Ⅱ364.男爵子息は焦らされる。
「こちらになります」
初老の使用人に導かれ、目の前の扉が開かれる。ここに来るまでうだうだと客間で待たされたが、やっとこれで用事も終わると思えば早くも息を吐いた。隣でうだうだうるせぇ奴を無視し、部屋の中へと進み入る。
広々とし、どこか閑散とした印象もある部屋は、どこか懐かしい匂いがした。……当然か。
部屋の隅から隅まで見回しても、十年ぶりのそこに懐かしさ以外は全く心地の良さを感じない。いつかは帰りたいと思ってもいた場所で、今はさっさと帰りたいと思う。
扉が背中から閉じられた後は、それ以上奥へ進む気にも最初はならなかった。一歩進めば、訳も分からず足が痺れるように震えた。屋敷に入ってからずっとだったが今は余計酷い。郷愁どころか悪夢に片足を突っ込んでいるような感覚ばかりが酷い。もうここにあの男はいないとわかっているのに、それでも
「レイ……?」
ぽつりと、消え入りそうな声が投げられたのは部屋の最奥からだった。
カーテンが開かれ陽の光を部屋いっぱいに吸い込むそこで、夫婦用のベッドに一人で眠る人物が誰かはすぐに理解する。当然だ、その為に俺様はここに来た。
裾を引かれ、促し通り意識して床を踏みベッドへ進む。あれから十年、もう記憶も薄い筈なのにそこで眠る人物の姿ははっきりとわかった。
今日は体調が悪く、ベッドから起きられないと。使用人に伝言だけ任せ客間に訪れることもできず俺様に足を運ばせたその女は、歩み寄った時には既に瞼を無くすほど見開いていた。
レイ、と。また馬鹿の一つ覚えのように俺様の名を呼ぶ。信じられないように目の焦点が俺にだけ合わせられ、目にいっぱいの雫を潤ませ零していく。衣服だけは寝衣ではなくまともな恰好に着替えさせられたのか客を迎える用の上等な服だ。
薄いブラウス越しに、腕にもあの時の痣の痕が残っているのが透けて見えた。骨だけのような腕と白の手袋を嵌めた手で口を覆い、いつまで経っても俺の名しか囀らない。
レイ、レイ、レイ、と。昔は彼女からその名を呼ばれるのが常に嬉しかった時期も、……次の瞬間にはまた無駄な謝罪ばかりなのかと諦めとうんざりと黒いものが渦巻いた時期もある。
俺様は黙っているだけなのに、次第にはそのままえぐえぐとしゃくりあげ、勝手に泣き出した。
また謝るつもりなのか、と。苦しそうに顔を歪める女を見て思う。げほげほと、咳き込む女を前にまさか感染の病持ちじゃねぇだろうなとすら考える。一人で背中を丸め、俺様達と会う為に使用人全員を部屋から人払いした後の女は誰に背を摩られることもなく一人で胸を押さえ喉を摩り、時間をかけてから顔を上げた。
今日で恐らく見るのも最後になるその顔は、俺様が思い返していた記憶よりも遥かに醜く見すぼらしい。
涙でまともに視界も開けていないだろう女は、顔を上げればまた俺様を直視する。
胸の前で一度ぎゅっと握った手を震わせながらゆっくりと俺様の仮面側の頬へと近づけてきた。そして俺様からも同じように右手を伸ばす。女の痣まみれの手が俺様の仮面に触れた時、俺様もまた女の頬に触れ、
この手で、燃やす。
ボワッッッ‼︎‼︎
黒炎が女の頬に触れた手の中で生じたのと、女が断末魔のような耳に痛い叫喚を上げたのは殆ど同時だった。
ベッドの上で元気に転げ回る女を眺めながら、自分で思ったよりも簡単に炎を生じさせることができたなと思う。この女を前にした時から、……屋敷に来た時から。黒炎を生じさせるには充分なほど憤りが腹の底に宿っていたのだと確かめる。
当然だ、許せるわけもない。
あああああああ‼︎と、何度も叫び、消せるわけもない顔の炎に皮膚と肉を溶かされ食われる女を眺めながら、あの男も昔こんな気分だったのだろうかと思う。
さっきまで俺様に縋るように名を呼んでいた口が、今は痛みしか叫ばない。更には、目の前で痛みに悶えベッドにまで火を燃え移らさせ今にも全身を炎に飲まれようとする女を見て、俺の隣がひと際高い声で笑うのも耳障りだった。なにがそんなに面白いのか俺様にはわからない。そして、わかろうとも思わない。それよりも俺様が確認したいのは……
「満足したか?グレシル」
「ハハハハハハッ……‼︎……フフッ……ん~あんまり。だってレイったらあっさり焼いちゃうんだもの」
腹を抱え大笑いしていた分際で、それでもまだ満足しないとほざく女だ。
「カワイソ〜」と笑い過ぎて目に浮かんだ涙を指先で弾きながら、最後は媚びへつらう笑みを俺へと向ける。目の前で顔を溶かしていく女と同じように、この女の媚びまみれの笑みも直視したくないほど気分が悪い。
扉が外から勢いよく開かれ、使用人達が飛び出してくる。「奥様‼︎」と顔色を変えて叫び、俺様達を素通りし水差しの中身を女へかける。もっと水を、なんでも良いから水を早く、冷やせ、医者をと騒々しい使用人達のやり取りを聞きながらその成り行きをただ眺める。
既に俺様よりも酷く爛れ、そして顔の半分以上どころか身体まで焼け爛れたらしい女を前に哀れとも思わなければ、良心すら痛まない。最初からその為にここに来たのだから。
復讐じゃない。これが、グレシルからの要求だから応えてやっただけだ。
『母親の顔。貴方と同じように焼いて見せて?』
ライアーを知っていると現れたこの女の要求は、留まることを知らない。
「満足させて」と交換条件を突き付けられてから、求めた通り贅沢な暮らしもさせ、学校にもねじ込んだ。俺様の従者だったクロイを自分の手足に使い、今度に興味を持ったのが俺様の母親が会いたがっているという話だった。
俺様の身の回りを任じられている使用人共からも、いつもの面倒な懇願だった。母親が会いたがっている、身体も弱く精神的にも衰弱している、どうか一目だけでも顔を見せて欲しいと。俺様がアンカーソンの屋敷から離れてからはうるさいほどの要求だった。
くだらない興味ないそんな奴に会うよりもライアーを探すことで忙しいと何度も断っていたが、とうとう居合わせたグレシルにまで懇願を聞かれ興味を持たれてしまった。
「面白いわね」と笑う女に、もうその時点でろくなことは考えていないと確信できた。それまでも、何でも貪り食うように他人の従者まで欲しがったような女だ。
自分を満足させる為、今度は俺様に突き付けた要求が「母親に会ってあげましょう」だった。
俺様がもう母親に情はない、会いたいとも親とも思わないと言えばそれでも嬉々としていた女が求めたことは、俺様の手による母親への報復だった。
今更復讐なんてしたいと思わなかった。だが、それと引き換えにまたライアーを取り戻せるなら安い条件だった。
「ッよくも奥様を‼︎‼︎」
使用人の一人が、俺様に人の変わった形相で怒号を上げる。
名前は忘れた。だが、俺様の衛兵として毎日のように母親に会えと言ってきた一人だ。槍を手に、俺様へと振り上げ構える男を前にグレシルが俺様の背中へと隠れる。
主人である俺様に槍を向ける衛兵よりも、いっそ「きゃー」とわざとらしい悲鳴を上げる背後の女の方に殺意が湧いた。ライアーの情報さえ持っていなければ、誰よりもこの女を一番に焼いていた。
ボワリ、と黒い炎が浮かび、燃える。火傷の女の為に水を抱えてきた使用人共が、女よりも屋敷の火事を防ぐべく身構える。どうせ女もこの衛兵も、殺したところで全てアンカーソンがなかったことにする。いっそこのまま屋敷ごと全て燃えれば良いと本気で思
「やめて‼︎‼︎」
血を吐くような悲鳴が、ガラつきと共に放たれた。
一瞬誰のものかもわからない悲鳴に、腕を振り上げていた衛兵も動きを止めた。ぐるりと首を回し、背後を見れば顔を消火されたばかりの女が両手でそれを覆っているのが使用人共の隙間から見えた。
俺様と同じように瞼が解けた目からとめどなく涙の粒を落としながら「良いの、良いの」「その子を責めないで」と、か細い声で呟くのが水を打った部屋に広がった。
「当然の、……なの……。レイは、幼い時にこんな痛い思いを……っ、恨まれて、当然だからっ……私は、母親だったのに……‼︎」
解けた唇で囀り、こっちが喉を傷めそうな声で叫ぶ。
奥様と、使用人達の誰もがその女に同情の目を注ぎ、衛兵も槍を落とした。
勝手に自己満足し泣けばこんなに大勢に同情される。あの男は死んだと聞いていたが、随分と俺様がいない間にも囲まれた生活をしていたようだなと思う。むしろあの男が死んでからは脅威もなくなり、優雅な療養生活とでもいったところか。
ガキだった俺様を連れて逃げることもせず、ただ詫びるだけで一度もあの男に勝てなかった。少しでも違えればこの女と共に始末されていたかもしれない俺様よりも、やはりこの屋敷の人間は全員この女の味方らしい。
脅威を振るう男が死に、田舎の片隅で使用人共にぬくぬくとこの女が囲まれていた間、俺様は下級層で連中に負われていたっていうのにだ。
そもそもライアーと共に追われることになった原因も元はと言えばこの女がアンカーソンに密告した所為だ。あれさえなけりゃあ俺様は今もライアーと共に生きていた。
こんな貴族社会で生きていくこともなく、自由に生きて死ぬ筈だった。
「…………血の繋がりに興味はない」
だが、それをこの場で女に思い知らせる気にもならない。
今日はただグレシルの望みを叶えにきてやっただけ。せめてこれで満足させることができれば感謝してやらないでもなかったが、結局時間の無駄だった。
帰るぞ、とグレシルへ一声掛け扉へと踵を返す。くすくすと両手で口を隠しながら笑うグレシルの目は、俺様ではなく女へ向けられていた。
俺様の仮面の下を強制的に晒させた時にも罵詈雑言を放ってきた分際で、あの女の醜い姿は目を煌めかせ食い入るように見つめていた。
実の息子だと思っていた相手に顔を焼かれ身体を焼かれ、それでも報復もなく泣くだけの哀れな女を、まるで美しい景色でも眺めるように凝視する。
レイ、レイ、と。また女が囀る。その言葉しか知らないのかと思う女に、俺様はもう一度、部屋を出る直前に一つの事実をそのまま突き付ける。
「お前の息子なら、十年前のあの日棺桶と共に葬られた」
バタン、と。
俺様が廊下に出たのと、殆ど差もなく部屋の中から何かが倒れる音がした。
奥様、奥様、しっかりなさってください、医者もすぐ来ますと、騒ぐ雑踏の中で俺様は屋敷を後にした。
もう過去でしかないここに、今度こそ帰る日は一生ないのだろうと思いながら。
……
…
「……い。……~い!嘘だろレイちゃんお前よくここで寝れるな⁈」
…………?ここは……。
持っていた本への指に力を込め直し、閉じていた目をぼんやり開ける。……何故か、胃が重い。
今朝何か変なもんでも食っただろうかと考えながら髪を耳にかける。座り心地の違うソファーの違和感と、見慣れない光景に瞬きを繰り返せばやっとここがどこかを思い出す。
どうやら本を読みながら待ってそのままうとついてしまったらしい。馬車の中では落ち着かずよく眠れなかった反動だ。
何か夢でもみていたか。全くどんなものかも思い出せない。ただ、死骸でも踏んだ後のような気分の悪さが残っている。転寝した時よりも遥かに不快だ。……夢なのか?こんなに寝ざめが悪いということは、昔のことでも思い出していたのかもしれない。ただでさえ、ここは。
「……お前が手洗いから帰るのが遅いのが悪い。もう帰るか?」
「いやついさっき着いたばっかだっつの。なに、まさかレイちゃん緊張してまちゅか??」
ふざけんな馬鹿が。
いつもよりも挑発気味に軽口を叩いてくるライアーへ舌を打ちながら、目も顔も向けてやらず本を読み直す。今真正直に仮面じゃない方の顔も見せたら、血色の悪さをバレる気がしてならない。
既に何回も読み繰り返している本の内容は、どこから読み直しても問題ない。……こうでもしないと座っているだけで脈が煩い。
屋敷に入った時から、妙に手足が痺れる感覚に襲われた。父親だった男にろくな目に遭わされなかった期間はたった一年そこらだというのに、それ以上の吐き気が込み上げた。待たされるのが客間で本当に良かった、あの居間に連れられたら吐くかぶっ倒れるかしたかもしれない。
まさかこんなに弊害が出るとは俺様自身思わなかった。これも全てライアーとあの衛兵の所為だ。
二日前、引っ越しを終えたところでライアーの軽口に乗ってやったら本当に昨日の夜にあの衛兵が馬車で迎えに来やがった。学校後に面倒だと言えば、ライアーの方が「じゃあ俺様だけ美人な人妻に会ってくる」と言って馬車に乗り込みやがるから俺様も同乗せざるをえなくなった。
〝八年〟ぶりのカレン家は、俺様の想像以上に変わっていなかった。
……それが、余計に胃の中を圧迫しやがったが。まぁそれは良い。それよりも、着けばすぐ会ってそこで終わると思ったのに長々と客間でこうして待たされることだ。俺様達が来るのを知っているならその前に準備をしておけと思う。
「レ~イちゃん。……んなイライラしねぇでも、会うの母親だけだろ。俺様の方が緊張するぜ?何せ美人って話の未亡人」
「この俺様が嬲られるのを止めもできずその後も一年放置していた女だ」
そして、おめおめとそのまま棺桶に出させることも止められなかった。
せめてその後にアンカーソンに密告をしなければ、あんなことにもならなかった。そう馬車でも何度も思い返したことを言葉にしてやれば、ライアーから溜息が漏れた。
別に今回も会いたくて会いにきてやったわけじゃねぇ。
今までも使用人達に煩いほど言われていたが、ライアー探しに忙しかった。そのライアーが見つかって、しかもそのライアー本人が行くというから付き合ってやっただけだ。今更母親だった女に何も期待もしていない。
頭に通さず目だけで本の文字列を追い続ければ、ライアーが俺様の隣にずっかりと座り出す。ソファーの座面がライアー側に傾いた。
「べっつに美人の母ちゃんもお前に何も求めてねぇと思うぜ兄弟?お前はただ突っ立っていりゃあ良い」
まぁ親なんかいたことねぇからわからねぇけど、と。そう言いながら慣れ慣れしく肩に腕を回される。
身体まで全体的にライアーへひき寄せらる傾き、本を読むどころではなくなる。どうでも良さそうに言ってくれるこの男の軽口に、また気が少し楽になる。
馬車の中でもなんとか吐かずにいられたのもコイツのお陰だろうと自分でわかる。いっそ報復目的にでの帰還だったら楽だった。
わざわざあの女の泣き言を聞きに長旅させられたことが余計に旅中も落ち着かなくさせられた。
「それとも嫌なら俺様だけで挨拶してやろうか?娘さんを必ず幸せにしますぅ~ってちゃあんと安心してやるよ」
「ふざけるな。お前と結婚するくらいならイボガエルとした方が遥かにマ、シッ…………⁈‼︎⁈⁈‼︎‼︎」
相も変わらずまたふざけたことを言ってくるライアーに、とうとう本を読むことを諦め閉じた。そのまま顔ごと振り返って睨んでやれば、……思わず舌が攣った。
さっきまで当然のようにライアーだと思って話していた相手の顔を至近距離に、判断するより先に背中を大きく反らす。肩へ馴れ馴れしく回されていた腕を訳も分からず振り払い、気付けばソファーから飛び上がり距離を取り本を振り上げていた。
俺様の反応に目を丸くしてくる男に、自分でもわかるほど瞼を無くしながら声を張る。
「誰だお前!?!!!!!?」
「いや、ライアー様だっつの。…………なんだまだ寝惚けてんのか⁇」
どこがだ‼︎と、あと少しで叫びが続くところだった。
寸前でなんとか飲み込み目を凝らせば、改めて誰だと疑問が脳に刺さる。手洗いに戻ってから今初めて姿を見れば、全くの別人だ。
馬車でここに来た時にはいつものボロの服だった分際で、今は子綺麗に纏めてる。汚れが目立つ白のシャツなんざ着ているのを今初めて見た。下は変わらねぇが、一体誰から剥ぎ取った。
しかも一番はそこじゃない。いつもの無精髭がない。短髪の髪は左半面の翡翠と右半面の黒でそのままなのに、髭だけがなくなっただけで人相が全く違う。明らかに二十は若返って見えるライアーは、俺様が初めて会った時よりも若く見えた。
瞬きする余裕もないほど顔中に力が入り、数秒は顎が外れた。ライアー自身違和感があるように指先で頬を掻きながらも、今は俺様の反応に怪訝に眉を寄せている。
ライアーの反応に、いっそ俺様の目が可笑しくなったのかと二回連続で痛くなるほど右目を擦った。だが、擦った片目も、仮面に囲まれた左目も映すのは若返ったライアーだけだ。
「お前っ……本当に二十五だったのか……」
「おいこら兄弟。やっぱ俺様の実年齢覚えてたな⁇」
ったくもう、とライアーが眉を釣り上げて見せるがそんなことどうでも良い。
むしろこいつを探す時に実年齢と見かけ年齢どちらを情報に加えるべきかで悩まされた分謝れと言いたい。最初からその顔だったら悩まされなかった。老けた顔は変わらねぇが、全く印象が違う。
気付けば棒立ちのまま固まる俺様に、ライアーが短髪を無意味に掻き上げる。「服はコンラッドに借りた」と言うそれを黙って聞いてやれば、手洗いついでに使用人共に話をつけたらしい。先ずコンラッドが誰だと思えば、口にする前に「俺様達ここまで迎えに来た衛兵だからな?」と念を押された。あいつかと、ここに来させた原因ならば確かに服ぐらいの支給も当然だった。
「もともと大昔ここに住み込みだったんだとな。俺様が言ったらすんなり貸してくれたぜ。こんなパリッとした服なんざ初めてだけどな」
「いっそ服なんざどうでも良い」
いつもの言動のライアーにやっとこっちも頭の整理がついてきた。
恐る恐るライアーらしき二十五の男の隣に座り、ソファーの背凭れには落ち着かずまじまじと顔を見る。「惚れた?」とくだらないことをヘラヘラ笑いで言ってくるのを無視し、その顎に手を伸ばし指で摘み上げる。
「……何故いきなり剃った?」
「まぁどうせ明日にゃすぐ生え出すがな」
答えになっていねぇ。
さっきから俺様が一番尋ねたい話の答えばかり冗談とふざけで煙に巻く。
今まで俺様の記憶の限り一度も全部剃ったことなんかなかった癖に、いまここで子綺麗にする理由が見つからねぇ。盗みの為に金持ちの居住地を歩き回った時も、裏稼業時に狙ってた女相手にもここまで身綺麗にしたことがなかった男だ。トーマスだった時でさえそのままだった。
訳もわからず顎を摘み上げたまま思考がこんがらがる俺様に、ライアーが「ちゅーは断るぜ」と減らず口で笑った瞬間。気付けばぶん殴り、同時に今度こそ黒炎が溢れた。
さっきまでのヘラヘラ顔が嘘のように目を見開いたライアーがバチン‼︎と俺様の眼前で手を叩き、一気に思考が白に消える。
「ばっかレイちゃんここまで燃やすなキレんな‼︎‼︎」
「ッお前がいつまでもそうやってふざけやがるからだろ‼︎」
怒鳴るライアーに俺様も負けずと荒げる。
歯を剥き額を互いにぶつけ合えば、ガツンと奥歯まで響いた。ただでさえ落ちつかねぇ場所で落ち着かねぇ格好をされれば当然だ。そう考えればまた黒炎がぼわりと足元で燃え光った。慌ててライアーと揃って踏み消せば、そこでやっと「わかったわかった」と諦めたようにライアーが背凭れに倒れかかり自分の顎を摩る。これで大嘘吐いたら次は蹴飛ばすと決める。
「まぁ……アレだ。……いくら男前のライアー様だろうと、母親としちゃあテメェのガキが小汚ねぇ野朗と一緒は流石に〜、……だろ?」
は……?
気まずそうに目を逸らしながら言うライアーに、思わず一音が漏れる。
てっきり本気で落とす狙うと。そう宣うとでも思えばなんだそれは。
今鏡を見れば目が点になっている自信がある。ぽかりと口が開いたまま力が入らなければ、そこでやっと「それに相手は相当美人で期待できる」と付け足しのようにほざいた。いつものライアーよりも遥かに切れの悪い嘘臭い言い草だ。
そこまで思えば、次の瞬間どうしようもなく喉が込み上げ肩が震
「ぶっ‼︎‼︎……〜〜っ‼︎くっ……はははははははははははははははは‼︎‼︎なんだその理由は⁈」
ははははははははははははははははっ‼︎‼︎
もう、腹が捩れる。自分の笑い声を部屋中に響かせ、それでも足りず腹を抱えながらソファーの背凭れにボフンと倒れ込む。背中を丸めても耐え切れず、腹の内側が攣るまで笑い続ける。
馬鹿だ。あまりにも下らない理由を、そこまでこの男が気にしてやがったのかと。理解すれば余計に息が苦しくなる。目尻に涙まで滲んできた。
自分の笑い声の隙間から「ほら笑った」「だから言いたくなかったんだよ俺様」とライアーの低い声が聞こえた気がした。
これを笑わずにいられるか。体感だけでも五分は笑い続けていた気がする。笑い過ぎの腹痛と酸欠が収まりかけてからやっと顔を向ければライアーが珍しくソファーで項垂れていて、また腹が攣った。
「ははははははははっ……お前っ、おまっ…〜〜っっ!……お前、この、この馬鹿がっ……」
「あーはいはい馬鹿ですよばーか。語彙力死んだレイちゃんに言われても何とも思わねぇわ。テメェと違って俺様はお貴族様に会うの慣れちゃいねぇんだよ。こんなことで摘み出されてちゃたまらねぇっつの」
そういえばそうだった。
まさかライアーが貴族に会うのも気にしてたのかと、今の今まで俺様よりも遥かに落ち着き払っていやがった分際で。
もともとこの屋敷に来ると言ったのも自分の癖に、正面から会うのはなくても盗み騙した連中には貴族もどきも入ってただろ。まさか貴族は小汚い奴を誰でも摘み出すとでも思っているのか。
アンカーソンならまだしも、こんな下級貴族じゃ農民だって場合によっては訪れるってのに。
ひぃひぃと乱れる息を深く三度整え、向き直る。ソファーに背中を預けながら、項垂れたままのライアーを頬杖をつきながら覗き見る。
「ばか。俺様の顔から考えてもみろ。これと比べりゃあお前の小汚さ程度誰が気になるか。それにー……、……」
それに。
その言葉の続きを思い浮かべた途端、急に笑いが引いた。
頭が冷め、それを言葉には出さずに舌の上で留めた。
レイちゃん?と、俺様の言葉が急に止まったことにライアーが顔を上げる。やっぱり見慣れないその年相応の顔を眺めながら、まだコイツにはそのことは話してなかったかと記憶を辿る。……まぁ、知らなくても変わらねぇか。
コンコン、と。そこでノックが鳴らされた。気付けばそれなりに時間が経っていたらしい。
扉が開かれ、どうぞお部屋にと初老の使用人に促される。
やっとか、と。思い出したように口の中を飲み込んだが、廊下に出てももう吐き気には襲われない。身体中に張り詰めていた糸のような感覚も今はしない。長らく客間で待たされ過ぎたせいか、仮眠のせいか、直前に思い出した事実のせいか、それとも。
俺様の母親を安心させる為に余計な気まで回してきた馬鹿な保護者のお陰か。
わかりきったその答えを深くは考えず、口を摘み押さえる。
今振り返れば確実にまた笑ってしまうことを確信しながら、妙に緩んだ気のままに俺様は部屋へと向かった。
……取り敢えずそれだけでもこの男が髭を剃った意味はあったらしい。
Ⅱ252
重版と100万部達成感謝記載しました。
https://twitter.com/ten1ch1?s=21&t=yzD0mNY3OiY1PiteRhX92A




