そして止まる。
「ステイル、ちょっと耳貸してくれ」
私の部屋へ瞬間移動してすぐ、専属侍女のマリー達や近衛兵のジャックが迎えてくれる中でアーサーがステイルの耳を指先で軽く引っ張った。
あまり強くは引っ張られなかったからか痛そうにはしなかったけれど、代わりに引っ張られた分顔が傾くステイルは「なんだ」と短く返しながら、手に持っていた人形の包みを専属侍女のロッテに預けた。
私が持っていたネクタイも、アーサーが持っていた人形入りの箱も専属侍女二人が預かってテーブルに置いてくれる。
良いだろう、と。ステイルも囁かれた言葉に即答だった。
摘まんだ耳に向けてこそこそと何かを耳打ちしたアーサーに、私も気になって歩み寄る。仲間に入れてと意思表示に耳だけ向けてみれば、一瞬だけ口を堅く閉じた後にそっと顔を近づけて囁いてくれた。
「失礼します」と畏れ多そうに断りながら、こそこそと顰めた声でステイルに頼んだことについて教えてくれる。最後に「いいっすか……?」と少し控えめに尋ねてくれたから、内容的にもきっと私にも許可が必要だと思って教えてくれたのかなと思う。
提案してくれたことはアーサーの自由だし、私が否定する理由はない。ステイルも協力してくれるのならきっと大丈夫だろう。「良いと思うわ」と私からも笑顔で返した。
アーサーらしくて何より一番素敵なことだと思う。私からも宜しくねとステイルにもお願いをし頷いた。そうしてくれるなら私も嬉しい。
ありがとうございます。と私に向けて勢いよく頭を下げるアーサーは、ほっとしたように笑っていた。
そのまま急ぎ着替え室へ戻るべく部屋を後にする。今日はまだ他の近衛騎士が城に帰還していない中「速攻で着替えてきます!」と叫んだ。
私達の帰還がジルベール宰相に報告されてから能力も解かれる予定だしそこまで急がなくても……と思うけれど、着替え係無しのアーサーは一秒でも早く準備しておきたいのだろう。
手を振り、アーサーが急ぎ足で飛び出してからその後にステイルも続
「プライド。…………少しだけ、話を宜しいですか」
……く、と思ったところで立ち止まった。
近衛兵のジャックにより開けられた扉の前で立ち止まり、眼鏡の黒縁を指で押さえた。アーサーが自然に退室するのを待っていたように、急激に足を止めたステイルが私へと振り返る。
「俺達だけで」とさっきまでとは打って変わって真剣な眼差しに、私も喉が思わず鳴ってしまった。
こくり、と口の中を飲み込んでから了承が伝わるように首を縦に降ろせば、部屋の中にいたマリー達も無言のまま早々に着替え準備の手を止めて退室していった。人払いの意図を汲んだジャックが最後に深々と礼をして外側から部屋の扉を閉めた。
ぱたん、と閉ざされた音が空の部屋に小さく残った。人払いが済むまでその場から一歩も動かず私を見つめるステイルに、今から緊張で手のひらが湿った。無に近いその表情に、怒っているのかどうかも今は読めない。ただ、話をしたい理由を考えれば、…………怒っているのかなと思う。
正面で自分の両手を重ね指を組みながら、肩が狭まっていくのを感じる。「お忙しい中申し訳ありません」と落ち着いた口調で謝罪されても一言しか返せない。
タン、タンと絨毯に足音を吸われながらゆっくり歩み寄ってくるステイルに私も覚悟する。
彼が言いたいこともある程度はわかっている。それも全部理解した上で私は決めたのだから。
緊張のあまり口の中に小さく歯を立てながら、一歩も動かずステイルの言葉を待つ。
「…………何故、あのような」
ぽつりと呟かれた声は水面に落とされたかのようだった。
何を指しているのは確認しなくてもわかる。ギルクリスト家ではない、女子寮でのことだ。
言葉にした途端また無に染まった表情に、初めてこの城に来た時の彼を思い出す。遠い記憶に引っ掛かれ、直接指摘される前から足先が怯え強張り出した。感情を隠しているのか、いっそ混ざり過ぎてどんな顔をすれば良いのか自分でもわからないのかもしれない。
ごめんなさい。と、最初に出たのはその一言だけだった。自分でもあれが自己満足で勝手な行いだったのはよくわかっている。
私の謝罪に返事はなく、代わりにステイルからは続く疑問が投げられた。
「いつから、決めておられたのですか」
「…………知ってから、です」
アムレットと一緒に女子寮でリネットさんを紹介されてから。
ネイトから貰ったカメラの使い道も、そして最終日に決行することも決めた。
お母様とは無事に再会できたステイルだけれど、……不満に思うのも憤るのも当然だ。ヴェスト叔父様の元、次期摂政としての覚悟を私よりもずっと前から固めて取り組んできていたステイルにとって、今回は規則違反ギリギリの行為ばかりだったのだから。
歯切れが悪く答えてしまう私は、逸らしそうになる目を意識的にステイルへ照準を合わせる。
私の目前で立ち止まったステイルの表情はまだ無のままだ。昔から無表情でも、一緒に過ごしていくうちになんとなくステイルの感情が読めるようになったのに今はわからない。
本当なら再会させると決まった時点で、ステイルももっと心の準備だって本人なりの覚悟だってしたかった筈だ。
十年も開けた再会で、しかも自分は十四歳の姿で、子どもの頃はあんなに会いたくて堪らなかった相手に突然会えと促されても戸惑うに決まっている。本当ならもっと前から打ち明けて、ステイルに考える時間も悩む猶予も渡すべきだった。
大事な人との再会であれば準備もしたかっただろう。
こんな私一人の自己満足でお母様との再会を押し付けられたステイルが「会えたから」だけで許せるわけがない。
よりによって私〝なんか〟に。
「……ごめんなさい、驚かせてしまって。もっとステイルも心の準備がしたかったでしょうし、話すべきだったともわかっているわ。怒るのも当然よ。……ただ」
漆黒の瞳に、引き攣った笑顔を作る自分が映る。
まずい思考に落ちかけていると、自分を奮い立たすべく結んでいた状態から両手首をぎゅっと握った。肩が余計に力が入り過ぎて上がり、言葉をきった喉が渇く。
覚悟していたのに、ステイルからそういう表情で責められると心臓に悪い。いっそキースさんへのエリック副隊長みたいに、頭ごなしに怒鳴ってくれた方がずっと気も楽だった。…………それだけ、怒らせてしまったのだなと痛感する。
でも、これだけはどうしても事前には言えなかった。
ステイルが遠慮してしまうとか、悩むとかそういう問題じゃない。いっそ本人の意思で会うか会わないか決めて貰えるならそれが一番良かったと私だって思っている。
もしかしたらステイルは会いたくなかったかもしれない、覚悟が薄れるくらいなら手紙のやり取りだけで済ませたかったかもしれない。
この十年間以上、ずっと私の為に摂政として努力して覚悟をしてくれていたステイルにこんな揺さぶりみたいなことをするべきじゃなかったかもしれない。ただ、それでも、こうしたかった。
こうしないといけなかった。だって、こうすれば─
「こうすれば、私だけの責任で済むから」
いつだってステイルがそうしてくれたように。
その言葉を飲み込んで、不出来だとわかりながら笑って見せる。自分にその資格はないと頭では理解しながら、目の奥からせり上がってくるものを喉を鳴らして押し込んだ。
さっきまで無表情だったステイルの表情が崩れ、息を引く音が私の耳にまで届いた。
やっぱり抵触するかと今から心配になったのか、きっとステイルのことだから私の考えなんて今の一言でお見通しなのだろう。
でも大丈夫、ちゃんとステイルとリネットさんのお陰で最後までどれも抵触せずに済んだ。少なくとも今後バレてもリネットさんに被害がいくことはない。それに、ステイルにも。
唖然としたように口を開けたまま何も言わない様子の彼に、今度は私から言葉を続ける。
「本当にごめんなさい。だけど大丈夫よ、私が一人で勝手にやったことなのだから」
勿論それで許されるとは思わない。
だけど、せめてステイルの憂いを少しでも晴らすべくそう言えばさっきまで不動だった漆黒の瞳が揺れた。硬直していた身体が、今はじっとしていられないように指先からぴくぴくと微弱に震え出す。
細くも男性的な喉が、上下しているのがわかった。見開いたまま瞬きを忘れたステイルに、私は頭を下げる。ごめんなさいと、何度だって言う覚悟も許して貰えない覚悟もある。
それでもどうしても〝私一人が〟ただ二人を会わせたかった。
自己満足で勝手で偽善だとわかっている。
それをこれからステイルにも言われるのだろうなと思いながら、私は息を吸い上げる。ステイルが落ち着くように、そっと頬へと手を伸ばしながら勇気を出して半歩さらに歩み寄る。
手の届く距離からもっと近くへ詰めても、ステイルは後退しなかった。触れた頬は、既にじんわりと湿り気を帯びていた。動揺の色が強い彼は、もしかして今も私を必死に許そうとしてくれているのだろうかと
「すみません…………でした」
ぽつんと。
その声と殆ど同時に、頬へ添えていた手に雫が落ちた。
唐突に予想しなかった言葉を返されて、私は二度瞬きを繰り返す。無表情に近かったステイルの目から落ちた一筋に、一瞬見間違いかと思ってしまう。
けれど見間違いでも何でもない。間違いなくステイルのものだ。
どうして、と思った瞬間にステイルの表情が急激に歪んだ。
眉も目も苦しげに狭まり、歯を食い縛る。眼鏡の奥を拭おうともせずに、頬に沿わせた私の右手を掴んだ。
ギリッと酷く歯を食い縛る振動が音と一緒に手のひらに伝わってすぐだった。震える指先で触れ、そのまま手首から掴んでくるステイルに私も濡れた指を引っ込める。
掴まれた手の位置だけ変わらないまま、どうしてステイルが急に涙を零したのか、考える。こんな苦しそうに泣くなんてと、私が思った以上に追い詰めてしまったのだろうかと思った中でまた。
「すみません……、すみません、すみません、すみませんすみませんすみません、すみませんっ……」
一音一音絞り出すように続けるステイルが、最後に緩めた手を背へ回してきた。
辛そうな息の荒さで、回した腕と包んだ反対の腕が優しい。まるで壊れ物のように包まれながら、混乱しているようにも見える彼を私からも背中に腕を回して落ち着かせるべくそっと添える。
まるで全身に激痛が走っているように強張り張り詰めきっている彼を、そっと背から撫でおろす。
私の台詞の筈なのに、何故か逆に謝罪を繰り返してくる。黒髪が私の首筋に掛かり、肩へと交差する彼の表情がもう見れない。
ただひたすら「すみません」と早口で何度も繰り返す彼が、自分を追い詰めていることに理由を理解できる前に胸が痛んだ。
腕が振るえるほどの強さで抱き締めてくれた直後、掠れた音で今度は「ごめんなさい」と言うのが、耳の吹きかけられた息と一緒に聞こえた。
噛み締められるような苦しい声で。…………どうして。
悪いのは、私なのに。




