァルもあくまで俺達の知り合いの一人でそこに金銭も発生させてはいない。ジルベールは無報酬ヴァルは交換条件だ。王族としての権威で干渉はしていない。ファーナム家に協力依頼もプライドが遅かれ早かれ思い付いたパウエルを巻き込んだ時と道案内程度なら問題じる筈だったプライドの責任が生じる前に思いつく前に俺が手を打てば良い。彼女の補佐として俺が守り罪も責任も被る彼女の為に彼女を守る為に俺一人で俺だけで俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の俺の!!!!!
俺の、所為だ。
「すみません…………でした」
思い知った瞬間、胸の痛みと呼応して視界が滲んだ。罪悪感に腰まで浸かり、言葉にせずにはいられなかった。
俺がやってきたことを、彼女がただ見逃すわけがなかった。
最善と思ってやってきたことを、彼女も何も苦言を言わなかったからそれで良いのだと思い込んでいた。そんなわけがない、彼女は俺よりもずっと俺をよく見てくれている。
俺が彼女に隠してきたことも、独断で行ったことも全て気にしなかったわけではない。ただただ身近な悪本でしかなかった。
俺がやってきたことを、善意としてそのまま返された。
添わされた手を、引き留めたくて掴む。やってしまった犯してしまったと思えば思うほど、身体を貫かれるかのようだった。呼吸が浅くなり、どうやれば深くなるのかもわからなくなる。
例え俺が染まっても彼女だけは染めさせないと、変わらず誓い実行し続けた。……結果、彼女は全く同じ方法で俺と母さんを守ろうとしてくれた。
一番俺が彼女にだけはして欲しくない方法だった。
彼女が、贈った気持ち以上でそれを返してくれる人だと俺が一番わかっていた筈なのに。
「すみません……、すみません、すみません、すみませんすみませんすみません、すみませんっ……」
指に力が籠る前に手を離し、彼女を傷つけてしまったことに腕が伸びる。
子どものようにどうすれば良いかもわからず、ただ謝ることしかできない俺にプライドが包み返してくれた。彼女の香りと温もりに、少しだけ肺が膨らみ呼吸がまともに行き交えた。
彼女の為に尽くしてきた筈が、逆に彼女を追い詰めた。せっかく少しずつ、少しずつ俺達を頼ってくれ始めていた筈なのに。また、俺が押し戻した。
彼女に頼られる前に相談される前に動いてしまった結果だ。
補佐として彼女の盾として完璧に立ち回ったつもりだったのに真逆だ。
俺が、全て彼女の意思を確認し相談していたら今回だって彼女は俺か、そうでなくてもアーサーやティアラには相談してくれていたかもしれない。
ただただ自分だけが負ってしまう選択肢を選ばせたのは、率先し続けたこの俺だ。一体何度間違えれば気が済む?
俺が今こうして「何故」と思うように、今日まで何度プライドに同じ疑念を抱かせてしまったのだろう。それでも彼女は一度も責めず、ずっと受け入れ続けた果てにこうして今度は自ら俺の盾になってしまった。
ただ、彼女を間違えさせたくも責任に問わせたくも穢したくもないというのに。……もう二度と。
『幸福な結末の為』
─失いたくない。
もう、彼女を塔に閉じ込めたくない。あの害悪が生きている可能性がある以上、啄む隙など与えたくない。もう二度と彼女を〝裏切らない〟苦痛に怯えて生きたくない。プライドが正しく在れる為ならなんでもできる。たった一縷の綻びからも彼女を護りたい。
「すみません……すみませっ……」
綴り続け、自分がどんな表情をしているのかもわからない。知らず内に彼女の信頼を、築き上げてきたものを俺自身が否定してしまったことに、内側から音にならない悲鳴が上がる。
何故こんなにも俺は彼女を無下にしてしまったんだ。俺と同じ穢れを受けて欲しくないと思ったのに、逆にそうさせるきっかけを作ってしまった。一人で抱えさせるきっかけを俺が作った。
贖罪を口にしながら、それ以外が思いつかない。この人が俺みたいな考えを自分に当て嵌め納得してしまったことに四肢が鉛のように重くなる。
今まで知らず知らずのうちに彼女を蔑ろにしていたかもしれない事実に顎が震え視界が揺らぐ。たった一度でこんなに胸が痞えるのに、置いていかれたかのように鈍く痛むのに、俺は二度どころかそれ以上彼女に平気な顔でしたり顔で笑っていた。
『私だけの責任で済むから』
言わないと。
今からでも遅くない。ここではっきりと言うべきだ。たとえ彼女の善意を踏みつけることになろうとも優しさを踏み躙ることになろうとも、それは間違っていると他でもない俺が否定しなければならない。
どんな形であれ、補佐である俺の為にあそこまでの危険を冒すべきではなかった。家族に会わせるなどという配慮をすべきではなかった。
もう俺は王族の一員で、貴方の補佐なのだから間違っている。俺の為などに二度とこんな違反行為まがいの間違いを犯してはならない。貴方の行動力も推進力も全ては自身と民の為に使うべきなのだと。俺はあくまで
『顔立ちが、夫に似ているわ』
補佐で、義弟であっても庇うべき存在ではないのだと。
既に手紙で俺達へ充分過ぎることをしてくれた貴方が、これ以上はすべきではなかった。今後のことを考えて下さい、母さんや俺ではなく貴方に責任を生じることがどれだけ大変なことなのかわかっている筈です。貴方は
『ほらフィリップ笑わないと。私達が仲良しだってわかるようにしたいでしょう?』
……第一王位継承者なのですからと。
脳裏に過った笑顔に、思わず胸を苦しくなった。雫が零れ、当たり手の甲を濡らしながらそれよりも服の下のそれがふやけてしまっていないかが心配になる。歴代の摂政達が得られなかった宝を今俺だけが許され与えられている。
口に、すればいい。今からでも。あんなことをすべきではなかった、間違いだった、だからどうか後悔と反省をしてくださいとはっきりと。それがプライドを間違わせた俺の責任だ。…………なのに。
『でも貴方が本当の本当に大事なのは間違いないから』
「すみませんっ……」
否定が、できなくて。
─それでも。どうしようもなく、嬉しかった。
後悔と贖罪を腕に込め、優し過ぎる彼女に縋りながら顔を埋める。
彼女が俺の為などに責を負おうとしたことは、悲しい。それでも、思い出せば出すほどにあの時母さんに会えて俺は本当に本当に嬉しかった。
思い出してしまえば無条件に胸が温かさに侵略される。こんなに後悔して、息をするのも辛くなったほど苦しくて、今すぐ消えてしまいたいほどなのにあの時の母さんの顔を思い出すだけで涙まで温かくなる。
他でもないプライドが母さんの前で笑いかけてくれ、相棒であるアーサーを直接紹介できた。並んでくれたあの瞬間を思い出せば、感覚の死んだ四肢まで末端から蘇り疼く。
俺のことを大事だと言ってくれたあの時間が、思い出せば思い出すほどに目の奥から堪えきれないほどに満たされ救われる。…………また、救われる。
十年以上前に、泣くのを堪えて笑ってくれた母さんを今度こそ泣かせてあげることができた。別れ際、心から笑い合うことができた。
愛していると、十年変わらない気持ちを文字だけでなく俺の口から伝えられた。胸が攣るような過去の痛みが信じられないほどの温かさで拭われた。
嘘でもプライドに、あれを間違っていたなんて俺には言えない。
それほどに、幸福だった。
あの時の気持ちに嘘は吐けない。母さんとプライドの二人からの幸福を、どんな理由でも偽れない。口を刃で裂く方がずっと楽だ。
プライドが俺の所為で間違えたというのに、それでもあの時の行為には感謝しかない。見て見ぬ振りだって、正当な理由で会わせないことを選ぶことだってできた。
俺も、母さんのことも守ってできる限りを全てをしてくれた。本当だったら舌が渇ききっても感謝の言葉を尽くしたい。あの一秒一秒がどれだけ俺にとって幸福で救われたか。きっと彼女はその一部すらも理解できていないのだから。
……そして、その機会を溝へ落としたのはこの俺だ。
ただただあの時の行為に感謝や肯定をしないように口を噤むのが精々だ。
もし俺がもっとプライドに相談し打ち明けて行動を決めていれば、こんなことにならなかったかもしれない。母さんとの再会だって、お互いもっと危なげなく納得いく方法で叶えて、…………きっと今頃贖罪ではなく感謝の言葉を彼女へ繰り返せていた。
どうすれば、彼女を今度こそ正しく護り続けられるのだろうか。
十一年前に刻んだ誓いを胸になぞりながらそう思う。出会った時から変わらない、俺の為に責を負おうとしてしまう彼女を。
俺が間違えれば、俺を見てくれている彼女にまで影響してしまう。自己犠牲など彼女にだけはひけらかしてはならなかった。
「……っ。プライド、俺は勝手です。利己的で、器量も狭く高慢で独善的な人間です」
そんなこと、と。プライドが小さな唇から細く零してくれた声を腕の力を強めて止める。
そんなこと、わかっていた。俺がそういう人間になっていることも、……プライドが迷わず否定してくれることも。
吐露した言葉に嘘はない。全て事実だ、本当なら今更言う必要もないくらい。
細い彼女を折ってしまうんじゃないかと思うほど、一度強めた腕の強張りが抜けない。まるで言葉の代わりのようにプライドが再び背中を摩ってくれて、また力を抜けた。こんなに清らかな人を、何故俺は間違わせてしまうのだろう。
「このひと月も、……勝手な行動ばかりしたことをここで謝罪します」
申し訳ありませんでした。
今度は感情に流されたものではないしっかりとした謝罪を口にする。
今度は返事もなかった。肯定も否定もない沈黙に、どうしてここでそれを言うのかがわからないのか。それともやはり思い当たる部分があるのかと考える。
涙の溜まった目を一度絞り、黒がチカつくほど瞼に力を込めてから薄く開く。開けた視界も、眼鏡が曇りよく見えない。さっき母さんに会えた時と一緒だと思えば、また胸が締め付けられた。
「貴方の……貴方に責任さえ被らなければそれで良かったんです、俺は。貴方がただ、……そのままの貴方の御心を叶えられるのならば、それで」
言葉を整頓する余裕もない。
彼女の行いを否定できない俺は、代わりにこの想いを白日の下に晒すしかない。どれほど薄汚れていても歪んでいても、彼女の間違いをもう一度直せる為にならば叶わない。
幻滅されてしまうことよりも、今は彼女があの頃に戻ってしまうことの方が怖い。
俺の、アーサーの、ティアラの、誰かの手を取ってもくれずに優しい笑顔だけを向けられてしまうことが怖い。
腕の中でプライドの喉の音が小さく聞こえた。こくりという音に、もしかしたらもう俺が言いたいことがわかったのかもしれない。背を摩ってくれる手が止まり、拳が作られたのか固い指の感覚が服越しに伝わる。
「約束します。もう俺の為に過ちなど被させません。俺は貴方に最低限何事でも相談し、その許可も求めますから」
ん、と。
柔らかな一音が返ってきた。俺の背を抱き締めてくれる腕が僅かに強め、また緩められる。
あまりに優しい音に一度口を結んでしまうと、ふた呼吸終えた後「許可までは良いのよ」と添えられた。
どういうことかと一瞬思考が止まれば、「相談してくれるだけで嬉しいわ」と擽るような声が鼓膜を揺らした。
やはり気にしなかったわけではないのだと針のような痛みに思わず顔を顰めてしまいながら、……陽の光のような温かさに淀みが溶かされた。
次の言葉をと口を開けば、今度はさっきより舌も唇も重さを感じない。
「だから貴方も、どうか一人で責を被らないで下さい。庇いたい相手が俺であろうとアーサーであろうとティアラであろうと……他の誰かであろうとも。責を負いたい時は、俺にも必ず分けて下さい」
俺は貴方の補佐なのですから。
そう紡ぎながら、まだ浄化されきっていない自分の淀みを思い知る。
それでもただ今は、彼女の間違いを正すことだけを望んで目を瞑る。感謝もできず、謝罪しか言葉にできない代わりに約束を贈る。
もう二度と今回のような過ちを犯さない為にも、彼女へ影響させない為にも俺から先に縛りを示し、彼女に願う。彼女に変わって欲しいのなら、俺から先に変わらないと叶わない。彼女の為なら何でもする。
わかった、と。彼女の声で返されたのはどれくらい後だっただろうか。
感情ばかりが先走り、時間の感覚が消えていた。何分も後に返されたのかすぐに返されたのかも自分の中だけではわからない。
「けれどね、ステイル。…………私からも言わせて」
細い温もりと共に、続けられた。
予想しなかった切り返しに、鼓動が一度大きく鳴り響いた。密着しているプライドにも振動で伝わってしまったのではないかと思う音が、内側から俺を僅かに揺らす。
続きを聞きたいような、耳を塞ぎたいような衝動に駆られながら下唇を噛む。薄くだけ開いていた目を大きく開き、呼吸が止まる前に意識した。彼女の熱を、急激にさっきよりも意識してしまう。
こんなに近くでプライドが唱えられ、言葉によっては本当に俺の方が消えてしまうような気までする。
俺に回された腕が一度緩まり、片方は解かれる感覚すら名残惜しい。残された温もりと、離れてしまう腕がどこへ行ってしまうのかと思考が回った瞬間。
「護ってくれてありがとう」
新緑の芝生のような柔らかな声と共に、頭を撫でられた。
本当に息が止まり、逆に止まっていた筈の涙がつんと鼻の痛みと共にまた込み上げ零れた。瞬きをする暇もなかった。
空っぽの喉が震え、すかさず歯を食い縛る。それでもカタカタと歯が鳴りかけて顎に力を込めた。
また彼女に全てを見通されてしまったのだと、頭の冷静な部分が理解する。望んではいなかったのに欲しかった言葉が唐突に鼻先へ突き付けられる。
「確かにね。言って欲しかったと思う時もあったわ。ステイルは誰よりも頭が良いから、私じゃすぐには気付けなくて」
責めるような口調ではない。まるで子どもの悪戯に気付いた後のような明るさだ。
くすくすと恥ずかしそうに抑える笑い声まで重ねられ、このまま俺の顔には気付かないでくれと願う。せっかく男らしく言えた筈なのに、これでは台無しだ。またさっきのように表情の行き場がわからなくなる。
嬉しくて、悲しくて、怒りたくて謝りたくて苦しくて幸福だった感情に、顔の筋肉がぴくりとも動かなくなった。
昔は一つの感情を表に出すのも難しかったのに、今は無数の感情を一度に湧き出て飽和してしまう。目から溢れる水滴が温かいのだけが、今吐き出せる感情の唯一だ。
「だけど、ステイルが動くのは誰かの為にだってこと知っているから」
溶かさないで欲しい。
俺は傷付いて良いのに。母さんに会えたあの時間で、もう一生傷付いても良いくらいの幸福を貰えた。この後にどれだけ傷つけられても代償と思えば耐えられる。
なのに逆の感情で温められてしまえば、もう泣くしかできなくなる。アーサーとの約束という防壁すら今はないのに。
「貴方が何度私に隠しても、それが私の為にだと……護ってくれる為なんだって信じられたから。……だから、傷ついたりはしないわ」
花のように優しい声が目の前で咲き続く。
彼女を何度傷つけたかと思った俺に、そうではないと語ってくれる。それに比べてたった一度で不満に思ってしまった俺がどれだけ器が小さいかを思い知る。零した分を全て受けいれてくれたのは、プライドだ。
一度止まっていた筈の涙腺が決壊したままどうにもならない。鼻を啜ってしまったと、音が響いてから後悔した。
プライドに顔も見せられないまま、プライドがどんなに柔らかな表情で言ってくれているかが目に浮かぶようだった。
「……ただね、私は違うの」
突然、今までの絹のような肌触りに冷たく重さが突如として伴った。
歌うような軽さが今はまるで雷前の雨だった。血の熱が冷めながら、喉の痙攣を堪える。いま声にすれば濁ってしまうと奥歯を噛んで続きを待った。
数秒だけ、プライド自身が躊躇うように言葉は来なかった。俺のではない喉を鳴らす音が気負えて、次の「私の」の音はつんのめりかけた音から始まった。
「私の、所為で。貴方はこの人生になってしまった。選ぶ余地すらなくお母様と離れ離れになった。……だからこれはきっと罪滅ぼししたかっただけ」
どこか自嘲気味に聞こえてしまった。
さっきまでの余裕のような感覚もなく、俺をどころかまるで自分を責めているかのようだった。
罪滅ぼしと、わざと自分が悪のように語る。あのことが単なる罪悪感だけでできる筈がないというのに。
「なってしまった」という言葉に、……不思議と胸に辛く刺さった。
わかっている、出会った日のこともその夜も色褪せず記憶に残っている。プライドがどれだけ俺のことを気負ってくれていたかも、そして……俺自身も最初はこの特殊能力を呪ったことも。
母さんと離れずに済むのならこんな特殊能力なければ良かったと、城に連れていかれるまでに何度も思った。選ぶ余地だって本当になかった。もしあの時に選択ができていたら、……どんな利益を掲げられても間違いなく俺は王族よりも母さんを選んでいた。
「億の贖罪を繰り返しても許されないくらい。泣く権利も、〝あの人〟に謝る権利も、貴方に出会わせてくれたことを感謝する権利も私にはないの」
そんなこと言わないで下さい。
優しい言葉に今度こそ俺が傷付いた。わかっていた筈なのに、何年もプライドが俺のことで胸を痛めて気に病んでくれていたのだと思い知る。
〝あの人〟と語る母さんの存在に、そういえば一度もプライドは母さんを前にそういう言葉を言わなかったと思い出す。あの時は俺の方が伝えることに必死で気付けなかったが、いつものプライドならそんな言葉も言ってくれただろう。それを言わなかったのは思いつかなかったわけでも、心にもなかったわけでもなくただただ〝資格がない〟と耐え続けてくれていたのだと今更になって気付く。
アーサーは彼女の無理した笑みに気付いてくれていたのだろうか。母さんのことで精一杯な俺には気付けなかった。補佐と名乗っておいて呆れる。こんな優しい人に、何年も何年も俺と母さんを想い続けてくれた人に。何年も何年も、毎年
母さんへの便箋を俺の誕生日に贈り続けてくれた人の優しさに。
彼女が俺に出会えたことを感謝するほどに想ってくれていたことに一欠片だけ安堵しながら、それ以外の言葉に心臓を杭で刺される。
言いたい言葉はあるのに、今の苦しむ彼女の声を止めたくない。折角吐露してくれた淀みをせめて飲み込みたい。
抱き締める指に力が勝手に籠り、爪を立てないようにだけ意識する。……嗚呼、まだ、まだ足りない。
─ 何度でも〝後悔〟を与えてくれる。
「…………ごめんなさい。私までこんな弱音吐いちゃって」
指の力で伝わったのか、ふっ、とプライドが全身の力を抜くのがわかった。
下ろされてしまうと、不安が過れば違った。俺の頭を撫でていた手がまた背中へ回され、引き寄せるようにぎゅっと俺を両腕で彼女が締め付けた。
「でも貴方は違うわ。……この先も、きっと変わらないわ」
俺は違う、という言葉が少しだけ突き放されたように感じた。
しかし直後には「変わらない」という言葉がこの上なく希望を抱く声で語られる。彼女の感情の行き場を繋ぎ止めたくて、俺も腕の力を全体で強めた。一個体になったような感覚に続いて、間違いなく俺のではない彼女の鼓動が伝わった。
とくんとくんと、ゆっくりと落ち着いた音に彼女がここにいると再確認する。
─ 貴方の言葉が教えてくれる。
「怖がらないで。……大丈夫。この先相談してくれても隠しても、きっと最後に私達が辿る道に大きな差はないわ。だって貴方の考えてくれたことだもの」
光を当てられたような感覚は、朝日を迎えた時に似ていた。
花の香りと共に、プライドの深紅の髪がまとめられている所為で首筋から髪の付け根がはっきりわかる。白くしなやかな首筋を横目に、〝隠しても〟という言葉にまるで全てを許されたかのようだった。
他でもないプライドから絶対的信頼に照らされ、胸が梳く。俺の鼓動も今はきっと彼女と変わらない。一つ一つ説き伏せてくれる感覚に、少し眩暈がした。また幸せそうな声で言ってくれるものだから、言いたいことまで忘れてしまいそうになる。
「貴方は充分に綺麗な人よステイル」
この世で最も清廉な存在に、照らされる。
己への嫌悪も、疎外感も誤解も苦痛も痛みも全てがその言葉だけで幻のように消えていく。思ってもみなかった言葉に、目を絞ればまた湿り気が滲んだ。
─ 貴方の為に、汚れたい。
そんなことはありません、と言おうとする舌も痺れたように止まってしまう。
自分の淀みも穢れも歪みも分かっている。それでも、彼女がそう言ってくれるだけで本当に自分が汚れただけの存在ではないと思わせてくれる。
成長も、……彼女の傍にいても良いのだと思わせてくれる。彼女が与えてくれた身に余る評価を手放せない。この癒しに辿り着くまでに、どれだけ貴方に訂正したい言葉が生じたか。絶対それも言ってやると思いながら、…………やっと。
「っ……ありがとう、ございますっ……」
そう、言えた。
言葉の方向は異なっても、彼女に感謝を言えたことが思っていた以上に胸の締め付けを緩め放った。
これ以上泣くのを堪えようと食い縛った歯の音が響いてしまってから、口の中を飲み込む。絞り出す声になりながら、彼女の顔を見る前に俺の顔を見られる前に口を動かす。
少しでも言って欲しかったというなら叱って下さい、アーサーだって遠慮なかったのですから、傷つけてしまう前に、俺はこの人生を誇っています、罪滅ぼしだなんて似合わないことを言わないで下さい、貴方を責める人なんていません、あの人だって、と。思いつく限り言いたかった言葉を取りとめもなく紡ぎ続ければ、プライドからも途中からは返ってきた。
「うん」から始まり、次第に「そうね」「ありがとう」「そうかしら」とどこか可笑しそうに言うものだから、慰めではなく真面目ですよとつい強めに言ってしまう。
─ 貴方の期待に、応えたい。
「不満でも弱音でもなんでも言ってください。貴方だってずっとこれから先も変わりません。……変えさせません」
過去に交わした言葉も望みも誓いを何度でも、彼女が飽きようと忘れようと繰り返し唱え続ける。
彼女にそう言って貰えるのは俺にとって誉れだ。弱さでも情けなさでもプライドであればそれで良い。彼女が望むならいくらでも隠さず明かして欲しい。
「貴方は俺の全てですから」
─ まだ、踏み留まっていたい。白でも黒でもない、……この場所で。
Ⅱ6.70.123-2.134.192-2.390
Ⅰ564
Ⅱ458.146-2
Ⅱ319 傷




