Ⅱ371.女は隠していた。
「あの、これ食べかけでごめんなさい。でも良かったら食べて下さい」
毒も入ってませんと、そう言ってケメトは彼女にそれを手渡した。
自分達が食べているのをずっと物陰でみていたのなら、毒が入っていないことは疑う余地もない。広場の食べ残しや塵を漁っている下級層にとっては、食べかけとはいえ半分以上肉が余り残っているそれはご馳走に等しかった。
予想もしなかった少年の接近に、グレシルの目は丸くなる。食べかけとは別にもう一つ謝られた件を思い起こし、少し置いてから気が付いた。
数日前、いつものように学校付近を歩いていた彼女はすれ違いに肩がぶつかり転んだ。
それだけなら大して記憶にも留めなかった。肩がぶつかることも、転ぶ事も彼女には珍しくない。食も満足になく、細い身体と軽い彼女は簡単に転ぶ。いちいちぶつかった相手や転ばしてきた相手など覚えていない。唾を吐きつけられようと、罵詈雑言を吐かれようともそれだけなら彼女は気にしない。しかし
『大丈夫ですか⁈』
わざわざ駆け寄り、手を貸してきた少年のことは覚えている。
今までも気まぐれに手を貸してきた大人や逆に足蹴にしてくる相手はいたが、自分より年下の少年は初めてだった。黒い瞳を丸くしながら自分に手を貸した後もぺこぺこしてきた記憶の少年と目の前の少年が重なる。
そうだあの時のと思えば、自然とその手がケメトから食事を受け取った。
「あ、あとお姉さん、〝学校〟って知ってますか?この前会った時、大きな建物ありましたよね?あそこって十八歳までなら誰でも勉強とか色々教えて貰えるんです」
そう言いながら、ケメトは学校の方角を指し示す。
最初に自分と出会った場所ならば彼女も大体の位置はわかるだろうと考えた。
目の前の少女の視線が示した通りの方向へ向いたのを確認してから、頭を下げる。
「僕らと同じくらいの子も、下級層も中級層も大勢います!朝からやってるので良かったら来てみてください」
失礼します!とそう言って再び頭を下げたケメトは、返事も待たずに背中を向けた。
あくまで自分ができるのは食料を分け、そして教えてあげること。強制しようとは最初から思っていない。自分達にも理由があったように、彼女には彼女の都合があるかもしれないと彼なりに理解している。
そして実際にグレシルは学校の存在を知った上で入学をしていなかった。教育は無料でも、衣食住は十五歳の自分では無料でないことを知っている。そしてたかが勉強などの為に空ける時間は彼女には少しもなかった。
彼女は彼女にとって優先すべきことがある。特に学校ができたことで年下の物乞いがいなくなったことで、今では以前よりも広場や周囲を巡るだけで食事やおこぼれにありつけることが増えていた。
最初から礼の一つも言うつもりではなかったグレシルだが、わけられた肉を片手にぽかんと少年の背中を視線だけで追いかけた。
彼が一直線に向かった先では、ードを被った目付きも人相も悪い男と、自分と年の近い少女が待っていた。何を話しているかまでは聞こえなかったが、その二人に向けてきらきらとした笑顔を浮かべている姿にグレシルは
静かに、笑った。
「~♪」
貴重な食料を奪われないように両手で掴んだまま、彼女はケメト達よりも先に広場を後にした。
まだ名前も知らない少年の顔を頭に焼き付けながら、鼻歌交じりに駆け出す。路地裏に入り安全を確保したところで、肉にムシャムシャと齧り付き上等な肉の味を舌が覚える。
肉汁も、油も皮も全て零さないように大口で噛み締め飲み込みながら彼女は考える。今までも、何度も何度も人を陥れてきた時のように思考を巡らせる。学がないにも関わらず賢い彼女は考える。
少年は、間違いなく学校の生徒。そしてこんなご馳走を自分なんかの施せるほどの贅沢が許されている。そしてあの横顔から見ても彼にとって連れの二人は親しい相手で間違いない。兄姉か友人か親族かはわからない。ただ、間違いなく今の彼が心を傾けている存在だと。
「……学校、ねぇ」
がぶり、むしゃむしゃと半分以上食べ進め終えたところで彼女は呟く。
学校に興味は無い。ただ、数日前のあの青年二人が何かをやらかすところは見に行きたいと考えていた。それに学校の門で張れば、きっと今の少年にも会える。
一度ならず二度目は自分から話しかけてきた少年である。三度目も姿を見せれば素通りはまずされない。あの少年と接点を持つのにそれ以上の機会はない。
「行っ、ちゃおっ、かな~……」
誰もいないその空間でまた呟いた。頭の中では先ほどの少年が語っていた情報がいくつもいくつも巡り回る。今まで会ってきた標的にはいなかった種類の人間に、ドクドクと心臓が波打った。
いっそ青年達の方がどうでも良くなる。久々に夢中になれるものをみつけた彼女は、必ず彼と新たな接点を作ると決めた。
肉汁で顔の周りを汚し、それを剥き出しの腕で拭い、今度はまだ肉がへばりついている骨にしゃぶりついた。
学校には興味はない。しかし数日前の青年以上に、あの少年へ興味が湧く。
明らかに自分よりも多くを抱き笑っている、その少年に。
「ケメト!急いで‼︎ヴァルが先に行っちゃう!」
「はい!……あっ、ちょっと待って下さい!」
三日後には彼の名前もすぐにわかった。
学校終了後に、彼の手を引く少女が大声でそう呼んでいるのを聞いた。
先を急ぐ彼の前に姿を現せば、思った通りに自分から足を止めて寄ってきた。「話したい」「友達になりたい」と言ってみれば、簡単に笑顔を浮かべて頷いた。
今は急いでいるからと、翌日は学校が始まる前に校門前で話しましょうと約束をした。
傍に並んでいたセフェクも、顔こそ顰めたが文句は言わなかった。あくまでケメトの友達作りを邪魔したくはなかった。
「じゃあ今度から僕もなるべく広場に行くようにしますね。あと、学校始まる前と……あと終わった後とか夜とかも、お互い予定が合ったら校門前で!僕が学校のこと色々教えてあげますね」
学校に行けないのだとそれらしい理由をつけて言えば簡単に納得した。
もっと話したい会いたい友達になれたのにごねてみせれば、ケメトはすんなりと彼女に時間を作った。それからは城下で食事を済ませる時はなるべく広場を希望し、更には寮に帰ることが決まっていれば彼女に伝えてまた会った。
彼女の方から毎晩校門前に通うと言われれば、寮にいる日は必ず校門に出るようにした。校内にある寮から朝を迎える時も、早朝にヴァルに学校へ送られた時も、わざわざ一度セフェクと一緒に校舎へ入ってからまた校門へ戻ってきた。
グレシルに会う為だけに、彼は校門を出ては授業が始まるまでのほんのひと時でも語らった。
最初は、学校で学んだ内容を彼女に教えることから始まった。
ノートと口頭での簡単な雑談程度のものだったが、おままごとのようなそれにグレシルは敢えて付き合った。へぇ、すごい、そうなんだと興味のない授業内容へ少女らしい高い声で何度も何度も喜んでみせた。
「え?セフェクは恋人じゃないですよ。僕の姉です。優しくてしっかりしてていつも僕の心配をしてくれる自慢の姉なんです。あ!あと、広場で一緒にいた人はヴァルっていってすごく強くて格好良い人なんです。二人とも僕の大事な家族です」
赤子の手を捻るよりも。……その言葉が相応しいほど簡単に、彼は自分の大事な存在について何度も何度も彼女の前で口を滑らせた。
あくまでプライドやヴァルとの秘密事は隠し続けたが、それ以外のことは全て彼女が求めるままに話し聞かせた。
特にヴァルのことは学校の友人に伏せなければならなかった為、校外の友人だからこそ素直に彼のことを話せるのが嬉しかった。
自分にとってどれだけ二人が自慢で大事かを、飽きることなく語ることができた。
「グレシル!お久しぶりです。良かった、すごく心配してたんですよ。何かあったんですか?」
たかが少し話すようになっただけ。それから一週間また姿を見せなかっただけでも自分を心配するようにまでなった。
何の音沙汰もなく消えていたグレシルに、ケメトは心から心配して駆け寄った。その間自分との約束も待ち合わせも全てすっぽかされていたことを一言も責めない。
どこまでもお人好しなケメトは、ただただ彼女の無事を喜んだ。
グレシルにとって、今まで欺した誰よりも自分へ心を開くのが早かった。
つい一週間前、「あのクソガキこの俺にたてつきやがって」「ネイトのやつ最近妙に怪しい」と酒場で零していた男に「そんなに生意気なら足でも折っちゃえばいいのに」「そうすれば一生家から出る心配もないでしょ」と唆していたなど微塵も思わない。
それ以上のことを、今までもしているということも。
『いっそ、本当に一生歩けねぇ足にしてやるか』
「そうなんです。不良生徒が高等部の特別教室で暴れたらしくて。でも、ちゃんと騎士の人が捕まえてくれたからもう大丈夫ですよ」
昨日レイを追って学校まで訪れ、ジャンヌに倒された裏稼業。彼らに「レイは学校にいる」「まだ屋敷に衛兵は来てない」「脅すなら」「捕まえるなら今しかないわ」と唆した張本人とは思いもせずに。
二日前のアンカーソン検挙により、レイの屋敷から裏稼業が逃げ出した騒ぎからずっと彼女は目を付けていた。話を聞いて屋敷へ行ってみれば、理想通り屋敷付近には何人もの裏稼業が張っていた。
自分より遥かに恵まれた貴族の青年が、裏稼業に狙われ逆恨みされるのが楽しく手仕方が無かった、彼が裏稼業に追い詰められる展開にするが為に、五日ぶりのケメトに会うことよりも知ってすぐレイの屋敷周辺を張り、裏稼業達にも報告し続けた。八番隊の騎士も、小さな少女が一人でそんな大それたことを画策してたとは思わない。
レイを守る者がいない今なら追い詰められると事細かに情報を彼らに流し続けた。
「あれ?膝どうしたんですか。怪我してますけど、どこかで転んだんですか?」
まさか昨日、レイを陥れる為に急いでてとは知らない。夜道に一人護衛も付けず中級層で「ライアーという人間は知らないか」と聞き回っていたレイを人気の無い場所へと欺し、彼を探す裏稼業達へ急いで伝えた。自分の怪我よりもレイを裏稼業達の餌食にする方が大事だった。
この一週間だけで、彼女がどれほどの数を犯したかケメトは知らない。
出会ってからずっと。ケメトはグレシルの本性に一度たりとも気付かず、疑問にも思わなかった。そんなことよりも彼の思考に引っかかり続けたのは
「絶対そのヴァルって人に利用されてるわ」
関わっちゃだめよ、と。
ある日を境に耳へ注がれるようになった、彼女の毒だった。
Ⅱ80-2.25.143外.178.283.257-2
Ⅱ224




