Ⅱ321.頤使少女は吐露する。
「……なぁ、フィリップ。流石にもうジャンヌを起こした方が良いんじゃ……」
降る鐘の音を聞きながら、パウエルはやんわりと声を漏らした。
昼休みの終わりを告げる鐘を聞き、校内中の生徒が教室へと向かい始めた。
校内から最も門に近いステイル達は特に予鈴は重要である。鳴ったらすぐに移動しなければ、授業に遅れかねない。いつもならそそくさと片付けをはじめていた彼らだが、今は片付けどころか芝生から立ち上がることすらできない。
できるだけ授業に遅れたくない真面目なパウエルは、芝生に座り込む二人へ背中を丸めたまま下から見上げる。しかし、全く二人ともその場から動かない。
ステイルは片手で顔を覆ったまま俯き、パウエルからの問いにも一言しか返せなかった。わかっている、そうだなと言葉は浮かんでも実行には移せない。
更にはアーサーも座り込んだままだった。唇を絞り、火照った顔のまま声も出ない。目が開き続け過ぎて乾いていた。完全にマネキン化した二人は、予鈴に気付いてこそいるがその場から動けない。立ち上がるどころか、今も熟睡しているプライドを起こそうともしなかった。……そう。
ステイルの膝に埋もれ、アーサーの手を掴んだままのプライドを。
「~~っ……」
つい数分前にステイルと同じくマネキン化したアーサーは、今も目が握られたその手に刺さったままだった。
それまではパウエルと同じくアーサーも微笑ましくステイルとプライドの寝顔を見守っているだけだった。声を潜め、彼女を起こさないように気を払いながら他愛もない話を続けていた。
予鈴が近づいてきたことにそろそろプライドを起こそうと、自分からは動けないステイルの代わりにアーサーがそっと彼女の肩に手を添え、揺り動かそうとした時だった。
起きて下さい、そろそろ……と。潜めた声を掛けながら彼女の華奢な肩に触れたところで、まさかの反撃が返された。
小さく呻き、寝ぼけたプライドがするりと熱量の多い細い手でアーサーの手を掴まえた。
びくっっ⁈と肩を上下させたアーサーだが、プライドの小さな手からは離れられなかった。自分よりも逞しい手から真ん中の三指を掴み握った手の力はその程度の揺れで払えなかった。それどころかその口元が小さく何かを寝言で動いた直後にぎゅっと掴まれ、眠っているプライドよりも熱量が上回るのはすぐのことだった。
しかも掴んだまま力なく垂れたプライドの腕の重さのまま、肩に添えていた筈の自分の手まで彼女の口元に近くなる。鎧も手袋も身につけて居ない手に、ふっと何度も彼女の寝息か吹きかけれられればその度にアーサーの心臓が凄まじい勢いで収縮された。
片手で軽々と高等部生徒すら引きずることができるジャックが、たった指三本を掴まれただけで動きを封じられているのはパウエルの目にはなかなかの衝撃だった。上級生からも美人と噂されるヘレネに微笑まれても平然としている彼が、同い年のジャンヌ相手には全くの別人である。
……ジャンヌすげぇなぁ。
しみじみと、二人を封じる彼女を前にそう思う。
この状態でまだ起きないことにはそれだけ疲れが溜まっていたんだろうと思うが、それ以上にフィリップとジャックをここまで無力化できるジャンヌへ畏敬の念まで覚えてしまう。特にフィリップは四年も前から自分の中で特別だから余計にである。こうしてフィリップだけでなく、ジャックまでも動きを封じられたことには流石のパウエルも苦笑いを禁じれなかった。
わかりやすく顔が赤いまま、何十分もプライド専用の枕と化しているステイルも彼女を起こすことは叶わない。単純に、自分の膝に埋もれているプライドを手放しがたいこともこの一秒一秒を惜しんでいることもある。しかし、それ以上に少し刺激しただけで寝返りを打つ彼女の頬や後頭部に膝が触れてしまう。しかもこの状況で目が覚めた彼女へどう言い訳すれば良いかも、今は優秀な頭が纏まらない。
三年前、ティアラとプライドと庭園で昼寝した時は、上手く誤魔化すこともできたが今は難しい。今この場で目が覚めてしまえば、確実に彼女へ自分が膝を貸したことを気付かれてしまう。
アーサーやパウエルが証言をしてくれるとは思うが、間違っても人前で自分が勝手に彼女へ膝を貸したなどと思われたくない。授業へ遅れても良いとは思わない。しかしどうにも身体が四肢に至るまで上手く動かなかった。
一度誰もいない周囲を見回したパウエルは、たった一人焦燥に駆られる。
今からでも教室に戻りたいが眠っているジャンヌとフィリップ達を置いていくことは彼にできない。ここでパウエルが置いて行っても全く気にしないステイル達だが、今は目を覚まさないプライドをどうするかで彼まで気を回す余裕もなかった。
仕方なく今度はパウエルが彼女へ試みる。
「……おい、ジャンヌ。おーい、そろそろ行かねぇと遅刻するぞー?」
最初は潜めるように、そして少しずつ声を大きくしながら呼びかける。
んん……、と小さく声を漏らすプライドはまだ目を覚ましそうな様子はない。自分が起こしにかかるのに、フィリップもジャックも止めようとしないことを確認してからパウエルは更に起こしにかかる。
ジャンヌー、とさっきよりも気構えない声で呼びかけながら、今度は背中が丸いだけでも足りずに自分も顔を芝生へつけ、ステイルの膝に乗るプライドよりも顔の位置が低くなる。まだ薄目も開けないプライドを確認しながら、再びさっきより音量をあげて呼びかける。
ジャンヌ、ジャーンーヌ!と声を上げていく内、やっと彼女の眉の間が狭まり顔に力が入ってきた。
んんっ……と、先ほどより覚醒に近い声を漏らす彼女へ畳みかけるように、もう一度パウエルは声と共に笑いかけた。
「起きた」
「…………?……⁈っっっっっっキャァアアァッ⁈」
悲鳴だった。
目を薄くから限界まで見開くまで、プライドも時間はかからなかった。
さっきまでは文字通りの夢見心地で雲の上にいるかのような感覚だった。呼びかけられてもなかなか起きるのに抵抗を覚えてしまうほどに心地よく、ずっとこのまま目を閉じて居たいと頭の隅で考えてしまった。しかしやんわりと目が覚めた途端、焦点も定まらない視界に映ったのは…………パウエルである。
前世で最大推し第三作目の登場人物。今ではゲームとは別人のように生き生きとした彼が、まさかの眠る自分の目の前で微笑みかけている。
空色の瞳が柔らかく灯り、寝ぼけ眼の自分を映す。まるで一緒に横になって眠っていたのだと錯覚してしまうほどに彼の顔は近かった。本気でまだ夢の中かと思えたのも一瞬。覚醒を待つように丸く開いた目が、自分が起きたことに安心したように柔らかく笑んだ瞬間を間近で確認してしまった。
さっきまで心地よく鼓動していた心臓が、発作のように飛び跳ね血流が高速で回り切った。悲鳴も殆ど反射に近い。ここがどこかを顧みる余裕もなく跳ねるように起き上がったプライドは、両手を手放し背後の芝生に両手をついたまま勢い余ってまた倒れかかった。
一気に血流が回った所為でくらりと真っ赤な顔で崩れかかったところで、手を開放されたアーサーと封印を解かれたステイルが同時に彼女を支えた。
更に真正面に座るパウエルも支えるべく手を伸ばそうとすれば、今度は確実に黄色い悲鳴が上がりかけた。あまりの悲鳴量に外へ向いていた守衛の騎士すら軽く振り返った。
「驚かせてごめんな。でも予鈴なったしそろそろ急がねぇとまずいぞ」
ジャンヌの悲鳴量に流石のパウエルも喉を逸らす。
しかし、もう見回しても殆ど気配すら感じなくなった周囲を首で示しながら言えば、プライドも胸を両手で押さえながら目で見回す。息が小刻みに激しく乱れ、真っ赤な顔を手で扇ぐどころかアーサーとステイルに支えられたまま体勢を立て直す余裕もない。ばっくんばっくんと耳の奥まで心臓の音がきている。
しかし、パウエルの言葉を聞きながらなんとか理解できたのは「早く教室へ戻らないと」と「寝坊した」だった。
こくこくと何度も頷きを繰り返し、力の入らない足で地面を噛もうとする。
彼女の起き上がろうとする意志へ応えるべく、ステイルとアーサーが両側から彼女を持ち上げるようにして三人一緒に立ち上がった。まるで確保された宇宙人かのようなポーズになってしまったことすら恥じらいを覚えながら、プライドは今度こそ自分の足で立ち上がる。
目を覚ましてから一度も逸らせなかったパウエルに、今も声が出ない。代わりに「ごめんなさい急ぎましょう」と聞き取れるかも怪しい速さの口で両側の二人へ呼びかけると、考える間もなく駆け出した。
あまりの羞恥心に、心理的には逃走に近かった。ステイル、そして鞄を抱え上げたアーサーとパウエルもそれに続き、今までの遅れを取り戻すように駆け出した。
後ろも振り返れずに走り出したジャンヌを追い掛けながら、パウエルはあまり気にしない。ただ寝ぼけていたとはいえ平然とフィリップの膝に乗りあがり、ジャックの腕を掴んだ彼女が寝顔を覗かれただけであんなにも取り乱すのは意外だった。ただ予想を遥かに上回る足の速さを誇る彼女にまた少し見直した。
いつもの分かれ道になった時だけぎりぎりの精神力で逃げ足を踏みとどまったプライドだが、振り返ることには勇気が必要だった。
全力疾走したこととは関係なく赤い顔で振り返った彼女は「遅れさせてごめんなさい!」とパウエルの顔を一瞬見た直後に光の速さで頭を下げた。
突然跳ねあがるように謝ってきたジャンヌに、パウエルは「いや俺こそごめん」とだけ手を振りながら返すとそのまま駆け足を止めずに高等部へと去っていった。流石にこのままのんびり話す余裕は彼にもない。
じゃあな!とフィリップとジャックにも挨拶を掛けた彼は、そのまま全力疾走で高等部へと駆け込んでいった。
パウエルを見送ってから再び走り始めたプライドがやっと足を止めたのは、本鈴と同時に中等部の教室へ滑り込んだ時だった。
机の前に座るよりも先に、椅子の背もたれに手をかけたままゼェハァと息を切らせたプライドにぴったりと続いたステイルとアーサーの方はまだ息もそこまで乱れていない。
僅かに息の切れたステイルと、全く切れていないアーサーが大丈夫ですかと呼びかける中、プライドは返事よりも繰り返す息の方が大きかった。大丈夫だと示すべくブンブン首を横に振り、それから一つひとつ段取りを確かめるようにして席に着く。
大きく収縮する肺を服越しに押さえつけたまま、プライドは意識的に深呼吸を繰り返した。
「……ほんとうに本当にごめんなさい……。わたっ、私……全然、目が……気が付かなくて……」
「いえ、……俺達こそ申し訳ありませんでした。起こすのを遅れてしまい……。その、あまりにも熟睡されていたので」
「俺らも、もうちょっと早く起こすべきでした」
幸か不幸か、一体自分がどんな体勢で起きていたかも覚えていないであろうプライドに二人も敢えてそこには触れない。
パウエルが目に入ってから一目散に起き上がり逃げ出した彼女は、その前後の記憶すら今はおぼろげだった。ただ、寝起きにパウエルがいた衝撃だけが未だに心臓を跳ね転げている。
熱を吐き出すような長い溜息を吐きながら、崩れるように椅子へ座り込む。講師が現れたことでステイルとアーサーも慌てて席についたが、資料を運ばせるべく生徒を連れて再び講師も去っていった。
ええそうなの、と懺悔のように呟きながら両肘をついた手で顔を覆ってしまう。丸く纏めた髪すらも、寝転がりその後にすぐ走り出したことで今は跳ねて乱れている。しかし生徒のいるここでむやみに一度解くこともできない彼女は、今はその髪型でやり過ごすしかない。
珍しく髪型の乱れた彼女を両側から見つめた二人は、未だに茹った彼女の消え入りそうな声に耳を傾ける。
「本当にごめんなさい。校内だっていうのに、どうしてあんなに熟睡しちゃったのかしら。もう…………どうして」
言い訳というよりも、懺悔に近いその吐露にステイルもアーサーも口を閉ざす。
本来、学校という立場と誰よりも正体を隠さないといけないプライドは少なからず張り詰めている。にも拘わらず、いくら疲れていたとはいえそのまま寝入ってしまったことが自分でも信じられない。しかも彼女の眠りを見守っていた二人からすれば、何度呼びかけても起きない徹底ぶりである。
軽い呼びかけや刺激でもなかなか起きなかった彼女が目を覚まさなかったのが、単純に疲労だけが原因とは考えにくい。しかし、それ以外の原因を考えるとどうしても
「なんか、どうしようもなく心地よくて、つい。……三人にまで迷惑をかけて本当に恥ずかしいわ」
しかも大好きなキャラの一人だったパウエルにがっつり間の抜けた寝顔を見られてしまったことも、羞恥が強い。
両手で顔を覆いながら、項垂れるように下を向くプライドに二人は何も言えない。パウエル一人相手で何故あんなに取り乱したのかということよりも、彼女の〝心地良さ〟の原因がきっと驕りでも自意識過剰でもなく〝そういうこと〟だと示唆されているようで堪らない。
自分の恥じらいで精いっぱいなプライドに気付かれることなく、両側に座る二人もまた無言で口元や顔を片手で覆い目が逃げた。
「ずっと、あのままで居たいくらいで」
そう、誰へでもなくただ吐露した彼女の言葉にもう言語機能も働かない。
心臓が破裂しそうな感覚に、全身の端々まで熱湯が流れたような感覚を覚える。自然と胸を押さえつけたい衝動を意識で押さえ、代わりに二人揃って眼鏡が白にもやがかかった。講師が資料を抱えた生徒達と共に戻ってくるまで、三人はそれ以上何も話せなかった。
プライドのその気持ちだけは、目が覚めていたはずの自分達もそうだったのだと。
その自覚だけは、しっかりと彼らの口を固め続けていた。




