Ⅱ454.嘲り少女は取り繕う。
「ありがとうジャンヌ。でもこうして聞いてくれただけで本当に助かったから。いつか私の実家にも是非遊びに来て。!あっそうだ最後に紹介したい人がいるの」
そうアムレットが提案したのは、彼女の部屋を訪れたプライドの帰り際だった。
ラスボスの名前を思い出したばかりに飽和していた頭で、階段を降りながら提案してくれたそれにも快諾した。
アムレットに先導される形で辿り着いた調理場、そこに立っていた女性の背後姿にも最初は何とも思わなかった。甘い香りを溢れさせ竈の前に立っている姿に、アムレットが持ってきてくれたお茶も彼女が淹れてくれたのだろうかとだけ考えた。
「リネットさん!」とアムレットが呼んだ時、聞き覚えがあるとは思ったがそれまでだ。ただし、その後振り返った女性の顔を見た途端に言葉を失った。
柔らかく流れる黒髪を降ろし纏め、漆黒の瞳を宿す女性。生活感の溢れる衣服を身にまとい、歩きやすそうな靴で佇むその女性は「アムレット」と彼女の名を呼びながら柔らかな表情を自分達に向けた。
その顔つきは間違いようもなく、自分の良く知る青年に似ていた。
「紹介するね、ジャンヌ。この人は寮母さんのリネット・リーリヤさん。実は元の街でもご近所さんで、私も子どもの頃からすごく良くして貰ったの」
そう言いながら調理場の入り口から紹介されたプライドは、瞼を失ったまま相槌どころか声も出なかった。
明らかに面影を強く残す女性を前に、アムレットから〝元の街〟と言われれば疑いようがなかった。エフロン兄弟の住んでいた街、それは間違いなくステイルの住んでいた街と同義なのだから。
内側から溢れる身震いを自覚しながらも、プライドはその瞬間だけラスボスのことも忘れた。目の前で自分達に向き直った女性を穴が開くほど見つめながら、その名を脳に焼き付けた。
〝リネット〟も〝リーリヤ〟も前世のゲームですら知ることのなかった名前だ。だが、どこか聞き覚えのある名前の響きに、記憶を辿れば優秀な頭脳が怖いほどすぐに引き出した。
『リネットさんとこなら安心だし』
初めてアムレットの兄であるフィリップに出会った日の言葉だ。
アムレットが特待生となり奨学金を得て女子寮に移るとなったことを語る時に、確かに彼はその名を上げていた。雇い主と共に挙げられたその名前に、当然のように働き先の一人のことを語っているのだと思い込んでいた。しかし、あの「安心」というのは自分の職場という意味ではなく「アムレットを安心して預けられる」という意味だったのだと今理解する。
あの時はまだ馬車の中に籠っていたステイルに会話も届いていなかった。
紹介された後もアムレットからの話は殆ど耳から抜けてしまった。
フィリップやパウエルの話題を出されても目の前の寮母でいっぱいになった。更にはリネットへ自分の紹介をして貰っても、思考を巡らすことすらすぐにはできなかった。
頭ではわかっていた筈でも、実物を目にするのでは衝撃が違う。ゲームではラスボスプライドの所為でステイルに殺されてしまった女性の存命と、一目でわかる温かな空気に気が付けば視界がぼやけた。
それ以上込み上げる前に指で拭い、口の中を噛んで堪えた。今、それを自分が味わってはいけないと反射的に思った。
「初めまして、ジャンヌさん。アムレットと仲良くしてくれてありがとう」
ずっと貴方が遊びに来るのを楽しみにしていたのよ、と。
そう続けて柔らかく笑いかけてくれる姿に、それだけでプライドは奥歯を噛んだ。カチカチに固まった身体の節々を自覚しながらも表情に意識した。社交界で鍛えた表情筋を使い、必死に自然な笑みで微笑んだ。
お会いできて光栄です、と心の底からの言葉を返しながら、歩み寄ってくれた彼女と握手を交わせば手のひらに湿り気が帯びた。式典で王侯貴族と交わす百倍の緊張に胸が潰されそうになりながらも、あくまで自然体を意識した。
寮の先にはステイル達が待っている、ここでアムレットに怪しまれたらそのままステイル達の前でもどうしたのか尋ねられる心配もある。〝まだ〟リネットの存在を言えないと、それだけは優秀な頭脳が判断した。
「!そうだわ、帰るならジャンヌも持っていって。ちょうどクッキーが焼けたところよ」
ありがとうございます、と言いながら社交的な笑顔で答えるプライドに、リネットは竈からクッキーを取り出した。
分厚いミトンを両手に、細腕で危なげなく竈から鉄板を取り出す姿に手慣れているなと頭の隅でプライドは考えた。
今すぐ走り出したい気持ちにもなったが、それよりも目の前の女性が焼いてくれたクッキーを持って帰らないわけにいかない。目の前で焼き立てから包まれ、手渡されればこの上なく貴重品を差し出された気持ちで受け取った。
自分の正体を知らず、穏やかに微笑みかけてくれる女性と目を合わせながら静かに胸の内だけで決意した。
ラスボスとして悪賢い頭脳を回し、この国の法律を学びきっている彼女はこの瞬間には決意した。
全てを終えた日には、潜入視察を最後に控えたその日には、絶対にもう一度ここへ訪れようと。
ステイルも、母親も規則違反にならない方法と共に。
……
「……なので、リネットさんにも最後どうしてもご挨拶したくて」
お忙しい中本当にごめんなさい。
連れてきた生徒が一人去った後、重ね重ね謝罪をしながらも、自分達が今日で最後であることを語るプライドにはもう戸惑いの色はなかった。
気を抜くと頬が攣りそうになったが、それ以外は自然体を演じきった。二歩背後にステイル達を待たせたまま、何事でもないように平然と寮母と語らう彼女に待たされた二人は一歩も動けない。
今にもプライドに話を振られるか紹介をされるのではないかとステイルだけでなくアーサーも肩を強張らせたが一向にその気配もない。それどころか
「残念だわ。また戻って来たら是非遊びに来てね」
「ありがとうございます。リネットさんが焼いてくれたクッキー、すごく美味しかったです。こんな素敵な寮母さんがいるんだって、すごく感激して……」
一度もこちらを振り向かない。
社交界で来賓に応対している時のように、リネット一人にプライドだけが語らっている。アーサーにも、リネットの実の息子であるステイルにも背中を向けたまま他愛もない話に花を咲かせている。
自分の手首を掴んだまま息すらまともにできていないステイルの肩へ腕を回したまま、アーサーは一体どうすべきかと少し考える。
プライドの違和感を感じる笑顔も苦かったが、それ以上に全く何の合図もないことに眉間を狭めてしまう。クッキーという単語に一度ビクッと身体を震わせたステイルだが、それ以上は顔すら俯けたまま向けようとしない。
瞬間移動で消えなかったのは良いが、アーサー自身ここでステイルを背中に隠せばいいのかそれともプライドの隣へ押せば良いかもわからない。王族の規則自分も把握しているのは極常識の範囲内だけだ。
ここで「貴方の息子です」と紹介してはいけないことはわかる。一度は自分も昔、代わりに母親の橋渡しを提案しステイルに断られている。エフロン兄妹のように単なる過去の関係者であれば仕事上関わることは許される。しかしリネットと呼ばれる寮母はステイルの実の母親だ。
そんな相手とステイルを引き合わせるのなら、どこまでが許容範囲なのかはアーサーも自信はない。そして、法律を全て把握している相棒にも今は聞ける状況ではなかった。
プライドも自分達を促すことも、紹介すらしない。だが、無意味にただステイルを連れてきたとも、プライドが気付いていないとも思えない。
「あらそんな物が……。そういえば、その額のゴーグル?かしら。以前は付けていなかったわね」
「そうなんです。こっちもすごくお気に入りで。私、実はアムレットには内緒にしてたんですけど寮暮らしにも憧れていて」
会話もどう聞いてもステイルを紹介する為の前置きには聞こえない。
それどころか、アーサーが耳を傾けてみればとりとめもなく話題が右往左往している。本当にただのお茶会の長話だ。
もしかするとステイルに母親の姿を見せる為に連れてきただけかもなとアーサーは考える。少なくとも偶然会ってしまう程度なら刑罰には入らないとは思う。ステイルは庶民だが、元の家が上流貴族だったら普通に王族と会話する機会だってあったかもしれない。
ただその場合、どうしてプライドはわざわざ付けてきたゴーグルをステイルに貸さなかったのかだけが気になる。
しかし本当にプライドがただ見せる為だけだったならば、せめてきちんと母親さんの元気な姿だけでも見ておくべきだと。アーサーは一度深呼吸を済ませた後にそっと回していた腕を降ろした。
掴んでいた肩を離し、ステイルの背中を回した時に丸くなった骨ごとのばすように叩いた。「顔あげろ」と短く言えば、俯いたステイルの背筋だけがさっきよりも伸びた。しかし、まだ顔をプライド達へと向けようとはしない。
アーサーの手首も掴んだまま、微弱に震える全身は尋常ではない汗が滴っていた。変わらず短い息音だけを零しながら、焦点が合わない目はたとえ顔を上げても認識できることはなかった。
視覚だけでなく聴覚までも耳鳴りが酷く、会話が聞こえない。プライドのその口から長く聞かなかった母親の名前を唱えられた時から、もう今すぐ倒れてもおかしくないほど五感に影響を及ぼしていた。
アーサーが居てくれなければ、本気で瞬間移動で逃げてしまっていたかもしれないとステイルは途切れかける思考で思う。
狼狽ばかりで焦るだけの頭の極一部は、酷く冷静に稼働し続けていた。
何故、どうしてここに、城から報奨金が、知らなかった、何故プライドは、と同じ疑問が何度も浮かんでは弾けていく。
少し考えればすぐに検討はついた。しかしそれでも何度も何度も疑問を浮かべては同じ答えを浮かべてを繰り返す。
法律について全て把握しているステイルもまた、現状がどこまで許容の範囲内なのかはプライドと同じく理解する。
今、こうして立っていることは問題ない。第一王女であるプライドが、あくまで〝ジャンヌ〟として語らうのも問題はない。
そしてプライドがわざわざ今日まで隠して、自分をここに連れてきた理由も。そして、だからこそ
─ 駄目だっ……‼︎
「ジャック、ごめんなさい。ちょっと良いかしら」
振り返られたのは突然だった。
暫く雑談を続けていたプライドが、不意にアーサー達へと振り返る。「はい⁈」と裏返りかける声を上げたアーサーも、流石に肩が飛び上がった。そのまま二歩背後にいる自分達に歩み寄るプライドを皿のようになった目で見返してしまう。
自分の傍らには明らかに動揺を隠そうとしているステイルがいるのに、今だけはプライドにも見えていないかのようだった。
両手を伸ばし、アーサーから自分のリュックを返して貰う。「ありがとう」の笑顔すら、今は取り繕いも感じるプライドの笑顔にアーサーは背筋が一瞬だけひんやりとした。
社交界や式典でもプライドはここまで取り繕った顔をすることなど滅多にない。しかもここでもステイルを無視する理由がわからない。
万が一リネットが母親だと気付いていなくても、こんなに顔を俯けているステイルには必ずプライドならどうしたのと一言くらい
「どうしたの?」
……ある、と思ったアーサーは直後に血の気が引いた。
ステイルを心配する、プライドではない声に目を剥いた。まだ自分の中でステイルを隠せばいいのか背中を押せばいいのかも決まっていない。まさかプライドがこれを狙ったのかとも考えたが、背後に振り返ったプライドも取り繕いなく目が丸い。
さっきまで雑談を交わしていた相手であるリネットに、今はプライドも口を結んでしまう。
寮母である彼女の視線は今、プライドではなく明らかに具合の悪そうなステイルに向けられていた。
明らかに自分へ向けた声にも、ステイルの身体が大きく震えた以上返せなかった。アーサーを握る指が腕ごと酷く強張った。血管が浮き出んばかりに力が籠るステイルに、アーサーも今は何も言わない。
いつの間にか無表情ではなくなった親友が、今どういう顔をしているかは想像できた。呼びかける声が母親だと気付いてしまったステイルは、無言のまま下唇を噛む。
─ こんな声だっただろうか。
「具合でも悪いのかしら。ジャンヌのお友達?男の子は寮に入れないのだけど調子が悪いなら特別に……」
呼びかけても、俯けた顔を上げない少年にリネットは少し腰を曲げた。
下から顔色を確認しようと膝も落とし下から覗き込む。上に羽織っていた布が地面に付かないように丁寧にまくりながら姿勢を低くする。
返事もせずに俯く少年を見つめながら、管理人室か自分の部屋で休むかと提案する。基本的に男子禁制の女子寮だが、体調不良者を保護しないほどに融通が利かないわけではない。
そんな母親の声を聞きながら、ステイルはきつく瞼を一度絞った。まだ目から零れる感覚はなかったが、代わりに力の限りしぼった後に滲んだ。
目の前にいるのに目を擦るわけにもいかず、首だけが折れたかのように項垂れる。十一年ぶりに聞いた母親の声はあまりにも遠く薄れていたことに今更気づいた。
懐かしさが津波のように込み上げ、そして忘れてしまっていたことに罪悪感で胸が小さく痛む。
─……こんな、声だったんだな。
今でも、十一年前の姿そのままで思い浮べていた母親の姿を間近で確認する勇気が持てない。少し、ほんの少し顔の角度を上げればすぐだとわかっていてもどうしても。
しかし一方的に自分へ案じてくれる母親の声を聞いているうちに、だんだんと耳にもその声が馴染んでいった。この上なく懐かしく、息が詰まる。
指の色が白く変わるほど、自分の胸を鷲掴む方にも力を込めてしまう。そして顔を覗き込もうと近づけてくる彼女からは覚えのある懐かしい香りがした。その香りだけで、やっぱり間違いなく母親だと思い知る。
顔を見たい。自分を体調不良と思い込んでいる目の前の女性の顔を、明確な視界で確認したい。胸がそう叫んで急き立てても感情を押さえつけるように視界をまた閉じる。
プライドが何故こんな手を使ったのか、自分に何を期待し何故何も振ってくれないのか教えてくれなかったのかもある程度理解してしまった。
だからこそ、受けられない。
─ もう、貴方はしてくれたではありませんか……
なのに何故、と。
既にもう十以上考えた疑問に、頭の中が発熱して目眩がする。身体が意図せず勝手に縮み上がり、全身の神経全てが思うように動かない。心臓のバクバクとした音が内側から身体を叩き、その振動だけで崩れそうになる。瞬きもできないのに、眼球が薄く潤み焦点の合わない視界が白くもやがかっているようだった。
逃げたい、逃げたい、記憶を消したい。目の前の現実から背けるように思考が意味もない危険信号を鳴らしてくる。本当にこの場から去りたいわけでも、忘れたい訳でもないのに形もなくそう思う。バクつく心臓音がまるで何かの秒読みのようで怖くなる。
俯く自分に気付かず話し掛けてくる女性を相手に、顔をあげるのが死ぬより怖い。こんな、真正面で見て気付かれたらどうなるか。それとも全く気づかれなければそれもきっと胸が抉られるほどに辛い。
気付いて貰えなくても、気付かれても自分は平常心ではいられない。今だって自分がどうするのが本当に正しいのかわからない。
─ 違う‼︎わかってる、わかってる、ここで規則に反すことだけはできない。プライドだって、だから俺達を紹介はしなかった‼︎
自分が規則を破るわけにはいかない。法を犯すわけにはいかない。
自分一人が被るなら別に良い。この一瞬一秒一時を叫び出したいほど渇望したこともある。城下に降りればその度に都合の良い偶然を思い浮かべたことも十や二十じゃない。もし、このことで罰せられるのが自分だけなら、間違いなく躊躇わない。その他大勢よりもずっと優先したかった大事な人が目の前にいるのだから。
俯けた視界でプライドがどんな顔をしているのかもわからない。意図せず想定以上に接近してしまい戸惑っているのか、それとも、と。
一瞬、戸惑い以外の表情を自分に向けているプライドを白い視界の中で想像すれば、バチバチと今度は頭まで瞬いた。自分の妄想なのに、本当にそんな気がしてならない。
アーサーを掴む手も、胸を押さえる手も震えが止まらない。
「大丈夫?凄い汗……いらっしゃい、すぐ保健医を呼ぶわ」
持病?と、心臓を押さえる手に細い指が重ねられる。
一人硬直し、風通しの良い日なのに地面へ汗を滴り落とす姿はリネットには重病にも見えた。俯けたまま黒縁眼鏡にまで水滴を溜まらせる少年に、ジャンヌ達も何も答えないから余計に心配になる。共有部屋は駄目でも、自分の部屋になら少し休ませるくらいは良いだろうと考える。
背中に手を添え、まだ十四前後の少年を寮へと促すがそれでも彼は一歩も動かない。踏みしだいた地面に靴で噛み付いたまま、石像のように動こうとしない。隣に並ぶ銀髪の青年に固く左手が掴まったまま、足を動かそうとする素振りもなかった。
動けるわけもない、今その少年は自分がどう振る舞うべきかも決断ができていなかったのだから。
顔を上げたい、息を大きく吸い上げて、焦点の合ったこの目できちんと彼女の姿を確かめたい。直接言いたいことだっていくつもあった。伝えたいことだってある。
顔を見せて、顔を見て、自分だと叫びたい。子どもだったあの日のように飛び込みたい。もっと声を聞いて、自分の声を聞いて欲しい。元の姿に戻って、成長した姿を見せて、背が伸びたと驚かせてみたい。一度その感情に向き合えば、本当に七歳の子どものような欲求ばかりが浮かび上がる。だが、
─……できない。
そう誰でもない自分自身へ言い聞かせるようにステイルは口の中を噛んだ。ガリッと、自分に響くほど勢い良く噛んだ所為で血の味に満たされた。
自分は、できない。そんな全てを許されるわけがない。ここで自分が「ステイル」と名乗り、親子として再会すれば城の決まりを反することになる。
極秘視察に託けて母親に会いに行ったなど、王族の自覚がないどころじゃない。自分は勿論のこと、それを受け入れたら母親も、そしてここまで引き合わせたプライドまで罰せられる。今まで築き上げた周囲からの信頼を落とすどころか、今後二度と自分は城下すら降りることを禁じられるかもしれない。
そう自分を断じた瞬間、ほんの少しだけステイルの思考が冷えた。わかっている、最初からと。
自分はもうプライドに充分あの日救われた。だがら彼女の為に在り続けようと、彼女の為に補佐として努めようと決意した。歴代の摂政が乗り越えたそれを、自分だけが避けるわけにはいかない。もう、自分は王族なのだから。
意識的に息を深く、胸が膨らみきるまで吸い上げる。自分を心配してくれる女性に、これ以上心配させたら余計に不審に思われる。
藁にも縋るように掴んだ相棒の手から、少しずつ力を緩めて離す。ぱたり、と落ちるように手を下ろしてもアーサーは何も言わなかった。
行きましょう、とまた目の前の女性が寮内へ背中へ添えた手で促してくれる中でステイルは一度眼鏡の黒縁を指で押さえた。濡れ、曇り、視界がまともじゃないが今は外すわけにはいかない。
ゆっくり、ゆっくりと一秒一秒時間をかけて顔を上げる。曇ってお互い顔が見えにくい眼鏡も今は都合が良い。白く曇った眼鏡は寮母側からも少年の目が確認できなくなった。
「大丈夫です」となるべく自分らしくない声色に低め、飲み込んだ喉でやっとステイルは一言返せた。ぼやけた視界で、自分だけが目の前の女性へ向けて眼鏡の隙間でその顔を覗き見た。
ぼんやりとガラスの向こうでは曇った輪郭が、硝子一枚の隙間からの視界にははっきり表情まで見えた。心配そうに眉を垂らし、本当?無理しないでと唱えてくれた女性が曇り硝子越しに自分を見て
「!す、……っ」
ぽつり、と。
一瞬見開いた目で、女性が呟いた一音にステイルは今度こそ心臓が止まった。
女性自身、呟きかけた途中で思わずという様子で口を両手で覆い止めた。我が子と同じ漆黒の瞳を限界まで開いて揺らし、覆った口で肩ごと呼吸を繰り返す。そのほんの数秒の動作で、ステイルは胸が棘で掴まれたかのようだった。たった一音だけなのに、彼女の表情だけで何と言おうとしてくれたのか確信してしまう。
覆った手を降ろし、気を取り直すように「ごめんなさい」と恥ずかしそうに笑う女性はきっともう自分を疑っていない。いくら似ていても十三歳の庶民の少年は、十一年間の空白を持てば母親にも他人の空似でしかない。声変わりした十八の息子の声すら聞いたことがないのだから。
「無理しないで良いのよ。貴方お名前は?」
もう、他人として再び言葉を重ねる女性にまた肩ごと震えて込み上げた。
目の前の女性が、忘れないでいてくれていると自分が誰よりも知っている筈なのに、ほんの一瞬でも気付いてくれたことが動揺してくれたことが嬉しい。
何度も何度も細かく鉄の味を飲み込みながら、必死に表情を取り繕う。
ここは社交界で、自分はいつもの笑顔にすれば良い。いやそれよりも無表情を意識した方が気持ちも抑えられる。再び顔を俯かせないように意識的に顎の覚悟を上げながら、ステイルは必死に思考する。曇っていた硝子の先も、今は水滴分滲み歪んだだけだった。きっと今は彼女にも、自分の顔がさっきよりもよく見えていると理解する。
それでも、一度頭で否定した思考に女性も二度は揺らがない。さっきまで心配そうに歪ませていたとは思えないほど柔らかな笑顔を向けてくる彼女に、きっと自分と一緒で戸惑いを隠しているのだと察してしま
「……愛しています」
心臓に押された、その言葉に。
女性は、最初わからずきょとんと両眉を上げた。小首を傾げ、笑顔に努めた口角のまま聞き返そうとして途中で止まる。
黒縁眼鏡の奥で、透き通った雫を頬へ伝わせる少年に息を飲み、拍動が大きく鳴り響いた。
Ⅱ327.197-2.170
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