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フリージア王国備忘録<第二部>  作者: 天壱
頤使少女と融和

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488/1000

ラスボス女王と、もし。


「何度言えばわかるのかしら。勝手に口を開かないで」


耳障りよ、と。

そう言い捨てる女王はウェーブがかった髪を払い、一瞥もくれなかった。

男から六度目の問いを聞き捨てる。いつものように王宮内を事実通り我が物顔で歩く彼女は、大勢の衛兵達や使用人を数歩背後にずらずらと引き連れつつも一番傍らに置くのは〝下僕〟と呼ばれる男だ。「いつかは奴隷と呼ぶかもね」と悪戯に笑われながらも、現状で一番立場が低いことに変わりない。

女王が優雅に庭園の散歩をしている間も、王宮では摂政と宰相が最上層部分の公務に勤しんでいる。彼女一人が暇を持て余す。常に補佐として女王の傍を離れられない摂政も、押し付けられた公務の間は傍を離れることが許された。


裏稼業の男を女王が傍に置くようになってから三日目。

あの場で他の連中と同じように殺されるくらいならばと女王に従うことを選んだ男だが、未だに自分が残された理由がわからない。ろくな目には遭わないだろうと想像はしていたが、実際は思った以上にまともな扱いだった。それが逆に気味が悪い。

銃を持った相手を玉座から一歩も動かず無力化し大勢の衛兵を味方につけている女が、自分を傍に置く理由がみつからない。自分の実力も腕節も過信していない男は、自分が城の衛兵一人にも叶わないことも自覚している。特殊能力も女王にとっては使いようもない瑣末なものだ。


ただ傍に置き、そして女王が話しかけない限り自分から口を開くことは許されない。質問も、感想も、何も囀ることは許されない。

それだけで言えばまるで奴隷のような扱いだが、そうではない。枷や鎖で繋がれてもいなければ、鞭を振るわれることもない。粗末ではあるが使用人と同じ食事も与えられ、屋根の下で眠られる。国で最も安全とされる城の中でただ女王の傍に付いているだけで生存が約束される状況は、下級層で生きてきた男の目には不自由ではなかった。むしろ待遇が良い。

だが、それが女王の慈悲でも下心でもなく彼女がただ頭がおかしいだけなのだろうということはこの三日間で確信できた。自分がやっているのはただ女王の傍に付き、離れないだけ。……ただ、〝常に〟離れることが許されない。


城の人間の目から見ても、女王は下僕と呼ぶその男を全く相手にしていない。補佐である摂政や、最近滞在を始めた皇太子のように傍にいても居ぬ振りをする。話しかけるどころか視界にも滅多にいれない。

ただ、初日から男が何度足を止めようとしても「どうしたの、入っていらっしゃいな」と執拗にどんなところでも傍に置きたがった。今も喋れば黙れと命じ、離れようとすれれば命じそして脅す。()()()()()()()()()()()で、男をまるで周囲に見せつけるようにそこまでも傍へ置く。


食堂にも連れ、形だけの女王の執務室にも連れ、摂政や宰相を始めとする各要人の部屋にも連れ、皇太子を含む来賓へ対応する際も謁見の間にも玉座の間にも客間にも会議室にも全てに連れ、入浴の場にも連れ、更には寝室にまで連れ込む。今更女王の行動を指摘できる人間などいないが、それでも使用人達の目には女王が戯れに情夫を買ったようにも目に映った。

侍女が関わる入浴の際はさておき、女王が眠る寝室でその下僕と女王がどう戯れてるかは確かめようがない。確認しよう者からその首を斬り落とされる。


そして寝室でもまた、男はただ放置しかされていない。


四六時中傍に置きながら、全く男に何も求めない。ただ黙させ、傍に置くだけだった。

いくら使用人に囲まれていることに慣れた人生とはいえ、まだ婚姻すら結んでいない妙齢の女性が異性を、しかも下級層や裏稼業に属する人間を風呂や寝室に連れ込むことが異常であることは男にもわかった。

もっと奴隷や犬や家具のような扱いをされれば納得できたが、どれもない。自分がまるで空気のように思いながらも、しかし逃げることは許されない。

目の前で女王が無防備にベッドで眠るのを二夜も眺めた。隙があれば襲うかそれとも金目のものを盗んで逃げるかとも幾度となく考えたが、城の警備は万全だ。もし逃げたらその時は即処分するように衛兵に命じられたことも初日に聞かされた。

自分の特殊能力はあくまで土壁やドームを形成するだけ。部屋中を衛兵に固められ、しかも飛び降るには不可能の高さの部屋。侵入が不可能であるように逃亡もまた当然不可能だった。

逃げる素振りを一度でも見せれば、女王でなくても衛兵も躊躇いなく自分を処分する。目の前で裏稼業の同業者達が殺されたのを見せられれば、それは確信だった。自分が思ってきた通り城の人間は自分達を塵か害獣以下にしか見ていない。逃げればその瞬間殺されるだけの環境だ。

一日経ってからは舌打ちも零したが、それも「舌を抜かれたい?」とたった一言で封じられた。この女王がそれを何の躊躇いもなくすると、確信があるからこそ男は従うしかない。


「……ちょっと、ここの庭師を呼びなさい」

今すぐに。そう、続けられずとも使用人達は理解した。

はっ‼︎と怯えながらも周囲へ散る侍女や従者達、庭の手入れ中だった者にも声を掛け、女王が足を止めた花壇の担当庭師を引き摺り出す。ビクビクと既に肩を痙攣させながら「どうかなさいましたでしょうか」と女王の顔色を伺う庭師は、庭園のどこの花よりも顔が青かった。

逃げないように衛兵に左右から腕を掴まれ立たされた庭師を、女王は吊り上がった目で睨む。久々の庭散策だったというのに気分の悪いものを見せられたのだから当然だった。

その庭師が視界に入った瞬間、腕を伸ばし足腰も衰えた熟年の庭師の胸ぐらを掴み突き飛ばす。非力とはいえ若い腕に腰がひけた老人が勝てるわけもない。

怯え震えた足と、女王に抗ってはいけないという危機感のまま庭師は女王の望む方向へと転倒した。薔薇園の一角である茨の中へ、背中をうちつけ棘に抱き締められるように倒れ込む。

寸前に目を瞑ったが、それでも頬や瞼、鼻を棘が無数に差し、小石一つない薔薇の花壇がぐちゃりと散った。


「老いて私の命令も忘れちゃった?それとも嫌がらせかしら。そうよね?黄色の薔薇を植えるなんて」

女王は、黄色の薔薇が嫌いだった。

赤や青や白の薔薇は良い。黄色い花も目に引っ掛かる時はあるがそれでも彩りとしては嫌いじゃない。だが、彼女が女王に即位してからは黄色の薔薇は度々処分されていた。

今では黄色の薔薇は城内で禁じられた唯一の花である。

それをよりによって、女王の目についてしまったのだから突き出されるのも当然。責任を問われるのも、この後の処遇も使用人達の誰もが知るところだった。


熟年の庭師も、女王が黄色の薔薇を嫌っていることは当然覚えていた。

しかし、花びらを見せる苗の状態ではその判別は難しい。城で薔薇自体は大量に仕入れている。

蕾の状態でも早咲きの黄色の花弁が姿を出せば、即処分しなければならないとは思った。しかし、花を愛する者として丹精込めた花を黄色だったという理由で処分するのも、……現在行方不明中である第二王女の面影にも思えて黄色の薔薇を王居から取り除くことに気が咎めた。

あと二、三日。もしくは第二王女が無事城に戻ってくるまではと見逃した。ただでさえ、前女王の全盛期には赤よりも多く仕入れられていたこともある色の薔薇だ。無数の中にたった七本。しかも目を凝らさなければ存在に築かないほど赤の薔薇の影に隠れた位置にあったそれは、パッと見では誰の目にも気付かれない。

現に前回までは蕾の状態だったとはいえ、今日の今日まで女王にも気付かれなかったのだから。それに、いつも通りであれば今日は女王が庭園に来る予定はない筈だった。

しかし、ここでそんな理由を並べたところで現女王に通じるわけもないと庭師も知っている。


「も、申し訳ありません女王陛下‼︎私の手違いです!仕入れた薔薇に混ざっていたようで、今日にでも処分しようと」

「貴方も一緒にね?」

衛兵が携えた剣を女王が掴み、引く。

次の瞬間には目にも留まらない一瞬で庭師の首から血が噴きだした。たった一瞬で首の三分の一を裂かれ茨から身を起こす暇もなく醜い呻き声の直後、目を見開き絶命した。

老人とはいえついさっきまで生きていた男の喉笛から血は勢いよく吹き出し、庭師の背中に潰されなかった黄色の薔薇も赤く染まった。

悲鳴を上げまいと口を覆う侍女や他の庭師も固まる中、女王は捨てるように衛兵へ剣を突き返す。空いた手で侍女の方向に手を軽く出せば、震える手でハンカチを手渡された。

黄色の薔薇が赤く染まるのは視界に入れる女王だが、その庭師の血は触れるのも気分が悪かった。飛沫がドレスの裾や靴にも飛べばそれだけで吐き気がする。

拭き終えたハンカチをそのまま庭師の亡骸の方へ放り捨て、己の髪を払う。


「焼き払いなさい」

薔薇園ごとでも構わない。そう思いながらはっきりと告げる女王の言葉に、衛兵も他の庭師達も返事しかできなかった。涙を流すことも今は命に関わる。

庭師の死体処理と小範囲とはいえ黄色の薔薇一帯を焼き払うべく一部衛兵を残し、大部分はまた女王の背後に続いた。

衛兵と同じように、裏稼業で死体も殺しも見慣れている男も大して惑いはなくそのまま足を女王の傍らへ動かした。

今更王族に幻滅などしない。もともと王族という人間が自分達下々の人間を見下し、なんとも思っていないとわかっている。しかし、それでも目の前で行われた女王の処刑に男は少しだけ目を見開いた。残虐さにではなく、あまりにも〝自分達(裏稼業)側〟と同じやり口に。

裏稼業でも捕らえた獲物を嬲り殺すこともあれば、商品にならないという理由で戯れに殺すことも、気に食わないという理由で下っ端を殺すことも普通にある。実際男も同じようなことは飽きるほどしてきた。

しかし、仮にも王族として誰よりも恵まれて来た女が、誰よりも恵まれなかった自分達と同じ思考回路の趣味を持つのは意外にも思えた。生まれも育ちも全てが異なるにも関わらず、息行く先は似過ぎている。

何にも満たされず、己と金以外信じることも、そして必要にも思えず、自分より弱者を作り確認せずにはいられない。


「……ねぇ?下僕さん。さっきの質問、答えてあげましょうか?」


ぐしゃりと。目に付いた白い薔薇を手の平で握りつぶし、地面に散らす。

思いついたように投げかける女王の言葉に、男は口を結んだまま視線を送った。さっきまで機嫌が悪かった筈の女王からそれは、カランコロンとした愉しげな声だった。

それに言葉で答えて良いのかもわからず顔を顰める男へ、女王は肩で振り返りフッと笑った。眉を寄せ、優雅さよりも皮肉の混じった笑みは誰よりも高い位置で男を見下していた。

男の表情で、知りたがっていると判断した女王はそこでまた前を向く。背中を向け、一人ごとのように呟いた。

「次のお楽しみの後にね」と。

汚らわしい老人の血でドレスと靴に染みを作ったまま、敢えてその足で女王は庭園から去り、次の憂さ晴らしへと向かった。



……



「うぁ!うああああああああああああああああああああああああっっ⁈‼︎‼︎‼︎⁈⁈‼︎来るな来るな来るな‼︎頼む来ないでくれ‼︎」


アッハハハハハハ‼︎‼︎

悲鳴に被さるように女王の高笑いが部屋に響く。

カーテンも閉め切られ、昼にも関わらず暗く沈んだ部屋で一人の青年が手足をバタつかせ逃げ惑う。その姿に女王はさっきまでの不愉快さが嘘のように晴れていくのを感じながら、踵の高い靴で軽やかに歩み寄った。

入って来た扉も内側から閉じられ、連れて来た護衛も侍女も廊下で待たされる中でたった一人褐色の男だけがやはり共に中へと通された。

部屋の上等さから王族あたりの部屋かとは検討づいたが、その部屋に蹲っていた青年を見れば男の中での謎は深まった。女王からもついて来い以外何も言われていない。今までの同行と同じように壁に寄りかかり、ただ〝それ〟を眺めた。


長い蒼の髪からちらちらと見える顔や身体つきから優男の年齢は読めたが、女王の一つ上あたりの彼にまさか王族の隠し子かと思う。あまりに出来が悪いから存在を秘匿されそして女王にもこうして遊ばれているというのならば、まぁ良い気味だとは思う。王族として何もせずとも衣食住に恵まれたのなら、そのまま女王の玩具程度の仕事はすれば良い。

お蔭でこうして自分はそういう扱いが回ってこなかったのかとまで考えれば、女王にもっとやれとも思う。自分がされるよりずっと良い。弱者が嬲られる姿も見慣れている。


女王が扉を開けた瞬間から女のような悲鳴をあげた青年は、もともと壁際に小さくなっていたのに今は女王から少しでも遠ざかるべく腰が抜けたまま両手足で必死に後ずさる。逃げ惑い逃げ惑い、途中で棒立ちの男に背中をぶつけ混乱する頭で家具と間違え縋りつく。

女王が歩み寄ってくる前に、男の方が足に縋り付いてくる優男へ犬でも払うように蹴飛ばした。棚だと思ったものが動き自分を弾いたことにハッとなり顔を上げた青年だが、直後には追ってくる女王の足音にまた悲鳴を上げて別方向へ逃げ惑った。

野良犬の方がよっぽど逃げるのは上手いと思いながら、男がその様子を眺めていれば女王が「逃げちゃイ・ヤ」と反吐が出るような甘たるい声を溢した。

見ているだけの男すらぞっとする声色に、当然それを向けられた青年はまた喉が裏返るような悲鳴を上げ目に涙を浮かべた。伸ばし放しの頭を抱え、上体ごと左右に振りながら嫌だ嫌だと泣き喚く。ただ女王に追い回されているだけでこれだ。

とうとう部屋の隅まで後がなくなり、女王に追い詰められれば全身をガクガクと震えさせ自分を抱き締め歯を鳴らす。

見開いた目を離せず固まる青年に、ぺろりと舌なめずりをした女王はゆっくりとその表情を堪能しつつ腰を落とした。じわじわと女王との距離が縮むだけで、また青年は足をばたつかせ悲鳴をあげる。いやだ‼︎と泣き叫んでも女王が喜ぶだけだと知りながら。


「そんな怖がらないでレオン?愛する婚約者が会いにきてあげたのよ。もっと歓迎してちょうだいな。ね、嬉しい⁇」

「うっっ、うれ、嬉しい、嬉しい嬉しい嬉しいから‼︎嬉しい!だかっ、だから頼む、もうっ……もう‼︎」

女王の望む言葉だけを玩具のように繰り返し、ガクガク震えと共に頷く青年に男は遠目で眺めながら溜息を吐いた。

レオン、そして婚約者。それを聞けば、男にも目の前の優男が何者かは正しく理解できた。

二年程前に女王と婚約を結んだ隣国の王子。前王配が死んでから婚姻は結ばずとも事実上王配と同義であるにも関わらず、城で怠惰を極め私腹を肥やすお飾りの王配と呼ばれている王子だ。


いままで男自身そんな存在がいたのも忘れていたが、そういえばと今思い出した。

こんな女王にも一応はあてがわれる男は存在した。この三日間、二夜とも女王の部屋に影も形もなかった為本気で気付かなかった。裏稼業にも名ばかりの王配の噂は広がっていたが、遥かに女王の悪評の方が知れ渡り有名だったせいもある。たかが〝何もしない〟王族など、女王と比べれば何でもない。


しかし視線の先の優男を見れば、王族としての威厳の欠片もないと男は思う。

組織で飼い殺しにされていた女がただただ服従する犬に堕ちた後と大差ない。まだ元庶民の摂政の方が王族らしい気配もあった。

これが産まれてから恵まれた環境に居た筈の王族の末路かと思えば、流石に顔を顰めたくなった。

女王へ必死に懇願し、寝衣姿のまま衰えた手足で無駄な抵抗をする青年は下級層にいればすぐに身ぐるみはがされ淘汰されている。顔が良いのを見れば、間違いなく奴隷行きだろうとそこまで思考が及んだ。

隣国ということはフリージア王国の人間ではないが、それでもあの顔の良さならば中級か上級はいくだろうと次第に〝商品〟を見る目で王族を値踏みする。


「嬉しいならぁ、ちょっと慰めてくれない?愛しい貴方に慰めて貰えれば私もきっと気分が良くなると思うの。ね?」

な・ぐ・さ・め・て。と、その場に腰を落とししゃがんだまま、レオンに視線を合わし、そっと震える彼の両頬を指先で挟んだ。

吐き気のするような甘い声に、レオンの息が浅くなっていく。強制的に女王の方に顔を向かされ、振り払えず固まる。思考が恐怖で大部分を締められる中、彼女が望む甘い言葉を語れば出て行ってくれるのかと必死に思考を回す。

甘い言葉なら、口先だけの言葉ならいくつも自分は知っている。愛している、君は美しい、君は悪くないよ、辛かったね、といくつもの言葉を頭に先に浮かべながら感覚のない舌へ意識する。


至近距離で見つめ合い、慰めを甘い言葉で求める女王とそれを迫られる中性的な美男子は、男の目にはまるでこのまま愛い合う直前の前戯にも見えた。

ならばそれを自分に見せびらかすのが、もしくは婚約者に男へ〝見せさせる〟のが女王の趣味かと考えた男だが、その予想は一瞬で砕かれた。

あのねぇ、と。甘く囁く女王は笑う。口端を極限まで引き上げ、紅く塗られた指先でちょんと床につくドレスを引っ張った。まるで甘えるような声色で、不快な薔薇を語る女王にレオンも少しずつ呼吸を取り戻したがそれまでだった。

黄色の薔薇を植えたという理由だけで庭師が処分されたと語られれば、もう呼吸と共に心臓も一瞬止まる。見開いた目の奥で、脳裏に映るのは全く別の、そして同一人物により犯された惨劇だった。

ガクガクとまた震えが大きくなり相槌どころか過呼吸になりかける中、ハ、ハ、と荒くなる息に女王の目が恍惚に光った。「それでねぇ」とまるで何にも気付いてないかのような流れでまた少し身体をレオンへ擦りつけ、摘まんだ裾を彼の鼻先へと突きつける。


「見てよ。汚らしい庭師の血。せっかくのドレスも、それに靴にもべぇったり。ああでも、〝あの時の染み〟よりはマシかしら?……ね?」


言葉の返事は、なかった。

そのドレスの裾と靴の真っ赤な染みに気付いた瞬間、レオンから喉を裂かせるような悲鳴が上がった。

ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ‼︎‼︎‼︎と、狂ったように喚き散らし、もう鼻先につけられたドレスの染みすら瞼のなくなった視界に入らない。脳裏に沁みつき張り付き刻まれた惨劇が呼び起され、ただ叫ぶだけの物体に成り下がる。

やめろも見せないでくれも人は嫌だもなにも言えない。ただ内側に読み帰る恐怖心から逃げるように音を吐き出すことでしか抗えない。完全に「あ」しか言えなくなった。バタつかせていた足も痙攣させ瞬きも忘れた目から涙だけを溢れさせる人形に、女王は大声で笑った。

アッハハハハハ!!と、自分の笑い声すらも打ち消す悲鳴を心底楽しそうに腹を抱え、しゃがんだ体勢から床に尻を付け足を崩す。アーハッハッハッハッ‼︎と最悪の二重奏が響く中、甲高い悲鳴と笑い声に男も今度は耳が痛くなり顔を歪めた。組む腕に力を込め、最初からこっちの趣味だったかと理解する。

喉がガラガラと枯れかけながらも「あ」を叫び続ける優男は、見すぼらしい上に気が狂ったようにしか見えない。こんなのも王子なのかと、男の中での王族への印象がさらに地に落ちる。


女王がひとしきり笑い切ったのは五分以上経過してからだった。未だ喉を張り上げ続ける婚約者を置き「あ~、楽しかったぁ」と笑い過ぎた目元を指先で拭う女王は何事もなかったように立ち上がる。


「じゃあねレオン?また来てあげる。今夜は良い夢を見れるといいわね」

そう言い捨て、未だ「あ」しか言えない王子の頭をするりと撫でた。

自分の深紅の髪を払い、くるりと背中を向ける。扉脇に立つ男に、今気が付いたように女王は少しだけ眉を上げた。憂さは完全に晴れた女王だが、同時に部屋の隅の男の存在も完全に忘れていた。

もともと男を連れて来たのは別のお楽しみも考えたからだが、もうこの状態のレオンにはそれも不可能だ。呼びかけたところでもうレオンの頭には暫くなにも届かない。

焦げ茶色の目と合った瞬間、クスリと小さく笑う女王は今日のところはお楽しみも諦めた。また今度の楽しみにすれば良いと思いながら部屋を後にすることを決める。

初めて男に扉を開けるように命じ、そして王配の部屋を去った。


扉を閉じても尚聞こえ響く婚約者の悲鳴が、鳥の囀りよりも心地よかった。



……



「忘れてたわぁ、だって貴方存在感薄いんだもの」


本当に空気みたい。そう言いながらクスクス笑いを溢したのは、女王が自室に戻ってからだった。

お楽しみを終え、部屋着にも着替えた女王はもう黄色の薔薇のことは脱いだドレスと共に頭から消し去った。侍女と衛兵が部屋の中に控える中で、長ソファーの真ん中に身を沈めて足を組む。

衛兵や侍女も緊張感を持って控える中、男は女王の傍に立ちながらもぐらりと身体を揺らした。自分は何も言っていないにも関わらず、ソファーに寛ぎ始めた途端に女王が自分の顔を見るなりそう言って笑い出したのだから。

結局自分の質問にも答えてなければ、なにが今おかしくて女王が笑っているのかもわからない。


舌打ちしたい気持ちをぐっと堪え、牙のような歯が半分剥き出しになった。

明らかに不快を露わにする男に、女王はニヤリと笑むと思いついたままに手で招く。先ほどの扉を開けさせるといい、二度目の女王からの命令に男は眼光を鋭くさせながらも準じた。

「お座り」と言われ、床に膝をつけという意味かと思えば女王が今寛いでいる長ソファーの端に座れという意味だった。わけもわからず城に来て初めて床以外に座った男だが、途端に今度は女王の長い足がヒールの靴ごとその膝に乗せられた。

足置き代わりにされた男は今日一番に顔を歪めて女王を睨んだが、彼女の笑みは寧ろそれを見て引き上がるだけだった。ニタニタと女性とは思えない汚らしい笑みを浮かべ、長ソファーをベッド替わりにするように寛ぎながら女王は語る。


「せぇっかく愛しい愛しいレオンが貴方に怯える姿が見たかったのに。貴方の存在が薄いせいで気付いても貰えなかったわね」

アハッ!と笑い飛ばし、塗られた爪でトントンと己の頬を突く。

本当ならばあそこで初めて男をお披露目し、レオンがどう反応するのか見たかった。べたべたとわざとらしく男にくっついて「嫉妬しないの?」とレオンに尋ね怯えさせながらも肯定させたかった。「愛してるなら嫉妬するでしょう?」「それともまた私に嘘吐くの?」「嫉妬するわよねぇ?」と言葉責めにし、その上で「愛してるならこの男に立ち向かって」と、レオンが怯えながらもどうこの男に丸腰で相対するか無様な姿をみたかった。

長身のレオンよりもはるかに身体つきの良い男だ。凶悪な顔つきも含めどのくらい怖がるか〝見比べ〟たかった。しかし、結局は自分が部屋に入った時点でレオンは男のことなど目にも入らず家具と間違えた。

顔つきの問題ではない、ただただレオンにとって最も恐怖の対象は女王だった。


最終的には、ドレスの染みのお陰で良い反応が見れたのだから良いと自己完結する。

男の膝の上に足を遊ばせバタバタと交互に動かせば、真新しい靴先が男の顎や鼻にも当たりかかった。

上機嫌で笑い十八とは思えない調子の乗り方をする女王に、男は片手で顔にぶつからないように女王の足を軽く防ぎながらとうとう低い声を溢した。


「でぇ?女王サマはこの俺の質問にはいつ答えるつもりだ」

「ちょっと。勝手に喋らないでって何度言えばわかるのかしら?」

男からの投げかけにぴたりと上下に振っていた足を一度止める。今度は無造作ではなく、狙って靴先を男の顎へと向け振った。

顔を庇う褐色の手を蹴り上げるだけで終わったが、男の口を閉じるには充分の脅しだった。男がまた口を閉じたことでフフンと鼻をは鳴らした女王は「まぁ良いわ」と気分が良いことを理由に見逃す。ここで罰するよりもこの〝後〟で、罰するかどうするかの方がずっと楽しいに決まっている。


記憶力の良い女王は男の質問が何だったかも、そして自分がレオンの部屋の後で答えると言ったこともちゃんと覚えている。

焦らしたわけでもなくそれを思い知らせるまでもなくレオンとのお楽しみが終わってしまっただけ。が、それでも答えてあげようとまたソファーに身を沈め男の膝へ両足を置き寛いだ。

ええっとなんだったかしら?適当にそう呆け、男が不快に眉を寄せるのを堪能してから「そうそう」と思い出したふりをする。今日まで六回。男からの問いはずっと同じだった。


「何故貴方一人を生かしたか、だったわね?」


女王の確認に、男は何も言わない。

もう六度も尋ねているその問いに、今更訂正もなにもない。

一番最初は死体の山を背中に選択に迫られた後。その後も、女王が自分に何も命じてこず何も求めてこなければ疑問は深まるばかりだった。

何故自分だけをあの時に生かしたのか、そして今も生かしているのか。殺すでも嬲りるでもなく、しかし保護するような優しい人間には到底見えない。

ただでさえ自分はあの時、収集された裏稼業達の中に紛れていたその他大勢の一人に過ぎなかった。現に、最初に第二王女の捜索を命じられるべく集められた時は見向きもされなかった。


何度思い返しても女王が自分一人を指名した理由も、生かした理由もわからない。むしろ〝よりによって〟自分をという疑問すらある。

女王が虫けらのように殺した裏稼業達の中には、もっと女が好みそうな顔の男もいれば、自分よりも遥かにガタイの良い強面の大男もいた。あの場で全く発言もせず、女王に舌打ち以外は何もしなかった自分を目に止める理由が見つからない。


自分を凶悪な顔で真っすぐ見つめ返す男に、女王は足置きの上で足を組み直してからまた笑う。ニタァ、と唇を裂くように嘲笑い、自分より上の位置に顔がある男をそれでも見下ろす目を向けた。

男の認識通り、女王にとって裏稼業達の中で男の顔が特別好みだったわけでも、そして強面を買ったわけでもない。もっと好みの顔も、周囲を怯えさせるだけなら屈強な騎士や衛兵もいくらでも自分の手の中にはいる。

本来ならばあの場で使えないと判断した時点で、集めた裏稼業達は全員処分するつもりだった。そんな中でこの男だけを生かし、そして常に傍に置き続けた理由はたった一つ。





「貴方がとぉっても醜いから」





アァ?と、無意識に男の口から唸りが零れる。

自分の顔に特に矜持もなにもない男だが、それでも予想だにしない今の答えは引っ掛かった。はぐらかしているのか馬鹿にしているのか両方かと思いながら「ふざけてやがんのか」と言いかければ、途中でまた女王の靴先が男の喉に突き付けられた。

「黙って」と言われ、艶やかな眼差しで射抜かれる。


今ここでことを起こせば殺される。それだけを抑えに歯を食い縛る男に、女王は「本気よ?」と女特融の笑い声を漏らし両足を一度ひっこめた。

寝ころんだ状態から両足をソファーに降ろし、起き上がる。再び男の隣に座り直すと邪魔な靴を脱ぎ床へと蹴るように放った。

男の方へ向き直り、ニヤニヤとした笑みを隠さず四つ這いの手足でソファーの上から迫る。

ギラリと輝かす紫の眼とまるで夜這いのような迫り方に、気味悪く喉を反らす男だが今はそれよりもさっきの返答の説明の方が気になった。


「大きな身体。一目で裏稼業(そっち側)とわかる凶悪な顔。何より、……奇異に映る褐色の肌。ねぇ?それで我が国特有の特殊能力者だなんて、滑稽だと思わない?」

ニタァと笑ったまま鼻先同士が触れそうなほど顔を近づけ、さっきまで足置きにしていた褐色の膝をするりと撫でるようにして手を置いた。

ニヤニヤニタニタと糸を引くような笑みは、男の今まで見たどの堕ちきった女よりも気味が悪く、そして〝飢え〟ていた。


左手が膝に置かれ、右手で自分の頬を撫でられる。今すぐ振り払いたいが、それ以上に男はここで振り払えばそれが死に直結すると女王の上気を逸した目で理解する。

ギリリと奥歯を食い縛りながら睨み返せば、女からは涎が垂れそうな口が裂かれた。

男自身、自分の身体のつくりも褐色の肌がフリージアでは珍しいこともわかっている。特殊能力者であることも、城へ通された時に武器と同じく尋ねられ何の躊躇いもなく明かした。異国では武器同然に扱われる特殊能力の有無を城へ通る際も隠す気は微塵もなかった。

もともと裏稼業としてそれなりの立場は持っていた男にとって、特殊能力持ちであることは寧ろ自分の価値を見せつける要素である。

しかし、今こうして女王に飼い殺しにされている状態では、あの時に特殊能力だけでも黙っておけばよかったと後悔した。


スリスリと頬を撫でる指先に唾を飛ばしたくなりながら、至近距離で恍惚と光る紫の瞳を睨む。

「滑稽」と、それは男自身大昔にわかりきったことでもある。この国の人間ではなく褐色肌の国で生まれれば、もしくはこの肌の色でなければそれだけでも自分の人生はいくらか生きやすかった。それは間違いない。


「貴方が傍にいるとね?みぃんな私よりも貴方を見るの。貴方の醜い姿に怯えて、貴方の肌に異端を写し、私と交わっているかもしれない〝貴方の方〟を穢らわしい目で見る。それがとぉっても気持ち良いの」

限界まで目を見開き、そして思い知る。

どうして女王が今日まで自分を傍に置きたがったか。想像した通り何の慈悲でも下心でもなかった。言葉の通り、ただただ自分が()()()()()()()()()()()()()()()傍に置いた。


ただの裏稼業ではない、褐色の肌を持つ異人に見える男に城の人間は誰もが奇異の目を向けた。

男にとっては慣れ切った視線だから気にも留めなかったが、女王にとっては自分以上にその目で見られ注目される男の存在はそれだけで優越を感じさせてくれた。

今まで子どもの頃からずっと自分が向けられていた視線を、代わりに一身に受けてくれるのだから。そして女王の凄惨な所業を知りながらも、女王に纏わりつく褐色の肌の男ばかりを誰もが単純に穢ら

しく見る。

処分された裏稼業の一人、前女王の面影を抱く罪もない可憐な第二王女を狙っていた極悪人、そして女王の入浴や寝室にまで連れ込まれる褐色肌の男を知れば誰もが〝穢らわしい〟と彼を見る。


本来女王が陰ながら向けられてきた視線を代わりに受ける為だけに生かされ、傍に置かれた。

それ以外の何も女王は男に期待しても望んでもいなかった。だからこそ、今日も行く予定のなかった庭園へ足を運び、それ以外でもこの三日間女王は男を連れて城内の至る所を歩き回り城中の誰へも見せつけてはその視線の先を楽しんだ。

あまりにもふざけた理由に、男は「イカれてやがんのが」と言おうとしたがそれも止められた。


口を開いた瞬間、声を発するよりも前にその口へ女王の指がねじ込まれた。


さっきまで男の頬に当てていた手をそのままに強引に男の口から舌の上、そして上下の牙のような歯の間へと押し込んだ。

本当に舌でも抜くつもりなのかと流石の男も肩を強張らせたが、それ以上に女王の輝く笑みに息を止めた。さっき、女王の婚約者が動けなくなった理由を理解する。


「良いわよ?噛んでみなさいな。その瞬間に貴方は死ぬけれど」


ハハッ、とまたあの笑い声が短く漏れる。

軽く顎に力を込めれば、女王の細い指程度本気で噛み切れると男は思う。そしてだからこそ力を込められない。この場で女王に一矢報いるか、命かを天秤にかけられながら中途半端に開かされたままの口から強制的に涎が零れ顎に伝い落ちた。

ガ、ァガッ……と、口を閉じれず舌も二指で押さえ付けられ歯の間にも指を咥えさせられ、物理的に言葉を話せなくなる男に女王は一度も目を逸らさない。輝く目に焼き付けながら、指がぬめりと湿りふやける感覚に身震いを覚えた。

男の零す音に、本当の獣みたいと思えば、背筋にぞわぞわと心地の良いものが走り抜ける。

男の牙のような歯の並びまでゆっくりと指の腹でなぞり、手を口から引き抜く感覚までじっくりと味わった。

女王の手が引かれると同時に大きく顔ごと逸らしゲホゲホと喉を両手で押さえ咳き込む男は、苦渋に顔を歪めていた。裏稼業になるまでも塵のように扱われたことは何度もあったが、そのどれにも当てはまらない屈辱を覚える。単純な〝力〟以外の全てでねじ伏せられた。


「貴方はこの先も一生その滑稽で醜い惨めな姿でただ黙って逆らわず私の傍らに立っていれば良いの。それだけでみぃんな貴方を見るのだから。……ほら、今だって」

ね?と、涼しい声で語る女王の最後の投げかけに男は咳き込んだ顔を顎の涎も拭わず上げる。

見れば、女王が男の歯を捉えた瞬間から衛兵の誰もが槍を男へ構えていた。いつ男が暴れ出すかもわからない状況に、侍女も女王の身は案じずとも顔を青くする。そんな中、男は初めて彼らの視線が不気味に刺さった。

今まで当然のように受けていた視線が急激に刃のように鋭く、そして胃の中をひっくり返すように不快だった。

最後に女王を見れば、にっこりとわざとらしい笑みを返された。

侍女が震える手で差し出したハンカチを受け取り、指の一本一本丁寧に女王は拭う。

男へ己の立場をこれ以上なくわからせた彼女は、もうそこからはまた興味を外した。侍女に手を洗う為の水も用意するように命じ、さっきまで自分の指を噛み切ることもできた男の膝を当然のように再び足置きにし、そして別の侍女には菓子と茶の用意を早めさせた。


女王の異常さをその身をもって思い知らされた男は、もう自分から口を開く気にはならなかった。





……





「ねぇ?下僕さん。あれからもう二日かしら、全然喋らなくなっちゃったわね?」


ちゃぷん。

水音が響く中、女王は浴槽に足を伸ばしながら投げかけた。

男に自分の立場を思い知らされてから二日。最初の三日間が懐かしいと女王が思えるほどに、男は自分から全く口を開こうとはしなかった。

逐一男を黙らせるのは面倒だったが、その度に嫌々自分に従い口を閉じる男の顔を見るのはそれなりに気分が良かった。なのに、あれから二日経ってもずっと男は飲食以外で口を開かない。


セドリックに会わせた時に「もう異国の奴隷を?」と男を見て彼が勘違いした時も、皇太子に「女王陛下とはどのような夜の営みを?」と圧をかけられても口を開こうとする素振りすら男は見せない。

ステイルや騎士達のように逆らう気力も折れたのならば諦めもついたが、そうも見えない。あくまで態度や表情は最初と変わらないまま、口を閉じたその姿は彼からの「話をしたくねぇ」という意思表示だった。

こうして浴室にいつものように連れ込んでも、変わらず扉の傍に寄りかかり口を結び睨んでくるだけだ。


そして男自身、本気でもう女王と会話はしたくなかった。

二日前に女王から答えを得てからは、改めて自分の容姿を呪いはしたが今更落ち込む気にはなれない。ただ、自分が子どもの頃から受けていたこの視線を、女王は身代わりを立ててまで逃げたかったということに口には出さず心の底で見下した。

これほど悪女を気取るような女が、結局人の視線を気にしているのだから。

どんな形であれ女王のこれ以上ない力の差とそしてその底を知れば、もう自分もまた女王に興味も持たない。取り敢えず女王が死ぬか、奇跡的に逃げる隙か殺す隙を得るまでは望む通り傍に立つことに徹した。少なくとも飢えて死ぬことはない。


今も、既に上から下まで見慣れた女王の肌を透き通った湯越しに眺めても、人外を眺めている気分にしかならない。

口さえ針金で縫い留められていればこの上なく好ましい身体の女だと男は思うが、その中身に入っているのはバケモンだと結論付けていた。二日前の一件からは、ベッドで寝息を立てる女王を見ても襲う気にもならなくなった。寝顔がいくら美女でも食指は伸びず、今は殺したいとしか思わない。

そんな男の心情までは考える気もなく、女王は軽やかに笑いながら湯を肩に掛け振り返る。


「そんなむくれないでよ。本当のことを言っただけじゃない。……ほら、もっと近くにいらっしゃいな」


反省のかけらもなく、寧ろ煽るように言いながら浴槽の淵に肘ごと腕を置く。浴室にも関わらず服を着たままの男を呼び寄せる。

二日ぶりの命令に男は眉を寄せたが、それでも言われた通りに歩み寄った。歩く度にぴちゃぴちゃと足が濡れた床で音を立て、そして木霊する。

自分に話すなと命じたわりには、自分よりも女王の方が三日しかその沈黙に耐えられていない。自分から話しかけ、命じ、強制的にも距離を縮める。そういうところは十八のわりには寧ろガキだと頭の隅で考える。城下のすれ違った市場の子どもが、親に構え構えと甘え騒ぎ立てていた時の姿を思い出した。


浴槽で寛ぐ女王と、そして佇む自分では完全に自分が女王を見下ろす体勢になる。ちゃぷちゃぷと女王が浸かる水面を眺め、このまま自分が頭から押さえつければ殺せるんじゃないかと少し思う。今ならば邪魔するのも侍女しかいない。脅せば衛兵を呼ばれず済むかもしれない。

そんな殺意もまじった眼光も、女王は見上げながら臆さない。むしろ嬉々とした表情と、湯で血色の良くなった頬で「もっと低い位置まできて」と命じる。仕方なく腰を落とせば、呟きすら木霊する浴室で女王は薔薇色の唇を彼へと動かした。


「貴方のこと、私は気に入っているわよ?」

はぁ?と、男は音には出さずまま片眉を上げ女王を見た。

浴室で、裸の美女に言われれば本来意味深や誘いにも捉えて良い言葉だが、もう男には女王をそういう目で見られない。

どうせまた自分が女王の身代わりとして役に立っているか、それとも醜い姿が惨めで良いなどそういった意味だろうと考える。女王が自分を見る目は、完全に裏稼業が商品にする前の人間を檻越しに見る目と同じだ。見下せるからこそ好意が持てる。

今回は表情だけでうっかりも声を漏らさない男に、女王は頬杖をつく。垂れた深紅の髪を反対の手で掻きあげ、もっともっとと人差し指の動きで男に自分を見下せない位置まで顔を近付けるように命じ、前のめりにさせる。


「だぁって、貴方はこんなにも醜くてどこからどう見ても善人になんか見て貰えない。人は見た目に囚われないなんて全部嘘。善人ぶったジルベールや騎士団長だってそうだったでしょう?」

レオンも、セドリックも、ステイルも、アダムも。そう続ける女王の言葉に、男は今日まで強制的に会わされた男達を思い出す。

その言葉の通り、比較善人の皮を被ろうとしている老人の宰相や騎士団長ですら、女王と共に立つ自分を見る目は他の誰もと同じだった。

騎士の中には女王よりも自分をジロジロ見る男達もいた。まさか七年前のアレをまだ覚えているような奴がいるとも思えない。あの時に崖地帯に居合わせた騎士は全員死んだのだから。まさか生き残りがいるとも、他にあの場を覗くような方法があったとも思わない。

当時アネモネから聞き出した騎士団新兵の特殊能力にどんなのがあったかも男は覚えていない。

そして、今だけは女王の言葉に男も心底同意だった。この姿で生きてきて、考える必要もないくらい思い知らされた事実だ。

そして逆に、見てくれがどれほど良くても中身で全てをひっくり返す女も目の前にいる。


「生まれた国で、そのどこにも行き場がない。誰も貴方を求めないし貴方が死んでも悲しまない。憎まれはしても愛されない」

ぴちゃり、ぴちゃりと。溢れる水面が零れては音を立てる。

湯気に覆われ閉ざされた空間は女王の毒ような言葉を広げ反響させるが、男には大して響かなかった。

女王が今まで毒を注いできた彼らと男は違う。愛された記憶も恵まれた環境もあった彼らと違い、男は女王に言われる前からその全てを持ち合わせていない。

深紅の薔薇の花びらが浮かべられた水面に胸まで浸らせながら、頬を紅潮させる女は男の目にはまるで血の桶に浸っているようにも見えた。

謳うように語る女王の言葉を聞きながら「それがどうした」という言葉を男は静かに飲み込んだ。もう彼女とは一言も言葉を往復させる気はなかっ












「おんなじだもの」











は?

そう口の動きだけが俄かに開いたのと同時に、前のめりにしていた身体がそのまま細い手に胸ぐらと肩を掴まれ引き込まれた。

濡れて滑る足場と、前のめりの身体。そして湯気の曇った視界に不意を突かれた言葉の全てで男は飲まれた。浴槽へ引っ張り込まれ、倒れ込むように湯舟に落ちる。

王族しか浸ることが許されない最高級の浴槽が大きく波立ち、水飛沫が上がりそして男一人分の水が浴槽から溢れ追い出された。

もともと二人程度が入っても余裕の広さだったが、男が溺れるほどの深さはない。ぶはっ‼︎と顔面から浴槽に沈んだ男はすぐに命の危機を感じ顔を上げた。自分が何度か考えたように上から押さえつけられれば女の力でもひとたまりもない。

しかし、男が顔を浮上させても沈めようとする手はどこにもなかった。寧ろ


「アッハハハハハハハハハハ‼︎‼︎ハハハハッ‼︎きったないわねぇ!お湯が全部濁っちゃったじゃない!」


どんだけ汚れてるの?と心から馬鹿にしながら指差し笑う。

女王の嘲りに男は目を向けるどこではなかった。焦茶色の髪が前に垂れ、まず視界から苦しい。片手で前髪ごと全て背後に掻き上げ、目に入った水を擦り拭う。

どれだけ汚れてるもなにも、男は人生で湯浴みどころか水浴びしかしたことがない。それを着古した服ごと浴槽に突っ込まれれば、湯が濁るのは当然だった。


初めての入浴を楽しむ余裕もなくやっと視界がまともになり目を鋭くさせ女王を睨めば、今まで見た中で一番の爆笑顔だった。

泥水の中で真裸で燥ぐ姿は、いっそ池や湖で水浴びをする子どもと変わらない。

無事呼吸も確保された中、食い縛った歯の隙間から息を大きく吸い上げた男はそこでやっと「ア゛ァ゛⁈‼︎」と侍女達の耳をビリビリ振るわせる声量で怒鳴った。

しかしそれも女王は歯牙にも掛けない。いくら怒鳴られようと睨まれようとも自分が笑いたいだけ笑った後は、侍女に新たに綺麗な湯を用意するように命じた。

自分が予想したよりも泥に近い色まで濁った浴槽に浸ったまま、思いつくままに手元の石鹸を試しに男の顔面へ擦り付けた。当然汚れは落ちてもあとは目に石鹸が入るだけだ。

やめやがれっ‼︎と目の痛さに怒りのまま男が女王の手を払えば、つるりと石鹸が浴室の壁まで飛んでいった。

目の石鹸を落とすべく泥湯で顔を濯げば、その間に女王の方が先に浴槽から上がる。

侍女が用意した綺麗な湯を頭から浴び直し、長い深紅の髪を自分で絞る。再び頭から洗い直すべく侍女が一から用意を始めるが、女王はそのままタオルを求めた。

おい‼︎‼︎と沈黙の命令も忘れ、怒鳴りながら女王を追うようにずぶ濡れで浴槽から上がる男には見向きもしない。




「もう良いわぁ。城から出て行きなさい?」




アァ⁈

女王の意味不明な言動の連続に唸ったが「聞こえなかった?」と軽やかな声で返された。

命令通り侍女達によって女王が身体を拭かれる中で、男一人が全身を滴らせたままだった。当然タオル一つ差し出す者もいない。

よりにもよってこの状態で城から放り出す気かと、最後まで弄ばれたことを確信しながら男は水分を含んだ袖を絞る。

嘘か、それとも飽きただけか。しかし飽きたなら殺さない理由がない。どちらにせよ、女王の意志がどうであれ浴室外に控える衛兵達にも女王の口で解放を言われない限り容易に出ていけない。


女王が髪をとかれ一枚一枚下着から衣服を纏う中で男もその間になるべく衣服を絞った。袖を各所絞るだけでは足りず、一人悪態を吐きながら上も下もそれぞれ纏めて脱ぎ床へ一度叩きつける。

踏みつけてから拾い、渾身の力で絞れば不意に「あら、良い身体」と女王に振り返られた。

フッと馬鹿にするように鼻で笑われ、男は脱いだ服からナイフを投げつけようかと本気で手を滑らせた。しかし折角解放されたのにここで殺されるわけにはいかない。仕方なく絞りきった服を再び着直すが、それでも女王の長い身支度は終わらない。

「まだ出て行かないの?」とどうでも良さそうに言われ、すかさず外の衛兵にもそれを言われないと殺されると伝えれば、ああそうだったわねとやはり何も考えないような相槌を打たれた。


「でも早く出ていった方が良いわよぉ?逃げ遅れたら死んじゃうかもしれないから」

「アァ⁈どういうことだ⁈」

言葉のままよ。

そう告げ、女王はまた一枚袖を通す。着替えを手伝う侍女達も理解できず目を丸くする中で、女王は落ち着き払っていた。「手が遅いわ」と侍女の手が鈍ることに棘を刺しながら、今は背後で濡れ鼠になった男の言葉だけに耳を傾ける。


「これから上層部が死ぬ。そうなれば城内は混乱で敵も味方もわからなくなる。衛兵も、駆けつけたら騎士団も。第一に異端な貴方を疑い、粛清するでしょうね」

上層部というのが誰のことを指して言っているのかもわからない。だが、女王が流れるように語る言葉が侍女にも男にも嘘には聞こえなかった。

濡れたこととは別に、全身の血がひやりと冷たくなっていくのを感じながら男は喉を鳴らす。

侍女も、頭の中では「予知でしょうか」「上層部が狙われるなら今すぐ騎士団に」と舌の根まで言いたい言葉が湧いたが、口にはできなかった。そんなことを意見する許可を与えられてはいない。喉が異常に乾くのを感じながら女王が求めるままに香水を用意した。

泥湯の匂いを掻き消すようにいつもより多めに花の香りが吹きかけられる。


「あの子が帰ってくるのよ。結局貴方達の代替えの裏稼業も役立たずだったわ」

服は身支度を終え、最後に女王は用意させておいた剣と銃をそれぞれ携える。

今朝から何故か女王が入浴前に用意させていた武器が、誰を殺す為のものか用意した使用人達は誰も知らない。

意味がわからず目が丸くなる男を横目に、彼女は生乾きの髪を徹底的に乾くように侍女達に拭かせ、扇がせ、梳かせた。更には侍女の一人へ今から名前を呼ぶ男達を即刻全員自分の部屋へ集まらせるようにと急ぎ伝言を命じた。

中には城の上層部に数えられる摂政や騎士団長も上げられたが、それは決して上層部を守る為ではない。


「だからもう貴方は邪魔なの。貴方を守ってあげるほどの暇はないから」

「ハッ。そりゃあつまりはお優しい女王サマがわざわざ俺様をお救い下さるって話か?」

「この私がそんな女だとで思う?」

ギラン、と。

女王の剣が前触れもなく一瞬で男の喉元へと突きつけられる。

突然生じた刃に喉を反らす男は、鼻で笑う余裕も殺された。冷ややかな女王の眼差しを睨み返しながらも、ゆっくりと半歩下がるべく足を後ろに下げた。

当然男も、今更女王がそんな慈悲を与える女だとは毛ほども思っていない。彼女の髪を懸命に乾かし手入れする侍女に憐れみをかける方がまだ納得できる。


「役立たずは必要ない。貴方は弱い。だから足手纏いになる前に捨てた。……おわかり?」

言いながら、最後は蔑むように薄い笑いを浮かべて見せた。

女王にとって、男が自分の身の回りで侍女の次に弱い存在だと最初からわかっている。

寝ている自分にも、裸の自分にも命を狙う度胸もない。それが優しさではなく、ただただ男が女王を殺してからその後を切り抜ける実力も自信もないから。たかたが衛兵数人にすら勝てる見込みのない程度の男の実力など知れている。

だからこそ今手放すと、今朝から決めていた。

女王は自分の実力には絶対的な自信がある。神に選ばれし予知能力者である自分がその剣と銃を持ってして負けるわけがない。だが、自分一人は生き残る絶対的な自信がある女王も、〝自分以外を〟生き残らせられるとは思わない。

自分の剣の才も銃の才も特殊能力も全ては自分一人の為だけに存在するのだから。

弱者扱いされ不快に顔を歪める男だが、同時に疑問も浮かんだ。自分が足手纏いになるのはわかった。しかしならば尚更何故女王は殺さないのか。

口を結び、沈黙で答える男に女王は乾いた深紅の髪を耳に掛け笑った。


「明日からは代わりがいくらでも〝輸入〟できるようになるから。喜びなさい?近々貴方と同じ肌のお仲間もたぁくさん仕入れてあげる」

アハッ、と短い笑いを零す女王は目が爛々と輝いた。

まるで人身売買のような発言に、男はここ最近の女王周囲の会話を思い出す。殆どがその場に居合わせるだけで大して頭に通さず聞き流していたが、フリージア王国がラジヤ帝国と同じ奴隷生産国へと変わろうとしていることはうっすらと理解していた。

裏稼業で生きる自分からすればこの上なく都合が良い。人身売買が正当化されるだけで商売も今よりずっとしやすくなり、そして大手を振って商品を運べる。

やはり目の前の女王は王族よりも自分達裏稼業側に近い生き物だなと思考する。その瞳の輝きは単純に政治を考えてではなく、ただただ狂気を孕んだ悦楽だった。

奴隷生産国として奴隷の使用を推奨すれば、当然王族も城も奴隷を使用するようになる。

そうすれば女王もまた、いくらでも奴隷を仕入れることができる。奴隷大国の皇太子も手中である以上、女王は自分好みの奴隷を世界中から集めることができる。当然、目の前の男と同じ肌の色で、更に醜く見すぼらしい男も女も子どもも老人も何人でも自分の手元に並べられる。もう、目の前の褐色肌一人に拘る必要などどこにもなかった。

最初からそして今この瞬間まで。女王は目の前の男を手放すことに何の躊躇いもなかった。勝手に逃げられれば殺せば良いと思っていたが、自分が不用品として手放すこと自体に躊躇はない。明日からは代わりがいくらでも手に入る。

邪魔になれば手放す、捨てる、処分する。それは今まで当然のように行なってきた常識だ。手放すことは惜しくない。そこまでの執着を覚えない。どうせこのまま上層部が死に、ティアラとジルベールに誑かされた衛兵が銃を向けて来れば自分は死なずとも無力な男はあっさり犬死にする。今手放すかこの後見殺しにするかの違いでしかない。代わりはいくらでも輸入し補充できる。ここで手放すことを決めたのはただ単純に













「……死なせるのは少しだけ惜しいから」













「アァ?」

ぽつりと、今まで聞いた女王の声でどれよりも小さいそれを、男は拾わなかった。

片眉を上げ聞き返したが、女王は妖しくほくそ笑むだけだった。乾き手入れの終えた髪を軽く払えば、真新しい花の香りがその場に広がった。噎せ返るような甘い香りは、女王が庭師を突き飛ばした薔薇園を彷彿とさせる強い香りだった。

身嗜みを全て整え終え、そこで爪の長い指先をパチンを鳴らす。次の瞬間には黒髪の摂政が何もない空間から姿を現した。

無言のまま死んだ目で女王を見つめ返す青年は、まだ衛兵から女王が呼んでいると報告も受ける前だった。それよりも先に聞こえた女王の呼び出し音に、自分の意思とは関係なく誰よりも早くはせ参じた。


「ステイル。この下僕を下級層に送り返してちょうだい」

もう要らないから、と。軽やかな口調で続ける女王に、摂政も頷きで答えた。

意外に飽きるのが早かったなとだけ考えながら、何の情緒も持たず意思も確認せず男に触れる。殺さないのは意外にも思えたが、つまりは女王の〝お楽しみ〟にも及ばない男だったのだろうと結論付ける。それでも剣を携える女王についでで斬られなかっただけ運が良い男であるのは間違いない。


女王も扉へと向かい男には見向きもせず、そして男も何が起こるかも理解する前に視界が切り替わった。


絞っただけのずぶぬれの衣服のまま、王宮の浴室から見慣れた下級層へと変わる。

周囲を見回し、瞬きを繰り返しながら男は自分の居場所を確認すべく足を前後に動かした。城にいた短期間に、あの摂政の特殊能力自体は知っている。しかし、あまりにあっさり城から追い出されたことに思考がついていかなかった。

空を見上げれば城の一部が建物の隙間から目に入る。間違いない、フリージア王国の城の一部だった。

結局は生き残った。あの化物の城で何日も女王と共に居てそれでも生き延びた。こうして城門を通さず一瞬で自分の居るべき場所に戻されれば、この数日がただの夢だったかのうようにも感じてきた。

濡れ切った髪をガシガシと掻き、今が冬ではなくて助かったと男は思う。本当に最後の最後まで子どもの玩具のように弄ばれ躊躇いなく捨てられた。綱渡りのようなあの時間が現実だったと示すのは濡れた衣服とそして。


「…………クソが」

掻き乱した頭から手を降ろせば、指の隙間に深紅の髪が二本絡まった。

浴槽の中で引っ掛かったのかと思いながら湿り気で指にへばりつくそれを反対の指で摘まみ上げ、舌を打つ。城の位置と、大通りに出れば大体の自分の場所も正しく把握できた。今のところ、城下に異変はない。

女王のあの発言が本当かどうかも、もう自分には確かめようがない。ここまでくれば、結局適当な言葉ばかり吐かれただけな気もしてくる。

明日の朝にでもなれば城下に噂でも広がっているかと考えながら、男は今夜の寝床を探すことにした。城にいる間は何の金銭も与えられなかった為、今自分は手持ちがない。

城下で仕事をしていた彼はそれなりに顔も通じ思い当たる場所はあったが、自分の一味は大半女王に殺されている。あとは下っ端が残されているかもしれないくらいだ。どちらにせよ役には立たない。


男もまた、城を追い出されたことを惜しいとは思わない。

女王は化物で、そしていつでも自分は殺される立場にあった。あのまま一生醜い生き物として生殺しされるのもまっぴらだ。

情けない王配や金色の王子のように妙な執着を持たれる前に追い出されて良かったと思う。結局最後の最後までトチ狂った女王の真意も、人らしい感情も見出すことはなかった。

上層部が殺されるならあとはその犯人を女王がその手で殺して終わりだ。

あの言い方からして逃げた第二王女か宰相が上層部の誰かを殺すのかと考えれば、結局どの王族も同じようなもんだと思う。明日には逃げた第二王女の首が城門にでも飾られていると思い浮べ、城とは反対方向へ踵を返していった。下級層の奥の奥、裏通りの方角へ。


深紅の髪を、服の内ポケットへ拭うようにして突っ込みながら。


最後まで女王に名前も呼ばれなかった男ヴァルは、二度と城へ近付きはしないと静かに決意した。




……





「さぁてと。時間ね」


摂政を連れ歩き、女王は優雅な足取りで一方向へ向かい歩く。

女王がどこへ向かっているのかは誰もわからない。いつもより早い湯浴みを決めた女王が、また勝手気ままに予定を変えただけである。

まさか、上層部が人知れず集まった会議室へ迫っているとは誰も思いもしない。摂政すら、そんな場所に上層部が集められていることはまだ把握していなかった。

上層部同士が集まり、話し合いの場を作ることは珍しくない。今回はその全員が集まっていたが、それも情勢上当然のことだった。この国の第二王女が見つかればその日から自国は奴隷生産国になるのだから。

一体どうすればと、女王に与するか不可能に違いない説得を試みるか。それとも第二王女の味方となるか。上層部同士でひっそりと行われていた国の先を案じる議会に、最上層部は最初から招かれていない。


この先の運命を、女王は十年前から知っていた。ティアラが現れ、彼女が声高に上層部の前で演説し誰もかれもが彼女を支持し、呼び出された自分がその光景を前に佇む未来。

そして今朝も同じ予知を見た。ティアラが今日帰ってくるのだとそれは確信だった。予知した未来に映った時計の針と、そして自分が予定に組み入れていない筈の議会。

この扉の先に彼らがいれば。それは間違いなく今日の〝予知〟だと。

連れた衛兵の手により、扉が勢いよく開かれる。途端に議会の椅子に座していた者達は誰もが騒然と振り返った。瞼を無くし、顔を蒼白にして女王を見る。

女王陛下、と彼女を呼び急ぎ椅子から立ち上がり低く低く頭を下げたが、女王からは何も返されなかった。言い訳を先に繋げるべく弁の立つ上層部が口を開く。


「ちょうど良いところにいらっしゃいました。ちょうど今、ティアラ第二王女殿下の捜索方法について皆で模索しておりまして」

女王は、知っている。ティアラ捜索ではないと。自分に平伏し続けて来た彼らは全員ティアラを祭り立てる為にここにいるのだと。

全てを、この先の未来を全て知った上で優雅に笑う。誰よりも優雅に、そして王者の笑みで。


「そんなの必要ないわ。ティアラならもう城門を通った頃じゃないかしら?」

とぼけながら簡単なことのように語る女王に、誰もが息を飲んだ。

まだ結論にも及ぶ前にティアラが女王に見つかるどころか帰ってきてしまった。捕まったのか、自分の意思で帰って来たかはわからない。どちらにせよ、もう歯止めは聞かなくなった。誰も女王を止められない。

それは良かった!と表向き笑い合い、予知でしょうかと尋ねる上層部に女王は唇を結んでにこやかに笑んだ。彼女が見せる中では最も綺麗に属する笑みだ。

別段、彼らが呆けることに腹は立たない。どうせ十年も前から知っていた裏切りだ。

いくら恐怖で縛り自分の力と価値を思い知らせてやろうとも、愚かな彼らは神に選ばれし特殊能力者の価値も偉大さもわからなかった、ただそれだけだ。

今朝の予知からこの未来は変わることなかったこともこの時がくることもずっと知り、だからこそ男を手放すことを決め、だからこそ武器を用意させ、だからこそ自分に抗えない力を持つ者に収集を命じ、だからこそ




上層部の血に塗れる為、早々に身を清めた。




「久々の愚妹を歓迎する準備、始めなくちゃね?」

バタン、と。女王の命令により分厚い扉が閉じられる。

命令がない以上無駄に血で汚れたくないと摂政が部屋の隅へと移動する中、女王は静かに剣を鞘から抜いた。

甲高い女王の言葉に、最初はええ是非と言葉を合わせていた上層部達も事態の違和感に次第に目を泳がせ滝の汗を流す。

唯一の退路が閉ざされ、女王が剣を取り、そして、この上なく邪悪な笑みを浮かべている。

ニタァァァァアアアア、と裂くような笑みで上層部を眺める彼女は心が浮き立った。楽しくて楽しくて、わくわくして堪らない。あの予知した未来をいま、自分の手で変えられるのだから。

上層部を皆殺しにすれば、ティアラを女王として支持することもできなくなる。そうすれば自分が女王のままだ。

しかし上層部全員の死が露見すれば、国中の権力者達もとうとう黙ってはいられなくなる。それどころかまず先に城中にいる人間が、〝自分がそうなる前に〟と帰って来たティアラを女王として挿げ替えるべく動くに違いない。

上層部を殺したその時、きっと城は一時的に革命の意思に包まれる。ティアラという前女王の面影に都合の良い夢を託し、女王を討たんと幻を見る。だがそれもほんの一時だけだ。ティアラを殺せばもう自分の代わりはいなくなる。

上層部の死も全てティアラに罪を被せれば良い。帰還した第二王女が上層部を殺し、叛逆を謀ったと。そうして明日にはフリージア王国は奴隷生産国として生まれ変わる。

剣を手に、女王は歩む。衛兵にも、騎士にも、摂政にも、婚約者にも、美しい王子にもこの時間は譲らない。他でもない自分の手で裏切り者共を処刑する。



「さぁ、パーティーを始めましょう」



悲鳴と、断末魔。

紫色に光る眼光を前に誰もが裏切りの血に塗れ、そして女王の笑い声がそれを何度も何度も上塗った。


Ⅰ471.472.523.531.


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