Ⅱ335.副団長は確認し、
「兄さんっ!!」
ノックの直後、ネルが副団長室へ飛び込んできたのは自室へ戻ったクラークが待ち始めてから暫くのことだった。
ノックを鳴らし自分へ呼びかけるのが妹の声だと確認したクラークの「開いている」にネルもまた勢い良く扉を開けた。
一体どんな用件で訪れたかも判断がつかない内に飛び込んできた妹に、クラークもすぐに席から立ち上がった。落ち込んでいるかそれとも血相を変えているかと様々な可能性を視野に入れたクラークに対しネルは既に満面の笑みだった。
少なくともプライドへの不敬の類ではないようだと、頭の隅で考えながらクラークは飛び付いてきた彼女を両腕で受け止める。勢いよく開かれた扉も案内した騎士によって外側から閉ざされた。
「どうしたんだ、ネル。騎士団演習場まで来るなんて初めてじゃないか。何かあったのか」
あくまでアーサーから聞いた話も知らない前提で尋ねるクラークに、ネルは転がし続けたトランクも今は手放していた。
兄に抱き付いたままその腕に力を込め、身内の温もりにやっと落ち着いたように呼吸を深くする。ガチャンっと大事なトランクがバランスを崩して倒れ、カラカラと車部分だけが回る。
「仕事中にごめんなさいでも聞いて兄さん!信じられないことが起こったの。もう何から何まで信じられなくてっ……」
早口で言葉を叩き出すネルは未だに興奮が冷めない。
むしろ人目がなくなった今だからこそ、感情がはっきりと表に出ていた。まるで子どものように自分に抱き付き声を弾ませるネルに、こんな態度を取るなんて国を出て以来どころか子どもの頃以来じゃないかとクラークは思う。兄妹仲は良好だが、お互い良い大人の男女である。
更には年が離れている妹とこんな風に抱き合っている姿など安易に人目には見せられないと思えば、今ここが自分の部屋でよかったと心から思う。
わかったわかった、と言葉を返しながら今は妹が落ち着くまで背中を摩った。もうこんな風に宥めるなんてそれこそ十何年ぶりだと遠い記憶を重ねながら、昔と変わらず小柄な彼女を抱き締め返した。
途中から、話し出す前にも関わらず鼻を啜った音まで零す彼女に本当に何があったのかとクラークは一人口を結ぶ。頭の中ではアーサーの「やべぇこと」が蘇る。
「本当に、突然で……兄さんも信じられないと思うんだけど……」
「何を言ってるんだ、お前が家まで待てずにわざわざ伝えに来たことだろう。まさか結婚でも決まったか?」
まだ心の整理がつかない様子の妹に、からかい混じりに言ってみればすぐに「いいえ」と否定が入った。
昔から色恋よりも夢が優先だった彼女は恋人は何度か作っても長くは続かない。今も頼る家がクラークしかいないからこそ世話になっているのだから。クラークとしても別段結婚わ強要しようとも思わない。更には自分はそれを言える立場でもない。
しかし今まで何があっても騎士団にいる自分の元までは訪れなかった彼女が、わざわざ城門を潜ってまで伝えにきたことである。クラーク自身開口一番に「仕事中だ」と叱る気にもなれなかった。
それから何度も「何から言えば」「落ち着いて聞いてね」と言い出しを考えるように前置きを並べ続ける彼女が落ち着くのを待ち、十分以上経ってからやっとクラークを腕の中から解放した彼女の口から本題が紡がれた。
「私、刺繍職人として雇って貰えることになったの……!今度は私にドレス用の刺繍も任せたいって‼︎」
しかも店の資金提供もしてくれると、そう続ければ顔を上げたネルの目からじわりと涙が滲んだ。
妹の予期せぬ朗報に「良かったじゃないか!」とクラークもこれには手放しで喜ぶ。目を見開き、今度は一度話したその両手で強く妹の肩を叩いた。良かった、おめでとうと繰り返しながら心から彼女の栄転を言葉にして祝う。
彼女が幼い頃から刺繍を好んでいたことも、国から離れた後も勉強を続け、安定した服飾店の仕事ではなく自分の刺繍を世に出すことに突き進んでいたことも手紙のやり取りで知っている。その為にこうしてフリージア王国に戻ってきた彼女が、自国でも商売が上手くいかず影で気落ちしていたことも知るクラークにとって、再び服飾で働けるだけでなく今度こそ彼女の刺繍を好んでくれる上客が現れたことは嬉しいことでしかない。
「もう本当に緊張してっ……心臓が持つかも奇跡だったぁ……。まさかこんなことあるなんて夢にも思わなくて……」
「何を言っているんだ、お前が頑張ってきた成果だろう?オリヴィアも素敵だとあんなに言っていたじゃないか」
「本当に本当に国に戻ってきて良かったぁ……。これも兄さん達のお陰よ……もう、茫然とし過ぎてマリーさんにもお礼を言いそびれちゃって……」
堪らず涙目になるネルに、優しくその肩を抱く。
指先で何度も涙を拭うネルだが、それでも言葉にすれば実感が湧いてきて止まらない。これが夢だったらどうしようと思うが、兄の腕の力強さが何よりの証拠だった。
足からも力が抜け、ぐったりともたれかかってしまう妹を胸板で支えながらクラークも喉を鳴らして笑う。
きちんと用心深い彼女が信用して雇われたということはそれほど信頼できる相手なのだろうと思う。他国でも自国でも、彼女は危うい交渉や契約を迫られた時は「私の兄はフリージア王国の副団長です」と一言で事なきを得て断り去っていたことは知っている。
元は違う理由で騎士を目指したクラークだが、結果として自分の立場が妹を守るのにも一役買っていたと思えば本当に良かったと思う。結果、彼女は悪意ある商人に食われることなく細々とやってここまで辿り着けたのだから。
まだ就職先も聞く前だが、今までどんな上手い話にも用心深く来た彼女なら大丈夫だろうという信頼が兄にはあった。どういう経緯であれ、妹のデザインを気に入り認めて雇ってくれた雇い主には感謝しかない。
「それでネル、一体どこに雇って貰うことになったんだ?その様子じゃもう契約も交わしたのだろう?」
「ええ!きっと兄さんもびっくりするわ」
そう言いながらネルは契約の際に渡された羊皮紙を転がったトランクの中から取り出した。
契約と一緒に早速いくつも作品を買って貰えたのと思い出して言いながら、彼女は自分の作品同様に皺がつかないよう綺麗に広げて服の間に挟んでいたそれを兄へと突き出した。言葉でも信じて貰えるかわからない今、契約書を突きつけるのが一番早い。
問答無用に書面を近過ぎるほど鼻先に突き付けてくる妹に、軽く顎を反らしながらそれを両手で受け取る。
契約相手の名前を見ればわかると判断したということは、有名な王都の店かそれとも上級貴族かと考えながら妙に上等な造りの羊皮紙を契約条件から順に確認する。
〝直属刺繍職人〟という響きにそれだけで流石のクラークも少し感極まりそうになる。それはつまり彼女のデザインした刺繍を金を払って商品にする、もしくは袖を通すという確約と同義なのだから。
更には彼女が店を持つ場合は資金援助まで保証され、その店の所有権もネルへ約束されている。副団長である彼でも資金援助はできたが、ネルはあくまで自分の力で店を持ちたいと頑なに断り続けていた。何より、もし店を持てたところで買って貰える保証がないままでは根も下ろせない。
その後も買取金額も彼女の意思を尊重するというあまりの好条件の数々に、流石に騙されてないかと疑いかけた。ネルの判断も、そして彼女の刺繍職人としての腕も信じて認めているが、今まで日の目も見ずに一着どころか刺繍一枚売るのにも難航していた彼女にこの条件は優良過ぎる。どれほどの資産を持った相手かと、一文字一文字騙しがないかを吟味しながら読み進めたクラークだが……。
「…………なに?」
〝プライド・ロイヤル・アイビー〟
その署名を目にした瞬間、間の抜けた声だけが零れ落ちた。
サァーーー……と、先程まで体温の上がっていた筈の身体から血の気が恐ろしい速さで引いていく。口が笑顔のままヒクつき、どっと信じられないほどの冷や汗が全身から帯びていく。目眩さえ覚えれば、今これが夢が悪夢かとまで考えてしまう。
両手で広げた契約書へ微弱に余計な力が入り、皺が入りかけるのを必死に自制する。視界が白黒に点滅する中、気を抜いたら倒れるんじゃないかと本気で思う。血圧の急上昇からの急低下にまるで重病を患ったかのように身体が内側から緊急信号を鳴らし出した。奪還戦最中ですらここまで手が震えることはなかった。
『吠え面かきやがれ』
そういうことか、と。アーサーが捨て台詞に吐いていった意味を痛いほどに理解する。
一度書面を凝視するふりをして妹から顔を隠し、冷静に考えるとになるべく一度目を瞑る。呼吸を整え、もう一度薄めで開いて確認する。やはり間違いない、自国の第一王女の名前が刻まれていた。
信じられないでしょ⁈と兄が読み終えたことを確信して尋ねる妹に、うっかり一音しか最初は返せなかった。
ネルも兄が驚くことは予想していたが、あまりの青い顔に首を傾げる。
帰国してから、副団長である兄からもプライドの話は聞いていた。先の奪還戦についての話題から始まり、深くは語れない兄からそれでもプライド第一王女を守り抜けたことは良かったという安堵。そこから彼女のこれまでの経歴や懐かしい名前でもあるアーサーを含む騎士からの慕われようも聞かされていた。自分が働き先として目をつけた学校の創設者ということも理解している。
兄にいくら尋ねてもプライドの悪い話を聞いたことがない彼女にとって、それだけで信頼には充分だった。もしプライドが裏があるような人間であれば、自分が学校へ務めるにも一言くらい兄から助言があってもおかしくない。講師に応募すると話した時も「これで決まったら、また一つプライド様に頭が上がらなくなるな」と楽しげに笑っていたのだから。しかし、今こうしてプライドが雇い主だと話した途端の兄は顔色が見事に青ざめている。まさかここまで来て、兄がプライドを恐れているとは考えにくい。
兄さん?と尋ねれば、やっとクラークも目の前の妹へと意識が戻った。
ネルが講師に採用された時こそ平静を保って喜んでみせた彼だったが、まさかの妹の雇い主という事実には落ち着き払うこともできなかった。




