そして頭を抱える。
「彼は、私とお前の関係については知っているのか?」
「……ええ、ちゃんとクラーク・ダーウィンの妹って伝えたわ。学校でもセドリック王弟の護衛で見たことはあったんだけど」
今度は一拍後に返された。
口を動かしながら顔が紅潮する色合いが濃くなるネルは、思い出したように再び髪を結い直す。
兄に隠し事は無駄だと、決定的な言葉は言わずとも認めて返した。
そうか、そうか……と相槌を打ちながらクラークは頭を抱えたくなる。まさか、よりにもよってと思いながら堪らず壁に寄り掛かる。〝彼ならば〟そうなってしまうのも頷けた。
ここで真実を一つ一つ説いていきたいが、まるで過保護過ぎる行為にそれも憚れる。クラーク自身、彼の欠点は知っていても悪くは思っていない。むしろ気に入っている。
妹も自分もお互い良い年にもなって水を差す行為はしたくない。あくまで妹の心構えとして、と。クラークは最低限の注意だけを頭で算段付けた。
「言っておくが、彼は八番隊の副隊長だ。何があったかは察するが、お前が思っているほど温厚な男ではないぞ。八番隊は個人判断に特化した戦闘部隊で、彼は単身で敵の一団も掃滅する騎士だ」
「本気で怒った兄さんより怖い人なんてどこ探してもいないでしょ」
配慮の届いた助言を掛ける兄へ事実だけを即答するネルに、今度こそがっくしとクラークの肩が落ちた。
昔からネルには良き兄として務めてきたクラークだが、未だに彼女からあの時の印象は払拭できていないのだと痛いほど理解する。
そうか……と少し掠れた声で返しながら首まで落ちて俯いてしまう。確かに自分と比べれば、彼もネルにとっては可愛い方かもしれないと思い直した。ただ、それでもある意味彼だけは出来れば避けたかったとも思う。
それ以上は言わず一人首だけで項垂れる兄を横目に、髪を結い直し終わったネルはトランクから化粧ポーチも取り出した。髪型だけでもと最初は思ったが、兄に気付かれた以上は堂々と紅程度は引き直そうと思い直した。
「あと、今度何か差し入れとか預けても良い……?もし食べ物は駄目とか規定があれば」
「待て待て落ち着け。……危険物でもなければ問題はない。しかしあまり頻繁には勘弁してくれ。副団長である私の妹ばかりが頻繁に演習場へ行き来しては騎士達に示しもつかない」
「わかってるわ!ただっ……、……騎士が大変な仕事なのは知っているから。ちょっとでも力になれればと思って」
ぽんっ!と顔が一気に真っ赤になるネルは、押しかけのような扱いをする兄に少しだけ声を荒げた。
最後にはぽわりと視線を落としながら、紅を引き終えた手で頬を挟む妹にクラークは頭痛を覚えた。相手が相手でなければ自分も微笑ましく思えたのにと心から嘆く。叶う叶わないを置いておけば、いっそ意中の相手がアーサーの方が気も楽だった。
身支度も終わりトランクを閉め直したネルが再び扉へ向かえば、クラークもドアノブに手をかけた。取り敢えず彼を呼び出すにしても先に馬車で待っていてくれと伝えながら扉を開ければ
直立不動で佇むハリソンがそこに居た。
「お疲れ様です、副団長。妹君を馬車までお送り致します」
淡々とした言葉で告げる彼はその場で深々と礼をした。
予想をしなかったすぐの再会に、ネルもトランクを手放し両手で口を覆ってしまう。
心臓の準備も足りずにフラリと兄の影に隠れてしまうネルに、クラークも今は顔が引きつった。
「ハリソン……どうしてお前がここに?ずっと待っていたのか?」
「はい。副団長の妹君を送迎すべくお待ちしておりました」
クラークの問いに間髪入れず返すハリソンは、扉の数センチ離れた位置からネルを部屋の中へ見送ってから一歩も動いていなかった。
セドリックの護衛として帰城してから休息時間を与えられた彼にとって、自分の休息よりも副団長であるクラークの妹を無事送迎することを優先することは当然のことだった。
クラークもハリソンの言葉を聞きながら、確かに彼ならそうするだろうと思い直す。妹のことが衝撃過ぎて頭が回らなかった。
自分の背後で体温を上昇させる妹に首だけで振り返ってから、クラークは改めて彼女へ言葉を掛ける。
「ネル。紹介しよう、彼はハリソン・ディルク。八番隊の副隊長で、私も信頼する優秀な騎士だ。そしてハリソン、私の妹のネル・ダーウィンだ。さっきもネルをここまで送ってくれたらしいじゃないか。丁寧な対応だったとネルが感謝していたぞ」
だろう?と言いながらバトンを渡すようにそっと妹の肩を叩く。
あくまで普段通りに振る舞う兄からの助けに大きく頷いたネルは、そこで今度こそ意を決して兄の背中から前に出た。ついさっき直したばかりの化粧が流れてしまいそうなほど汗を掻きながらも小さくなった彼女は、そのままハリソンの顔を見る前に頭を深々下げた。
「さッ、先ほどは本当にありがとうございました。お礼もしないまま失礼をして申し訳ありませんでした……!」
「とんでもありません」
顔から湯気をあげて頭を下げるネルに、ハリソンは一言否定のみを返した。
自分からすれば扉の向こうに去っていったネルの行動は何ら失礼に入らない。寧ろ当然のことだろうと考えながら、目の前で行きの時よりも遥かに恐縮した様子のネルに小首を傾げた。むしろ自分からすれば、今もクラークに「信頼する優秀な騎士」と言われたことでそのきっかけを与えてくれたネルには感謝しかない。
二人の心境を寸分狂いなく読み取ったクラークだけが、喉の渇きに耐えながら表情を繕う。そのまま本心が待ったをかけるのを無視し丸く小さくなった妹の背中を普段通りに押す。
「ネル。私はこれから仕事があるが、このままハリソンに送迎も任せても良いか?話の続きは家に帰ってからしよう」
「え、ええ……。よ、宜しくお願いします……」
「宜しくお願い致します」
ぺこっと頭を再び下げたネルにハリソンも迷わない。
むしろその為だけに待っていた彼は、彼女とクラークに向けて二度深々と礼を返しすぐに演習場の門へと踵を返した。失礼致しますとクラークに挨拶をし、彼女の持っていたトランクを受け取るどころかそのまま片腕で担ぎ出す。
行きの時と同様に肩で軽々と重いトランクを運んでくれるハリソンにネルは目を奪われた。そして更には
「宜しければお手を」
「!はっ……はい……!」
また行きと同じように優しく差し伸ばされたハリソンの手を、ネルは真っ赤な顔で受け取った。
副団長室へ向かうまでも、トランクをハリソンに運ばれ途中で一度転びかけた際には高速の足で受け止められたことをネルは鮮明に思い出す。その後も兄への報告とプライドからの勧誘に夢見心地で足もとが覚束なかった自分の手を、副団長室まで手を取り歩いてくれたハリソンはまるでネルにとっては王子様のようだった。
女性の手を取りトランクの泥汚れ一つ許さないと片腕で運び進むハリソンの姿は、周囲の騎士達から見ても振り返らずにはいられない光景になる。目を疑いながら相手の女性は何者かと誰もが思う。まさか、よりによってあのハリソンにと。誰もが一度は過りながら目を皿にする中、二人の背中を見送ったクラークは引き攣った顔のままゆるやかに部屋へと戻った。音を立てないようにと扉を閉め、そして
頭を抱え、項垂れた。
「ネルが……、…………ハリソンに……」
ぁぁぁぁぁあぁぁ……と、珍しく声まで漏らしながらクラークはふらふらと椅子に腰を下ろす。
そのまま目の前にテーブルに両肘をついてしまえば、腕ごと頭を抱え込みながら突っ伏してしまう。今までハリソンにもネルにもここまで頭を抱えさせられることなどなかったと思いながら、一時的にプライドのことすら頭から抜け落ちた。
『本当に信じられないくらい礼を尽くしてくれて……』
代わりについさっきのネルの言葉を思い出せば、また呻きたくなってしまう。
確かに彼女の言うとおり、見送ったハリソンはネルへこれ以上ないほどに礼を尽くし振る舞っていた。荷物を持ち手を取り進むなど、城の衛兵すらそこまで彼女にしなかった。
例え貴族出身のカラムであろうともそこまではしないだろうとクラークは思う。ただでさえ城に訪れて萎縮しきっていた彼女がそこまで親切にされれば心が揺らいでしまうのも頷ける。ただでさえ社交界とは無縁の人生だ。
国を離れて他者に騙されないように張り詰め続けていた彼女に、あの扱いは姫にでもされたかのようなひと時だったことも理解する。クラーク自身、妹が誰と恋をしようとも大概は応援する。無駄に介入しようとも思わない。相手が騎士団の一人であろうともそれは同様である。
自立した妹が誰と恋愛しようとも、成功失敗も含めて応援するつもりはある。たとえ相手が騎士でも、問題児の一人であるハリソンであろうとも。それ自体は妹とどうなろうと邪魔しようという理由にはならない。ただし、しかし、それでもどうしても絶望的且つ決定的な問題が一つある。それは
『凄く親切で本当に紳士的な……』
─ それは私の妹だからだ……‼︎‼︎
ダン!と。瞬間、頭を抱え込んでいた両腕で拳を机に叩き落としてしまう。
同時に副団長用の上等な造りの机からミシッと僅かながら悲鳴を上げる。叫ぶのを耐えた分力を込め過ぎた拳はこれ以上なく硬く結ばれていた。
もともと、ハリソンは敵でも騎士でもない相手に理由もなく攻撃はしない。そう教育したのは他ならぬクラークだ。
更には任務関連で保護した被害者や女性に関しある程度の身の振る舞いを教えたこともある。女性の荷物を持つことも、手を取ることもハリソンが言われずにあの場でできたこと自体は驚かない。しかし彼が今まで遭遇した女性全員にそれができたかどうかと言えば、全くの別である。
それどころか騎士団の身内や貴族や来賓であろうともあそこまでの誠意を見せることは滅多にない。荷物を持っても、自ら手を貸すことなどいつもの彼であればあり得ない。
相手が敬愛するクラークの妹でなければ。
「……どうする……。……いやだがハリソンはプライド様を慕……?」
ぶつぶつとぼやきながら自問自答するクラークは、机と同化する。
結論だけ言えばハリソンとネルがどう関係を結ぼうと構わない。しかし、問題はハリソンの性格である。
頬を赤らめたネルに対し、ハリソンに他意は皆無だとクラークは確信を持って言える。
クラークもハリソンが自分には絶対に逆らわないことも、この上なく慕ってくれていることも知っている。そして騎士団長であるロデリックのことも慕い、その息子であるアーサーのことも溺愛といって良いほど彼なりに可愛がってくれている。
アーサーを可愛がってくれていることを考えれば、ネルに対しても誠意を尽くすことは納得できる。ただし、今回は妙齢の女性である。
そしてハリソンが、男女程度の差で勘違いされないように対応を変えるとはクラークにも思えない。
もし、万が一にでもネルがハリソンに告白でもしようものなら、彼は〝副団長の妹君のご希望とあらば〟という理由だけで快諾しかねない。
それどころか結婚を迫られても、ハリソンなら「ならば私が副団長と同じ家名を共有しても宜しいということでしょうか」と言って嬉々としダーウィン家に婿入りしかねないとクラークは思う。ネルへの好意の有無関係なく、彼女の希望に全て応え続けるハリソンの姿が安易に想像できた。
自分やロデリックの命令に忠実過ぎる彼は色恋に興味はない。だが、もし妹でなくとも自分がハリソンに「彼女と結婚してくれないか」と女性を紹介すれば、すんなりとハリソンは承諾するだろうと確信がクラークにはあった。
そして今、自分が言わずとも自分の妹であるネルにハリソンはこれから先も誠意を尽くし続ける。だがそこに男女の好意も下心も彼にはない。ただ純粋に、〝副団長の妹〟としての好意のみだとクラークは思う。
奥手な妹がハリソンと距離を急激に積めるとは思わないが、求められればハリソンは全て断らないし受け入れる。
いっそネルに、ハリソンは騎士団副団長の妹だからそういう態度なだけであって恋愛感情もなければ他意もないと伝えるかとも思うが、妹の恋愛に口出ししたくはない。もうお互い良い大人である。プライドへの態度から見ても、ハリソンに恋愛感情とは言わずともそれに似たものが存在、もしくは欠落まではしていないと考えるクラークに、それを理由にネルへ諦めろと言うのは躊躇われた。
何が恐ろしいかと言えば、ネルの一方的な片思いでも成立うる状況だった。
クラークからすれば、プライドの元にネルが雇われた理由へ求めることと同様に〝副団長の妹〟としてではなく〝ネル〟として妹は受け入れられて欲しい。
しかしハリソンにそれを強いるのは、単身で敵国を壊滅しろというよりも難しい。既に彼にはネルが〝副団長の妹君〟として脳に刻まれてしまった。
妹の恋を邪魔するつもりもなければ、取り持つことも安易にできない。「妹に関わるな」でも「妹と付き合ってくれ」でも、自分が一言命じるだけでハリソンは躊躇いなく遂行してしまう。
『吠え面かきやがれ』
「…………今まさにかきたいよ……」
アーサーの捨て台詞を思い出し、クラークは顔を突っ伏したまま弱々しい声でそう呟いた。
アーサーもきっとこの展開は予想しなかっただろうと思いながら、一人部屋で打ち拉がれた。頭を巡らせれば巡らせるほど、ネルとハリソンのことだけでなく、そもそも城へ彼女を招き召抱えてくれたプライドへどんな顔をして会おうとか様々な問題が積み重なっていく。
王居から戻ってきたロデリックに、再会後すぐに「飲みに付き合ってくれ……‼︎」と詰め寄る程度にはクラークの頭を悩ませ続けた。
Ⅰ671-特殊




