悩み、
その日は、朝から妙だった。
『…………なに?』
化粧気がない。芋女だと。そう思ったことは嘘じゃない。
最初に会った時も二度目にのこのこ俺様の屋敷へ再訪した時も、化粧の一つもしない女のくせにでかい釣り目だけが際立った目つきの悪い不快なガキだと思った。安物の女児向け人形を思い出した。無駄に睫毛と目だけがぐりんと強調された、気味の悪いあれだ。
そしてあの時もその感想は変わらなかった。別にたった一日でジャンヌの容姿がまともになるわけがねぇ。粉すら付けない、すっぺんと顔を丸出しした面だ。ただし肌の艶は特別教室の令嬢共以上だった。
顔も小さく、この手で包めるんじゃないかと顎を摘まみ上げて眺めれば、やっぱり紫の瞳が際立って見える。無駄にでかいその瞳を鏡に、もう一度俺様自身の姿を写してみたいと思う程度には。
口ではいくらでも自分の意思を確かめるように恥だと言えるのに、俺様の目には妙に変わって映る。ライアーと重ねて見えた所為かとも思ったが、どこをどう見てもあの男とは違い過ぎる。
『お前なんか大大大っ嫌いだ‼︎‼︎』
『語彙力を増やしてから出直せ』
威勢の良い駄犬に、相手をしてやる気になったのも急だった。
今までアンカーソンの後ろ盾がある俺様に逆らう馬鹿がいなかったこともあるが、俺様自身相手にしてやりたいと思ったこともない。特別教室にも部下と監視代わりに下級貴族の取り巻きを付けられたが、まともに会話する気もわかなかった。どいつもこいつも俺様相手に媚びへつらい、……どうせ俺様が下級層の人間だった時に会っていれば見下し踏みつけにしてきた奴らだとわかれば目すら合わせたくもなかった。
都合の良い結末の本を読み返す方がずっと気も楽だった。
他の連中と同じように特殊能力でも見せて脅してやろうかとも思ったが、一度相手をしてやれば妙に面白い。
ジャンヌが協力させてやった俺様よりも構った駄犬への憂さ晴らしもあったが、俺様が貴族だとわかった上でそれでもキャンキャン吠えてくる。流石はジャンヌの飼い犬だと少しだけ関心してやった。牙を剥き、若葉色の眼を尖らせいくら煽ってもわかりやすい言葉で噛みついてくる。俺様に傅くどころか、ジャンヌ一人を庇って何度でも言い返してくる。
俺様の立場をわかった上であくまで対等のつもりでいる。ジャンヌ達ですら最初は俺様に下手に出ていたのに、あの駄犬は最初からだ。
『それで。まだ続けますか?本題は二の次ですか?』
協力を受け入れてやった途端、ジャンヌは生意気にも口答えするようになった。
最初に協力させろと頼み込んできた時とはわけが違う。この俺様自ら資料を手に訪れてやったにも関わらず礼の一つもなく、しかも十分以上待たせられた。
二度目に来てやった時には、礼どころか双子に謝れと宣いやがった。つい前日にはあんなに目を合わせ思わせぶりに笑んできた顔が、翌日には俺様の前で殆ど顰め面ばかりだ。あれじゃあ既に騙されたようなもんだ。
貴族として育てられるようになってもまだ社交界に出されることはなかったが、アンカーソンの屋敷にいた頃は顔の良い侍女は至る所にいた。……腕の良い年配の使用人よりも顔の良い女が多かったのは間違いなく俺様の機嫌を取る為じゃねぇが。
それに特別教室にも顔の良い令嬢は多かった。どいつも俺様の仮面に隠された半分の面に騙されてか、初日は媚を売ってくる連中も多かった。俺様の特殊能力を見せて「灰になりたくねぇなら」と脅せば、どいつも簡単に尻尾を巻いて逃げていった腰抜けばかりだ。
なのにあの女は俺様の特殊能力も知った上で馴れ馴れしく耳を引っ張ってきた。
俺様に触れるどころか近づくだけでも簡単なきっかけで消し炭になると、その目で誰より知っていたにも関わらず。
俺様の仮面の下を見れば、余計に「こう」はなりたくないと〝女〟という生き物は思う。
金さえあれば靴で飾り服ぇ飾り装飾で飾り顔を塗りたくり髪を飾りたがるのが女だ。なのに触れ、それどころか覚えのない深層まで容易に突き刺してくれれば少しだけ興味も沸いた。……もう少し、怒らせてみたいと思うほど。
あんなこと今まではなかった断言できる。
アンカーソンとして育てられてから、俺様に馴れ馴れしく話しかけてきやがった奴も逆らってきた奴もいなかった。
そんな奴らが現れたとしてまともに相手をしてやるつもりもなかった。寧ろ思い通りにならない連中は特殊能力で脅して二度と目を合わさせないようにしてやった。
そんな連中を逐一相手にしてやる気になったこと自体妙だった。
ライアーが見つからない、その手段も駒も増えたわけでも道が開けたわけでもなく、寧ろ減り途切れかけていた。それなのに何故この俺様が一瞬でも一度でも能天気な気分になれたのか。顔も似てねぇライアーの面影一つでどうしてあそこまで急激に気が晴れたのか。
妙なことはこれだけで終わらない。
『あー、あとお前のこともジャンヌ達から聞いて知ってる。レイだろ?俺、あいつらの親戚な』
ライアーの情報欲しさに中級層の路地へと行けば、騎士に捕まりライアーの情報を初めて得た。
路地を歩いていた時の鬱々とした出口が狭まる感覚が嘘のように視界がまた開けた。
『へへーんだ!うっせぇばーーーかっ!』
『何が恋人だよ!この大嘘つき‼︎』
『謝るのは失礼なことばかりいうこの人だもん!昨日から一度も誰にも謝らないし』
翌日には他の庶民共の相手をする気にもさせられた。
道も手段も金も、時間と共に減っている筈なのにライアーの情報を得られたからか黒炎が溢れても暴走することはなかった。
いくら沸いても消そうとすればすぐ消せる。その前は学校に来やがった裏稼業共に自分の意思じゃどうにもならなかったのに、あんなクソ生意気なガキどもに生意気な口を利かれた黒炎はすぐ消せた。
ライアーの手がかりを得られたことで気が浮き立っていたことも多分ある。裏稼業からの口から出まかせではなく、本物の騎士からの情報だ。やっと見つけられるかもしれないと、アイツの影を掴めただけで、今までの肩の強張りに気付けたほど糸が緩んだ。
どれだけ馬鹿にされようと腹が立とうと、不思議なほど殺したいほどの感情は湧いてこなかった。ガキの頃ライアーと言い合いしていた時と同じ感覚は、懐かしくもあった。
あの騎士からライアーの手がかりを得られたからか、駄犬の相手で慣れたからか、……単なる〝代わり〟か。
別に勝てる相手にだけ喧嘩を売るほどガキじゃねぇつもりはある。だが、ジャンヌには既に敗北を突き付けられていた。肉弾戦で裏稼業よりも強い女という時点であの女は女じゃなく化物か猪か熊だと考えるしかねぇが、今考えてもやはり色々妙なことばかりになったのは全てあの女が原因だ。アンカーソンの後ろ盾を突然失い不要だった庶民共にまで懐が広くなって
『また、どうか来てください。いつか〝私とも〟友人になって下されば……幸いです』
……ライアーに、会えた。
やっと会えた。あの時はただの〝トーマス〟だったが、それでも探し求めていた男だった。
記憶を失い、俺様のことも昔の話し方も調子も全部丸ごと忘れてやがった馬鹿に、最初は受け入れられず頭がおかしくなりそうだった。
自分が何を口走っているかもどうなっているかも気を失う瞬間までわからなかった。ライアーに会えたという事実と、俺様のことを忘れて全くの別人になっていた現実で、内側から灰になるようだった。
あれだけ待ち続けて探して、やっと見つけたのに俺様が探していた存在は消えていたことに。
目覚めて改めてアイツを目にしても、顔の似ている別人を突き付けられている感覚は今もそして一生忘れられない。ライアーが死んでる悪夢を見た時にも似ていた。
あのままただ生ぬるいトーマスに話を聞かれるだけだったら、もう二度と会おうとすら思えなかったかもしれない。
『…………仮面を、外して見せて貰えますか』
あの言葉を貰うまで。
ジャンヌの、余計な提言だとすぐ語られても希望は捨てられなかった。
目の前の男がライアーに顔の似た男なのか本人なのか、それを試す方法を最初から一つしか俺様は持っていない。
誰もが臆するか金を見る目を向けたこの特殊能力とは違う。仮面に隠されたこの顔が引き出すのは嫌悪か、……古びた面影のどちらかだ。
ジャンヌを試した時とは違い仮面を外す指先は微弱に震え、あの一瞬だけで喉が酷く干上がった。あの女相手と違い、目の前にいるのがライアー本人以外だったらの恐怖心は段違いだった。
同一人物であることが現実なら余計に仮面を見せた時の反応がライアーじゃない、生ぬるい同情だったら死にたくなった。それぐらいあの時は直視するのが怖かった。あれ以上探し続けていた男がライアーじゃないと突き付けられるのが、刃を落とされるよりも遥かに。
あの時の、〝ライアー〟の面影に。……どれだけ救われたか言葉では言い表せない。報われた瞬間に六年分の涙が止まらなかった。
腹立たしいことに、ジャンヌからのあの余計な提言がなかったら向き合えなかった。二度とライアーに、トーマスに会わずに済むようにその日の内に城下から去っていた。
二度と直視せずに済むなら自分の足で城に出頭していたかもしれない。……そんなことしてたら〝本物〟のライアーにも会えなかった。
『レイちゃん‼︎‼︎』
何故、記憶を取り戻したのか。
俺様に会ったことで急激に思い出した。そんなことを言われても、長く船を漕いでいたような脱力感が癒える暇もなく来られたら整理がつくわけがねぇ。しかも連れて来やがったのはまたあのジャンヌだ。
今度は取り巻きの二人も居なく、保護者の騎士と一緒に偶然と言い張る。
一体どうやってライアーの記憶を取り戻したのか未だにわからねぇ。だが、いくらあの大嘘吐きでも〝トーマス〟が俺様を騙す為の演技だったとは今じゃ思えない。寧ろそうだったら今からでも燃やしてぶん殴る。
王国騎士団の隊長を親戚に持つような女だ。ライアーの記憶を取り戻させる特殊能力者か方法に伝手でもあったのか。
ジャンヌが別の特殊能力者である以上、あの女の仕業とは思わない。なら取り巻きのどちらかかもしくはあの騎士がそういう能力なのか。
なら何故俺様に最初も今も隠しやがるのか、聞きたくても口留めされた以上二度と追及できない。無駄に藪をつついてまたライアーをトーマスにされるわけにはいかない。
どうせライアーだって何かしら俺様に嘘をついたまま手がかりの一つや二つ隠してやがる。本当は記憶を取り戻した理由も覚えている可能性だって大いにある。気が付いたら記憶取り戻して俺様の知り合いのジャンヌに頼んで連れてきて貰ったなんざふざけるな。
トーマスだった頃は覚えていない、記憶を取り戻した時のことも覚えていない、……ただ俺様のことを思い出せれば充分だと。
そんな都合の良い話を全て信じられるわけがない。しかも言い張る相手はあのジャンヌと大嘘吐きのライアーだ。なのに
『貴方との全てを思い出したいと願ったのは、トーマスさんとライアーの意思よ。それは間違いないわ』
あの言葉は、卑怯だ。
俺様を最初に口説き落とした時の言葉と同じくらいに。
本当に、一時はトーマスで充分だと思った。
あのままライアーが記憶を取り戻せなくてもトーマスを助けていこうと、刑罰を全て終えたら俺様もトーマスと同じ職にでも付いたかもしれない。いくら家畜臭い暮らしでも下級層の塵溜めや投獄以下の暮らしじゃない。
それでも、ライアーそのものを突き付けられればもう変えられない。
あり得ない偶然と奇跡の繰り返しを、ジャンヌ自身が自分の功績でも能力でもなく「ライアーの意思」という言葉で終わらせる。長年あいつを探し続けた俺様に、これが俺様自身が望んだだけでなく〝ライアー〟が望んだ結果だと言われればもう否定できるわけがない。心臓が肺と共に膨らむ感覚と、自分の炎よりも熱くなった血の熱量に上手く言葉も出なかった。
目の奥が震えるような振動の正体も、あの女に触れようとする自分を抑えた理由も未だにわからない。触れたければ触れれば良かったのに、あの時はどうしようもなくできなかった。
込み上げる喉のか細い痛みに、何故この女は俺様が望むものを簡単に言葉にできるのかと過った。
そして俺様にここまでやってのけた女がどうしてそれを自ら口留めするのかも、何故全く恩に着せようとすらしないのかも。
ライアーは本当に記憶を取り戻した理由を覚えてねぇなら自分の手柄にすれば良い。それなのに全て偶然を装い、隠し、結局何をしたかったのかもわからねぇ。いっそ俺様に平服でも全財産でも残された屋敷でも何でも欲しがってくれればわかりやすかった。
ライアーを連れるだけで、そのまま食事すら受けず去っていくあの女は本当にどこまでも─
『私達はただ貴方の力になりたいだけです』
……。馬車へと去るジャンヌに、気付けば仮面を外していた。
今更見せたところであの女の反応は変わらない。そんなことわかりきっていたにも関わらず、これ以上ない恩着せの機会を無碍にして平然と去ろうとするジャンヌに衝動が抑えれなかった。
特殊能力を暴走させた時のような重黒い衝動とは違う、ただ〝何か〟を伝えたくなった。それが何かもわからない内から言葉にするのが屈辱で、ただ仮面を外す方が楽だった。
醜く怖気の走る左半分を晒すのがまるで当然の礼儀のように感じた。たかが庶民女にそんなものとも思ったが、あそこで仮面を外さず口も結び見送るだけだったら一生胸に引っ掛かり続けるような気がした。今でも、あの行為に後悔はない。
脅しでも、試しでもない。初めてそれ以外の感情で醜い素顔のままに彼女を見送った。
……
…




