表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
フリージア王国備忘録<第二部>  作者: 天壱
頤使少女とショウシツ

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

465/1000

Ⅱ304.子息だった青年は見つける。


「……目が覚めましたか」


消え入りそうな微かな呻きに、静かな声が掛けられた。

呻きを漏らした本人は、その声を最初はまだ夢心地で聞き取っていた。薄目こそ開いているものの、何故自分がこんなところにと見知らぬ天井を前に思う。

聞こえた声に聞き覚えがあることまではわかったが、誰かとまでは思考が及ばない。それほどまでに、自分の中にある〝彼〟の声色とそれは別物だった。

仰向けになったまま、薄目をぼんやりと声のする方へと向ける。窓から薄ぼんやりと夕陽が掛かり、時間だけが経ったのだとを理解する。

ベッドの横で椅子に腰掛けていた男性のシルエットを確認すれば、やっと大きく目が見開かれた。段々と思考の霧が晴れ、その人物だけを捉える。

引き摺られるように過去の記憶と先程の再会とが混ざり合う。夢ではなく現実なのかと思えば、喜んで良いか落胆すれば良いかもわからない。自分はこんな再会を望んでいなかった。


「ライッ……」

思わず口につき、そのまま上体に力を込め起き上がる。

掛けられていた薄手の毛布がペラリとずれ、レイの重心が変わっただけでベッドが短い悲鳴を上げた。上等な上着も脱がされ服掛けに吊るされた彼は身体も今は身軽だ。

目を丸くするレイに、椅子の上で寛いでいた男性は柔らかく笑みを向けた。先ほどは突然貴族に怒鳴られ、殺気まで向けられた彼だが、今は自分でも驚くほどに怯えはなかった。


むしろレイの方が、途絶える直前の記憶がライアーへの憎悪だったことに自分で口を噤んでしまう。

どうしてさっき気を失ったのかはわからない。ただ、あのままだったら自分の意思に関わらず、本当に特殊能力でライアーを殺していたかもしれないと思えば身の毛がよだつ。彼に腹を立てていることは変わらないが、決して殺したいわけではない。

口の中を噛み、一度顔ごと逸らしてしまう彼は感情の折り合いもつかないまま寝起きのまま垂れた髪を掻き上げた。顔の左半分を隠す芸術的な仮面がカツンと指に軽く引っかかる。


「私の部屋です。先程騎士様に運んで頂きました」

トーマスと自身を認識する彼は、今は雇い主から狭くも自分だけの一室を提供されていた。夏は暑さが滲み、冬は身も凍る屋根裏部屋だ。だがもともと従業員の為に改装を施された部屋は、大人一人なら決して住みづらくはない。

平均より長身のライアーには頭をぶつけやすいが、それ以外は何の不便も彼は感じない。何より今の生活を〝窮屈〟か比較するだけの記憶もないのだから。

記憶もないのに自身の食事と住処も提供され、賃金も少なくも発生はする仕事を紹介されただけ運が良いと思う。足先がはみ出るベッドも古びた机も椅子も、生活をしていく上の最低限は揃えられている。


ざっと部屋を眺めるだけで、レイもその程度は理解した。

自分の知るライアーの生活と比べれば、ずっと恵まれたものでもある。あの頃は住む場所すら安住の地を作らなかった。

そんな彼が今は部屋と家具と仕事にありつけている。冷え切った頭で考えれば、喜ばしいことでもあった。が、……どうしても喜べる気にはなれない。


「…………」

顔ごと逸らし、シーツの上の手を握り締める。

今の彼は喋り方も笑い方も全てが、自分の知るライアーとはあまりに別物だった。直視するだけでまた先ほどのように感情が暴れ出しかねない。

あそこでライアーを攻撃しかけたことも、彼がやっとありつけた仕事場を消し去りかけたことも今は悔いている。

記憶がないのなら特に、見ず知らずの男である自分に何を言われようと迷惑でしかないことも理解する。その上怒鳴り憎み殺しかけるなど、謝罪しない理由がない。だがそれでもレイは今のライアーに謝りたくはなかった。


口をつぐみ、奥歯を噛みしめ感情を抑えるように黙するレイに、トーマスもまた責めようとは思わない。

自身の膝上に両手を重ね、目の前の青年に攻撃の意思がないことを音には出さず安堵した。

部屋の外には控えてくれている騎士もいるが、やはり先ほどの特殊能力を見ても自分では一撃で殺されてしまうだろうと思う。

三十秒、五分、二十分、と。いつまで経っても沈黙を貫き通そうとするレイに、ライアーは考えていた言葉をそっと声に出し、問い掛ける。


「思い出して欲しいですか」

「当たり前だ。……俺様は、何年もお前を探していたんだ」

「ええ。……ジャンヌ達からいくらか聞きました」

静かな声に間髪入れずに返したレイに、どこまでもライアーは落ち着いていた。

ジャンヌ達と。その言葉にレイは隠さず舌を打つ。

あの女、と思いながらも同時にだからコイツは平然と俺様と対峙しているのかとも思う。そうでなければ突然殺しかけてきたような相手にノコノコと二人きりになるとは思えない。自分の知るライアーは抜けているように見えて、この上なく用心深い男だったのだから。

そこまで考え、……今、すぐそこにいる彼はもうライアーではないのだと思い出す。肺に激痛が走り、心臓がそれだけで容易に絞られた。噛み締める顎が力を込めすぎ僅かに震え出す。

〝トーマス〟から顔を逸らしたまま、感情を押し殺すレイに彼は未だに表情は柔らかだった。


「……聞かせてくれますか。私と、貴方のことを」

ぴくっ、と今度は肩が揺れた。

もうジャンヌに聞いたんだろ、というよりも先に別の疑問が頭に浮かぶ。

あの時は頭に熱が回っていたが今は違う。トーマスの現状について、ある程度心の整理がついた。ジャンヌから聞かされた彼が、どうして記憶を消したのか。その察しがつかないほど馬鹿ではない。

人身売買リストを探させるよりも前。学校へ手を伸ばすよりも前から、ライアーが人身売買に捕まったかもしれないとは考えた。そして、〝そう〟なった人間がどうなるかについてもくまなく調べた。だがライアーがそれくらいで記憶を閉じるようなヤワな人間ではないと気にしなかった。


しかし今、トーマスと名乗る彼にライアーとしての過去を語ることが危険かもしれないことを理解する。

なのに自ら尋ねてきたトーマスへ驚愕に見開いたレイは、ゆっくりとそのまま顔を向けた。

トーマスが予想していた通りの表情をしていたレイは、二度は聞かなかった。代わりに瑠璃色の眼が真っ直ぐと合わせられる。

まだ自分が奴隷被害者だと知らない筈のトーマスだが、それでも肩を竦める動作で簡単に返してみせた。


「大丈夫ですよ。悪行を重ねていたことくらいはもうわかっています。裁判に掛けられたことは覚えていますから。……結局、どんな罪で捕らえられたかはわからないままでしたが」

トーマスの記憶。今もはっきりと思い出せるそこで記憶を失い、呆然としていた自分は告げられた罪状ところか現状もあまり理解できなかった。ただ、わかることは自分が記憶喪失であることと特殊能力者であること。そして女王直々の温情で許され、こうして生き直す場まで与えられたこと。

訳もわからずとも波風を立てないように周囲に合わせるまま頷き従った自分は、何もせずともわからずともこうして人らしい生活を提供された。

罪人にも関わらず、下級層よりは良い生活だと思えば逆の意味で疑問すら浮かんだ。


「むしろ願ったりの機会です。折角こうして私を……〝ライアー〟を探しに来てくれたのですから。それに、ジャンヌ達の話を聞いたら余計に興味も湧きました」

明るい茶飲み話のように言うトーマスは、やはり自分の知るライアーとは全く違う。

自分と出会わなければ、……その前に、裏稼業という世界に身を浸さなければ、本来はこういう人間だったのだろうかとレイは思う。いっそ全てが嘘で塗り固められていたあの男なら、最初から本来の姿がこっちだったとも思えてしまう。だとすれば、自分はあの二年間ずっと本当の彼を見せてもらえず終わってしまった。そして、……ライアーはそんな相手の為にあの時命すら掛けたのかと。そう思えば内臓全てが鉛のように重く、鈍痛を叫んだ。


「……。ライアーは、下級層で……裏稼業で生きていた」

「…………そうだと、思いました」

罪悪感に引かれるように、レイはとうとうトーマスの希望に答え出す。

今目の前にいる彼が望む以上、自分はそれを言うことでしかこの鈍痛も軽くならない。僅かに眉を垂らすトーマスの顔に、また直視が耐えられず目を伏せた。

見覚えもなければ、自分の知るライアーとかけ離れたその顔は気持ち悪い。いっそ自分よりも彼の顔に仮面を被せたいくらいだった。


「俺様は、…………一度捨てられ路頭に迷っていたところで拾われた」

〝棺桶〟〝荷馬車に押し込められて〟〝人身売買に売る為に〟と、その言葉を口にすることも躊躇った。

相手が本人である筈なのに、トーマスに向けて〝ライアー〟や自分のことを正直には話せない。ジャンヌ達へ渡した資料にも詳しくは書けなかったあの時の惨めな自分は、未だ口にしたくない過去のままだ。

レイの言葉に目を一度丸くしたトーマスだったが、すぐにまた緩めた。やっと話し始めてくれた彼の言葉一音一音に耳を傾ける。


「ガキだった俺様を女と勘違いした大馬鹿だ。ただ髪が伸びきっていただけでだ」

「それは、……失礼ですね」

ふふっ……、と思わず間抜けな話にトーマスは笑いを堪え、息を止める。

肩が僅かに震えながら、少しそういうところは自分らしいと思う。目の前に座るレイを見れば、顔半分だけとは明らかに男性的な顔立ちだ。こんな男前を捕まえて髪が長いだけで間違えるとはと、他人事のように呆れてしまう。しかし、子どもの頃ということは、小さい頃はこの青年とそれなりに可愛い顔をしていたのかもしれないなと今度は微笑ましい気持ちにもなった。少なくとも今の彼は、例え髪を伸ばしても女には見えない。


「拾った後もずっと他の連中には俺様を女だと言い振らしやがった。お陰で何も知らない連中に色目を使われ口説かれ大変だった。奴は天性の大嘘つきだ」

「⁇…………あの、どうしてそのまま女の振りを〝ライアー〟はさせて……?疾しい目で見られないように女性が男性の振りをするのならわかるのですが……」

「それはー……、……」

〝守る為〟そう理解したのはずっと前だった。

あの嘘がなかったら、誰もが裏切る冷たい裏稼業で自分はあそこまで存在を許されなかった。ライアーの所有物でありながら、足を引っ張っていてもつけ歩いていても、……隠していた火傷を覆う長髪を維持するにも。

誰にも不愉快に思われず、舐められながらも黙認された。あれが無駄に顔を隠す為に髪を伸ばしていた男の子どもだったら、ライアーの周りを彷徨いていた自分は誰かしらに疎まれていたと思う。

喋らず何もできずとも〝女〟で〝ライアーの連れ〟というだけで許された。疾しいことなどされるわけがない。自分の傍には四六時中ライアーがいてくれたのだから。


「……大馬鹿だからだ。奴は馬鹿で変態趣味の大嘘つきだ」

「…………ほんとに、とんでもない人間ですね……」

だが、それをここでわざわざ本人に語り聞かせたくはない。

どうせその答えを知る人間はもうこの世のどこにもいないのだから。

レイの言い草に、流石のトーマスも笑みが引きつってきた。自分が裏稼業で生きていたことくらいはまだ覚悟していたが、小さな子どもに女の振りをさせて楽しんでいたのかと思えば流石に引く。

しかもとどめを刺すように「変態趣味」と言われるのは、人を殺したことがあると言われるよりもショックだった。レイには申し訳ないが、やはりこのまま生き直した方が自分は世の為人の為になるのだろうとまで考える。


「話し方もそんな口じゃなかった。寧ろ馴れ馴れしい上に煩わしい。こうしてお前に話される度虫唾が走る」

ははは……、と枯れた笑いしか出てこない。

若干またレイから殺気が溢れ、トーマスの頬を撫でた。額を少し湿らせながら相槌も出なかった。今の自分の話し方すら不快だと言われれば、さっきも知らず知らずに彼を煽ったのは自分なのだと静かに自覚する。


そんな男に拾われたのはいっそ運が悪かったとすら言えるんじゃないか、と。核心を尋ねてしまいたくなったトーマスだが、今は話さず舌をしまった。うっかり話せばまたあの黒い炎に自分の部屋が焼かれかねない。

そして実際、レイも苛立っていた。自分の中では全てが掛け替えのない思い出だった筈なのに、口にすればライアーを前に腹立たしい思い出しか出てこない。むしろ話す内容を選ぼうとすればするほど、恥ずかしい思い出ばかりが駆け巡る。

ガキだった俺様をひん剥きやがって、嫁だの娘だのふざけてばかりで、最初から最後まで考え無しに馴れ馴れしかった。俺様の意見も聞かず何度も他所の家に押し付けようとした上に、大体あの時もどうして俺様を騙し先に行かせたんだと




『レイちゃん』




ボロッ、と。

零れ出したのは突然だった。さっきまでトーマスを直視しないようにと俯き気味に伏せていた顔から、大粒がひとつ毛布を濡らした。

一瞬、トーマスは見間違いかと思った。だが、彼の膝には間違いなく毛布が湿った跡がある。更には覆われた左半分からも仮面の下から顎を伝って、大粒が喉を濡らし出していた。



─ もう、いない。



「っ……」

顎が震えるほど歯を食い縛り、右手で鷲掴むように顔ごと目を押さえたが止まらない。

押さえた右手で止まる滴とは対照的に、仮面に覆われたそこは眼球以外触れられない。ボロリ、ボロボロと滴が浮かんでは手も届かず仮面の下を濡らし、伝って落ちる。

顎だけでは押さえきれず肩まで震え出す自分を恥じ、鷲掴む指に力を込め爪先が仮面を引っ掻いた。六年経って醜態を、よりにもよってこんな状態のライアーの前で晒すことが屈辱で仕方がない。何も言わないトーマスに苛立ち、恥じ、紛らわせるように声を絞り出す。


「……お前は、違う……‼︎お前はっ……ライアーじゃない……‼︎」

最初からわかりきっていた事実だ。

それを自分の口と意思で放った瞬間、胸に激痛を走らせたのはレイだけだった。口を結びただ聞くトーマスは、静かに一度目蓋を閉じて聞き入り何も返さない。

レイ自身、それをトーマスを突き放す為に言っているのか、自分を叱咤しているのかもわからない。

ただその事実が身を切るよりも痛くて、苦しい。


「ッ顔が似ているだけの別人だ‼︎どこを切り取ってもライアーじゃねぇ!俺様のことを覚えてないライアーなんざッ…………違う……!」

その通りだ。

それを誰よりもよくわかっているトーマスは、今度は無言で頷いた。俯き隠すレイの視界にはその動きも入らない。

隣に座っている人間がライアーなのにライアーじゃない。自分の中で彼をそうだと思える思考と、全くの別人と叫ぶ思考が混ざり合う。当時自分を真似た髪もいまは一本も染まっていない。地毛だった黒色の短髪だけだ。


今からでも、全部が嘘だとからかっただけだと言って欲しい。

ずっと会いたかった、見つけ出したかった、恩を返したかった。その相手がすぐ隣にいるのに、この六年間よりも寂しくて堪らない。

ただ俯いていただけの身体が背中も肩も前のめりに丸まっていく。喉が炙られたようにヒリつき手足が重い。気が付けば勝手に滴が、手のひらや仮面で受け止め切れる量を越えていた。

目の前の残酷過ぎる現実に、いっそこのまま溺れて死にたいとすら思う。何も言わずとも息をするだけで嗚咽が漏れ、ぐしゃりとした音が聞こえてくる。

自分の音だと思いたくなく、嘆きを音にすればやはり潰れた自分の声でしかない。


「ッなんで!忘れられるんだ‼︎そんな全部……たった二ヶ月だろ⁈…………たった……っ」

あと、二ヶ月早ければ。

そう思えば感情に後悔が混ざり出す。あとたった二ヶ月見つけるのが早ければ、ライアーはまだ記憶を閉じてなかった。自分が望んだ再会もできたかもしれないと思えば、肺が潰れるかのようだった。

隣にいるのが自分の知るライアーともそしてトーマスとも思えず、いっそライアーの死体が置かれているように思えてくる。それくらい、隣にいる存在がいる事が寂しい。希望もなく、ただ自分が今度こそ本当に一人だと思い知らされる。


うぐっ、ァッ……と、堪えきれない呻きのような嘆きに、トーマスは静かに眉間を狭めた。何故だかはわからない。ただ漠然と胸が絞られる。

それが自分より遥かに年下な少年が泣いているからか、どうやっても自分には彼の望む記憶を思い出せない無力さからか、……記憶にない筈の〝彼だから〟かはわからない。

話を聞いたところで、レイにとってのライヤーが具体的にどんな人物か想像するのも難しい。今、涙に暮れる青年にしてやりたいと思う事でどれが正解かもわからない。……ただ。


「…………仮面を、外して見せて貰えますか」

「っ……⁈」

呻きに掻き消されてしまいそうなほど静かな声は、レイにはっきり届いた。

聞き間違いかと思い、思わず手から顔を浮かせ見上げればそこには自分が知るライアーに最も近い、険しい表情があった。こんな表情を見たのはいつだったかと、記憶を自然と巡らせば初めて人身売買から逃げた夜のことを思い出す。いつもは飄々としていた彼が、自分も一緒に逃す為に緊張を走らせ険しい表情すら隠さなかった。

口を僅かに開けたまま何も言わないレイに、トーマスはさらに言葉を重ねる。


「ジャンヌに、頼まれました。……もし、出来ることならレイに見せて貰って欲しいと」

自分が頼んだことを話して良い、彼が拒んだらその時は構わないと。そうジャンヌの言葉を続けながら、レイの逆鱗に触れないように告げるトーマスの言葉に一度涙は止まった。

ジャンヌ、余計なことをと不満が感情の最前に立ち、顔を顰める。そこで馬鹿正直に自分へ頼むトーマスにやはり奴とは別人だと、沈みきっていた感情が僅かに波立たされる。

今の言い方だと、自分の仮面の下は知らないのだろうと思いながらそっと頭を鷲掴んでいた手を仮面へとずらした。つるりと馴染みのある無機物の感触を指先で撫で、外さず止める。

躊躇したレイに、構わずトーマスは言葉を重ねる。


「……「貴方しか知らないことを確認しなさい」だそうですよ」

ジャンヌからの伝言です、と言いながら険しかったトーマスの表情が僅かに緩んだ。

トーマスからすれば全く見当もつかない話ばかりでもある。まさかレイの仮面の下に秘密の暗号でも彫られているとでも言うのかと思いながらも、ジャンヌの目がこの上なく真剣だったことを思い出す。

気にはなったが、同時にこうして部屋にレイと二人きりにされた間も仮面の下を予め確認しようとは思わなかった。彼が隠し続けている仮面の下、そしてそれを自分がどう思うかはトーマスにとっても知りたいことだった。

過去を捨てこそしても恐れてはいないトーマスにとって、レイとの関係にはしっかりと向き合いたい。

それに、彼自身の感情としても疑問が一つ残っていた。レイに怒鳴られた時も、殺意を向けられた時も、腰を抜かし座り込んだ時も、戸惑い、怯え、焦燥した筈の自分がどうして




彼から、遠ざかりたいとは思わなかったのか。




トーマス自身、ライアーのことは知らなくてもトーマス(自分)のことは知っている。

レイの言う大嘘つきという程ではないが、何となくその場の空気を読んで流れに沿う感覚は当たり前のように根付いていた。どちらかというと〝流されやすい〟と思っていた自分の性格だが、過去のライアーがそういう人間だったと知ればまた変わって見える。

そんなトーマスは今の生活に不満がないことは事実だが、誰にでも心を開くわけでもない。人当たりが良くてもそれとこれとは別物だ。

過去の自分が罪人であれば、誰に恨みを買っているかもわからない。いつ、どんな形で復讐されるかもわからない。だからこそ他者と深くは関わらず広く薄く当たり障りなく、こうして中級層の端の端で慎ましく生きることは望むところでもある。

自分の過去を知るレイに関して興味は持っても、それ以上に特殊能力で攻撃意思を向けられたら逃げ出したいと思うのが本来は普通だ。あそこで命乞いするか、助けてくれと覚えのない謝罪をするか、逃げるか。どれにせよ選択肢は他にもあった。

しかし、あの時は何となく目の前で怒りに燃えるレイを遠ざけてはいけない気がした。あの黒い炎は脅威に感じてもレイを置いてはいけなかった。

単に目の前の貴族且つ十代の子ども相手に気が咎めたのかどうかもわからない。フラッシュバックがあったわけでもない。ただ、まるで反射や習慣のように足が止まった。

だからこそレイともう少し話したいと、知りたいとそう思う。


「……今でなくても構いません。またいつでもいらっしゃって下さい。いつか、見せても良いと思えたらー……、!」

そこで、言葉が止まった。

〝トーマス〟としてはお互い初対面同様だ。だからこそ急ぎはしないと意思表示したばかりにも関わらず、レイは静かに今度こそ指を仮面にかけていた。

トーマスが言い終えるのも待たず、緩やかに仮面が顔から外される。顔を俯け逸らした顔はまだ、整った右半分しかトーマスからは見えない。定期的に散髪されている翡翠の髪はもう、レイのそれを仮面のように隠してはくれない。

外し始めてからのレイはもう躊躇もなかった。顔を上げ、仮面のない正面をトーマスへと向ける。瑠璃色に光を帯びる眼差しは期待も不安もない、ただただ無感情にライアーだった男へ向けられた。

皮から肉が溶け、血管を含めた皮膚の下が露わになった顔だ。頬も痩けたかのように溶け、涙袋もなくなり眼球がゴロリと丸く維持されている。整った顔だからこそ浮き彫りになる人体模型だ。

それを目の当たりにしたトーマスは目を限界まで見開いた。レイの左眼球と同じほど丸く開き、俄かに口が開いたままになる。息を飲み、自分の目に映っているものが現実かも疑った。


レイが目覚めるまで、彼の仮面の下がどうなっているかわからずとも全く想像をしなかったわけではない。

酷い傷も火傷もそれ以外も考えた。しかし、こんな傷は見たこともない。爛れる、という言葉すら生易しい。少なくとも裏稼業で生きた覚えもないトーマスの記憶では見慣れるわけもない、酷い火傷だった。

ただ現実だと、そう頭が受け入れた途端に顔が嫌でもきつく顰められた。

目の前の青年は今こそ平然としているが、当時の傷の痛みを想像すればそれだけで顔を険しくせずにはいられない。痛々しいその傷に、まるで自分のもののように顔を歪めてしまう。

何故、どうしてこんな怪我をと疑問が浮かび、そしてここで怯えず笑めばそれが彼の正解だろうかと打算的なことまで考える。

しかし無感情な目で自分の表情の移り変わりを観察する彼に、偽ることは〝ライアー〟にはできても、トーマスには不可能だった。止めた息を一度無音に吐き、それから〝自分〟としての答えを彼へと掛ける。




「……生きてて、良かったですね」




「!っ……」

過去の言葉に重なるそれに、無だったレイの両眼が同時に見開かれる。

初めて言われた、ライアーからの慰めだ。火傷を隠し、親に捨てられ、殺されかけた自分に何の気もなしに軽い口調で掛けられた筈の言葉が今だけ綺麗に重なった。

ただ違うのが、目の前にいるトーマスは顔を歪ませながらも真摯にそれを自分に向けてくれている。何より、言葉こそ類似していてもその声は哀しみを帯びながらも酷く優しく、低い。自分の傷を見て平然とできないくせに、その言葉だけが被るのがまた記憶と現実が混ざり気持ち悪くなる。だが、同時に



ライアーも、本当はこんな想いで言ってくれたのかと思う。



『ま、生きてて良かったな』

顔を近づけ眺め、酒を傾け、本当にどうでも良い相槌のようにして言われた。

あの時は確かに間違いなく胸にも響かなければ、彼にとっては大したことではなかったとしか思わなかった。どうせ自分は売られる身なのだから、どうでも良いと思われて当然だと疑問にも思わない。

だが、違うかもすれないと今なら思う。大嘘つきの、何でもかんでも嘘で誤魔化しおちょくる彼にとってあの時の言葉は〝本物〟だったのかもしれないと。

嘘を吐くこともしない目の前のトーマスの言葉こそ、当時のライアーが無数の嘘で覆い隠した本心の一片なのだと理解し、……唐突に、思い知る。




─ ライアーだ。




その思考が浸透した瞬間、また視界がぼやけた。

止まった筈のものが倍の量で溢れ出す。今度は隠すことも、手で覆うことも逸らしもしなかった。真正面にトーマスを捉えながら顔だけ歪み、涙が両目から伝い切れずに空へ零れ出す。

今までわかってながらも拒絶していた存在が、六年追い求め続けていた恩人にしか見えなくなる。再会してから、驚愕や戸惑いばかりで止まっていた感情が後から追いかけてくる。


─ ちゃんと、城下にいた。


隠すことなく嗚咽を漏らすレイに、トーマスは僅かに焦燥した。

言葉を発しない彼の反応が正解か不正解だったかもわからない。ただ自分自身が、真正面から泣く彼に驚くほど胸騒ぎを覚えた。

さっきまでは受け止められていた筈の彼の泣く姿に、今は妙に持て余す。汗が湿り、自分達しかいない部屋で意味もなく当たりを見回したくなる。


─ 見つけられた。


う゛……あ゛あ゛と声を漏らす感情は、もう苦しくない。

嬉しいとも違う。彼が自分のことを忘れてしまったことは変わらない。あの時の贖罪も感謝も、……真相を聞くこともできない。

何故自分を助けてくれたのか、自分の所為でこんなことになってしまった、お陰でいま自分は生きている。

昔のように怖いものなど何もなく、ただただ会いたかった。自分を恨んでいても追い返されても良いと、ずっと前からその覚悟はあった。


─ …………生きてる。


ただ、生きていてくれていることを、この目で確かめたかった。

証拠や情報だけでは満足できなかった。この目で無事を確認し、売られていれば全財産投げ打っても力尽くでも助け出し、本人の望まぬ暮らしや立場なら援助だってしたかった。彼が嘘でも冗談でも自分に望んだことなら何でも実行する気だった。

生きていた。会えた。そして今はもう満足できる暮らしができている。……自分が一番彼に願い続けたことが、ちゃんと叶っていたのだと。喜びでも哀しみでもましてや怒りでもない、途方もない安堵だった。


「…………また、どうか来てください。いつか〝私とも〟友人になって下されば……幸いです」

深呼吸を二度繰り返してからトーマスは椅子から立ち、レイと同じベッドへ直接腰を下ろした。

二人分の荷重にベッドが苦しげに悲鳴を上げる中、レイは首を下に振るような動作の後に腕で目を拭った。ボタボタと大粒が膝の毛布を濡らし続ける中、息が苦しく声も出ない。

ただ自分の出口の見えない六年間が今日で最後なのだと、それだけを理解する。肩を震わし、手足の冷たさと目の熱さを感じながら子どものように鼻を啜った。

今でも彼に思い出して欲しい。戻って欲しい。もう一度やり直したい、二ヶ月前に戻りたい。

自分の唯一無二の恩人がライアーなのは変わらない。いま自分の隣に座ってくれた男をライアーとして見たくない。代替には決してならない。自分が失ったものも変わらない。ただ……今は少しだけ、構わないとも思う。目の前にいる彼に、ライアーの一片でも残っている限り




次こそは自分が〝彼〟を助ける番になるのだと。




ライアーでもトーマスでも変わらない。それだけは必ず貫き通すと、レイは燃える胸へと焼き付けた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ