Ⅱ33.支配少女は肩を落とす。
「………………ほんっとうに……良かった……」
クロイの教室から出てすぐ、プライドは肩で息を吐く。
お疲れ様です、とステイルとアーサーが背後から労う中、プライドは廊下を歩きながら自分の両頬を手で押さえる。企み通りにクロイが頷いてくれたことに安堵した後、今度は自己嫌悪に一人で眉を寄せた。
我ながら嫌な感じになってしまったことを自覚する。仕方がないとはいえ、クロイには何も罪もないのにも関わらず脅したのだから。
そう思えば、二度も嫌な想いをさせてしまったことに頭をがっくし落として俯いた。
「……彼、完全に怯えてたわよね……」
プライドの落ち込みに、ステイルとアーサーも無言で互いに顔を見合わせた。
流石に二人の目から見ても否定のしようがないほどに怯え、威嚇し、敵意まで抱いたクロイの眼差しを思い出せば「そんなことありません」とは言えなかった。
代わりに「仕方がありません」とステイルが最初に声かける。
「第一の目的は彼を頷かせることでしたから。納得させる必要はありません」
「一番バレたくねぇことだけでも隠せたンですし、……ジャンヌが、悪くねぇことはちゃんと俺らがわかってます」
続くようにアーサーがこぼせば、ステイルもそれに頷いた。
一番に知られてはいけないことはプライドの正体。それだけは間違いなく今も隠し通せている。〝人の弱みを知る〟特殊能力だと思い込ませることができれば、確実にプライド第一王女のイメージからもかけ離れる。そしてクロイは全くプライド達の正体には感づいてもいなかった。
結果的に自分達の思惑通りに彼を動かせたのだから、それだけで良かったと思う。確かにプライドのやり方は脅迫にこそなったが、彼女の思惑を知る二人からすれば必要なことだとわかっていた。今の彼女は徒らに人を脅かすような人間ではない。そして何よりも
狂気に取り憑かれていた時と比べれば、いっそ可愛いものだと本気で思う。
口には決して出さないが、プライドが彼を脅す姿に少なからず二人は数ヶ月前の彼女の姿が頭に過ぎった。
しかしあの時の引き攣った笑いと裂けた口端の彼女と毒の言葉と比べれば、クロイへの脅迫はお優しいとまで思えてしまう。彼がプライドに暴力を振るわないかと常に警戒を途切らせなかった二人だが、それと同時に数ヶ月前とは全く別人のプライドの脅迫の仕方に安堵してしまった。今も目の前で〝あの程度〟の脅しでそこまで落ち込むプライドを見れば、気まで緩みかける。
クロイに向けてのあの脅迫も圧の掛け方も常人が受ければ、怯えるのも気圧されるのも当然だが、狂気を纏ったプライドのそれは比べ物にならないほどに毒々しいものだったのだから。
今もこうして自分達の言葉に応じ、顔だけで振り返っては「ありがとう」と柔らかく笑い返す彼女を見れば、自分の記憶を疑いたくなる。
二人の言葉で少し気持ちを立て直したプライドは俯き気味に丸まりかけた背を意識的に伸ばして歩いた。ちょうど予鈴の鐘が鳴り、急ぎましょうと三人は足を速める。
教室へ戻り、鞄を置いた席に座った彼らはそこでやっと腰を落ち着かせた。
ざわざわと騒がしいクラスの中で、遠巻きから女生徒や昨日と同じ男子生徒が歩み寄って来たが、その前に教師が現れる。着席の合図で席に戻った彼らに、教師のロバートは昨日と同じように声をかけ、出欠を取った。今度は滞りなく出欠確認を乗り越えたプライドだが、その直後の教師の言葉に思わず口を結んで身を硬らせた。
「昨日の実力試験を返却する。結果を元に今後の授業内容も合わせさせて貰う。……極一部には、満点を取った者もいるが」
紙の束を片手に教卓で整えた教師のロバートは、最後に少し声の色を落とした。
満点、という言葉に生徒達は信じられないように声を漏らし、周囲を見回す。問題の難解さを把握していない彼らは、まさか高等部の問題まで含まれていたとは思わない。だが、自分たちが半分以上解けなかった問題を全て解けた奴はと興味を抱いた。
そして教師は彼らの疑問に答えるように、ある一点に向けて視線を注いだ。見回した生徒達も次第にその意味を理解し、教師の視線の先を追った。生徒全員の注目が一番背後の席に向かってから、教師はゆっくりとその口を開いた。
アーサーが目で教師とプライドを見比べ、ステイルが頭を抱えたい気持ちをぐっと堪える中、プライドは強張った表情でその時を受け入れた。
「ジャンヌ。素晴らしい結果だ。……昼休み、職員室に来るように」
褒めながらも、最後は少し低めた声がプライドに放たれた。
生徒達も満点を取った者とジャンヌとを結びつけ、おおおぉ!と驚嘆の声が上がる。恐れた通り、二度目の注目を浴びるプライドにステイルは頰杖を突くふりをして正面から顔を逸らした。一番前の席からアムレットもプライドへ振り返り、こちらに顔を向けてきていた。
教師の言葉に肩を狭めながら返事を返したプライドは冷や汗に首を湿らせながら俯いた。学校を創設し、仕組みから関わった身としてはどうして呼び出しを受けたのかもわかっている。
昼休みにクロイの様子をちらりとでも見に行けれればと思ったが、無理そうだと諦めながら口の中を噛んで表情に出さないようにと意識した。全ては自分のうっかりが招いた結果なのだから嘆く資格はない。
「昨日にも言った通り、今回の試験は点数がいくつであろうとも問題はない。今日の一限は早速文字の読み書きから始める」
もうできる生徒もいるが復習だ、とそう含めながらの教師の言葉にプライドはやはり文字の読み書きが難しい生徒もいたのだと考える。
中級層の庶民の子どもは十四にもなれば全員が読み書き程度はできるが、下級層の生徒となると文字を書くどころか読むこともできない生徒が半分以上だ。教えてくれる親や身内がいなければ、当然知ることもできない。
教師の手で直接一人一人の生徒に答案が配られれば、プライドの手には満点の答案用紙が返された。ステイルはそれを見て小さく溜息を吐くと、プライドに見せるように自分の答案用紙を机の上に開いて見せた。言葉にしなくても「次からはこういう風にして下さい」と言いたいのが無言のままに伝わった。
アーサーは自分の答案用紙を受け取ると、すぐに半分に折ったがステイルもプライドも敢えて彼の結果を聞こうとも思わなかった。そんなのを見なくても、アーサーが立派な騎士であることは揺らがない。何よりアーサーが気にするほど、結果も実際は悪くもなかった。文字の読み書きや簡単な計算、商売や駆け引きの損得、法律についてはアーサーも一般常識程度には理解できている。しかし、たとえそれを知っても秀才二人に対して自分の点数を見せるのはやはり気恥ずかしかった。
「えー、それと注意喚起だ。基本的に放課後になるまで、授業中には指定された教室にいるようにして下さい。昨日、初日から早速無断で早退する生徒や一度も授業に出ずに校内に居ただけの生徒が中等部だけでなく高等部にもいました」
学校は学ぶための場所です、と当然のことを言いながら、朝の連絡を教師が伝えるが殆どの生徒は答案用紙に夢中だった。
答案を生徒が近くの席通しで見合わせる中、最前席でアムレットは左右に座った友人達に答案を見せながら再び背後へと振り返った。視線の先にプライドが入っていたことに、プライド本人もステイルも気付かない。
それから教師が資料室に授業用の本を取りに行く為に数人生徒を適当に名指しして一度共に出て行けば、再びクラス中の視線もプライドへ向いた。
満点を取った、昨日上級生に怒鳴ってた、昨日のあの……、確か親族に騎士が、今朝も騎士様が送りに来ていたと。こそこそと噂されながら、席から立たずに誰もがプライドに視線を集中させた。
「…………あれ、目立たないようにって絶対無理だよな……」
その様子を観察していたアランは、小さく口の中だけで呟いた。
見回りと称し、廊下で一部始終を確認していた彼は今は物陰で身を潜めていた。資料室へ向かい、教師生徒達が廊下に出てきた為に急ぎ足で廊下の角まで戻っていた。
あちゃ〜と心の中で唱えながら苦笑う。昨日はハリソンと交代で見張りをしていた彼だが、今日から授業中のみプライド達の護衛に付くことになっていた。満点を叩き出したプライドに流石だと思いながら、廊下の壁一枚向こうで教室の男子生徒がこそこそとプライドの噂をしているのを聞けば、もう諦めに似た笑いだけがこみ上げてきた。アーサーやステイルが男子の嫉妬の標的にされないかと心配しながらも、プライドは何処へ行っても変わらないのだなと思ってしまう。
アーサーがプライドの側にいる今、プライド達の教室にずっと張り付いている必要もなく、アランはそのまま他のクラスや中等部内の安全も確認すべく足を動かした。プライドが昼休みに職員室に呼び出されたことを二限目が終わる前にハリソンに伝えておかなければと思う。
「二限目前にはカラムも来るし、一応アイツにも言っとくか」
二限と三限目のみ講師として授業を担当するカラムなら、昼休みも緊急時にはプライドに駆けつけられる。職員室なら今回は尚更だろうと考え、今から報告すべき内容を頭の中で纏めていった。
授業外にプライドの見張りと見回りを担うハリソンが、アランに殆どまともな報告をしない中、カラムとの情報共有はその日の護衛で不可欠だと昨日既に思い知っていた。カラムの性格上、一限目が終わるまでには学校に到着するだろうと考える。
両手を後頭部に回し、大きく背中だけ伸びをしながら誰もいない廊下をアランは歩いた。
「ま、……俺らが守りゃあ良っか」
目立たないことが無理であろうとも。と、頭を掻きながら一見呑気に聞こえるようなその言葉は、これ以上なく強い意思を持って廊下に零された。
……
一限、そして二限を終えての昼休み。
昨日の噂を経て、中等部高等部の多くの生徒が食堂にひしめき合っていた。
今日も来るか、会えるかと授業を終えてすぐ食堂の席を取るべく駆け込んだ生徒も少なくない。中等部と高等部の全生徒を収容できる規模の食堂は室内から入り口付近まで多くの生徒の期待と興奮が混ざり合う。
その中で一人、不安と緊張に駆られる生徒が食堂の入り口になる壁に寄り掛かり、胃を重くし顔を俯かせていた。早くこの緊張が終われという欲求と、このまま待ちぼうけで終わりたいと願いながら、胃の中がひっくり返りそうになる。
自分の食事する時間も諦め、待たせたらまずいと他の生徒達と同様に急いで食堂へと駆けて辿り着いてから既に十五分以上が経過していた。これなら歩いても間に合ったと、馬鹿のように急いだ自分を思い出し顔が熱くなる。
まさかどこかで眺めて自分の必死さを嘲笑っているんじゃないかと考え、顔を上げた。周囲を見回してみたが、彼女の姿は見当たらない。そして
ざわり、と突然周囲が沸き立った。
キャアアッ!!と黄色い悲鳴や歓声が上がる中、一気に彼は喉が枯れた。
今すぐにでも逃げたい、もしくは全てがジャンヌの嘘でこのまま素通りされれば良い。そう思いながらも、足が杭を打たれたかのようにその場から動けない。
カラカラの喉で息を止め、誰もが注目を向ける先へと自分も顔を向ける。多くの人混みが溢れながらも、真っすぐに食堂へ向かってくる存在に誰もが道を譲り、横切る前に開けた。クロイ自身、決して素通りされても無礼にならないようにと入り口の脇に控える。その間にも一目彼を見ようと、多くの生徒が響めき続ける。そしてとうとう興奮を抑えきれない女性とが「セドリック王子殿下!」と期待を込めて叫んだ。
その声にセドリックは顔を向けると、昨日も自分に声を掛けてきた女生徒の一人だと確認し、軽く手を上げて応えた。その途端、喉が裂けるような悲鳴が周囲から響きだす。
更に目に入った生徒の中で時折「おぉ!」と特定の生徒に笑い掛けてはその生徒の名を呼び、笑い掛け、「また会えて嬉しい限りです」と完全に一人一人を認識した発言を繰り返す。その度に自分のことを覚えてくれていたと、生徒とその周りまでが激しく興奮で波立った。
完全に己と別世界の存在にクロイは足が震えかけた。
王族どころか貴族とも関わったことがない自分が今から何をしようとしているのか。そしてまさか自分から王子に話しかけないといけないのかとも考え、混乱しかける。
目上の人間が相手である以上、見える位置に立ち、話しかけられるのを待てば良い。しかし、自分の役目とこのまま気付かれずに万が一にも自分が任された仕事を放り出したと勘違いされた方が怖い。王族の怒りを買うことがどれほどに恐ろしいものかはクロイもよくわかって
「……もしや、貴殿がファーナム殿でしょうか?」
まだ三メートルは距離が空いていたところで、突然投げかけられる。
名指しされたことにクロイの息が止まり、背筋だけが反るほど伸びる。肩を大きく上下し、目を合わせるだけで舌が痺れて返事もできなかった。自分の目と耳を疑いながら、意識を必死に保ち現状を再認識すれば間違いなく王族であるセドリックが自分一人に目を向けていた。小刻みにだけ口が開いて閉じるを繰り返す中、生徒達も突然の名指しに騒然とする。
彼は?特別教室のやつか?誰だ?お知り合いか?とあろうことか、注目が自分にまで向いていることに恐怖しかない。何を言えばいいかもわからなくなるほど頭が真っ白になる中、護衛のアランを従えたセドリックは「白髪に二本の髪飾り、若葉色の瞳……間違いあるまい」と呟き、早足で彼に堂々と歩み寄る。
「すまない、待たせてしまったか。俺がセドリック・シルバ・ローウェルだ。ハナズオ連合王国の王弟だが、今はお前達と同じフリージア王国の民だ。……来てくれたということは、早速引き受けて頂けたということで間違いないだろうか?」
整えた言葉を、敢えて砕けた口調に変える。
力強く笑い掛け、金色の髪を揺らすセドリックに目がチカチカする。黄金に輝く髪の色が問題ではない。それ以前に、王族としての覇気や上等な衣服。存在そのもの全てが眩しくて仕方がなかった。
王族の問いにすぐ応えなければと危機感のみが身体を動かし、クロイはこくこくと繰り返し頷いた。口の中を噛み、これが現実だと逃避しようとする頭に思い知らせながら答えれば、セドリックは「そうか」と嬉しそうに笑んだ。
多くの注目を浴びていることを気にも留めず、クロイに手を差し伸べる。
「感謝する。世間知らずで困らせることもあるかもしれんが、宜しく頼む」
真っ直ぐに自分へ伸ばされたまま宙で止められた手が何を求めているか、クロイは嫌でもわかった。
恐れ多いとは思いながらも、それ以上に断って不興を買うことの方が怖い。震える手をセドリックへ伸ばせば、それ以上を躊躇う間もなく王弟自ら力強く手を握り、握手を交わしてきた。
王族からの握手に響めきが更に大きくなる中、セドリックは燃える瞳でクロイを見た。「お前のことはどう呼べば良い?」と気さくに尋ねてくるセドリックからは、蔑みも侮蔑もそれどころか見下しの眼差しすらなかった。覇気に圧されるようにクロイは、か細い声を震わせて「クロイでも、ファーナムでもお好きに」と返せば、強い頷きの直後にバンッと肩が叩かれた。
「ではクロイ、食事にしよう。お前の話も聞かせてくれ」
そのまま彼の肩を抱き、共に並ぶように食堂へと歩ませる。
第三者から見れば、まるで友人のように扱われるクロイの姿は誰から見ても驚愕の一言だった。彼の中性的な顔立ちに、セドリックの背後について来た令嬢達は一瞬華奢な彼を女性かとも疑ったが、セドリックが周りにも聞こえるように「男同士仲良くしてくれ」と笑えば、その懸念も早々に消えた。
クロイの肩に腕を回して現れたセドリックの視界の中で、食堂内で待ち構えていた女生徒が全く同じ懸念を小声で囁き合うのが、ちょうど見えたところだった。
……姉さんを誘わなくて本当に良かった。
こんな人の注目と騒動の真ん中でしかもこんな至近距離で王族に来られたら、身体の弱い姉は卒倒してしまうと確信しながら、ふらつく足でセドリックと並び歩いた。
気付かれないように少しずつ空気を吸い上げ蓄え、深く吐き出した。気さくに関わってくれたとはいえ、まだ油断はできない。周囲に良い顔を見せても、腹の中ではどんな風に自分を見下し、どんな風に自分が働き回されるかもわからない。
ジャンヌに言われた仕事が、本当にそれだけで済むとクロイは微塵も思ってはいなかった。どんな無理難題であろうとも今から覚悟をしようと、たったひと月の辛抱だと自分に必死に言い聞かす。
「ところで早速だがクロイ」と、不意にセドリックから至近距離に顔を覗かれた。はい⁈と思わず裏返った声で返してしまえば、セドリックは視線だけで目の前のものを指し示す。それに促されるようにクロイも目を向け、……固まった。
「〝日替わり〟も捨て難いが、お前はどれが良いと思う?」
食堂の品書きを前に真剣な表情で首を捻る王弟に、まさか庶民と同じ食事を食べる気なのかと、クロイは本気で正気を疑った。




