Ⅱ352.嘘吐き男は晩を越える。
……ここは、どこだ。
そう思った後にすぐ気付く。悪臭ばっかなのは一緒だが、掃き溜めかの方がマシだった。
暗く、窓すらない部屋で鼻はとっくに壊れてる。薄目を開けても見えるものは同じだ。
足の平が申し訳程度に床につく中、意識失ってた間も突っ立ったままに吊るされた身体は起きたところで変わらねぇ。少し手足に力を入れてみるだけでも息が上がる。ジャラリと垂れる金属音が鈍く鳴るだけだ。俺様からは一歩も動けねぇ。
両手を天井に吊るされ足までご丁寧に繋がれている。
ベタベタと身体中が野郎に引っ掛けられた油のせいか汗なのかもわからなくなる。何度も何度もぶっかけられて数も忘れた。
隙間風もなけりゃ陽の光も差し込まねぇ地下じゃ、いくら日を数えても忘れる。鏡もねぇから今のテメェがどんなツラしてんのかすら。
髪引きちぎられたのは、いや丸められたのはいつだったか。今が伸びてんのかハゲてんのかすらもわかんねぇ。
「…………ィ……ん…」
駄目だ喉が枯れて声も出ねぇ。っつーか誰呼ぼうとしてんだ俺様。……やっぱ、あん時に死んでおけば良かったか。
今でも遅くねぇ、って思っても頭が馬鹿になっちまったのか寸前で何度も踏み止まる。
なんで、どうして俺様はこんなにも死にたくても駄目なのか。油の染み込んだ今の身体ならもっと早く楽になれるだろ。このままじゃいつかマジで死ぬことすら考えることができなくなる。
もう何日も何日も嬲られて、いい加減大分やばくなってきた。
記憶も薄けりゃ自分が何なのかもわかんなくなる。
毎回毎回俺様をみては「まだだ」と言って後から吊るされた奴ばっかが外へ運び込まれる。調教ってのが終わった証拠かと俺様も何度か真似してみたが、どうにもこればかりは専門職を騙せねぇ。
連中が俺様に何を望んでいるかはわかってる、だが今まで奴隷なんてもんと縁遠く生きてきた俺様にはなりきりようもなかった。
口の中に溜まった鉄の味を吐きつける気力もなく垂れ流す。
最初の頃は乗り入れる気がしてたし機会を伺ってたのに、今じゃ思考を巡らせるどころか息を吸うので精一杯だ。
段々、考えるどころか感情を出すことも痛みに叫ぶことも面倒になる。頭もぼやついて……何の為に生きようとしたのかすら今はわかんねぇ。なら死ねば良いのにその度に〝誰か〟か過ぎる。
左右からつい最近新しく吊るされていた連中が苦しいだの誰かだの水をだの言ってても、俺様は鎖と一緒に垂れるだけだ。
暗くて左右しか見えねぇが部屋の奥には俺様より古株もいる。つまり俺様もまだまだここに吊るされ続ける可能性があるってことだ。
ガチャンと施錠が開かれる音と一緒に「こちらです」といつもの連中の声が聞こえてきても悲鳴も命乞いもでねぇ。持ち込まれた灯りが差し込んだが、連中か来るのは決まって餌の時間か品定めかそれとも〝調教〟か。どっちにしろ今は救いも恐怖も感じねぇ。何も感じなくなってから何日……何ヶ月……何、年だ……?
人身売買連中に捕まって、他の特殊能力者と一緒に馬車で纏め売りされて市場に出す前に〝調教〟の為にでここに繋がれてそのままだ。纏め売りされた連中も最初は何人かは一緒に繋がれていた気がしたが、今じゃその中で残ってるのも俺様だけだ。他の奴らは今ごろもうどうなっちまっているか。いやそれより、そんな連中より俺様が一番気になるのは、…………、……なるのはー……
「ふぅん、ここが最後の部屋……?」
……珍しい、甲高い女の声が響き渡った。
聞き慣れた男達から一言返され、開けられた扉の方向からカツンカツンとヒール独特の音が響いてくる。繋がれてない女の足音なんざ聞くのも久々だと思いながら顔を上げる気力もでねぇ。
首ごと垂らして落とした視界の中にうっすらと小さく女の足が見えた。上等な靴とヒールの高さにそれなりの身分かと働かねぇ頭で思う。その背後には男の足だ。いつもの連中とは違う上等な靴と下がった立ち位置に女の付き人か何かかと少しだけ頭が回った。
部屋の端から端まで歩く女の動きからして、どうやら品定めにきた買い手らしい。買い手に女がいるのは普通だが、こんな汚ぇ洗脳部屋にまで来る奴は珍しい。
「同じく〝調教〟途中の商品達です。この部屋が〝特上〟の中でも最も時間をかけている部屋になります。五年や七年経っても尚、正気を保ち続けている者もいます。教育が完了次第、同様に本国へ出荷もしくは兵器とすべく我が国で実施訓練に」
「あーーもうその先は良いわ。どの部屋でも同じ言葉の繰り返しで飽きちゃった」
つまらない男。そう言って抑揚のある声でうわ塗った女は再び品定を始めた。
今度は一定距離からじゃなく眼前まで近づいた。俺様の隣の男を下から覗き込む姿が視界の隅に映った。
ツラが好みの奴隷でも探しに来たのか、時々クスクスと楽しげな笑い声まで漏れ聞こえてくる。
「ラジヤのたかが属州とはいっても流石フリージアの傍なだけあるわね。品揃えが豊富だわ」
楽しげな女の声がカツンカツンと靴音と一緒に紡がれる。
趣味がわりぃこの女に俺様は一生分かり合えそうにねぇと顔を見る前から確信する。とうの昔に死んでたと思っていた鼻がうっすらと女のきつい香水を嗅ぎ取った。
「フッ……ハハハッアッハハハハハハハハ‼︎まさかこんなにまだ私の支配下に堕ちていないのがいたなんてねぇ?」
何がおかしいのか腹を抱えて笑い出す。
顔を見なくてもわかる、ヤベェ女だと。今までも似たような匂いのする女には会ったことがあるが、あの蜘蛛女達が可愛く思えるほどの気配がそこにいる。目を合わせたら喰われると本能が言っている。
ただ首を垂らすだけじゃねぇ、俺様の意思で顔を上げるのを拒絶する。
女は一頻り笑った後、五年もの以上の商品を男に尋ねた。その途端、斜め前に立っていた女が俺様の前へずれてくる。「これが?」とたった一言に悪意と苛虐を詰め込んだような抑揚が溢れて波立った。
目を合わせねぇ、反応しねぇ、顔をあげねぇ、息も止めろとさっきまで回すのもできなかった頭が高速で回り出す。心臓のどくどくと鳴る音に呼応するように身体の端々が温度を感じてく。
いまこの女に関わったらそれこそ最期だと。生存本能か、まるで頭から冷水をかけられたように目が覚める。
今までも調教済みと思わせる為に無反応を演じたこともある。それでも騙せなかったが、今この女だけは他の商品と同一以上に見られたらやべえ。
頭だけが働く中でとうとう女に触れられる。細い指と先まで整えられた爪に、するりと俯けていた顎を撫でられるだけで鳥肌が立つ。久々の女の肌がこうも怖気の走るものとは思わなかった。
林檎のように下から顎を持ち上げられ、無抵抗に顔が女へと向けられる。震えだけでも押し殺し、あくまで他の商品のふりをする。
男の灯りに照らされ、女の顔がぼわりと映る。
「貴方が五年モノ?」
血を浴びたような深紅の髪。顔がはっきりとは見えねぇが、禍々しさだけはよくわかる。ニヤァァァアと裂いたような笑みが広げられ、思わず息が止まった。
整った顔をこれ以上なく醜く歪めて俺様を嘲笑う、蜘蛛女すら殺す〝毒〟そのものがそこに居た。
アッハ!と笑い上げ、俺様の顔を鼻先があたるほど近付け眺める。気がつけば瞬きもできず女に目が釘刺さる。
「悦びなさいな、貴方達。私がこれからじっくりじ〜〜っくり可愛がってあげる。〝契約〟なんかなくても私に一生這い蹲って生きることしか価値を見いだせないくらい」
ハァっ……と生温い息を吐きかけられ、むせ返りたくなる。吐き気だ。
女が恋しいと思ったことは何度もあるがこの女だけは頼んじゃいねぇ。苛虐に光った吊り目は人より獣に近い。獲物を喰う前の蛇にも似てる。
このまま丸呑みされそうな覇気に逸らそうとする目を必死に止める。こういう女は反応すればそれだけ悦ぶ類に決まってる。
耐えれば今度は馬鹿正直に身体が小刻みに震え出す。チャララッと、身体に合わせて音を鳴らす鎖の音に女が「あら?」と嬉しそうに口の端をさらに釣り上げた。
「怖がってるの?フフッ、良いわぁ……洗脳途中っていうのは本当みたいね。ねぇ?五年もこんなところに入れられてどんな気分?」
女は好きだがコイツは駄目だ。俺様の懐に収まるどころの話じゃねぇ。
五年という数字にもうそんなに経ったのかと、同時にはっきりとレイちゃんの姿が頭に浮かぶ。既に五年も待たせちまった。
この女が買ってくれるなら地上に出て逃げる機会を探せるかもしれねぇが、関わっちゃいけねぇと全身が言っている。
尋ねられた声に返す喉がねぇ。枯れた息を吐き返すだけの俺様に女のヌルヌルとした声と蛇のような指が顎から首を、肌を撫で回す。美女に触れられている筈が悪寒しか感じねぇ。
「なぁに、口が利けないの?アッハ。じゃあ嫌でも鳴かせてあげる」
水を寄越せと、言いたくても声がでねぇ。
悍ましい女に堪らず目を限界まで見開く。なかった筈の血の気が引いていく。それだけで女の目を輝かせてきやがった。キラキラと紫に光るそれは狂気しか映さねぇ。
途端に灯りが揺れる。女の言葉に慌てたように男が「お、お待ち下さい」と声を上げた。
「────女王陛下、お言葉ですが先ほども言いました通りこの奴隷達はまだ調教中です。その男はもう少しで完了の見込みではありますが、まだ安全とは言えません。お持ち帰りになられるならば調教済みの」
「ステイル」
パァンッ、と。
男が言い終わるよりも先に、銃声が鳴り響いた。久々に聞く乾いたその音は部屋にも俺様の耳にも長く木霊した。バタンと身体一つ分が倒れ込む音が続いた。
灯りが床に落ち、持っていた男が倒れたんだと確信する。叫び一つ溢さず死んだ。
視界の隅で女の背後にいた筈の従者が、今は二メートルは離れた男の背後で煙を吐いた銃を握っている。
「うるっさいわねぇ?同じことを言わせないでちょうだい。私はアダムから好きして良いって言われてるの。〝調教〟なんて楽しい事をどうして私が貴方達なんかに譲らないといけないのわけ?」
ピクリとも動かねぇ死体に、なんでもねぇように言い返す。
俺様達を嬲りものにした看守に情なんざねぇが、いま目の前の事実がでかすぎる。────女王?流石の俺様でもその悪名高い名は知っている。コイツらは、フリージアの……
「ああ、死体はそのままで良いわ。その内誰かが片付けるでしょ。中級奴隷以下の価値にしかない人間の分際で偉そうに」
吐き捨てるように言い、するするヌルヌルと俺様を撫で回す。
ふざけんなこんなの王族じゃねぇ、どう考えてもこっち側の人間だ。
ステイルと呼ばれた男が、床に転がった灯りだけを拾う。血溜まりが隅についたそれを垂らしながら女王へ掲げ歩み寄る。死んだような闇一色の目が俺様と女王を映す。
「簡単よぉ。壊れないように傷をつけなければ良いんだもの。そんなのレオンで散々やってるわ」
楽しげに目を爛々と光らせる女王に、勝手に顔が歪んでいく。
止まった息が小刻みに震え、その手から逃れるように顎を反らす。アラ逃げたと小さく呟く女王は、また手だけが追うように俺様へ伸び、頬を撫で指の腹が眼球の周りをくるくる撫で回す。
「楽しみだわぁ……やっぱりラジヤと仲良くなって正解ね。こんな楽しい遊び場まで提供してくれたんだから。愚かなセドリックには感謝しなくちゃ」
ハハハッアハハハハハハッ……と、死体を転がしたまま笑い声が部屋に響く。
やべぇ、やべぇと頭の中で警報が響いて止まらねぇ。鎖が連動してチャラチャラ激しく震え出す。俺様……いや、この場にいる商品全てを前に恍惚とした笑みを浮かべるこの女は、今まで出会ったどんな女よりもタガが外れてる。
こんな女が統べる国にレイちゃんを置いてきたのかと思えば生きてる心地すらしねぇ。いっそあの時に国から逃げ出しておけばよかった。
「喜びなさいな。これから私が貴方達を調教してあげる。私の姿を見たら希って足を舐めて尻尾を振らずにはいられなくなるか……〝つまらなく〟なるまでね」
可愛い奴隷がいつでもここに連れてきてくれるもの、とそう言いながら女王がステイルと呼ばれた男へ振り返る。
テメェを奴隷扱いする女に眉一つ動かさず、ただただ無感情の目で男が俺様達を眺める。どう考えてもおかしいだろ、ラジヤに来るだと?女王が、フリージアの王族が、どうやって⁈
ガンガンと血も水も足りねぇ頭が痛みと同時に熱が籠る。この女が本当に女王ならレイちゃんは無事なのか⁈
目蓋が痙攣しながら目の前の女を浅い息で睨む。言われてみれば上等なドレスに包まれた女は髪も目の色も全部が女王と同じだ。
国は、フリージアはどうなっていると言いたくても喉が枯れて何も出ねぇ。スカスカと息か血溜まりだけが溢れる中、女は「ああそうそう」と思い出したように笑みを釣り上げた。
「貴方達に私から素敵な素敵な贈り物よ」
言葉とは裏腹に口の端が裂けたような笑みが広がった。
ピィィ、と犬にでも命じるように女が指を口に咥え鳴らした途端、背後の男が持っていた明かりごと一瞬消えてまた現れた。
特殊能力、という言葉が当然のように頭に過ると同時にジャラララッと床に何かが撒き散らされる。小さな灯りだけの部屋で、目を凝らす暇もなくステイルという男が順々にそれを端から俺様達の腕へ取り付けていく。
ガチャン、ガチャンと取り付けられた誰からも悲鳴はまだ上がらない。一体どんな拷問道具か考える。
ぼやけた頭じゃ察しもつかねぇが、俺様の吊るされた両腕にもそれが嵌められた瞬間。……ぞくりと、背筋を冷たいものが駆け巡った。どんな拷問道具よりも恐ろしいその正体を知った瞬間、俺様はこの女が
フリージア王国の女王だと、思い知らされた。
嬲られ、弄ばれ、女王の飽きるまで強いられる全ては今までの調教がただのお遊びだったように生きた概念ごと踏み躙られた。
嘘も、演技もする暇もなく赦しを乞いてもあの女はあの女王はあの悪魔ハ、ア゛ッ⁈ァ、アアアアアアアアァアアアアアアアッアッアア‼︎‼︎アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアあああああああああ
ああああああああああああああああああああああああああああああああ‼︎⁈‼︎
…
…
「ああああああ‼︎‼︎ああああッああああああああ゛あ゛ッアッアッアアアアアッアッアッアアアアアアアアァァアアアアアアアアアアアアアアア‼︎‼︎」
─ ここは、どこだ?
「ッすまないがここまでだ、ジルベール。……やはり彼の記憶も完全には消せなかった」
「いえ、ありがとうございます。ご無理だけはなさらないで下さい」
知らねぇ声が二つ。
馬鹿みてぇに喉を張る中で頭を抱え、背中を反らし踠き最後は蹲る。額を床にぶつけ、それでも何も変わらねぇ。今ここがどこかより、頭の中に地獄が広がる方がどうしようもなく頭に響く。
─ ……なんだ、なんで俺様こんな蹲ってんだ。レイちゃんはどうした?ここは確か、裁判を受けた時の……
「昔ならば完全に消せたのだが、……やはりもう限界だ。今の私には負荷が大き過ぎる」
「生きていて下さっただけで充分です、ヴェスト殿。十年もの間、あのような扱いを受けていたのです。歩くことすら叶わぬ身でありながらこうして御助力頂けるなど感謝しかありません。……貴方様の御力がなければ、奴隷の洗脳を速やかに解くことすら不可能でした」
淡々とした声も自分の喉に掻き潰され、耳にかすかに入った声も頭には届かねぇ。
暴れるなと押さえつけられ、額をぶつけながら左右に振る中で視界にチラチラと足元が見える。上等なくせに履き潰された汚ぇ靴と、もう一つは車輪だ。
─ 車椅子か……?こんなところになんでそんな奴が……
「ラジヤの洗脳はやはり恐ろしいものだ。大幅には消せたというのに、微かな記憶だけでもここまで人を苦しめるのだから」
「ええ、ですが彼らは極めて異常です。革命で投下された奴隷達の中でも明らかに。正気にこそ取り戻せましたが、一体どれほど恐ろしい目に遭えばこのような……」
これなら洗脳状態の方が幸せだった。そう叫んだのは誰でもねぇ、頭の中の俺様自身だ。
一体、俺様は今まで何をやっていた?頭を引っ掻きやがるコイツは誰だ。誰……あああああああクソ思い出したくねぇあんなあんなあんな化物なんざ思い出したくもねぇのに‼︎‼︎俺様はなんであんな目に遭っちまったんだ⁇あんな目に合うぐらいなら死んじまえば良かっ
『特殊能力専用の枷よ。……アッハ!どぉ?気に入った⁇』
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
あああああ‼︎‼︎‼︎
あの時だあの時の前に死んでおきゃあ良かったんだ‼︎‼︎そうすりゃああんな地獄を知らねぇで済んだ‼︎‼︎死に〝損なう〟こともなかった‼︎‼︎特殊能力さえ封じられなけりゃあ死ねた‼︎‼︎あんな、あんな豚以下のクソみてぇな目に遭わされる前に死ねた‼︎
『悦びなさいな。これで何処で何でもできるじゃない?鎖に吊るされただけなんてつまらないわぁ。もっともっと愉しいことを身体に覚えさせてあげる』
クソクソクソクソクソッ出てくるな気狂い女‼︎‼︎
近付くな喋るな笑うな来るな見るな死ね殺せ‼︎‼︎ああああああああああああああなんで俺様はこんなことばっか思い出してんだ⁈死ね消えろ出てくるな!あんな目に遭う前になんで俺様は死ななかった⁈なんで無駄に生き続けちまった⁈捕まってすぐ死んじまえばこんな、こんな目にあわねぇであああああああああああ‼︎あんな思い出したくもねぇあんな、あんなの間違っても俺様じゃねぇ‼︎‼︎俺様は、俺様は俺様は俺様は俺様は俺様は‼︎
─ ぷつん、と。頭の中で切れた音がした。
「!──……」
視界が、白くなる。
目を開いているのに見えなくなる。直前まで張り上げていた喉が唐突に途切れた。
俺様を押さえつけていた誰かが呼びかけるが声も出ねぇ。開いたままの口から涎を垂れ流し、全身の力が死んで床にガラリと崩れて顎を打つ。
名前もねぇ俺様を呼び、もう誰かの声も耳に届かねぇ。……あ……?俺様、……俺、様…………俺……、…………………………………………は、
誰だ?
……
…
「……い、……おいライアー。……ライアー‼︎」
ガン!と。直後にテーブルが揺れ、目が覚める。
遅れてレイちゃんの声だと頭が動いたが、ぼやけた部分が跡を引く。
突っ伏していたテーブルに顔が半分潰れたまま息が無駄に荒いことに気付く。……気持ちわりぃ。
顔を上げる気になれず、先に重い腕を動かして心臓を鷲掴む。一度開いた瞼をかっ開いたまま今度は閉じることもできずに痙攣させる。まるでずっと埋められてたみてぇに息が苦しくてたまらねぇ。
血が一気に回ったのか頭が収縮するようにガンガン鳴る。意識的に息を吸い上げれば吐いた途端肩がガクついた。ハァッハァ……という自分のうるせぇ息の音が耳の奥まで響く。なんだ、なんで俺様こんな死にかけて…
「ライアーどうした⁈おい‼︎返事しろ‼︎」
急に慌て出したレイちゃんの声が妙に落ち着く。
なんか無駄に心配してるなと思えば、自然に息が整った。ゼェハァと息を何度も繰り返しながら手だけを振って返す。大丈夫、聞こえてる。
「っ……ッあ゛〜〜……レイちゃん、水取ってくれ……」
一瞬詰まらせた息を吐き出しながら、振った手を声がした方向へ伸ばす。
文句の一つでも言われるかと思ったが、案外すんなりとレイちゃんは水を渡してくれた。グラスに注ぐのが面倒だったのか、水差しごと手のひらに押し付けられそれを掴む。顎だけを上げるようにして突っ伏した顔をテーブルから離しそのまま水を仰いだ。
喉が鳴り、口端から溢れるのも構わず一気に飲み干す。汗で全身がベトついているのに今気がついた。どうりで喉が乾いている筈だ。
グビッグビッ、と喉を鳴らし続け、水差し全部を飲み干し終えた頃には頭も冷えた。やっと上体も身体を起こす気になり、手の甲で溢れた水を拭いながら髪をかき上げる。昔の癖で長くもねぇ短髪を上げたままぐしゃりと鷲掴んだ。髪まで汗で湿ってる。
「ライアー‼︎一体どうした⁈何に魘された⁈」
「あ〜美女に声掛けたらやべぇ旦那に斧持って追いかけ回される夢みちまってよ……マジでまた売り飛ばされるかと思ったぜ……」
慌てるレイちゃんに取り敢えず誤魔化す。
魘されたってことは夢でも見てたのか、駄目だ全然思い出せねぇ。だがこの気分の悪さじゃ間違いなく悪夢だ。
こんだけ魘されるのも何年振りか、また昔のことでも思い出しちまったのかと思う。ガキの頃か、奴隷市場のか、それとも捕まった後のあたりか……
「何か思い出したか?」
「いやもう殆ど思い出してるっつーの……。売り飛ばされてからの記憶は微塵も思い出せちゃいねぇよ」
人の言うこともきかねぇで質問を重ねてくるレイちゃんにぐったり返す。
色々あって記憶を取り戻せた俺様だが、未だに奴隷だった間の記憶はない。人身売買連中に捕まって、他の商品と一緒に纏めて売られて買われた後はそれまでだ。ぷっつり切れて、次の瞬間には裁判で判決を下されたところで止まってる。ラジヤに移送される間は薬飲まされて意識もほとんど飛んでたし、その後が未だに思い出せねぇってことから考えてもどうせろくでもねぇ目にあったんだろうなぁと思う。
まぁ、俺様としてもクソな記憶なら覚えていねぇ方が楽だしありがたい。
そう考えればたしかにレイちゃんの言う通り、その時の記憶を寝てる間だけ思い出した可能性もある。どちらにしろ起きた今は覚えてねぇけど。
「そんなことよりいま何時だレイちゃん」
「……時計ぐらい自分で見ろ馬鹿が」
口が悪いくせに覇気のねぇその声に顔を向ければ、仮面に隠れてない方の顔が険しく歪んでいた。
不機嫌というより寧ろ不安に近い表情に、まだグズグズ俺様のことを気にしてんのかと思う。目が合ったと思えば逸らすように時計へ向けたレイちゃんが時間だけを教えてくれる。
ちょうど夕飯時だ。学校から帰ったレイちゃんを家で迎えて、買い物ついでに買った酒かっ食らってたら寝ちまったらしい。
もう奴隷だったのも過去でついでに俺様はもう何も覚えちゃいねぇんだから気にしねぇで良いってのに、なかなかめんどくせぇ。別にもう良いじゃねぇか、どうせもう─……
「ちなみによ、レイちゃん。この六年間で料理ができるようになったとかは」
「あると思うか?そんなの使用人か女の仕事だろ」
女ヅラだったくせによく言うぜ。
そう思いながら今は飲み込む。ここで余計なことを言えば、ただでさえ機嫌がわりぃのに今度こそ発火しかねねぇ。
未だに能力の制御がド下手なレイちゃんは怒りの感情に比例して黒炎を出すらしい。取扱危険物なレイちゃんのご機嫌をとってきたカレン家の使用人は大したもんだったと思う。
引越し作業も終えた今、この家には俺様とレイちゃん二人だけだった。これから少なくとも三年以上はここで俺様とレイちゃんの共同生活が続く。
引越し作業中も本を読んでいたレイちゃんは、掃除も洗濯も料理も何も出来ねぇらしい。そういや俺様と一緒に生活してた頃も路上生活だったからどれも縁がなかった。まぁ最初から期待もしてなかったけどよ。俺様の方がまだ飯作ったことがあるだけマシだ。
食材も金もそれなりには貯まってる。使用人達が最後に買い足した食材もそのままで食えるもんも多いし最悪丸齧りでも余裕でいける。それにちょっと足を伸ばせば近くの市場で食えるもんなんざいくらでもある。……けど、まっ。先に買い揃えられた食材を無駄にするのも勿体ねぇよな。
よしじゃあ、と声に出しながら椅子から立ち上がる。
一瞬またフラッと足が浮いたがすぐに戻った。昔から底辺の暮らしに慣れてる俺様にはこれぐらいは大したことじゃない。飯がないなら作れば良い。
立ち上がった俺様をレイちゃんが怪訝な目で見返す。できるのか、とそう言いてぇのが言われる前からわかる。だからこそ笑みで返してやった俺様は食材庫を親指で振り示しながらこの家主へと投げかけた。
「食材持ってお向かいさん家に行こうぜ」
「ハァ?」
俺様の誘いに間の抜けた声を漏らすレイちゃんは、なかなかの見がいがある顔で俺を見返した。
お陰でさっきより調子の戻ったツラに表には出さず安心する。やっぱりレイちゃんには暗い顔より顰めっ面の方が良い。
もう奴隷だったのも過去で、俺様は覚えちゃいねぇ。だから別にもう良いじゃねぇかレイちゃん。どうせもう
「行くぜ兄弟、ちゃんとオトモダチの家じゃお行儀良くしろよ?」
「ッおい待てライアー‼︎なんで駄犬の家なんざにっ……おい!食糧庫を開けるな‼︎」
「どうせお前と俺様じゃ齧るが焼くしか能がねぇだろ、ケチケチすんなよ御貴族サマ」
「なんでこの俺様があの駄犬共に施してやらなきゃならねぇんだ‼︎」
「ばーか、施されるのは俺様達の方だ。ちゃあんとヘレネちゃんには許可取ってるから安心しろ」
「ッもう手出しやがったのか⁈」
どうせもう、大事なことは思い出せたんだ。
Ⅱ301.303.312.
Ⅰ383
プライド断罪後、既に働けない身体になっていたヴェストはもう以前のように特殊能力を使うことはできなくなっていました。
その為記憶全て消し去るまでには至らず、洗脳は解けても洗脳中の記憶全て消してやることはできませんでした。
正気では生きていけないほどに、凄惨な記憶でした。
いま、ライアーは幸せです。




