Ⅱ362.刺繍職人は思い返す。
『ネル。……大変だったな』
そう言って年の離れた兄が抱き締めてくれたのは私がまだ五歳の時だった。
もう今は当時の記憶も薄い。ただ、あの日兄が帰ってきてくれた時に私は途方もなく安心したことだけは覚えている。
『すま…い……、すまないっ……クラークにもど……ぅか伝えてくれっ……っ』
事故で亡くなったという父の顔も覚えていない。
ただ倒木から見知らぬ人を庇い下敷きになったという父さんは、生前から本当に優しい人だったと母さんも兄さんも話していた。当時、路頭に迷いかけていた母と兄を気に掛けてくれたのが父だったと。兄さんも、父さんと母さんの結婚は心から祝福していたと話してくれた。
そんな兄が父の事故を知れたのは、父が息を引き取ってからだった。当時既に騎士団に所属していた兄は、私達と同じ家に住んではいなかった。頻繁に帰ってきてくれるようになったのは父が亡くなってかららしい。
半分しか血が繋がっていない私のことを本当に大事に育ててくれ、騎士団本隊騎士だった兄のお陰で私も母も不自由なく生活することができた。今思い返しても兄には感謝しかない。
母によると兄は子どもの頃から出来が良く、何でも上手く熟してしまう人だったらしい。
特殊能力にまで恵まれ、それがなくても子どもの頃から手がかからないどころか本当に助けてくれた、自慢の息子だと。
ただ、そんな兄がまさか騎士になるとは母も夢にも思わなかったらしい。自分の新しい生活に気を遣ったのだろうと母は語っていた。私もきっとそうだと思う。
いつも穏やかな兄が怒る姿なんて、私の記憶ではたった一度だけ。しかも私や母に対してではない。あの時の怒り狂った兄は未だに時々悪夢に見るほど怖かった。友人であるベレスフォードさんが来てくれていなければ本当に人殺しになっていたのではないかと今でも思う。
ただそれでも私や母にとっては変わらない、優しい自慢の兄だ。
縫い物や刺繍が好きで、将来は国を出て服飾の勉強がしたいと言った時も「それは良いな」と笑って認めてくれた。
国を出る資金も援助すると言ってくれたけれど、兄に頼ってばかりでは駄目だと思い十三で城下にある大衆酒場で私も働くようになった。
もともと店主の娘達が働いているということで、私より年下の子も接客として働いていた酒場にはすぐ馴染むことができた。
特に世話を焼いてくれたのが同い年のオリヴィアだった。
オリヴィアは優しくて、私と同い年とは思えないくらい大人びていて頼りになって、おっとりとしていて世話焼きなところは兄さんにも似ているなとちょっと思った。時々私の様子を見に来てくれた兄さんともすぐに打ち解けて、…………本っっ当に打ち解けて。結果、十五歳だったにも関わらず兄さんに求婚された。
『あっ、あのっ、ね?ネル……その実は、私……』
両思いだったオリヴィアはついその場で受けてしまったけれど、その後からは戦場と言っても良いくらい大変だった。
私に打ち明けてくれた彼女は、兄が自分の年齢を知らないのかもしれないと半泣きで謝りながら私に相談した。皮肉にも当時私とオリヴィアは一番の親友だったから仕方が無い。今まではおっとりして頼りになったオリヴィアがあそこまで挙動不審になったのは初めてだった。
私としてもオリヴィアと兄の想いには薄々勘付いていたし、親友と兄が両思いということは驚かなかった。ただ兄が、私と十以上年の離れた兄が!よりにもよって成人にもなっていないオリヴィアに求婚したことには流石に驚いた。
当時、まだ私には変な客に目をつけられないかと心配してくれていた兄が私と同い年の子に求婚するなんてと頭が真っ白になった。父親のように育ててくれていた存在だから余計に衝撃も大きかった。
一瞬今すぐにでも兄へ怒鳴りつけに行こうかと思ったけれど、それを止めてくれたのは一番動揺を隠せなかった筈のオリヴィアだった。
たぶん兄が自分の年を勘違いしていると思うと前々から薄々勘付いていたオリヴィアは、兄に〝異性〟として見られなくなるのが怖くて本人も言い出せなかったらしい。確かにオリヴィアは大人びていて、私だって同い年だと知った時は驚いた。けれど、もうオリヴィアと兄が知り合って二年にもなるというのに気付かないなんてと頭が痛くなった。
兄が実は鈍いのか盲目だったのか、それともオリヴィアが一枚も二枚も上手だったのかは今でもわからない。
ただ、私に相談してくれたオリヴィアは「まさか突然求婚までして貰えると思わなくて」と兄に隠していたことに罪悪感も持っていた。
兄のことが好きなのに、バレたら求婚どころか告白まで無かったことにされてしまうかもしれない。けれど未成年で結婚なんて許されないと。泣き声混じりで相談してくれたオリヴィアは冷静だったのか混乱していたのか。……あの子は家族や客前ではしっかりさんに振る舞うのに、私や兄の前だと時々すごく弱気になったから。
私から「大丈夫」「私から兄さんに確かめるから」と言って兄のところへ向かえば、兄は兄でオリヴィアのことを報告しようと待ちかねていた。
今まで女性に告白されたことはあっても、自分からの浮いた話なんて全くなかった兄の朗報を私だって快く聞きたかったけれど、もうそれどころじゃない。
話がある、と語る兄の話を先ずは最後まで聞いて「おめでとう」と祝してから私は兄に事実を突きつけた。その結果、兄は。
『………………なに?』
やっぱり、オリヴィアの読み通り気付いていなかった。
今まで見たこともない表情で固まり、顔中の筋肉を痙攣させて滝のような汗を流した兄のあんな動揺する姿を見るのも初めてだった。
最終的に誤解も解けてオリヴィアが十六になるまで待つことにした兄だったけれど、これには母もベレスフォードさんもクラリッサさんもアーサーも全員が呆れた。
兄さんもオリヴィアの家族へ挨拶込みで謝り倒したけれど、当時既に〝王国騎士団副騎士団長〟だった兄と結婚を前提での婚約と付き合いにオリヴィアの家族も喜んでくれた。……それ以上に年差には驚いていたけれど。
ただ、それから困ったことに結婚を前提に付き合い始めたオリヴィアは、私に対して色々と調子が狂うことが増えた。元々すごく真面目な子で、大人びていたのも妹三人の為にしっかりお姉さんをしないとと努力した結果だ。そんな子が兄と婚約関係になって、兄の〝妹〟である私に大して〝友達〟としてよりも〝嫁〟として務めなきゃと変に気負うことが増えた。
私に姉と呼んでと言い出したり、店ではオリヴィアの方が先輩なのに私に対して言葉を整えたり、もともと兄との求婚騒ぎで私に相談した負い目もあって大分目を回していた。
私と兄が何度いつも通りで良いと言っても、オリヴィアは元の真面目さが災いして私の前だと気合いも緊張も段違いだった。
『もう気にしないでよ兄さん、オリヴィアも。元々私は家を出るつもりだったんだから』
私が国を出ると決めたのも当然の流れだった。
十六になって、無事オリヴィアと兄さんの結婚を見届けてからすぐ国を出た。正直、あのオリヴィアと一緒に暮らしたら母さんはともかく私は気まずい種でしかない。
兄さんもオリヴィアもお金が貯まるまでゆっくり過ごして良いと引き留めてくれたし、兄さんは別の家で暮らしたいだけなら金銭的援助もするとまで言ってくれたけれど私にとっては良い機会だった。
オリヴィアも母さんとは仲良くなったから任せて安心だし、何はともあれ兄に年齢の差を超えてでも好きな人ができたこと自体は幸いだった。
二人だって私と一緒では夫婦らしくし辛いだろうし、兄とオリヴィアの恋愛が私にとって微笑ましくても二人は絶対気負ってそれどころじゃなくなる。オリヴィアにとって私は友達で義妹で、兄さんにとっては我が子のように育てた妹だ。
二人が私の前で堂々で恋仲らしく振る舞える姿は想像できなかった。
兄さんだって同じような理由で再婚した母の家から出て行ってしまったのだからお互い様だ。
別に兄さんのこともオリヴィアのことも恨んでいないし好きだけれど、ただただちょっと一緒に住むには気まずい。家を出るには充分な理由だった。
フリージア王国を出て暫くの暮らしは大変だったけれど、夢だった異国の職人技術を働きながら学ぶことができた。今でもあの時に国を出る選択をしたのは間違っていなかったと思う。
だってお陰で私はこうして刺繍職人として腕を上げることができて、自国に帰った後も被服教師という職を任された。給料も悪くないし、学園で働いていると言えば誰だって驚いて褒めてくれる。
母だって喜んでくれたし数年ぶりに再会したオリヴィアも、クラリッサさんだって祝ってくれた。
こうして立派に仕事に恵まれた私の人生はやっぱり間違っていないし、あの時の選択だってそう。たとえ
兄さんの死に、立ち会えなかったとしても。
『ネル・ダーウィン殿でお間違いないでしょうか』
……兄さんが死んだと、異国にいる私に知らせが届いたのは兄さんの葬式も終えてからだった。
兄さんを敬愛していたという騎士がわざわざ訃報の手紙を直接届けてくれた。……数年ぶりの、オリヴィアからの手紙だった。
兄さんは過労で死んだと、兄さんからまだ絶対に呼び戻してはいけないと言われていたと、葬儀もこちらで済ませたから安心して良いと震える文字と涙の跡が残った便箋にそう記されていた。
手紙を受け取った私の所為で二度濡れた手紙を手に、私も立っていられなかった。信じられなくて、嘘だと思いたくて、兄さんの死にも葬式にも立ち会えなかったことも、あの兄さんが死んでしまうほど大変な目に合っていたことも知らなかった自分を呪った。
人を雇って時々手紙を送ってくれた兄さんから最後に貰った手紙には「暫くフリージア王国に帰ってきてはいけない」「治安が落ち着いたら必ずまた連絡する」と書いてあった。兄さんの親友だったベレスフォードさんのお葬式にも参列できなかったけれど、いつか帰ったら絶対にご挨拶に行こうと決めていた。
フリージア王国の悪い噂を聞いては兄達が心配で何度家に帰ろうと思ったか、数も忘れた。それでも帰らなかったのは、兄からの手紙が強く望んでいたからだ。……なのに、「帰ってきて良い」の知らせもなく兄は亡くなってしまった。
兄が私の知らないところでどれだけ辛い目に合っていたのか、あの要領の良い兄がどうしてそこまで無理をしないといけなかったのか、どうしてこんなことになる前に騎士を辞めるように止めて上げられなかったのかと後悔ばかりが渦巻いた。
場所も人目も考えずに泣き崩れて取り乱した。私に謝罪し兄は立派な騎士だったと語る騎士に、手紙を届けてくれた感謝を言う余裕もなかった。
それどころか、酷い言葉を浴びせて追い返してしまった。
手紙には、オリヴィアにも「何か自分にできることは」と望んでくれた騎士が自ら手紙を届けることも請け負ってくれたと書いてあったのに。特殊能力者の出入りが厳しく制限されたフリージア王国で、手紙たった一枚届けるのがどれだけ大変だっただろう。
なのにあの時の私はただただ兄に何もできなかった自分が悔しくて、兄を死にまで追いやったフリージアも憎くて、兄を死なせた騎士団も許せなかった。
今思えば全てが責任転嫁の八つ当たりだったとわかっている。けれどあの時は吐き出さなければ息をすることもできなかったくらいに悲しみに溺れてだめになっていた。
親友のベレスフォードさんを失って、騎士団長として働き続け過労で死んでしまうくらいに追い詰められた兄さんも、それを見ていたオリヴィアも母さんもどれだけ辛かっただろうと考えれば考えるほどにもう前をみることもできなくなった。
何日も泣き伏してやっと涙が止まっても、フリージア王国に帰ることはもう二度とないだろうとまで思った。
何年も兄さんから帰国の許しを待って、死んだ後すら帰国するなと言われたフリージアがどんな状態かは私も噂で聞くだけで想像できたから。なのに今、こうしてフリージア王国に私が戻ってきたのは─
「ネル大丈、……ネルさん大丈夫ですか?お食事、やっぱりお口に合いませんでしたか?」
……オリヴィアの声で、ぼんやりと現実に意識が戻る。
顔を上げれば心配そうに眉を寄せる友人であり私の義姉と母がテーブルの向かいに座っていた。目の前には彼女お手製の料理が並んでいる。
さっきまで湯気を出していた筈なのに、いつの間にか冷めていた。また呆けてしまったのだと遅れて気付く。
「ごめん、またちょっとぼーっとしてて……料理すごく美味しいよオリヴィア。いつも本当にありがとう」
「大丈夫なの本当に?やっぱり今の教師の仕事、貴方には負担なんじゃないの?」
お願いだから無理しないで、と声を細くする母の顔をまた歪ませてしまう。
ここ最近はいつもこれだ。就職が決まった時は喜んでくれたのに、私が疲れた姿をちょっとでも見せると母は必要以上に心配する。父も兄も亡くした今、子どもは私しかいないのだから仕方ないのだけれど。しかも兄は過労死だ。
〝一年前〟にあの女王が革命で死んで新たにティアラ女王が即位し、私はフリージア王国に帰ってきていた。
母とオリヴィア曰く、城下もあの女王の圧制下と比べるとかなり住みやすくはなったらしい。……それでも、七年近く国を空けていた私にとっては酷い変わりようだった。
国門から家まで歩いただけでも空き屋が増え、人が減り、治安も悪い。
更には帰ってきた私にオリヴィアが最初に説明してくれたのはまさかの危険区域。足を踏み入れてはいけない裏通りや路地裏の数も明らかに増えていた。
母さん達には「ティアラ女王のお陰で大分減った」でも、私にとっては別の国かと思うくらいに増えていた。それだけでも兄があれだけ私を帰国させたくなかった理由がよくわかった。
帰国した私をオリヴィアも母さんも嫌な顔ひとつせず、泣いて温かく迎えてくれた。
よく生きて帰ってきてくれた、おかえりなさいと言う二人が思っていたよりもずっと元気でいてくれたことだけが救いだった。
兄が生前にしっかりとお金を家に蓄えてくれていたお陰で、二人も金銭面では苦労しなかったらしい。ベレスフォードさんの家と今でも助け合っていたことも大きい。
今は騎士団長になったというアーサーが時々様子を見に来てくれているから、周囲の牽制にもなって安心して過ごせていた。更には、兄が死んでから毎月高額のお金が家に送られてもいた。
送り主もわからなければいつの間にか家の中に放り込まれていて不気味だったらしいけれど、袋が王国騎士団の供給袋だったから、きっと兄を慕う騎士の誰かだろうと当たりも付き二人も安心して受け取れた。
いつか名乗り出てくれるのを待ったものの、アーサーが騎士団長になった頃からパタリと途絶えたっきり。それから一度もお金は放り込まれなくなったから、きっとアーサーが騎士団長になって自分の支援は必要ないと判断したんじゃないというのが二人の考えだった。
一言くらいお礼を言いたかったと話す二人に、そんな人がいることも知らなかった私は頷くしかない。
本当は妹である私がやるべきだった全部をその人やアーサーがこなしてくれていた。一時は恨んでいた筈の騎士に、我が家は随分助けられていた。
流石兄さんというか、相変わらず人望はあったんだなと思う。お陰で城下でも我が家は私が居候しても平気なくらい裕福な方の暮らしだ。
「大丈夫だってば。学校も本当に働く分は良いところだし、同僚皆良い人でお給料も良いし。私は兄さんみたいに無理なんかせず堅実に生きます」
「もうこの子ったら。せっかく帰ってきたんだし、もうちょっと無理せずに好きなことをやっても良いのよ」
「そうですよ、ネルさん。この前だって露店を出したらたくさん売れていましたし、もう一度フリージアでも刺繍職人として……」
「あんなの趣味よ趣味。お客さんも物珍しさで買ってくれているだけ。仕事になんかなるわけないでしょ」
またいつもの話になる前に私から断る。
別に今の仕事に不満も大してない。今だって裁縫も刺繍も縫製も好きだけど、それだけで食べて行こうとはもう思えない。
休みの日にちょくちょく市場で売ってはいるものの、その辺の安物と同じ値段だから気まぐれか同情で買ってくれているだけ。私の服や刺繍を身内贔屓無しで本気でお金を払ってでも欲しいと思ってくれる人なんて現れるわけもない。
好きなことは趣味で、特技でしっかり稼ぐ。そうやって割り切るのはが人生の正解だと今の私はちゃんとわかっている。
冷めてしまった料理を口に運びながら二人から目を逸らす。国に帰ってきてから私が刺繍職人の道を諦めたと話してずっと二人は機会を見つけては探ってくる。
もう家を避ける理由はなくなったけれど、やっぱりお金を貯めたら家を出ようと随分前から決めている。まぁそれでも〝趣味〟の所為でなかなか貯まらないのが悩みの種だけど。
最近じゃ貯金の為にもなるべく作品を増やさないように意識しているけど、お陰で今度はこうやって物思いに耽ってしまうことが増えた。十何年も続いた習慣が途絶えるのはやっぱり辛い。
針と糸を動かしている間は無心になれたのに、今は頻繁に兄のことを思い出してしまう。……乗り越えたつもりでも、実際はただ見て見ぬ振りをしてきただけだった。
私よりずっと辛かった筈の母さんやオリヴィアの方がずっと乗り越えている。兄さんの話だって心から笑ってできる。
兄さんの不調も見逃して過労死させてしまったことを未だにオリヴィアは気負って、もう完全に〝友人〟としては振る舞ってくれなくなり下手にばかり出るけれど、それ以外は普通だ。
国に帰ってから、新設される学園の教師に被服担当でなんとか就職できた私は店を持つことも刺繍職人の道も最初から諦めていた。
二人にはどうしてと聞かれたけれど、堅実に生きると決めたとしか答えられていない。
国に帰った本当の理由だって言わずに、ただティアラ様が戴冠して平和になったと聞いたから帰ってみたとだけ。二人とこうして家族として笑い会えることは嬉しいけれど、本当のことは一年経った今も言えないままだ。……言えるわけもない。まさか私が
国を、追い出されたなんて。
……兄さんが生きていたら、話せたのかなと思う。
少なくとも新しい女王の統治下になったことを心から喜んでいる二人には絶対言えない。まさかあの革命の所為で私が国を追われたなんて、絶対に。
国での仕事は細々とだけど、まぁまぁ順調だった。
強気で売っていた服はなかなか売れなかったし店を持つなんて夢のまた夢だけれど、あの頃が一番楽しかったなと思う。
職場の友人も上司も師匠とも仲良くやれていた。
もう少しお金が貯まったらまた別の国へ出て修行ついでに刺繍や作品を売りに出ようかなと思っていたけれど、兄を死なせたフリージアに帰る気にはなれなかった。……革命が起こって、全てが変わるまでは。
フリージア王国があの女王から開放されたのは私だって嬉しかった。けれど、それからすぐに全てが変わってしまった。
〝フリージア人〟というだけで私は昨日まで住んでいた家も職場も失ってしまった。
女王の圧制下と恐怖政治といっても、それが周辺諸国への牽制にはなっていた。
けれど、女王が死んだ途端手の平を返すように国がフリージアの血を引くというだけで私に国を出て行くように命じた。〝バケモノ〟〝女王の血を引く一族〟と知らない人に後ろ指を指され、職場も師匠も国の方針には逆らえず私を雇えなくなった。
出国前に露店で売った服は後ろ指を差す人達に足蹴にされて唾をかけられ破かれた。「化け物の作った服なんか何を仕込まれているかわからない」「バケモンが伝染る」「どうせ特殊能力で作った偽物」と言われた日、もうフリージア王国出身だということ自体が呪いだと理解した。
兄と違って特殊能力がない私は、黙っていればフリージア王国の人間だとは気付かれにくい。
けれど、渡り歩いたどの国でも既にフリージア王国や特殊能力者の悪評が広まっていた中で、いつか正体にバレて迫害されるのに怯えて生きていくなんて無理だった。
結局、私が帰れるのは同じ〝フリージア〟の血が混じった人しかいないこの国だけだった。
アネモネ王国とサーシス王国はフリージア人を受け入れていると耳にはしたけれど、もうあんな想いをしたら二度と国外になんか出たくもない。
もし奇跡的にフリージアで売れても、他国には「化け物の服」と一蹴されるに決まっている。どうせ今まで一度だって私の作品が赤の他人に認められたことはなかった。
学校は妙な生徒はいるけれど職場は全員フリージア人で安心だし、好きな裁縫だって子ども達に教えられる。
腕が鈍ることもなければ、特技も生かして針と糸にも携われる。今の私にとってはこれ以上ない職場だ。
国を追い出されたきっかけを作ったのは革命だけど、学校を作ってくれたのもティアラ女王だし感謝はしている。悪いのはここまでフリージア王国を嫌われ者にした前女王なんだから。死んだ今、あんな呼び名をつけられるのも頷ける。
今の私はただちょっと好きなことに携われて、休みの日に自己満足の趣味を楽しめればそれで良い。割り切れば作品を安く売るのも辛くない。
「良いのよ、本当にもう。学校の仕事も楽しいんだから」
明るい声でどうでも良いように笑ってみせる。
そりゃあ理事長代理が生徒なんて変な状況だし、教師以上に偉そうな生徒がいるなんて妙な話だけど今のフリージア王国には貴重な良い仕事だ。稼ぎも良くて誰にも恨まれない。天国にいる兄さんだって夢を諦めたことを許してくれる。……それに
「それに。……、……こうして刺繍の楽しさを伝えたきっかけで刺繍職人を目指してくれる子が現れるかもしれないでしょ?」
私の、代わりに。
私ではもう叶わなかった夢だけど、生徒達や将来その子ども達が刺繍を好きになってくれたら。
いつか何十か何百年後にフリージア王国が本当の意味で自由になったら。
どの国にいっても差別されず、化け物と呼ばれず、自分の出身を隠さずに生きていける世の中になったら。
フリージア王国の人間の〝誰か〟が私の〝好き〟を繋げてくれるかもしれない。そのほんの一端にでもなれたらそれだけで嬉しい。
私は才能がなかったけど、刺繍が好きな気持ちだけは変わらない。誰かが私の代わりに夢を叶えてくれることを今は願うばかりだ。
そう思って笑ってみせれば今度は二人も頷いてくれた。私の新しい目標を応援してくれる。……そう、これで正しい。
もう、私の夢は終わったんだから。
……
…
「……ル。……ネル。すまないが起きてくれないか?椅子に座ったままじゃ風邪を引くだろう」
……?ここは……。
なんだか懐かしい声に、ぼんやりと目が覚める。
背中を摩りながら柔らかい声で起こしてくれる、……これも懐かしい起こし方だ。
子どもの頃はよくこうやって、と。そこまで思ってからふわりふわりと意識が返る。薄目を開けてみれば、ペンを片手に机に突っ伏していたのだと気付く。
デザイン画のラフを書いたまま寝てしまったらしい。久々に変なところで眠ってしまったからか、身体がすぐ起きない。……何かしら、胸も身体も全部が鉛のように沈み切ったように重怠い。
「全く。これはオリヴィア……いや、母さんのものか。いつから寝てたんだ?」
そう言いながらいつの間にか背中に掛けられていた上衣を丁寧に掛け直される。
自分でも驚くくらい寝ぼけているらしく、その手も声も兄さんのものだと思ったら薄く開いたままの視界が滲んだ。疲れているのかな……何故だか凄く、泣きたい。
眠気を堪える振りをして目を擦り、滑舌の悪いままの口で最後に覚えている時刻を伝える。その途端「もう三時間以上経ってるぞ」と兄さんの苦笑する声が返された。
そんな時間⁈とやっと目が覚めた頭で時計を見上げれば、深夜を回っていた。
くっくっと喉を鳴らしながら笑う兄さんはそこでからかうように「おはよう」と言ってくる。髪もボサボサに乱れた上に書きかけのデザイン画に涎が溢れてないかも心配で、直後には返事も忘れるくらいドタバタしてしまう。
「すまないな、こんな夜に起こしてしまって。ベッドに運んでも良かったんだが」
「ううん、起こしてくれて助かった。まだ明日の準備もしてなかったから……兄さんは式典どうだった?」
手を忙しく動かしながら言葉を返す。
むしろこの年で兄にベッドへ運ばれる方が恥ずかしい。そして兄もそれをわかってて言っているんだろう。私の言葉に「式典じゃなくパーティーだが」と訂正をいれながら、すんなり話を流してくれる。
「良いパーティーだったよ。プライド様ともご挨拶できた。大層お前の腕を買って下さっていたよ」
私も鼻が高かった、と言いながら嬉しそうな声を出す兄に私もつい手を止めて振り返る。
プライド様が⁈と叫びながらも、頭の別の部分ではやっぱり本物だったんだということに安心した。間違いないとわかっていても、副団長である兄さんの口から語られると確信が持てる。
振り返れば、困り眉で笑う兄さんの口はどこか苦笑いにも近かった。どうしてそんな顔をするのか首を傾けて見返せば、兄さんも苦笑いの口を動かした。
実はな……、とさっきとは違う潜めるような声に何か問題でもあったのかと気持ち悪く脈打ちだす心臓を押さえて口の中を飲み込む。
身構えた私に「落ち着いて聞いてくれ」と前置く兄さんに奥歯を噛んで頷けば、それ以上は勿体ぶらなかった。要件から告げた兄さんの言葉を私は一瞬で五回は耳と事実を疑った。
プライド様が、私から買った〝あの〟手袋とショールを身につけてくれていたと。
驚愕よりも、悲鳴が自分の口から飛び出した。
きゃあああああああああああああ⁈‼︎と喉が裂けそうな悲鳴に、兄さんが宥めるより先にバタバタと別の二部屋からの足音がこちらに近づいてくる。私も私で余裕なく、「ちょっと待ってどういうこと⁈」と兄へ両手で詰め寄ってしまう。
衝撃的事実の詳細が控える中、目眩がした。
二度目の悲鳴が上がる前にふらつく私を兄が支え、強盗と勘違いした母さんとオリヴィアが部屋に箒や銃を片手に血相を変えて乗り込んできてくれるのは間もなくのことだった。
Ⅱ154
明後日更新後、次の更新は22日からになります。
よろしくお願いします。




