Ⅱ373.女は手綱を引き、
「ありがとうケメト、貴方ならそうしてくれるって信じてたわ。私達友達だものね?」
声だけは機嫌の良さそうな抑揚で語りかけるグレシルに、ケメトの返事は一言だけだった。
夕暮れの道を歩く彼女の背後に続く彼がいるのは、いつもの校門前でも広場でもない。中級からも下級層からも離れた通りの一つである。
ついちょっと前に城下へ視察に来ていたセドリックに手を振ったのもどれくらい前か思い出せない。それよりも目の前を歩くグレシルのことが気になって仕方が無かった。
ヴァルから離れるように提案されてから二週間あまりが経過した今も、ケメトは変わらず機会を見つけては彼女と会っていた。その度に毒となる言葉を向けられ、ヴァルとセフェクとの関係を否定されても変わらずに。
その話をされる度に自身の胸が少しずつ重くなり靄がかかる感覚にはケメトも気付いていたが、それでもグレシルに会う足は遠のかない。それどころか、時間があればまた会おうとその時を心待ちにすら思っていた。
グレシルとの会話も全部がヴァルとセフェクへの否定ばかりではない。時には学校であったことや世間話、雑談もまじえていたこともある。グレシル自身も少しずつ彼の心を侵すべく急ぐつもりはなかったからこそである。
『なんで私のお願い聞いてくれないの⁇』
ある日を、境にするまでは。
ケメト自身、冷静に振り返ってみても突然だったなと思う。自分が知らない間に彼女を怒らせることを言ってしまったのかもしれない、それとも日々の積み重ねが限界を迎えてしまったのかなと。そう考えてはみたものの、自分ではどれが沸点だったのかわからない。
セフェクやヴァルが相手だったら少なくともどの言葉が怒らせたのか何となくわかるが、グレシルには別だった。
もしかしたら最近会えなかった所為かもしれないとも思った。
ちょうどケメトの方も二日連続で学校が休日だった為、待ち合わせ場所には行けずヴァルと一緒だった。ヴァルにねだって広場に連れて行っても貰ったが、間が悪かったのかグレシルには会えなかった。しかし学校がない日に彼女に会えないのはいつものことである。
何を怒っているんですか、と言いたくても畳みかけるような勢いで言葉を続けるグレシルに圧倒されて何も聞けなかった。
その後も目の色を変えるようになった彼女に、またあの時のことを思い起こさせて怒らせることを考えれば尋ねるのも諦めた。ただ、一人苛立っているようにも焦っているようにも追い詰められているようにも見える彼女のことは純粋に心配だった。
ステイルの誕生祭に淀みを注がれるようになってから、新たに彼女からそれを提案されたのは奇しくもセドリックの誕生日。プライドの不在により学校に行く必要がなくなったヴァルが一人で配達の為、ケメトとセフェクは二人とも彼に会わなかった。そしていつものように夜の校門前で彼女と語らえば、突然の打診を受けた。
『私、城下を出るの』
理由も何も教えてくれない、突然である。
もし引き取ってくれる人が現れたのならケメトも惜しみながら心から祝したが、そうでもない。ただ「城下を出る」という彼女の言葉ははっきりと意思を持って彼に落とされた。
今まで毎日のように会っていたのにどうして今までは教えてくれなかったのか。提示された話をそのまま信じたケメトは目を何度も皿にしたが、グレシルは演技以上に落ち着いていた。
『でも一人じゃ不安で……私、ケメトしか頼れる人がいないの。だからお願い、一緒に来て。一日だけ付き合ってくれれば良いから、ね?お願い。もう時間がないの。ケメトだけなの』
首を大きく振り、手入れのされていない髪をさらに振り乱した。苦しげに眉を垂らし、自分の両手を取って懇願する彼女にケメトは断らなかった。
一日だけなら、時間がないのなら、自分が力になれるのならと。ケメトには協力する理由しかなかった。わかりました、と何度も首を上下に頷かせれば彼女は目を輝かせ感謝と共にケメトを抱き締めた。
まさかそれ自体が罠だったのとは、ケメトさ微塵も思わない。
翌日には放課後、いつもの待ち合わせ場所である国門まではセフェクと一緒に付いてきたケメトだがそこでヴァルの手は握りつつもそこで同行を断った。友達と用事があるんです、だから一緒に行けませんごめんなさいと。心から申し訳なく思いながらペコペコと頭を下げれば、ヴァルからの返事は自分の思った通りのものだった。
『あー?勝手にしろ。セフェク、テメェはどうする?』
『えっ!あっ……い、行くわよ!行くに決まってるでしょ‼︎ヴァル一人じゃ心配だもの‼︎』
てっきりいつも通りにケメトが付いて来ると思っていたセフェクの方が、いっそ断られたヴァルよりも戸惑いは大きかった。
ケメト自身、本当なら先にセフェクにも言いたかったが配達に同行できないこと以上にそちらの方が言いにくかった。今までも、待ち合わせ以外でも校門近くで「ケメト」「また夜に待ってるから」「今日は会えそう?」とすれ違う度に話しかけてくる彼女とセフェクは、会話こそしないが顔見知りである。
セフェク自身からグレシルの話題はないが、ヴァルとの待ち合わせへ向かうべく学校を出る際にグレシルからそう手を振られることは度々あった。その度にセフェクが「ケメト!急いでるんでしょ!」「早く行かないと!」「置いて行かれちゃう!」と自分の手を引く手を強めるが、それが単純にヴァルとの約束に遅れることを懸念してだけではないとケメトはわかっていた。だからこそ、セフェクの前でもあまりグレシルの話はできない。
ヴァルに付いていくとセフェクがヴァルの腕を掴んだ時も、釣り上がったその眼差しはきっと自分がグレシルと会うこともわかっているのだろうとケメトはわかった。
セフェクが知る中でも、ケメトに対して押しの強い相手はグレシルだけなのだから。
「私の言った通りだったでしょ?ケメトが居なくてもヴァルは全然気にしないって」
先頭を歩く彼女に、ケメトは落としかけていた視線をあげる。
ついさっきまで「ヴァルに怒られなかった?」「怖い思いしなかった?」と尋ねてきた彼女にそんなことはないと否定したばかりである。
ヴァルはそんなことで怒ったりしないと証明できたとすら思っていたケメトには、不意を突く言葉だった。まったく別のことが証明されてしまったのだということに少しの間だけ思考がまとまらなくなった。変わらず先を歩く彼女は、その隙に主導権までも握っていく。
「だって「勝手にしろ」ってまた冷たいこと言われたんでしょ?本当にケメト可哀想。やっぱり必要だと思いたかったのはケメトだけだったのね」
確かにそう言われた。それは事実である。
しかし、ケメト自身ヴァルにそう言われることは最初からわかっていた。言葉のまま返されたところで今更傷つかない。
躊躇いなくセフェクの手だけ取って去って行くヴァルにも、寂しさは感じなかった。それよりも唇をぎゅっと絞って自分を見返すセフェクのことの方がずっと心配になった。
なのに、グレシルの口から言われると「勝手にしろ」の言葉に冷たさも鋭さも感じてしまう。
導かれるままに付いて歩き、裏道を使って城下から順調に離れていくケメトだが一体彼女は何所にいくつもりなのだろうとそこでやっと思った。
言い返す言葉よりも、時間が無いと語っていた彼女が全く急がないことが気に掛かる。
何所へ行くんですか、本当はそう言おうと思った。彼にとって彼女による否定はもう聞き慣れ、ここ最近はそれを逐一否定することも減っていた。しかし、急ぐどころかスキップ混じりに歩く彼女に今はもっと聞きたいことができてしまう。
「……その為に、もしかして嘘ついたんですか?僕がずっとヴァルとの仕事を断らなかったから……」
「違うわ。だってほら、もう城下の外まで来た。ちょっと休もっか。秘密の場所があるの。すごく見晴らしが良くて」
Ⅱ258




