Ⅱ354.姉は慈しむ。
「いやそれでよ〜、もう口を開けば馬鹿だ馬鹿だのって俺様の口の悪さばっか真似しやがって」
「あら、けどクロイちゃんやディオスちゃんもそんな時があったわ。やっぱり男の子はそういうものなんじゃないかしら?」
コトコトコト……
煮込まれる具材の食欲を誘う香りが溢れる中、鍋は静かに音を立てていた。火の前では料理を作った張本人であるヘレネと、そして食材提供者のライアーが並んで話に花を咲かせている。
以前は長時間の労働も辛かったヘレネだが、最近では再び調理場に立てるほどに調子も良い。掃除を弟達がまた担ってくれるようになった今、料理は彼女にとっても楽しみの時間でもある。ほんの少し前までは作りたくても材料が限られていた食糧庫も、今はある程度の貯蓄がある。更には、今日はメイン食材も得られていた。
「いや〜〜ほんっっとに俺様ツイてるぜ!こぉんな美人なお向かいさんがいるんだからよぉ」
「完全に鼻の下伸ばしてるし。ほんっと最悪」
「だから‼︎そこは姉さんの席なんだから退けよ馬鹿仮面‼︎」
上機嫌に声を上げるライアーを居間から睨みつけるクロイに、続けてディオスが別方向へと牙を剥いた。
両手でけたたましくテーブルを叩きながら、正面には我が家かのように足を組んでふんぞり返ったレイが座っていた。持参した本を今は開く気にもなれず、片手に挟んだままじっと瑠璃色の眼光はクロイが向けるのと同じ方向に向けられていた。
ライアーに強制的に連れてこられたレイだが、彼自身も未だに納得はしていない。
勢いのままに向かいの家まで引き摺られ、玄関で扉を開けたまま睨み敵意を向けてきた双子をものともせず間をひょいひょいと抜けて上がり込むライアーに続いただけである。
家の中に入ってからライアーは持ち込んできた肉を手に、一直線にヘレネへ鼻の下を伸ばしていた。「こんな美味しそうなお肉を?」と喜ぶヘレネにへらへらと顔を緩ませた後は、自ら料理の手伝いを名乗り出るほどのつきっぶりだった。
その間、レイもレイで呆れる以外は目の届く位置でふんぞり返るだけである。
家に入った直後は「姉さんに近付くな!」と叫ぶファーナム兄弟に並び「ライアー‼︎」と怒鳴った彼だが、基本的にライアーの女好きについては既に諦めている。子どもの頃も何度も女性に声をかけては流されていた彼に今更の文句だ。
近場で狩るなとはまだ言いたいが、自分の実の母親に手を出されるよりはずっと良いとも思う。
何より、今のライアーがヘレネへ本気でないことは一目でわかった。いつものお遊びである。
ただ、今口説いている相手がよりにもよって双子の姉というのが気に入らない。本を読むどころかディオスからの苦情も頭に入らない程度にはライアーの一挙一動に集中していた。
もともと煮込まれていたポトフに肉が追加されたことにより、もう一煮立ち分の時間が必要もされた後も台所に佇んだ二人の談笑は続いている。
「……ライアー。見境なく女に手を出すな。料理なんざ興味も持ったことがねぇ分際で」
「ば〜か、こんな可愛い子を口説かねぇほうが失礼だろ」
投げかけるレイと、それに顎を上げて顔ごと視線を向けるライアーに次の瞬間には双子が席から立ち上がった。
やっぱり口説いてるんじゃんか!出て行って‼︎と二人で別々に歯を向く兄弟にライアーだけはヒラヒラ手を振って笑い返す。「元気なガキ共だな〜」と言いながら、目を丸くするヘレネに二色の短髪を無意味に掻き上げた。
「いや本当に美人だよなぁ、こんな美女そこらの男が放っておかねぇだろ?ところでヘレネちゃん、付き合ってる男とか」
「ライアー‼︎‼︎」
「はいはい俺様のド本命はレイちゃんレイちゃん最高」
そうじゃねぇ‼︎‼︎とふざけたはぐらかしに今度こそレイの眼光が鋭くなる。
席を立ち、大股でイライラと床を踏み鳴らしながらライアーへと歩み出す。いい加減にしろと声を荒げるが、軽く視線を投げたライアーはレイの周りに炎が渦巻いていないことだけ確認すれば気にしない。むしろ接近してくるレイを指差してはまたヘレネへと笑い掛ける。
「ほらな?もう俺様が構ってやんねぇとコレなのよ。まだピヨピヨで」
「あらぁ、仲良しなのね。素敵だわ。優しいお父様でレイ君も幸せね」
「……いや、ヘレネちゃん?俺様お父さんって年でもねぇから」
悪気のないヘレネの言葉に、ライアーの肩が強ばり笑顔がピキンッと固まる。
レイが「誰がピヨピヨだ」と苦情を言ったが、今は誤魔化すよりも自身の年齢に関しての誤解の方が深刻だった。胸ぐらを掴んで来ようとするレイの頭を、伸ばした手で鷲掴み遠のけながら訂正するライアーにヘレネは「ごめんなさい」と両手で口を覆う。
彼女の目にも、無性髭を生やしたライアーは間違いなく年相応以上の見かけ年齢だった。彼から実年齢を聞けば、それはそれで彼女もディオスとクロイも驚いたが口には出さない。
「あ、けれど私の母も亡くなる前は今のライアーさんと近い年だったわ」
「へー、こんな美女置いて亡くなっちまうなんて惜しいことしたなぁ」
伸ばした手で掴んだままレイの頭をわしわし撫で出すライアーは、何事もないように談笑を続ける。
あまりにも昔と同じように自分を間に置いて女を口説き、あしらい方まで昔と同じライアーに流石のレイもふつふつと怒りが沸いてきた。子どもの頃は腕を伸ばされれば手も足も伸びなかったが、今は少なくとも足は確実にライアーに届く。その証拠にこの場で蹴り飛ばしてやろうかと考えながら拳を握る。
「俺様にも財力がありゃあなぁ……。そうすりゃあこんな美人、弟二人も一緒にすぐ面倒みてやるのに」
「ちょっと。その人と身内とかこっちから願い下げだから」
「ていうか何話進めてるんだよ‼︎姉さんに近付くな!もう二人で帰れ‼︎‼︎」
「だってよヘレネちゃん?お言葉に甘えてガキ共は置いて俺様と二人きりであっちの家にでも……」
ふざけるな‼︎と双子の声が重なり揃う。
歯を剥いて目を尖らせる二人に、ライアーは軽く肩を狭めながら「冗談冗談」と流した。ぱっと、明らかにヘレネの肩へ伸ばそうとした手を引っ込める動作をしてみせてわざと双子をおちょくる。レイよりも遥かに子どもらしくてわかりやすい反応がおもしろい。
ヘレネも首をちょこりと捻りこそするが、背後に伸ばされてすぐ消えたライアーの手には気付かなかった。
自分より長い髪の左右に分かれた黒と翡翠の髪を撫でながら、ライアーの独壇場は鍋が煮たち終わるまで続いた。
ゴロリと大きめに切ったジャガイモや肉に、細切れに切った野菜が湯気と共に食欲を引き上げる。
火に落とした後も灰汁を取ってはと手を施し続けた料理は、一層香り高さを増していた。後は僕らがやるからと、姉の手を引き急いで席に座らせるディオスにクロイも続く。レイがライアーを睨んでいる間に姉の椅子を今度こそ確保した。
ちょっと退いて、と肩を当てるようにしてライアーから台所の主導権を奪うクロイに、年長者も素直に場所を譲った。
クロイは五枚の器に料理を盛りながら、まさかこの二人の為に両親達の分の器を使うことになったことが腹立たしい。せめてセドリック様やジャンヌ達になら!と心の中で唸りながらも、大人げないことができず均等に料理をよそう。
「ほいっレイちゃん、火傷するなよ」
「なんで俺様が運ばなきゃ……」
ライアーから渡された皿を受け取りながらレイは眉を顰める。
自分で料理を運ぶこと自体には抵抗もない。だが、給仕係のようなことをよりにもよって何故〝駄犬〟相手にしてやらなきゃいけないのか。そう思うままにテーブルに向かわず佇めば、その間にライアーはクロイから更に二つ器を受け取った。
ほら行け行けと、手で押せない代わりに背中へ膝を押し込み進ませる。渋々と押されるままに背中を向けたレイは、誰かに届けるのも気に食わず開いていた席にスープを置いてそのまま座った。
その隣に足で椅子を引くライアーも、自分とヘレネの前へスープの器を置いて席に着く。続くクロイが自分の分とディオスへ器を渡せばやっと全員が席に着いた。
示し合わせることなくスプーンを手に取った彼らは、一番最初に口を付けたのはレイだった。
咀嚼音も出さずに綺麗に食す姿を横目で見たディオスとクロイは、横暴な彼が一応貴族だったのだと改めて理解する。しかしその隣に座るライアーは「おお!うまっ‼︎最高‼︎」と一口目から大口を開けての絶賛だった。
どちらにせよ文句は言わずに食べる二人に、ディオスとクロイもやっと口をつける。
最近では長時間台所で立ち続けることもできるようになった料理上手な姉のポトフ。そこに贅沢にも肉の旨みとボリュームが追加されたそれは間違いなく絶品だった。
学校の食堂より遥かな美味しさに、肉を口に含む前から旨味だけで目が輝く。子どもの頃に母親が作ってくれたポトフに近くなったその味に、ディオスは正直に「美味しい‼︎」とライアーに負けない声を上げた。
「姉さん!すっっごい美味しいよ‼︎いつも美味しいけど今日は特に‼︎‼︎」
「良かったわ。ディオスちゃんお肉好きだものね、お姉ちゃんの分も食べる?」
ううん姉さんが食べて‼︎と大声で返しながら、ディオスはきらきらとまだ食べてもいない肉の塊に目がいく。
姉を狙うライアーと天敵のレイが来た時は追い返したくて堪らなかったが、こんなにも美味しい料理が食べられたのだと思えば今は許せる気持ちになった。
てっきり庶民の料理なんかと文句を言うと思ったレイも、煩いディオスに眉を顰める以外は大人しい。むしろスプーンの手は全く止まらないのを、無言で食べるクロイは見逃さなかった。
「いや〜最高だぜヘレネちゃん。本当にありがとうな!こんな美味い飯食ったの俺様生まれて初めてだ。ああ〜こんな飯が毎日食えればなぁ!俺様達じゃ食材を買うしか能がねぇからよ〜。おっ、そうだヘレネちゃん。明日も何か食材貰ってくれよ」
「ッ⁈おいライアーテメェ何勝手に」
「料理できねぇ俺様達じゃ無駄にするだけだしよ。もうレイちゃんが何でもかんでも食材ばっか買っちまって」
ふざけんな、買ってきたのは全部テメェと使用人達だろうが、大噓つきが、とそう言おうとしたレイの口を先にライアーは片手で覆う。もがっ、と口を封じられれば一気に眉の間が狭まり釣り上がった。口を覆われた表紙に仮面もずれ、ギラリと光る瑠璃色の目がライアーへと向けられる。
一触即発にも見える二人の姿に、ディオスもクロイもあれだけ偉そうだったレイがされるがままなのが信じられない。
不満こそ顔一面に表しているものの、レイが本気になれば無理矢理塞がれた隙間から怒鳴ることも、腕を振り払うことも、最悪スープごとテーブルを蹴り倒して会話を切ることもできるのに彼は全く素振りも見せない。
そしてレイの唯我独尊ぷりを知らないヘレネだけが、ただただ一触即発になりかねない二人を微笑ましいやりとりとして微笑んだ。
「それだったらまたお料理でお返しするわ。毎日でも構わないから、いつでも来てちょうだい」
「はっ……⁈ちょっと待って姉さ」
「!たっすかるぜヘレネちゃん‼︎いや〜最高の女だな‼︎もう女神だぜ女神‼︎じゃあ〝これからは〟俺様達も食材調達は手伝うからヘレネちゃん達が料理当番ってことで」
「ッッライアー‼︎テメェ最初からこれが狙いだったな⁈」
異議を立てようとするクロイをうわ塗るライアーに、とうとう無理矢理口から手を退かしたレイが声を荒げる。
ちゃっかりと〝これからは〟と、毎日を確約させる流れをつける口車にそれは確信だった。レイからの苦情に「人聞きわりぃこと言うなよレイちゃん」と隣へとは思えない声量を張るライアーは、彼の肩に肘を乗せて笑った。ニヤリと清々しい笑みは確信犯のものだった。
その向かいでは前のめりに立ち上がるファーナム兄弟が姉へと説得を試みる。
「姉さん待って‼︎こいつらにご馳走するほど無駄遣いする余裕うちにないから‼︎」
「えっ、でも食材は買ってきてくれるそうだし夕食だけなら……。せっかくのクロイちゃんとディオスちゃんのお友達だし……」
「「友達じゃないから‼︎」」
「ッそれに!確かに美味しいのは嬉しいけど食材一個や二個じゃ絶対僕らの方が負担大きいよ‼︎ちゃんとお金は大事に使わないと……‼︎」
「はいはいじゃあ他の食材も何でも頼まれりゃ俺様が代わりに買い出し何でもしてきてやるよ仕方がねぇなぁ?食材だってパン一切れじゃねぇ今日みたいな腹の膨れる食材だぜ?何せこちとら元貴族サマのレイちゃんだからな」
むごご!と直後に不満らしき声をレイが上げたが無視をする。そのままライアーは、立てた親指を向けながら足を組んだ。
実際はレイも元貴族とはいえ金は贅沢ほどはない。食糧庫にある食料も使用人が用意したもの以外はライアーが市場で安く纏めて買い叩いたものばかり。裏稼業で生きてきたライアーは庶民としての金銭価値は彼らと同じだ。
そしてファーナム姉弟にとっても食費の節約と、成績維持の為の勉強時間確保という意味では双方に利益の出る取引でもある。ただでさえ三人いても重く運べないような買い物は辛いから纏め買いは避けていた。
むぐぐと口を貝のように閉じるディオスとクロイに、ライアーは更に安心材料を投げていく。
「いやマジでヘレネちゃんには俺様も手は出さねぇって。そりゃあ良い女だが、嫌がる女を無理矢理ってのは俺様の流儀に反するしよ。それになにより俺様の好みはこういうふわっとした感じじゃなくてもっとこう……」
「幼女好きの変態だ」
レイちゃん‼︎⁈
初めてライアーの叫びが直後に響く。
ライアーからの手を無理やり引き剥がしたレイからの第一撃がそれだった。
ぎょっと目を剥いて振り返るライアーに、ディオスとクロイも目を丸くする。えっ、うわっ、と二人揃って同じ顔で彼を凝視する。完全なる冤罪が降りかかった。
ちげぇっっつの‼︎‼︎と声を荒げるライアーに、今度はレイが彼を無視した。落ち着いた手でスプーンを口に運びながら、ザマアミロと頭の中で思う。
「なら大丈夫ね、ディオスちゃんクロイちゃん。お姉ちゃんはもう成人だもの」
「待てヘレネちゃん納得するな‼︎‼︎俺様マジでそういう趣味ねぇから‼︎‼︎」
さらりと自分の冤罪を受け入れてしまったヘレネに、ぐるりと首を回したライアーは待ったをかける。
彼女が好みじゃないことは本当だが、そういう納得のされ方は不本意でしかない。レイもライアーの好みを知っているからこそヘレネに対して本気ではないとわかり無視をしたが、その後の勝手に進める食事形態にとうとう我慢の限界だった。ライアーからすれば、最初から食事確保の為のヘレネ達への接近だったが、レイには不満しかない。
全力で否定とレイの口の悪さを訴えるが、ヘレネは変わらず微笑ましく二人を眺めるだけだった。更にはライアーとしても、誤解の根源である子どもの頃のレイの話をすれば確実にまたあらぬ誤解を招くと自覚する。
必死に汗だくで弁明へ努めるライアーへ、クロイは安心したようにまた食べ始めた。
「もうどうでも良いから食べ終わったらすぐ出て行ってよ二人とも。僕ら勉強があるんだから」
「クロイちゃん、お客さんにそう言い方は駄目よ」
「客じゃないし。ご飯と食材分け合うだけの節約関係でしょ」
「なぁヘレネちゃん、聞いてくれよ?マジで悪い口ばっか言うんだぜウチの子。折角大事に大事に手塩かけて育ててやったのによ」
「あと姉さん‼︎本当にレイも僕らの友達じゃないから‼︎もっと友達っていうのは特別で大事な存在のことで‼︎」
「おい駄犬、勝手に俺様を名前で呼ぶな」
一向に終わりの見えない会話に、ヘレネは返事の代わりに小さくふふっと声を漏らす。
「そういや今頃城はパーティー中かぁ。まぁ俺様達も今夜せこせこ迎えに来る馬車の行き先は美人の未亡人」
「いっそ投獄されろ変態」
「そこの変態さん達うるさい」
「姉さんおかわりして良い⁈」
「おい待て、いま俺様とライアーを一括りに呼びやがったのはどっちだ?」
ここまで賑やかな食事は久々だと思いながら。
テーブルを囲む団欒に長女は一人微笑んだ。




