Ⅱ453.嘲り少女は越える。
「な、にをやってるのですかジャンヌ……‼︎」
ジャックお前もだ!と。
立ち止まり、一度に息を吐き出したステイルは丸めた背中で両膝に手をついた。大して走ったわけでもないのに、無駄に息が切れたと思いながら言葉を絞り出す。
プライドが突然窓を飛び降りてから、アーサーに担がれ降下した後もとにかくその場を去ることを優先した所為で指摘する暇もなかった。
五組の窓から飛び降り中庭側から高等部校舎を横切り初等部校舎まで逃亡したプライド達は、やっと足を止めたところだった。
中等部高等部と違い、寮住まいの下級層生徒が多い初等部幼等部は放課後が過ぎた今も校舎や外で戯れる生徒が多い。
紛れるには背も高過ぎる三人だが、上級生ということ以外は注目されない為に横目で見られる他は彼らへ立ち止まろうとする生徒もいない。ちらちらと振り返り、見慣れない生徒だと思うだけだ。
既に放課後になってから時間が経過している為、今から下校する生徒はニ棟には一人も残っていなかった。
校舎の壁際に寄り、やっと立ち止まった三人は互いに身体を向き合わせた。
「ご、ごめんなさい。そのっ居ても立っても居られなくて、つい……」
ぽわりと動いたこととは関係なく頬を桃色に染めて謝ってくるプライドに、ステイルは再びハァと息を吐いた。
彼女が慌ててしまった理由もわからなくはない。逃亡と言うにはあまりにしっかりと別れの挨拶まで済ませてからの幕引きを考えれば、彼女が誠心誠意頑張った結果だろうとも思う。
本音を言えばもっと早々に逃亡してくれても良かったのにとも考えてしまうが、彼女なりにしっかりと向けられた好意を返したかったのもわかる。もともと昔から自分宛に届く恋文も一つひとつ丁寧に目を通している彼女だ。断りも入れ、気持ちも返した上での別れを告げた後に逃走を図った彼女の心情もある程度は理解できる。……ただし、逃亡先は窓ではなく扉の向こうであって欲しかったと切に思う。
ぐんなりと額を重そうにする自分に、消え入りそうな声で「それに廊下で学級の子に会うのも気まずいし……」と言われればそこだけは小さく頷いた。
同じ男性として、告白した相手が廊下に出た途端出待ちをしていた友人に囲まれるのも、だからといってジャンヌより先に教室を後にするのも気まずさは同じだ。
ある意味、廊下に出た途端友人達に囲まれても「ジャンヌ達は窓から飛び降りた」と言えばそちらの印象で振られた事実を生徒達も早々に受け流してくれやすい。彼にとっても失恋の後のなかなかな衝撃的光景にはなっただろうと思う。……ただし、三階から飛び降りるなど危険極まりない行為であることには変わりない。
「生徒が真似をしたらどうするのですか。あの高さから飛び降りるなど常人には不可能なのですからね?ジャック!お前も反省しろ」
わりぃ、と言いながらアーサーは頭を掻いてしまう。
自分でも自覚していた以上に告白の前後で頭が茹り切っていたんだなと自覚する。プライドが飛び降りるのなら、護衛である自分も一秒すら離れられない。そしてステイルには飛び降りるのには危険な高さだという認識もあったからこそ、彼を担いで飛び降りたアーサーだったがそれよりもプライドを止めれば良かったと今は思う。
プライドならあの程度の高さは余裕だという確信があった上、自分にとってもたかが三階は危険というほどの高さでなかった所為で認識が遅れてしまった。
あそこでステイルが突き飛ばされたのならまだ慌てられたが、自ら飛び降りたプライドに危険という感覚はなかった。自分がステイル一人を抱えても無事に着地できる程度の高さだ。
顔色を少なからず紅潮させながら言うアーサーにステイルも、肩を落とす。
プライドが最終日にまた目立つ行動を取ってしまったこともそうだが、相棒であるアーサーに担がれて着地したのも若干敗北感に押されて苛立ちが強まっていた。自分だって瞬間移動を使えば!!と言いたい気持ちと、そういう問題ではないという理性が言葉にできずに鬩ぎ合う。
「大体、あの場で貴方に付いていけなかったらどうするのです。ジャックはさておき、俺はあんな降り方しかできなかったのですよ」
「?ええと、……ごめんなさい。そこはあまり心配していなかったわ」
一瞬だけ小首を傾げ、それから肩を竦めてステイルの言葉に苦笑する。
まだ説教体制である彼に、言い返しては悪いかしらとも思ったがそこだけは否定した。
ぴくりと間を狭めていた眉を上げ、視線をくれるステイルときょとんとした表情で見返してくるアーサーを交互に見比べる。ごめんなさい、と竦めたままに身体の正面で下ろした手で指だけを組んだプライドは正直に自分のはずかしい言い訳を口にする。
「二人なら何があっても絶対追いかけてきてくれるって知ってたから」
今思えば甘えだったなと、反省しながらもプライドは笑ってしまう。
生徒達に詰め寄られていた時は自重したが、あの瞬間に窓から去ろうと思ったら絶対付いてきてくれると思えてしまった。第一王女の護衛関係なく、二人なら絶対にと確信があの瞬間は勝ってしまった。
完全に二人の優しさに傾いて振り回したと自覚しながらも、その顔は眉を垂らしたままに綻んだ。青年の純粋な告白に応えられなかったことは胸が痛んだが、同時に窓から飛び出してもどこまでも追ってきてくれる人がいることが身体の端々まで擽ったくなった。
ごめんなさい、とプライドが口にしても、ステイルとアーサーにはその声色にどこか悪戯っぽさを感じてしまう。
自慢げにも聞こえるそれに、その誇らしさの理由が誰に向けられているか感じた途端、身体の芯から熱が拡散した。瞬く間の内に血色にまで及べば、それぞれ口元を押さえたまま顔ごと目を逸らしてしまう。
バッ‼︎と風を切る速さで自分から顔を背けられたプライドは目を丸くして二人を交互に見比べた。どちらも血色が赤赤と妙に良い上に、自分から目も合わせてくれない。二人の優しさに完全に付け込んだと自覚したばかりの分、次の瞬間には「ご、ごめんなさい」と今日で数度目の謝罪を慌てて放った。しかし二人も、プライドの謝罪にすぐ返せるほどの余裕はない。
─ ずるい。ずるい、……ずるい。
ステイルは胸の中だけで十度以上繰り返し唱えながら口の中を噛んだ。手の甲で唇が潰れるほど押さえつけながら、目を強く絞った後も直前に見たはにかむプライドの表情を反復させてしまう。
自分にしては厳しめに窘めていた筈なのにそんな嬉しそうな顔をするなんてずる過ぎると思いながら、さっきとは別の敗北感に叩き伏せられた。
─ いやそりゃァ地の果てでも底でも行きますけど!!!!!
アーサーもまた、胸の内で絶叫しながらも言葉にする度胸は枯渇した。
目の前ですんなりと自分達への信頼を当然のように示してくれたプライドに全身の筋肉が緊張で張り詰めてしまう。
ステイルからも怒られ、流石に乗り気過ぎたと自分なりに反省したばかりなのに気が付けば喜びを噛みしめるように右手がグッと拳を握っていた。腕ごと使って口を押さえつけながら軽く下唇に歯を立ててしまう。
謝罪にもなかなか返答をくれない二人に、プライドもあわあわと視線を泳がせた。
自分の言ったことは良くも悪も正直すぎる甘えだったと今度こそきちんと反省する。途中で窘めを中断させてしまったステイルに代わり、自分からも別の反省点を自戒する。
「あと、……それに口づけの時も拒むのが遅れてごめんなさい。もう少し早く動けば二人にも心配かけなかったのに」
反省の色を示すように萎らせたプライドの言葉に、二人の肩は同時に激しく上下した。
それもあった!と互いに同じ言葉を頭に浮かべる中、必死に背けた顔色を冷ませる二人にプライドの言葉を続く。
「でも、今回はちゃんと自分で防げたわ。あの年で……なんて驚いちゃうけれど、男の子だものね」
少し冗談めいて言うプライドの声を聞きながら二人は学校視察を始める前のことを思い出す。
近衛騎士達とステイルで飲み会を開いていた時にエリックから告げられた助言が、怖いほど頭に繰り返された。本当に十四歳はなんでもやる、とそれを痛感させられれば自然の身体の熱が冷めていく。
あの時は自分の心臓にも悪かった。眼鏡の曇りの所為とはいえ一瞬間に合うかも怪しいと思ったアーサーも当然ながら、気付いた時にはもうプライドの眼前に顔を接近させていた青年のことを思い出せばステイルも記憶だけで思わずバクバクと焦燥を音にする心臓を鷲掴んだ。
相手は未成年の子ども、しかも相手をジャンヌとしか認識していないとはいえ第一王女であるプライドが唇をこんなところで奪われるなど笑いごとでは済まない。極秘視察の最後の最後に悲劇の重罪人を出すところだったと今も本気で思う。なによりこんなところで彼女の唇を奪われたなどということになれば、いっそ倒れる自信もある。
そこまで考えた時、ステイルの思考には続いて別の場面が頭に浮かんだ。幸いにも自力でマルクからの口づけを拒めたプライドが、その後自ら行った衝撃について。
「ところでプ、ジャンヌ。……何故あそこでわざわざ頬に口づけまで」
ぽつぽつとなるべく平坦に言ってみたが、それでもステイルの声は低まった。
あくまで〝お詫び〟そしてたかだか頬へのだということはステイルも分かっている。しかし、正体を言えば第一王女である彼女からと思えばあまりに盛大な贈り物だと思う。
問いかけから再び手の甲で口元を押さえつけるステイルに、プライドは今度は少し笑ってしまった。ステイルが気にするだろうことは意外ではないが、それでもあくまで頬だ。
「友達として、親愛の印を贈りたくて。気持ちは本当に嬉しかったもの」
そう思えば、プライドもくすりと小さく微笑む余裕もあった。
貴族を含む上流階級では友人同士の親愛の証や家族や家族同然に親しい相手へ頬の口付けで挨拶することはある。しかし、それをよりにもよって庶民として扮している今行うことになるとは思わなかった。
プライドが悪ぶれもせず、むしろどこか晴れ晴れとした笑顔にも見えればアーサーもステイルももう文句が言えなくなる。
誓いでもない、あくまで親愛の証か挨拶程度だ。何より彼女は間違いなく断った。これ以上、断り方にまで自分達が文句を言う資格はない。
諦め混じりに肩を落として諦めたステイルは、そこでハッ‼︎と突然息を飲んだ。俯き気味だった顔を上げ、明らかに顔色を変えた彼に二人も驚いて見返す中、ステイルの漆黒の眼差しはアーサーへと向けられた。
「ッお前は同じことしなくて良・い・か・ら・な⁈」
ぐいっとアーサーの三つ編みを引っ張りながら言い聞かせるように声を荒げる。
予想外のステイルからの念押しに、アーサーも髪束ごと頭が斜めに傾きながら「わァってる‼︎‼︎」と倍の声量で言い返した。まさかそんなことでステイルに心配されると思わなかったと、僅かに落ち着き始めていた熱が再発した。
しかしステイルからすれば、女性への断り方すら慣れていないであろうアーサーが誠心誠意をやり過ぎることは充分心配の域だった。
アーサー自身、十四歳の少女相手にならもし求められたら頬くらいしないことはないと思う。だが、積極的にしたいとは間違っても思わない。
同教室の友人として良くしてくれたと思うが、親愛の挨拶を示す自分を想像するだけで目を覆いたくなる。女性に対して頬に口付けなど安易にしたくない。
ステイルやカラム、クラークならさまにもなると思うが、あまりに自分じゃ不相応だというのが本音だった。少なくとも人前ではしたくない。そしてプライドやステイルに見られるのは特に嫌だった。
強く引っ張られ過ぎたせいで傾いた頭に銀縁の眼鏡まで僅かに傾き過ぎる。いい加減やめろとステイルの手から自ら銀髪を鷲掴んだアーサーはそのまま引っ張り返した。純粋な腕力では当然ながらステイルを上回る。
しかし手放した後も、ギロリと用心深く睨むステイルにアーサーも蒼色の眼差しで睨み返した。プライドの前で何を言うんだとも思ったが、そもそも話題のきっかけになったのは彼女の大盤振る舞いでもある。
「!そうだレイの教室にいかなきゃっ、アーサーの方は大丈夫?教室飛び出しちゃったけれど、その……挨拶したい子に」
「大丈夫、です!残ってた人には挨拶できましたし俺よりジャンヌの方を優先して下さい」
「お言葉ですがジャンヌ、恐らくレイは間に合わないかと。下校時間も大幅に過ぎてしまいましたし……」
生徒達を置いて教室を後にし、そのまま最短距離で校舎を後にしてしまったことを今更アーサーに申し訳なくなるプライドに、ステイルが追い討ちをかけてしまう。
直接断りをいれたいアーサーにとって既に生徒が帰ってしまったであろうことのように、プライドと約束もしていないレイがこの時間帯まで教室に残っているとは考えにくい。ライアーが帰ってこないだけで遅刻しかけた問題児であれば猶更だ。
確実に出そびれてしまい、がくりと首と肩を丸めるプライドにステイルも「一応教室を確認行きましょうか」と追って提案するが、結果は誰の目にも見えている。マルクと共に廊下を出た時点で、既に他の生徒は出払ってしまっていたのだから。
考えが甘かった、と反省しつつもやはり四限後まで退学発表は残しておいて良かったとも思う。そうでなければレイどころがネイト達全員に挨拶ができなかった可能性がある。
何より、残す手が手紙しかないアーサーと違いプライドはレイと会う機会はあと一回残っている。
彼に別れも告げれずに姿を消すことには申し訳なさで砂鉄を飲んだような気持ちになったプライドだが、ここは次会う時までずっとレイが気付かないか、もしくは気付いたところで何にも感想を抱かないでくれるかを願うしかないと思う。
二人にもわかるように首を大きく横に振るプライドは「次の予定を優先しましょう……」と重々しく呟いた。
ただでさえこの時点で大幅に時間が経過してしまっている。校門前にエリック達やセドリックを待たせている以上、必要以上に時間を消費できない。中等部から逃走して幼等部初等部に近づいている今、次の目的地の方が圧倒的に近いことから考えても引き返したらその分時間の浪費になる。
後ろ髪を引かれるような感覚のまま、重い足を前後させるプライドにステイルとアーサーも続く。気持ちだけでも切り返そうと、歩きながら姿勢を反るほど伸ばせばアーサーとステイルも彼女の左右に付いた。
「今朝から言ってましたけど、こっちの方向で良いんすか?」
「こちらとなると……できれば、俺達も同行できる行先だとありがたいのですが」
プライドが引く進行方向を見据えながら、アーサーに続きステイルがプライドの顔を小さく覗き込む。先ほどのような気重さはないが、プライドから事前に聞かされている分を考えればもしや〝彼女〟に残したいものがあるのだろうかと軽く推測した。プライドがこの学校生活で最も特別だったであろう存在もステイルはよく知っている。
更には今朝からアーサーに預けたリュックの中身を思い返せば、何をしようとしているのかも検討はついていた。
もともと最終日の放課後に帰りが遅くなることを頼まれていた時点で、ある程度彼女が残したかったことは予想がついていた。そしてアーサーもまた同じだ。プライドが向かっている方向を見れば、会いたい相手も予想はできた。しかし、と。もし自分達の予想通りであれば、それはそれで困ったことになるなと少し思う。今、プライドに付いているのは自分達三人だけなのだから。
ステイルから「そこなら事前に言って頂きたかったのですが……」と零される中、苦笑いをしてしまうプライドはそれでも足は止めない。
大丈夫よ、と二人に柔らかく返しながら少しでも移動時間を最短化すべく速足で進む。初等部から幼等部校舎の横を抜け、校門方向から左へ折れる。足を進めれば進めるほどその先はアーサー達の予想通りだった。
とうとう眼前まで建物に近づけば戸惑うままに足が止まりかけた二人だが、プライドがすたすたと進んでしまう為にそのまま追尾する。他の校舎と異なり、入り口に管理人室が控えているそこでプライドは立ち止まった。
すれ違う生徒の出入りと視線を向けられ、ステイルとアーサーは少しだけ居心地悪く肩を狭めた。手続きをしている間はまだ自分達の視界にいるから良いが、これ以上の境界線を踏まれたら流石に最終日であろうともプライドを引きとどめざるを得なくなる。
プライドが管理人と挨拶を交わす間の今ですら、自分達は二歩下がった位置で待機しなければならないのだから。
「大丈夫です、私達は裏手にいるのでそこで構いません。最後にどうしてもリネットさんにご挨拶がしたくて」
そう告げるプライドに、管理人も一言返す。
彼女なら、とこの時間帯にいるであろう場所を思い浮かべた管理人は、ちょうど傍にいた女生徒の一人へ呼びかける。
悪いけど呼んできてくれる?と声を掛ければ、建物から出てきた女生徒は踵を返して再び建物内へと駆けて行った。ありがとうございますと笑顔を返し、そのまま駆け足で裏手に回る彼女にアーサーも首を傾けながらついていく。突然プライドが駆けたことで、行くぞと出出しの遅れたステイルの腕を引っ張りながら彼女に続いた。
裏手に回り奥へ進んでから立ち止まるプライドに、アーサーは変わらず二歩背後で待った。用事を済ませるまでは一定距離を保つ。だが、待っている間もアーサーの疑問は晴れないままだった。てっきりアムレットに会いにきたと思った彼にとって、彼女が指名した名は予想外だった。
何処かで聞いたことがある気がするが、クラスの女子ではないことはアーサーもわかる。名前と顔が一致しなくても、毎日出欠確認で名前を唱えられていれば聞き覚え程度は判断できた。そして記憶の中にそんな女子はいない。
またネルのように選択授業の教師かとも考えたが、ならばこんなところにいるのは逆に不自然だった。あと考えられるのはと、以前に騎士二名が内密に任務で校内潜入をした時を思い出すアーサーは尋ねるようにステイルへと目をやった。
自分と違ってクラスの女子生徒だけでなくプライドと共に全校生徒の名簿も確認していた彼ならばと首も動かさず目だけで尋ねれば
顔面蒼白の青年がそこにいた。
「ッおい、フィリッ、⁈…………」
口を俄かに開けたまま言葉もない。見開かせたまま漆黒の瞳が微弱に触れて焦点も合っていないようだった。
予想だにしない豹変に身体ごと振り向き肩を掴んだアーサーだったが、直後に手首を掴み返された。表情こそ動かないまま、手だけが意思を持ったように折らんばかりの力で掴み、アーサーも途中で言葉が止まった。
自分の方を向く余裕もないまま、指の力だけが震えながら爪をたてて食い込んでいくステイルに流石に痛みを感じたが剥がそうとは思わない。自分に触れて、それでも全く顔色が変わらないということは急病ではない。
しかし、同時にいつもの彼からは信じられない手の強さは、このまま掴んでいないと崩れてしまいそうに感じた。急病のように反対の手で心臓を服越しに鷲掴むステイルは、呼吸がで肩ごと使わないといけないほど荒くなろうとしている。ハ、ハッ、と短く切るような呼吸音は過呼吸にも近かった。
片手に爪を立てられたまま、アーサーも反対の手をステイルの肩へと回し支えるように掴む。プライド様、と言いかけた口を一度飲み込み視線をステイルから正面へと向けた。
しかしアーサーが「ジャンヌ」と言い切るより前にプライドが口を開く方が早かった。顔を向けた時には二歩先で既に彼女も自分達へ振り返っていた。そして
「……ごめんね」
眉を垂らした彼女が誰に向けてかは、尋ねずともすぐアーサーは理解した。
どういう意味ですかと聞く前に、彼女のその揺れた眼差しと苦しそうな笑顔が胸に突き刺さる。焦点が合っていないステイルもその声だけに反応し、相棒へと縋る爪の強さが余計に増した。カタカタと目に見えて震え出すステイルを眺めるプライドは、二歩先の境界線を戻ってきてはくれない。
足音が聞こえ、ぱたぱたと近づいてくる足音にプライドがくるりとまた彼らへ背中を向けて回ってしまう。先ほど建物の向こうに戻っていった女生徒と共にもう一人の人物が姿を現した。
プライドの示す先へとアーサーも視線を向けると、目を絞る必要もなく銀縁眼鏡の奥がステイルと同じほど大きく開いた。息を飲み、そして今がどういう状況かを正確に理解する。
プライドが会いに来た理由も、そして最終日の放課後に拘った理由も全て。プライドへ「ジャンヌさん」と呼びかけながら駆け寄り、近付き、〝女子寮〟から姿を現した
ステイルに良く似た、年配の女性に。
『リネットさんとこなら安心だし』
瞬間、アーサーの脳裏にいつかの記憶が掠ったが、それを追うほどの余裕はなかった。
動揺を露わにする相棒が、瞬間移動しないようにと肩を掴む手にただ力を込める。限界まで顔を強張らせるステイルとアーサーを前に、プライドだけが自然体の笑顔で女性を迎えた。お忙しい中ごめんなさい、とこの上なく柔らかな声で唱える。
彼女の覚悟は、とっくに決まってしまっていた。
Ⅱ433 放課後
Ⅱ407-2




