Ⅱ387.無頓着少女は息が切れ、
「ふぇ……え、ええ!勿論、よ⁈」
うっかりひっくり返った声が喉から細く出る。
痙攣した表情筋で見返しながら、心臓がドッドッと低音を奏でている。二限が終わり、ステイルとアーサーと合流した私はいつもの校門前の木陰に膝をついたまま固まったままだ。
肩から指先まで強張る私の正面に座る彼は、ぎこちない返事にも晴れやかな笑顔を浮かべてくれた。
「良かった。じゃあ早速食い終わったら頼む。高等部の内容だし、わかんなかったらはっきり言ってくれて良いから」
ほっと息を吐くパウエルに、逆に私は心臓が飛び出そうだった。
四人で食事を始めてもサンドイッチの味がいまいちわからない。
渡り廊下で合流した時からバッグを持っていたパウエルだけど、それはいつものことだし不思議には思わなかった。アーサーだって私達のランチが入っているリュックを毎回持ち歩いているし、他にも生徒でバックごと昼食を運ぶ生徒は珍しくない。
一緒にお昼ご飯場所に向かう時も「ジャンヌは今日は予定とか良いのか?」「約束してる奴とか。レイだっけ?あとネイトとか」と言われても何も思わなかった。寧ろここ最近は特に色々なことに巻き込んだり振り回しちゃっているから申し訳ないなぁと考えたくらいだ。……まさか「勉強を教えてくれ」と言われるなんて思わずに。
『今度俺にも勉強教えてくれるか?』
もうかなり前になるだろうか。
ファーナム姉弟が見事特待生を取った日、確かにパウエルからそう打診を受けていた。私からももしわからないところがあればと言ったけれどまさか本当にイベントが来るなんてと正直全く心の準備ができていなかった。パウエルは私達がこの一ヶ月だけとは知らないし、依頼を受ける前に私達が学校を去る方が可能性としても高いもの。
けれどパウエルの話を聞くと、どうやらわりと前から私に教えて欲しいと機会は見計らってくれていたらしい。……ただ、そのたびに私がネイト捜索やレイと全面戦争や爆睡やらで忙しくて言うに言えなかったと。
パウエルにお勉強?パウエルにお勉強⁈ともぐもぐ口を動かしながら頭がいっぱいになる。第三作目のゲームでパウエルとの勉強会なんて主人公だって得られなかったイベントなのに。
本を読んであげる場面はあったけれど、お勉強会なんてそんな、良いのかしらと心臓も見事に忙しない。
しかもゲームと違って現実のパウエルはこんなに社交的で明るく素敵な生徒で、そんな状態の彼とこうして食事を囲むのだってやっと落ち着いてきたところだ。未だに至近距離は心臓に悪い。
それをまさかの乙女ゲームイベントみたいなことをパウエルとするのかと思うとそれだけでいっそ逃げたくなる。いやパウエルの力には是非なりたいし、勉強だって頼ってくれたならしっかり教えてあげたいけれど!
気持ちと心臓はまた別だ。せめて挙動不審にならないようにしないと、と脳に必死に言い聞かせる。ただでさえ大ファンの第三作目隠しキャラ様だというだけでも緊張なのに更には
アムレットの想い人なのだから‼︎‼︎
ごめんなさいごめんなさいアムレット‼︎
一緒にお昼を食べていることに関しては何とも思っていないアムレットだけれど、お勉強を教えるなんて私がして良いのかしら。この前のネル先生の時みたいにひょっこり目撃されて誤解されたら今度こそグレシルのお株を奪うお邪魔虫な悪役だ。
友達が好きなのを知って急接近なんて、パウエルと仲良くなりたいのは本心だけどそれ以上にアムレットに誤解されて嫌われたくない。寧ろ私はアムレットとパウエルが仲良く勉強会しているのを傍で見守りたいくらいなのに‼︎‼︎
「えっと……因みにパウエル?アムレット……に教えて貰わなくても良いのかしら?あの子も特待生だし」
「良いんだ。学校じゃ馴れ馴れしくするなって言われたし、今はもう寮暮らしで俺も仕事で放課後会わねぇし」
アムレットーーー‼︎
陰り無く笑うパウエルに、私は気付かれないように息を止めた。そういえばネル先生の時もそんなこと言っていた。しかも特待生の彼女は寮だから放課後ライフも都合良くはいかない。
なんで!主人公なのにそんな素直じゃないの⁈と気をつけないと地面を叩きたくなる。
ゲームのアムレットもハツラツとしてはいたけれど、その分好意にもストレートだった。「一緒にいる!」とか「力になりたいの」とか「じゃあ今度一緒に」と誘うことだって出来ていた。……現実でもファーナム兄弟にはできていたけれど。いやそれを言えば燃えるぞ危険のレイにだって彼女は今も臆さずそして一言言ってやろうと勇んでいる。でも彼女の本命は彼らじゃない。
やっぱり生育環境の違いだろうか。お兄様もご健在でパウエルと昔から知り合いだし、学校だってゲームより早く入学している。……ゲームより良い環境な筈なのに、アムレットがゲームよりも遥かに恋に四苦八苦していると思うと居たたまれない。
「……ジャンヌ?大丈夫ですか?何か心配ごとでも」
「寝不足……っつーか喉でも詰まりました?」
……しまった、顔に出てしまった。
ステイルとアーサーが心配するように姿勢を低くして覗き込んできてくれる。私からも「大丈夫よ」と背筋を伸ばして笑って見せるけど、その間にもアーサーが背後に回って背中をそっと擦るように触れてくれた。
体調不良でもないし、非常に残念ながらこういう心臓発作はアーサーの特殊能力でも効果がない。水飲みます?とアーサーが囁いてくれたのより一手先にステイルが彼のリュックから水筒を私に差しだしてくれた。
大丈夫大丈夫と笑いながら、最後の数口を早め味わう暇もなく水で飲みこんでしまう。行儀が悪いと気付いたけれど、それ以上に食べ終わってしまった危機感凄まじい。心の準備できていない。
「じゃあ良いか?この頁なんだけど……」
既に私よりずっと早く大口で食べ終えたパウエルさんがノートを開く。
授業の内容を記録されていたそこには、当然のことながらパウエルの直筆があった。もうそれだけで悲鳴を上げたくなる。どうしよう、今更だけどどうにかしてサインの一つくらい貰えるかしら。
パウエルがわからないと言っていたのは数式だった。高等部の範囲は中等部よりもちょっとややこしいけれど、それでも難しくはない。この昼休みだけで解説は充分可能そうだ。
片方の手を大きく広げてノートをめくれないように押さえ、反対の少し無骨な指で自分の文字を指し示すパウエルにそれだけで目眩がしそうになる。近い、近い、ものすっっっごい近い‼︎
「……でよ、どうしても数字だけなら良いけど文字まで計算に組み込めって言われたらこんがらがって」
額が!触れる‼︎
そう叫びたいけれど、そんなこと言ったら完全に不審者だ。
パウエルの文字を追うように私もノートへ俯けば、話は頭に入るけれど別の思考部分が数式以上にこんがらがる。「エエ、ソウヨネ」と顔を俯いた体勢で隠しながら絞り出す。
ノート一冊を向かいに座る同士で覗いているからあまりにパウエルとの距離が近い。平常心平常心、と社交界や式典と同じレベルで気を引き締めるように脳内で二十回以上唱えながら口を動かした。
難しく考えなくていいのよ、文字自体に意味はなくて四角や三角でも良いの、と言いながら地面に例で書こうと指でなぞったら、横一線動かしてからここが芝生だと思い出す。草をなぞっても跡なんて残らない。
あまりにも間抜けな行動に指を伸ばしたまま固まると、パウエルが「あっ、ペンもあるから」とバックを探り出した。あまりにもベタで間抜け過ぎる行動に恥ずかしくて発熱する顔を両手で覆ってしまう。
ステイルとアーサー両隣から「まさか予知でも……?」「大丈夫っすか⁈」と声を抑えながらも真面目に心配される。
穴があったら埋まりたい。「大丈夫よ」と言いながらも頬や額の汗が今にも落ちそうで、ノートを汚す前にハンカチで急いで拭った。
パウエルから渡されたペンでノートに補足を書く時すら字が震えそうだった。




