Ⅱ279.次期王妹は頼る。
誰か、と。
「……。……ティアラ……?」
その悲鳴が上がったのは、既にプライドが眠りについた後だった。
階が別れているステイルとは違い、同じ階に自室があるプライドにも彼女の声とは言わずとも騒ぎは充分耳に届いた。瞬きの数を少しずつ増やし、ぱちぱちと真っ暗な視界を確かめて聴覚に意識を向ける。
首を動かし、扉の方へ顔を向けて神経を研ぎ澄ます。密閉性の強いその扉の向こうからバタバタと忙しなく使用人達の足音が聞こえてくる。口々にどうした、報告を、ティアラ様が、と声を掛け合っていることに気付けば、やっとプライドも身を起こした。
眠っていたまま顔の前に垂れてしまった長い髪を耳にかけ、胸騒ぎを片手で押さえつけながらベッドから降りる。気が付けば駆け足になってしまった彼女は、扉にぶつかるようにしてドアノブを掴み廊下に出た。
連なる明かりの中で、控える衛兵や呼びつけられた侍女達が駆ける中「プライド様⁈」と声を上げ、足を止める。医者や女王への報告こそ急ぐ彼らだが、わざわざ寝ている王女王子にまで騒ぎを広めることまでは義務付けられていない。しかし騒ぎに目を覚ませば、プライドがティアラの異変にじっとしているわけもないことはわかりきっていた。
「ティアラがどうかしたの⁈まさか何かっ……」
尋ねながら、確かめるより先に妹の部屋へと急ぐ。
プライドの扉の横に控えていた近衛兵のジャックも、彼女の後に続いた。第一王女が駆ける姿に他の衛兵も気づいては共に追いかける。寝衣姿の薄い布地で急ぐ彼女は身嗜みよりも今はティアラの部屋へ駆けつけることが第一だった。
廊下を抜け、衛兵や侍女が集う扉で「通して下さい!」と喉を張る。
プライドの叫びに誰もが振り返り、声を聞いた時点で左右に割れるようにして道を作り頭を下げる。
ごめんなさい、と言いながら彼らの真ん中を通れば自分と同じ広い寝室にティアラはいた。ベッドから降りる気力もなく顔を両手で覆いながら、遠目でもわかるほど肩を震わせている。駆けつけた侍女が何があったのかを尋ね、衛兵が何人も侵入者があった可能性も鑑み部屋の中を見回り配置について彼女の安全を確保した。
「ティアラ‼︎」
飛び込み、侍女の間を抜けて手を伸ばす。
その声に呼ばれた途端、ティアラは初めて俯けていた顔を上げた。さっきまでも呼びかける声は耳に通っていた筈なのに、全く頭に届かなかった。
薄明かりの中で自分を心配して駆けつけてくれた姉にじわりと涙が滲む。またプライドに頼ってしまうことに胸を刺したが、それ以上に信じられないほどの安堵に満たされることを自覚する。
抱き締められれば、顔を覆っていた手がプライドの背中へとしがみついた。お姉様っ……と枯れた喉が細く彼女を呼んだ。ひっく、ひっくと喉を鳴らし、薄い布地を細い指がきつく握り締めた。
「どうしたの?何があったの⁇まさか予知をっ……」
ビクリ、と。その言葉に反応するようにティアラの肩が跳ねた。
震えが大きくなる妹に、プライドは何度も回した手でその背を摩る。大丈夫、大丈夫よと声を掛けながらも彼女の反応に予感は確信に変わった。
彼女の予知は本人曰く一年に二回程度。まだ奪還戦から半年も経っていない。
だがプライドは知っている。第一作目でティアラの予知がどれほどの頻度だったかを。
現実での頻度は何故か減っていたが、この先も少ない保証などありえない。本来、次期女王になっていた筈のティアラの予知能力が本物であることは誰よりも自分がよく知っている。
「どうして」「止めなきゃ」「どうしましょう」と呟くティアラは、頭に浮かんだ光景を何度も繰り返す。自分には全く覚えのない人物と場所、光景にどうすれば良いのかもわからない。ただ、ベッドに潜る前に眺めた空を思い出せば落ち着くことなどできるわけもなかった。
思考が纏まれば纏まるほど震えも呟きも増していくティアラに、プライドは抱き締めた腕の片方を緩める。ティアラをしっかりと包んだまま片手を口に運び、目一杯息を吸い上げ鳴らした。
甲高い指笛の音が部屋中に響きわたってから、変化が訪れるのは間も無くのことだった。
「プライド‼︎どうかなさッ……⁈ティアラ⁈」
「どうしたティアラ‼︎プライド様これは一体⁈」
近衛騎士であるアーサーと共に現れたステイルに、部屋内にいた衛兵達は再び礼をする。
しかしアーサーもステイルも、彼らを視界にすら今は捉えられなかった。目の中にいるのはてっきり何かあったのかと危惧したプライドではなく、ティアラ。
震えながらプライドに抱きしめられる彼女に、ステイルは何故こんな深夜に指笛が鳴らされたのかを正しく理解した。今までも何度も役立った指笛だが、本当に合図を決めておいて良かったと改めて思う。それがなければ自分は大事な妹が震えている間も呑気にアーサー達と酒を嗜んでいたのだから。
「ティアラ、大丈夫か?何があった?侵入者か?それとも……」
迷わず駆け寄り、抱き締めるプライドに並び彼女の背を繰り返し撫でる。
覗き込んでくるステイルに、ティアラも肩の力がまた少し抜けた。姉兄が揃っているだけでも、こんなにも心強いと胸の底から思う。
プライドの手に重ねるように片腕で一緒に抱き締めてくれるステイルに、ティアラは何度も深呼吸を意識的に繰り返した。更にアーサーもステイルの傍らで心配そうに覗き込んできてくれることを滲んだ視界で気がつくと、もう一人の兄のような存在のアーサーへも震える手が伸びた。
それに気づいたアーサーも躊躇いなく彼女の左手を掴み、包むように握り返せばそれだけで「大丈夫だ」という気持ちが伝わった。
口の中で整った歯を食い縛り、ティアラはそこでやっと心が決まる。
左手でアーサーの手を握り、兄の片腕に包まれ、姉へしがみ付く右腕にぎゅっと一番力を込めた。言葉を話せる程度には気持ちも落ち着いたが、やはり自分の見たそれをどう説明すれば良いかもわからない。頭の中で言葉にしてみれば、ただの悪い夢を見ただけのようにしかきっと聞こえない。
大丈夫、大丈夫、と。胸の中だけで繰り返す彼女は、今はもう隠す必要なんてないのだと自分へ言い聞かす。使用人や衛兵によって灯された小さな明かりだけの薄暗い部屋で彼女は
啓示を、授けた。
……
…
「よぉ、坊ちゃん。真夜中にこんな中級層の外れにお出かけたぁ、何の御用だ?」
「庶民の女でも〝味見〟に来たか」
「いけませんなあ?金持ちのボンボンがこんな時間まで出てちゃあ。ちゃあんと前みてぇに俺らを護衛につかさねぇと」
月明かりが薄く細く照らす中、ひと気もない。
男達はにやにやと笑いながら彼へと歩み寄る。それに肩だけで振り返った青年は、口を結んだままただ男達を睨んだ。王都のように街灯も灯されていないそこは、あまりに暗く、まれで背景だけを黒塗りにされてるかのようだった。
「そう睨むなよお坊ちゃま。なあ、俺らはよくやっただろ?もう少しぐれぇ報酬を弾んでくれても良いと思うぜ」
「違いねぇ」
ハハハ……。
目配せ合う彼らの背後に続く複数の男達からも嘲るような低い笑い声が重なり合った。
視界の潰される中、細い月明かりでもわかるようにとこれ見ようがしに武器を掲げて見せる彼らに、睨む眼光は鋭さを増すだけだった。正面から向き直るのも不快だと言わんばかりの青年は、瑠璃色の瞳を暗く濁らせる。
彼から溢れ出す殺気に気づき、先頭を立つ一人が「おおっと?」とわざとらしく戯ける声を上げ、待ったをかけた。
「変な気を起こすんじゃねぇぜ?ここが何処か考えてみろ。テメェの特殊能力はこっちだってわかってんだ。周りをよく見てみろ。大ごとにはしたくねぇだろ?」
絶対的な勝利を確信して男達は笑う。
全ては計算の内と言わんばかりの不快な笑みに、青年は顔を顰めながらもとうとう向き直った。重厚的な布質の服も髪色も闇に溶けた今、鋭い隻眼と芸術的な仮面半分だけがぼんやりと浮かんでいるようだった。
「……金はもう払った。俺様に構うな。お前達にはもう用はない。……ここで俺様と同じ顔にされたくなければ今すぐ消えろ」
ボワリ、と。暗闇の中で黒い炎が灯った。
男達の忠告を聞かないその光は眩いが暗く、闇と同じ色なのに彼らを照らした。仮面に隠されていないもう半分の顔もはっきりと露わになる。
しかし、それでも男達は聞く耳を持たなかった。できるわけがないとその確信を胸にもう一度彼へ揺さぶりをかける。
「俺らに下級層を嗅ぎ回らせておいて今度は中級層かぁ?金を払わねぇってんなら、その獲物は俺達が横取りしちまっても構わねぇんだな?」
その言葉を引き金に、青年の目が限界まで見開かれた。
次の瞬間には今度こそ威嚇というには笑えない量の炎がその場に渦巻いた。黒い炎が一瞬で天まで上がり、続きの言葉を許さないとばかりに燃え広がる。
あまりの熱量と広がる速さに、先頭に立っていた男達も退がるより悲鳴をあげる方が先だった。
炎の絶対温度よりも遥かに高いそれを至近距離で浴びれば、それだけで顔の表面が炙られた。ぎゃあああああ‼︎と、彼が攻撃してくるとは思わなかった男が背中を地面に打ち、転がった。
更には炙られた地面や周囲まで黒炎が点火し広がった。草原と木々に囲まれたそこは着火材の宝庫だ。闇に纏われた背景が真昼のように明るく、夜と同じ色で照らされる。
「奴は俺様が見つけ出す……‼︎二度も奪われてたまるか……‼︎」
転がる男へ向けて瑠璃色に眼光を燃やす青年に、炙られた男だけでなく仲間達も危機を察知し勢いよく背後へ下がる。
彼の身に何が起ころうとしているかを正しく理解し、説得や煽てるより先に転がった男を捨てて十メートル近く後退し始めた。
「横取り⁇ふざけるな‼︎‼︎お前達裏稼業の塵共が俺様から奴を奪った‼︎‼︎金を巻いてやっただけありがたく思え!お前らのように黙っていても沸いてくる塵共はっ……ゴミ……、…………あぁ。ハハッ」
翡翠の髪を振り乱し仮面に指が当たりながら頭を抱える青年は、途中でぷつりと熱量が切り変わった。
憤怒を露わに燃えた顔を無に落とし、そして口だけで枯れた笑みを音にする。
この場に不釣り合いな緩急に男達も役に立たない武器を振りかぶりながらも後退り続けた。今立ち向かっても背中を向けてもどうなるかは目に見えている。
背後を煌々と燃え広げていることにも全く意に返さない彼は、近隣の住民らしき悲鳴も騒ぎ声にも反応しない。
「礼を言う。俺様にも奴へ〝できる〟ことができた」
瞬間。青年から放たれた黒い火柱が、竜の口のようにして男達をまるごと飲み込んだ。
断末魔が上がる間もない。男達を直接襲った火柱は、身が焼け爛れていく感覚を味わう迄もなく骨まで炭にした。青年の真正面から放たれた炎は男達を掻き消して尚威力を留まらせず、その後方まで貫いた。同時に男達とは違う甲高い悲鳴まで次々と上がり出す。
なんだ今のは、速く消せ、家に燃え移った、放火か特殊能力かと次々に騒ぐ中、青年は燃え上がる黒の炎へ紛れるようにしてその場を後にした。
「そうだ……殺せば良い……、奴を狙うなら、知る連中全員この手で……。……そうだ、それなら…………それが……俺様が今奴に、唯一できる……」
ぶつぶつと一人ぼやくような呟き声は、殆どが燃え盛る炎の轟音と民の悲鳴や騒ぎ声に掻き消える。
後始末になど興味がないと言わんばかりに去る彼は、振り返ることすらしなかった。ぶつぶつと自分が元凶であることを完結されていく思考に全てを向ける。そして
「今度こそ、俺様が」
開ききった瞳孔と、覚悟と執着を彩った声が黒い炎へ巻かれていった。
歪に引き上がった、その口端と共に。




