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フリージア王国備忘録<第二部>  作者: 天壱
無頓着少女と水面下

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Ⅱ365.男爵子息は終わらせる。


「こちらになります」


コンコン、と。

ノックの音の後に、扉が開かれた。初老の従者により案内されるまま青年と男は部屋へと足を踏み入れた。

元夫婦の部屋でありながら今は夫人の部屋とされたそこは広々としていたが、同時に閑散ともしていた。もともと、男爵が亡くなるまで夫人の私物という私物が壊され処分されてしまったこともある。男爵が亡くなってからは、つい最近まで領地を取り上げられていた夫人が少しでも資金を得るには家財を売るのが最も現実的だった。更にはその内の一部が離れた地にいた息子の家へと譲られてもいた。


再び国から領地を預けられ以前のような生活を送れるようになったが、大きな屋敷の唯一の主人になった女性は家財を増やす気もない。

部屋の懐かしい気がする匂いに、レイは一人眉を寄せながら部屋を見回した。八年ぶりの景色に心地よさは全く感じない。捨てられた当初はいつか帰りたいと思ってもいた家だが、今はもう特別帰りたいとは思わない。自分の帰りたい居場所は別にいる。


扉が使用人の手により音もなく閉じられた後は、立ち止まった場所からそれ以上進む気にもなれなかった。試しに一歩前に出してみれば、微弱にだが震える足に気付く。

客間で大分マシになった筈だったが、いざ目の前にするとやはり思考には遠い怒号が鳴り響く。部屋に入るだけで「悪魔」と呼ばれ殺されるかもしれないと、過去の自分が耳を塞ぎ小さくなっている。もうここにあの男はいないとわかっているのに、それでも


「レイ……?」


ぽつりと、消え入りそうな声が部屋の最奥から投げかけられる。

カーテンが開かれ陽の光を部屋いっぱいに吸い込む位置に置かれた夫婦用のベッドに眠る女性に、レイはそれが誰なのかすぐに理解した。

ぽんぽん、と。無言のまま自分の肩が気楽な調子で叩かれる。横目で睨めば共に並んで入ったライアーが見慣れない若い姿でそこに立っていた。

「返事しろ」とその合図だけで意図を理解するレイは思わず顔を顰めて睨んだ。そんなことを言われなくても返事ができていればしている。

ただ今は、返す言葉が思いつかない。傷つける言葉すら、安易に掛ける気にはなれなかった。

しかしいつの間にか視界が狭まっていた感覚で、隣にライアーが立っていると思い出すと自然と視界が広がった。別にここに父親が現れたとして、何ら怖いものなどないのだと。


一度音もなく深呼吸し、それから意識して床を踏みベッドへ歩み寄る。

あれから八年、記憶も薄い筈のレイはそれでもベッドから身を起こす女性の顔を見れば記憶が蘇った。

今日も体調は変わらず、ベッドから身体を起こすことがやっとだとここまで来る途中で使用人から聞いていたレイは改めてその女性を上から下まで眺める。結局自分達がわざわざ足を運ぶことになったが、この身体であれば確かに無理だなと結論付ける。


昔に夫がわざわざ自分で選んでくれたブラウスへ袖を通した女性は、もともと細身だったにもかかわらず若干服がブカついていた。

げっそりと削げた喉や胸元に、薄いブラウス越しに見えるいくつもの痣の痕。手だけは脆い皮膚が万が一にも捲れ落ちないように白の手袋が嵌められている。

上半身しか見えなくても、自分で歩かせるだけでフラつき話にならないとわかる。負ぶるか抱えて運ぶ方が早い。

いつからこの状態なのかはレイにはわからないが、自分達を馬車で迎えに来させる金があるのならこの女に車椅子の一つでも買い与えれば良いものをと考える。


黙し眺めるレイの前で、女性もまた動きはなかった。彼が自分の目でも見える距離まで歩み寄ってきてくれた時から、目を皿のように見開き口を覆ったまま固まっている。

レイ、と。また最初と同じ名前で、目の前の青年を呼ぶ。一回呼ぶ度に目から大粒の涙が溢れ零れた。

隣に並ぶ男性にも今は意識がいかなかった。同行者がいると使用人達に聞いていた時から会ったら挨拶をと考えていた筈にも関わらず、いざ息子を目の前にすればそれで頭も視界も塞がった。


レイ、レイ、レイ、と。繰り返し自分の名前を呼ぶ女性に、レイは昔は常に嬉しかった時期も、……諦めとうんざりと黒いものが渦巻いた時期もあったものだと思い出す。

黙すレイに、女性はとうとう背中を丸め苦し気に嗚咽を零し、ごほごほと咳き込み出した。

レイ達がもう部屋に着くと聞いた時点で、一度人払いされた部屋に使用人は一人もいない。レイも棒立ちになっている中、ライアーは目を泳がしながらもおもむろに女性の背中を摩った。

まだ自己紹介どころかまともな挨拶もしていない上、いきなり女性の背中に触れて大丈夫なのかと心中は酷く揺れた。レイに母親へ手を出すなと言われている以上、背をさするこれがそれに入るのかも一般の基準ではわからない。

薄手の生地の服を着た女性の背中は、軽く触れただけでも生肌の温度がはっきり手の平に伝わった。

下心はないと示すべく何か声を掛けたかったが、その途端緊張のあまり自分の中のトーマスが「大丈夫ですか」「お水をお持ちしましょうか」と丁寧な言葉ばかりを口に出そうとする為、意識的に舌を噛み口にしないようにとどめた。


丸めた背中を摩られ、なんとか呼吸を落ち着ける女性だったがそれでも涙がどうしようもなく止まらない。

苦しそうに顔を歪める女性をただ見つめながら、何か俺様に言いたいことでもあるのかとレイは考える。しかし、どんなことかと頭を働かせれば思いつくのは全て昔何度も繰り返された贖罪の言葉ばかりだった。

思い出すだけでレイまで苦々しく顔を歪めてしまえば、そこでゆっくりと女性は絶え絶えの息のまま手を伸ばした。胸の前で一度ぎゅっと握った手を、震わせながらゆっくりとレイへの仮面が付けられた左頬へと近づける。ブラウス越しでもわかる痣まみれの手が、そのままそっと仮面に触れた瞬間。




「…………外した方が良いか?」




ぽつりと、初めてレイが口を開いた。

淡々と少し低まったその声に、それだけで女性は潤み切った瑠璃色の瞳を揺らした。再び目を大きく見開き、それから苦し気に顔へ力を込める。それでもボロボロと涙が止まらない女性は、整った白い歯を食い縛る。

現れてから一言も話さなかった彼が最初に掛けたくれた言葉が、自分が覚悟した言葉の何倍も優しい言葉と声だったことにそれだけで胸が詰まった。

人に見せられないほど歪んだ自分の顔を僅かに伏し、大きく首を横に振る。手を伸ばしたのも、決して仮面を外させようとしたわけではない。ただ、隠されたその下に痛々しいあの火傷が残っているのだと思えば自然と手が伸びてしまった。

貴方が、と。最初に言おうとした声はあまりにも喉に込み上げ枯れた音にしかならなかった。げほっ、と喉を一度苦しめ息を通し直してから女性はもう一度言い直す。


「貴方がっ……見せたくないなら良いのっ……。…………っっ……私は、見せて貰えるような立場じゃないから……」

どういう意図で、レイが仮面をしているのかはわからない。

アンカーソンに被るように命じられたか、それとも自ら仮面を被ることを望んだか。ただ、どちらにしても隠しているそれを無理に見せて貰おうとは思わない。自分にとっても、そして彼自身にとっても火傷の痕は過去の傷痕そのものでしかない。

自分譲りの翡翠の髪を半分染めた理由もわからない。焼け爛れた顔への皮肉か、それとも自分譲りの髪も穢らわしいと思ったのか。

平気なように笑ってみせようとしたが、ぐしゃりと余計に苦し気に歪めるだけだった。涙でまともに視界も開けていない女性は、顔を上げて濁った視界で自分と同じ瑠璃色の瞳を見つめる。

こんなに大きくなって、と。それだけでも充分思う。自分が最後に会えたのは、たった六歳の頃だった。それが今では十五歳の青年だ。

背も伸び、きっと自分がベッドから立てても抜かされている。顔が元通りになっていなくても、自分の足で立ちちゃんと会話ができている。あのままではいつか夫に殺されてしまうのではないかと怖かった大事な息子が、今はこんなに立派な姿で生きている。

それを自分の目で確かめられただけで、この場で死んでも良いと思うほど幸せだった。そして、同時に。




「っっ…………ごめんなさいっ……‼︎」




ぼろっと、ひと際大きな涙の粒が落ちた瞬間それが叫ばれた。

途端に、女性を見つめるレイの表情も仮面に隠されていない側が険しく歪んだ。瑠璃色の鋭い眼差しと共に「やはりか」とそう過る。


目の前の女性が、そういう人間だと嫌というほど知っていた。そしてだからこそ今まで同情もしなければ、会いたいとも思わなかった。

顔を両手で覆い、ベッドに沈むほど突っ伏す女性にライアーも流石に目を丸くする。そっと背中を摩る手を和らげながら、しかしいつもの軽口を封印する。酷く震わされる女性の背中は、嘘偽りない本物の後悔と懺悔だと手の平を通じて理解した。

その間も、レイは降ろした両手で拳を握るだけだった。子どもの頃から嫌になるほど浴びせられた贖罪が、自分はやはり嫌いなのだと痛感する。

ごめんなさい、ごめんなさいと、自分の名前の次には謝罪を繰り返し出す女性に、自分でもどうしようもない嫌悪感が湧いてくる。感情のまま黒炎が溢れそうになる。



─ ……醜いな。



醜い。そして見すぼらしい。自分の記憶に微かに蔓延る残像よりも遥かにと。

そう思いながら閉ざした口は何も言わない。歪んだ顔が次第に熱を引いて力が不自然に抜けていく。

その様子にも気付かずに、涙で視界が塞がれた女性は顔を覆う指に力が籠った。


「貴方が産まれた時にっ、一緒に逃げれば良かった……!ちゃんとっ……あの人との子として生んであげたかった……!せめてあの人に似た顔に生めていれば、あんなことにはっ……、特殊能力なんてなくてもっ……あの人との子であれば充分だったのに……‼︎」

愛していた。

恐怖から解放された後も、変わらず女性はそう思う。目の前で夫がアンカーソンに処断された後、涙こそ出ても復讐心の一つも沸いてこなかった。それよりもレイを助け出したいという気持ちが強かった。……だが、それでもやはり死んで良かったと思わない。

過去には間違いなく愛してくれた。一生命をかけて守る、永遠に愛し続けると約束してくれた。年を取って子どもに全てを譲ったら、いっそ国外へ旅も良いかもしれないと言ってくれた。

身寄りのない、どんな出生かもわからない行き倒れの人も屋敷で雇いたいと話したら「それは良い案だ」「お前のような優しい女性は他にいない」と喜んで、その後も何人も雇い入れることを認めてくれた。誰よりも愛が深い人だったと今も信じている。

自分があの時もっと上手く立ち回れたら夫は今も優しい夫のままだった。レイも間違いなく自信をもって夫婦の子どもとして皆に愛された。

自分が弱かった所為で結局優しかった夫も変わり果て、そのまま戻ることもなく結局は孤独のまま死んでしまった。こうなるのならもっと選ぶべき選択肢はいくつもあったと思う。


「あの人が好きで、好きで、変わってしまっても、どうしてもっ…………‼︎」

諦めきれなかった。……そこまで言いそうになって女性はぐっと飲み込んだ。

そんな自分達の都合など、それこそレイには関係ないとわかっている。自分がどれだけ愛しても、そんなの子どもだったレイが暴力を受けて良い理由にも、そして自分が守り切れなかった理由にもならない。

十七年経った今でも父親が誰なのか断言することができない自分が、今更母親面することもできない。


「……醜いな」


ぽつりと。

雨のように絶え間なく泣き続ける相手へとは思えないレイの本音は、独り言のような小ささだったが今度は胸の内で止まらず間違いなく女性の耳に届いてしまった。

パタタと涙が止まらないまま、氷のように聞こえた言葉に女性の血は一瞬で冷え切った。目を見開いたまま硬直する女性は、嗚咽どころか呼吸も止まる。顔を伏したまま上げられない。

その醜さの言葉の意味を、使用人達が指摘せずとも自分がちゃんとわかっている。

涙だけが溢れたまま止まらない中、そこでふと頬へ触れられた。突然の感触にびくりと肩を小刻みに振るわせ硬らせる女性は、反射的にすら顔が上がらないままだった。

「おいレイちゃん」と背後の男性の声の抑える声に、彼が何か庇おうとしてくれてるのだと顔を上げず思う。本来であれば、例え貴族同士であっても安易に女性の頬に触れることなど許されない。ここで女性が声を上げればその瞬間





「こんなに醜くなってまで、よくこの俺様を〝守ろうと〟したものだ」





正気を疑う、と。

そう他人事のように続けた声に、女性は息を引く。さっきまで上げられなかった顔が容易に声の方へと向けば、すぐ目と鼻の先に仮面の顔があった。

自分の頬にその手で触れていたのが背後の男性ではなく、レイ自身だったのだと今理解する。

芸術的な仮面に覆われた側も、そして露わとなった自分似だった顔を見てもどちらも瑠璃色の瞳が真っ直ぐ向けられている。醜い、と間違いなくそうだと鏡を見るたびに思い知る、赤と白のまだらの火傷顔に。


元下級層だった男の小汚さなど些細に見える、多くが顔を顰める酷い痕だ。


女性の顔立ち自体は間違いなく今も美しい。ライアーも思わず息を呑み惚けたほどの美女だ。しかし傷や火傷を見慣れた元裏稼業の男と異なり、一般人には決して簡単には受け入れられない。

ウェーブがかった翡翠の髪も、美しい瑠璃色の大きな瞳も、きめ細やかだった肌も全ての印象をうわ塗る肌の色を、女性は敢えてレイの前に化粧で隠そうとはしなかった。

同情を引こうとしたわけではない。しかし、化粧では隠しきれない大火傷を、自分の手足と同じ酷い爛れた火傷を負うレイを前に自分が隠したくはなかった。


─ こんな傷を負ったのも、俺様を守ろうとしたからか。


当時は、自分の傷の方が酷過ぎて全くそこまで頭が回らなかった。顔が半分溶けた後に死ななかった理由を察せた程度。

しかし、比べずただ女性の火傷や身体の理由を思い返せば、自分をどれほど本気で守ろうとしたかが今はわかる。

下級層に捨てられるまでは守られることが当然だと思っていた子どもだったが、成長した今はそう思わない。あんなに無駄に子ども相手に謝罪を繰り返し、守るべきと女性が思い込んでいたのは自分が彼女の子どもだったからだ。

目の前の女性からの謝罪には、今も苛立ちしか覚えない。……そんなに謝る必要などないと思うから。

自分を守ろうとして負う必要のない傷を無数に負い、それでも自分へ恩に着せず傷の理由も責めようとしなかった。

その頬に触れれば傷は乾き女性に痛みは与えなかったが、ざらりとした肌の感触を指がなぞった。その痕全てが、自分を彼女が〝守りきれなかった〟ではなく、〝守ろうとした〟証だと今は知る。


「……だが、俺様ほどじゃない」

女性の頬に触れながら、反対の手でレイは自らの仮面に手を掛けた。

簡単に外せたその下は、元奴隷のライアーよりも、大火傷を負った女性よりも遥かに酷い爛れた痕だった。

顔中に力を込め全ての神経が中心によりながら、女性は苦しげな表情を彼から逸らさない。最後に見た姿から、残酷なほどにその顔の傷は全く癒えてない。皮一枚膜を張ることなく、自らの炎で溶け切ったままだ。

レイの言う通り、その火傷も比べれば原型を残す女性の傷など大したものではない。

いっそ、このままレイに同じように焼かれても受け入れて良いと。そう思うほどに。


「血の繋がりに、興味はない」


枯れるのではないかと思うほど、涙を流す女性に晒した顔でレイは告げる。

右側を見ればただ淡々とした表情が、左側を見れば悪魔のような形相だった。

とっくの昔に、血の繋がりへの価値をレイは無くしていた。たとえ血が繋がっていた筈でも自分を悪魔と呼び棺桶に捨てた父親もいれば、血の繋がりがある筈と言う可能性で自分を養子に囲い込み都合が良いように教育しようとした父親もいれば、……血の繋がりなどないのに命を懸け身代わりになる覚悟で守り抜いてくれた男がここにいる。そして





「お前との血だけで充分だ。……母上」





小波のような静かな声に、今度こそ女性は、その母親は嗚咽が枯れた音しか出なくなった。

懐かしく、何年振りかもわからない息子からの呼び名にボロボロと子どものように涙を溢れさせ顔を覆う力も出なかった。醜いと知る顔を余計に醜く歪め、絞った目は誰も何も映さない。

レイにとって、血の繋がりに価値はない。

だが、それでも血の繋がった息子をここまで醜い傷を負いながら守ろうとし続けた女性の血が半分は自分に流れているのだと思えば、それは少しの希望のようにも今は思えた。

どちらの父親の血も決して自分が受け継いでいると思いたくないが、この女性の血なら色濃く継いでいても良いと思う。


悪魔のような特殊能力を宿し、醜い姿に、人前に見せられない顔になっても変わらず自分の息子として泣いてくれた。人として扱い、謝ってくれた。避けれた傷を自ら迎え受け、守ろうとしてくれた。

そんな女性に、一度ぐらいちゃんと報いてやりたくなった。

自制できず、悲鳴にも近い甲高い枯れた音で泣き続ける女性の声にとうとう扉が鳴らされ使用人が姿を現した。

失礼致します、奥様、どうなさりましたか、傷が痛みますかと次々と駆け寄る使用人達の波に、ライアーもそっと摩る背から二歩離れた。

大勢に集われる母親を眺め、頬に触れた手が濡れていくのも構わずレイは言葉を続ける。


「この顔と能力で生まれたことに、恨みはない。……今は、感謝もしている」


あの日母親が庇い生かしてくれなければ、ライアーに会えなかった。

いくら皮肉でも、この顔と能力がなければライアーに受け入れられなかった。

過去の受け過ぎた傷の深さと数が変わらずとも、それを代償にしても構わないと思うほど今の生き方に悔いはない。

指先の腹で触れていた形から、なぞりつつ母親の髪を耳へと掛けた。自分の左半分とも似た、まだらの肌の顔を真っ直ぐ凝視する。

使用人達に囲まれ、涙で視界すら満足ではない母親は、その優しい感触だけを頼りに顔を上げる。

九年振りに見れた息子の顔をちゃんと見たいのに、涙が一度も止まってくれない。折角自分の息子が自ら素顔を見せ、自分の頬に触れ、こんなに近くまで来てくれたのに。

触覚だけでわかる、指の腹から、そっと右手全体で自分の輪郭を包むように触れてくれた、たった一人の息子が



「……生きてて良かったな。お互い」



こんなに優しい声で、優しい言葉をくれたのに。

涙で塞がった目では、なにもわからない。微かにその顔が笑んでくれていたことも。

代わりにそれを確かに見届けた使用人達もまた言葉にならず、視界が滲み出した。

夫人が今日という日まで、夢にみることすら罪だと思っていた再会が果たされたことに、赤らみ濡れた顔を隠すこともせず全員が零した。



彼らの長い長い償いの日々も、この瞬間に終わりを遂げた。



Ⅱ290.304

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