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フリージア王国備忘録<第二部>  作者: 天壱
頤使少女とショウシツ

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Ⅱ290.子息だった青年は逃げ場を無くした。


「うわーほんっと汚ねぇな〜。取り敢えず水浴びるぞ水」


そう言って俺に見ず知らずの道を歩かせた男は、すんなりと最初に拘束された手足を解いた。

子どもだからと舐められているのか。今この場で俺が走り出せば、逃げられる可能性も充分ある。どうせ格好からして下級層の人間だ。頭も俺ほど回るとも思えない。

俺の腕を無造作に掴んで引っ張ってくる男を睨みながら、今は黙って足を動かす。言うことを聞かなければ殴られるのも蹴られるのも父上で理解した。下級層の、明らかに裏稼業の人間なら余計にだ。さっきだって俺を売ると言っていた。絶対隙を見て逃げてやると思った、その時。


「今。ど〜せ隙を見て逃げてやるとか考えただろ、お嬢ちゃん」

俺を引っ張ったまま一瞥もくれずに言い放った男の言葉に思わず息を飲む。

下からの横顔しか見えない表情は、さっきと変わらない平然とした表情だ。今にも殴られるかと動かしていた足も勝手に止まって身が強張った。父上からの折檻で、口を閉じた瞬間が一番怖いことも知っている。

足が固まった俺に男も足を止める。腕を掴まれたまま、このままどうやって逃げるかを必死に考える。特殊能力で燃やせれば良いけどそれも俺の意思ではできない。感情を高くしようにも自分では制御ができない。父上の時と同じ、ただの恐怖で足が竦むだけだ。


「無駄だぜ?もうお前の逃げられるところなんて何処にもねぇよ」

鼻で笑うようにあっけらかんと言った男の言葉に、……訳もわからず胸がざわついた。

喉を鳴らし、男をただただ見上げれば正面を向いたまま俺にまだ目もくれない。ただその無感情にも思える声だけは間違いなく俺に向けられていた。

男は言う。すらすらと、昔父上が帝王学を語ってくれた時のように簡単な口調で。

俺にどうして逃げ場がないのか、どうしてさっきの連中が途中から馬車ごと持っていったのか。どうしてあんなに俺を見て嘲笑ったのか。



あれは、〝棺桶〟だった。



それなりの地位や身分がある人間が〝要らない人間〟〝始末したい人間〟を誰にも知られず処分する為の。

この辺じゃたまにあることだ、と語る男の口調は天気の話題よりも躊躇いない。下級層の治安が悪い場所で敢えて馬ごと馬車を〝不要物〟と一緒に置いていく。

馬と積荷に釣られた下級層の人間や裏稼業がそれを見つけ、全てを余すことなく回収する。裏稼業との繋がりがなくても、この方法なら棺桶の中身に逃げられる心配も、戻って来られる心配も、自分の仕業だと知られる心配もなくなる。棺桶に入っていた人間は、回りに巡って最後は人身売買に売られるのが殆どだと。……俺は、間違いなく父上に捨てられたのだとそこで理解した。


「まっ、金を持った奴じゃねぇとできねぇ方法だけどな。お前のその変わった服みてもわかる、どうせどっかの貴族か富裕層だろ。だからもう帰れねぇよ。帰ったところで今度こそ始末されるのが落ちだ」

諦めな、と投げるように言われてまた腕を引っ張られた。

それでもまだ足は動かない。ぴたりと地面にくっついたまま抵抗するつもりもなくその場に踏み止まる。男の力に敵わず前のめりに引かれて倒れそうになれば、一歩進まず両膝が落ちた。

「おい」と低い声で言われ、頭では歩かないとまた殴られると思うのに自由が効かない。父上に捨てられた、俺を殺すつもりで、あのまま俺が死ねば良いと思って。



「ふっ……う゛ッ……あ゛あ゛あ゛ッ……」



わかった途端、喉から感情が溢れ出た。

殴られるより蹴られるより踏まれるより怒鳴られるよりも怖いものに、今襲われた。喉が引き攣って音以外の声が出ない。ぐちゃぐちゃになった顔でどうにもならず泣き出した。泣けば殴られることも大声を上げれば声を出なくされるのもわかっているのに勝手に感情に押し流される。


捨てられた、もう帰れない、殺されかけた、売られた、売られる、もうどうにもならないと。ベタベタの身体で目からも鼻からも口からも水が出た。国中に響く声で泣いても助けを呼んでも誰ももう迎えに来てくれないのももうわかっているのに。

母上だって、父上から庇ってくれても一度だって歯向かってはくれなかった。俺がいなくなっても泣いてはくれても迎えになんてきてくれない。母上が父上に敵うわけも、俺の居場所がわかるわけもない。もう俺は死んだのだから。

え゛っえ゛ッえ゛っと喉がしゃくり上げ、わかればわかるほど自分の状況もわからず全部を垂れ流す。


「ちょっ……おまっ、そこで泣く⁈遅いだろ泣くならもうちょっと先に泣いてくれ……っていうか‼︎俺様ガキの宥め方なんざ知らねぇよ‼︎泣くなら馬車に詰め込まれた時に済ませとけ‼︎」

自分の泣き声で耳が塞がれる中、男が素っ頓狂な声で慌てるのが微かに聞こえる。

視界が滲んで潰されて、狭い空を見上げて吠えることしかできない。響く声の隙間から「お嬢ちゃん何歳⁈」「いや泣くのはわかる!わかるけどな⁈」「残り半分もブッサイクになってるし‼︎」と叫ばれる。

感情が先立って返事も考えることもできずに泣き続ければ、途中で諦めたようにまだ腕を引っ張られた。膝からずるずると引き摺られ、「もう知らねぇ!」という言葉を最後にその状態で運ばれた。足も動かないまま生まれて初めて地面を引き摺り回される。掴んだままの男の手に、まるで今は俺の方がしがみついているかのようになる。


暫く引き摺られ、なんとか足に力が入るようになってもずるずると流される身体で足元を噛むことができなかった。

喉も枯れていた中で、身体の内側にもう水が尽き始めたところで喉が声も出ず乾いた音でしゃくり上げるだけになった。喉だけじゃなく肩までひぐひぐ揺れる中、歪んだ視界の先で男が「よっしゃ着いた!」と叫ぶ。

さっきまで掴んでいた腕を放り投げるようにして離されたのに、泣き過ぎて頭が回らず逃げる方法も逃げる意味もわからな


バチンッッ‼︎


突然、眼前で手を叩かれた。一瞬自分が叩かれたと思ったが、違った。

何が起こったかわからず目だけ瞼が無くなったまま口を閉じ両手足を地面につき、動物のように転がって動けなくなる。何が起こったのかを頭で理解しても身体がついていかない中、今度は勢いよく顔面から水をかけられた。

バッシャーン!と勢い良く水が弾ける音と一緒に重かった身体が余計潰れそうなほど重くなる。


「捨てられちまったもんはしょうがねーだろ!取り敢えずクソと一緒に纏められたくなけりゃあ服脱げ。俺様もお前も代えの服なんざ持ち合わせてねぇんだ」

そう言って、今度は頭の上からジャバジャバと注ぐように水を掛けられた。

一瞬息ができなくなり、目を擦りながら顔を俯ければ「冬じゃなくて助かったな」と上から言われる。このままじゃ溺れ死にさせられると、言われるまま重くなった服を脱ぎ始めればやっと水が止められた。

最初に来ていた上衣を無理やり脱ぎ捨てる。顔を覆う自分の長髪すら息苦しさを感じ後ろにかきあげればやっとここが、井戸の真ん前だったのだと知った。

男がまた桶を井戸から汲み上げ、俺に構え出す。


「オラッさっさと下も脱げ。じゃねぇとお前ごと洗濯しちまうぞ」

まだ水を掛けられると、息ができなくなるのが怖くて恥も忘れて下も脱ぐ。

泣き過ぎて頭もぼやけて、さっきまで逃げようと思っていた相手の言われるがままになる。普通に言っている筈の男の声が、脅しているように聞こえてただただ怖かった。

さっきまで死んでも良いと思った一瞬が懐かしいくらいに今は全部が怖くて仕方ない。身包み全て剥がされて、ズブ寝れのまま脱いだ服を放って膝を抱えて動けなくなる。服を脱いだだけなのに、人間としての尊厳全てを奪われたような気がした。


男は脱ぎ終わった俺の服を摘み上げると、足元で水を掛けながら踏み出した。何度も何度も繰り返し新しい水を掛けては踏むを繰り返す。最後には絞って木の枝に服が吊るされるまで、俺は膝を抱えたそれを眺め続けるだけだった。しゃっくりを止めることに喉へ力を込める以外、もう何もできる気がしなかった。

手の届かない高さに吊るされた服を目だけで見上げながら、息を殺す。ひっく、ひっぐとそれでもまだ喉か引き攣った。男が再び水を汲み上げると、今度はまた俺の方へ歩み寄ってくる。


「上向いて口開けろ。どうせ全部垂れ流してカラッカラだろ。井戸なんてそう簡単に転がってねぇぞ」

溺れねぇように鼻だけ摘めと言われ、グラスもないのにどうやってと思いながら言われた通りにする。

次の瞬間には桶から直接水を口へ流された。驚いて咳き込みそうになりながら、目の前の水分に喉を鳴らす。もう充分以上に飲んでむせ混めばやっと桶の角度も変えられた。げほっごほっ、と喉の変なところに入って下を向いたら咳き込む勢いで額を抱えていた膝に打った。

男が残りの水を自分でも飲み切った後、桶を井戸へ放り戻す。


「取り敢えず服が乾くまではじっとしてろ。下級層じゃ真っ裸で歩き回っても騒がれねぇが、お嬢ちゃんくらいのガキが大好物のモノ好きに見つかったらペロリだぜ」

下級層の連中は人間も食べるのかと思えば、寒くもないのに身体が震え上がった。

飢えていたら人間だって食料なのだと思えば納得できて、膝を抱えた手が悴むように硬くなる。唇を絞り、話し方どころか舌の動かし方もわからず怖いもの見たさで男から目が話せない。カチカチと歯が鳴りそうになる中、男は酒瓶を片手に俺の眼前でしゃがんだ。歯で栓を抜く男の顔が一気に近くなる。


「や〜っぱ顔は良いなぁ。半分溶けちまってるけど、これもお前を捨てた奴の趣味か?随分とイイご趣味だぜ。ま、生きてて良かったな」

グビリ、と酒瓶を一度傾けた後、自分の方に向けさせるように顎を掬われ角度を上げられる。

何の気もなしな言い方で切られ、長く垂れた髪をどかすように両耳に掛けられ、溶けていない左半分の頬をするりと撫でられる。父が芸術品を品定めする時の動きに似ていて、このまま売られるのだと今は理解した。最後にはペシペシと濡れきった頭を叩かれた。


「まぁまぁ心配すんな。そりゃあ俺様は女大ッッ好きだけど、こう見えて紳士だからな。これ以上お前を傷モノにもしねぇし嫌がる女を無理やりってのも……」

グビッグビリッと、一気に酒瓶を半分以上飲み仰ぐ。

ぷはっ、と息を吐き出したと思えばそこで一度瓶を地面に置いた。続きを話すかと思えば、しゃがんだ体勢のまま今度は自分の上衣を脱ぎ出した。

こいつまでここで水浴びをするのかと思いながら口を開けて眺めていると、上衣から頭を抜いた男と目が合った。何故かぞわりと背筋が冷たくなって、それでも動けない。半裸になった男は脱いだ服を一度バサリと広げると、おもむろに俺の頭へ被せた。


「流儀に反する。……言っとくけど、今の一瞬で確実に一回は喰われてるからなお前。イイトコで育てられたんなら、男に脱がれたら叫ぶが逃げるくらい教えられてねぇのか?俺様の肉体美見たらどっちの意味で叫んでも良いだろ」

ぐしゃぐしゃと、濡れた頭を雑に拭かれる。

頭の水気を重く湿る程度に男の服が吸い、そのまま顔から首、肩とされるがままに拭われる。何度か目の前で絞ってはまた俺の身体を拭くを繰り返す男へ、もう逃げる気力は消えていた。男が話している言葉も、意味がわからなくても聞き返す気にも考える気にもなれない。


「知ってるか?〝商品〟は風邪でも引いたらすぐ処分されちまう。俺様も薬買う金なんざねーし、傷モノどころか病気持ちなんざなったらそれこそどこも引き取ってくれねぇよ」

商品が、……奴隷として売られることなんだということは何となくわかった。

泣き切って人としての尊厳も剥がされて、男の言いなりにされながらもうどうにもならないのだと思う。「腕上げろ」「ほら足も抱えてねぇで伸ばせ」と言われて、人形のようにその通りにする。父上にもこれくらい何をされても従順に大人しくしていれば捨てられなかったのかなと、そう思った時。


「………………んん⁇」


男の動きが一点で止まった。

目を丸くして、それから引き攣った顔で俺の顔と見比べる。


「…………んーーーーーーー……お嬢ちゃん、名前は??」

「……レイ。……レイ・カレン」

「よしよし上も下も可愛い名前だな⁇」

今までになく食い気味に返される。

さっきまでは怖いとすら思った男の目が皿のように開かれて、鼻先がくっつくと思うほど顔を近づけられる。引き攣った笑顔を向けながら、急に男は顔中が汗ばんできた。

「じゃあもう一つ答えようかレイちゃん?……お前、男⁇女⁇」



男だと。



……首を傾げながら答えれば、次の瞬間男が目の前で打ち拉がれた。

「嘘だろ」と重々しく言いながら両拳で地面を叩み、座り込んだ俺よりも頭を地面に近くした。表情すらわからないほど顔を俯けて今度は男の方が動かなくなる。

訳もわからずそれを眺め続ければ、男は途中でさっきとは比べ物にならないほどキツく服を絞り上げた。ギュゥゥゥウウウッッと、一滴も水が出なくなるほどの絞りに力が入っているのが見るだけでわかる。

布の塊が上下に広げられれば、バサリバサリと叩かれているかのような激しい音がして身を竦める。俺の服と同じように木に吊るすのかと思えば、今度はそのまま俺の頭に通され着せられた。

七歳の俺には、大人である男の服は一枚で上も下も隠された。服を着れたことに自分でも驚くほどほっとして、肩の力を緩んだ。


「クッソ……かなり好みの顔だったのに……。……俺様ともあろう者がまさかの顔で詐欺られるなんざ……。……レイちゃん。取り敢えずもう二度と俺様の前で現実を見せるな」


よくわからないことを言いながら打ち拉がれる男に、俺は聞き返すこともできずまた膝を抱えた。

それから干された服が乾くまで、瓶に残った酒を一口一口飲んで待った男はもう何も話しかけてこなかった。


酒瓶の中身が全てなくなると「やけ酒用にもう二本貰っときゃあ良かった」と呟く声が、何故かもの悲しく聞こえた。


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