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フリージア王国備忘録<第二部>  作者: 天壱
私欲少女と直結

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〈コミカライズ15話編更新・感謝話〉宰相は招く。

本日、コミカライズ15話更新致しました。

感謝を込めて特別エピソードを書き下ろさせて頂きました。

本編に繋がっております。


「彼女がマリアンヌ・エドワーズ。私の婚約者だ」


手を差し伸ばし、愛しい女性の肩を抱き寄せ紹介するジルベールは柔らかな声だった。

始めまして、お会いできて光栄ですと整った姿勢で礼をする女性は、細く垂れた薄桃色の髪を耳へと掛ける。緊張に肌が紅潮し、うっすらと湿り気を帯びていくことを自覚しながらも、なかなか下げた頭を上げられない。思わず伏し目がちになってしまう彼女は、本来であれば社交的な女性だ。

しかし今はそんな彼女も流暢には話せない。婚約者である男性が今日連れて来ると話していた〝友人〟は、伯爵家の彼女でさえ望んで会えるような人物ではない。

こちらこそ、と挨拶を返す男性は、先ほどまで睨んでいると思えていた鋭い眼差しがやっと緩む。握手を求め手を差し出す客に、マリアンヌは恐る恐る白い手でそれを受けた。


アルバート・ロイヤル・アイビー。女王の夫、王配である男性の手を。


「なるほど、ジルベールが惚気ていただけがある。美しい女性だ。いかがです?屋敷での暮らしは慣れましたか」

「!あ、ありがとうございます……。暮らしは、まだ少しずつですが……とても、本当に幸せです」

ふぉわっと顔色がみるみる内にさらに赤らむ女性は、王配の威厳に圧倒されてしまうように一度合わせてまた伏し目になるが最後は綻んだ。

婚約を結んでから共に暮らすことが許された彼女は、ひと月前にやっとこの屋敷へ移り住んでいた。少し前までは実家の狭い部屋に押し込まれていた彼女には、自由に行き来が許される屋敷は未だ身体が馴染まない。しかし愛する男性が帰ってきてくれるのだと思えばそれだけで包まれるように心地が良かった。


「それにしてもジルベール。本当に使用人はこれだけなのか。宰相であるお前ならば屋敷もそうだがもっと使用人の数も増やせるだろう」

「良いんだ。必要最低限は自分がやることが慣れているし、私はマリアが快適に過ごせる分だけ整えられて入れば他は要らないからね」

互いに挨拶を終え、一息吐いたところで改めてアルバートは玄関口から早速内装を見回した。

屋敷を買い、婚約者がとうとう成人すると共に移り住んだ。引越し作業も終えても落ち着いてきたし最初に友人として紹介したいんだと最初に誘ったのはジルベールの方だった。

以前よりジルベールが語っていた婚約者については興味もあった為、多忙な身を無理やりにでも開けて誘いを受けたアルバートだが、フリージア王国の城外にある屋敷へ訪れること自体彼も初めてだった。

ジルベールの屋敷は立派な家だったが、それに反し使用人の数は少なすぎる。王配という来客を迎えるべく屋敷の玄関周辺へ整列していた使用人の少なさにアルバートは呆気を取られた。ジルベールの財力ならば間違いなくその倍以上の数を雇うこともできるのだから。

アルバートの言葉に、マリアンヌの肩を自分の懐まで寄せながらジルベールは首を小さく横に振った。もともと使用人側にいたジルベールと、そして家族に蔑ろにされていた数年間を持つマリアンヌは二人とも侍女のいる生活にそこまで拘らない。掃除や洗濯、料理、手入れといった必要最低限さえ賄われていればそれ以上をわざわざ屋敷の人口を増やしてまで他者に任せたいとも思わなかった。

それよりもお互い二人だけの時間こそが最も彼らには大事なのだから。


「暫くは静かに暮らしたいんだ、私もマリアンヌも。…………ここ暫くは、本当に彼女にも苦労をかけたからね……」

最初は穏やかに微笑んだジルベールの切れ長な眼差しが、後からゆっくりと鋭くなっていく。

音もなく静かに溢れ出す黒い気配に、アルバートも眉間に皺が寄る。「わかったわかった」とアルバートが言う間にマリアンヌも苦笑してしまった。

ジルベールと婚約を結んでから共に住むまでの月日は本当に長いようで目まぐるしかったと思う。今はこうして愛しい彼と過ごすことができたのだから良いと思うマリアンヌだが、ジルベールは未だに許していない。

その愚痴は後で聞くから先に客間へ案内してくれと促す友人に、ジルベールも黒い気配を零しながらも従った。同意の一声をかけながら、多忙な時間の合間を縫ってくれた友人を客間へと通す。テーブルを挟んで向かい合うソファーへと腰を落ち着ければ、すぐに侍女が淹れたての紅茶を彼らの前へと音もなく並べた。焼き菓子もテーブルの真ん中へと置かれれば、主達を残し全員が扉の外へと消えていった。


「確かに、……ひと月前まではマリアンヌ殿も多忙だったな。噂だけならば私の元にも届いている。若いのに落ち着きのある美しい令嬢だと」

「もう私の屋敷に来た限りは二度と彼女の意思に反しては出させないけどね」

引っ越す前までのマリアンヌの評判を口にするアルバートに、ジルべールは少し鋭さの残る言葉でカップを傾けた。

敢えて否定はせずに肩を竦めるマリアンヌは、アルバートにだけ「申し訳ありません」と意思を示すように頭を下げた。ジルベールから親しい友人と聞いてはいたが、まさか王配の発言を否定するとはと心の中で思う。しかし、確かに彼女にとっても婚約を結んでからは大変だった。

〝若き宰相〟の婚約者だと、自分の両親が社交界中に自慢して触れ回るのはすぐだった。今までは屋敷の隅の部屋に追いやられていた自分が、その日を境に社交界にも頻繁に出されることになった。

父親も母親も手のひらを返し「自慢の娘」「大事な秘蔵」と周囲に語って聞かせる度に、本当に調子の良い人達だと思った。しかも今まで自分に興味すら向けなかった姉達すらも「姉妹同士、夫も紹介し合いましょうよ」と急に媚びてきたのだから。

どうやって宰相の心を射止めたのか、何があったのかと詳しく尋ねられても言えるわけもない。自分が愛した時のジルベールは宰相どころか、使用人ですらない立場の少年だったのだから。

既に子どもの頃のように身体は弱くない今は、疲労こそ覚えても社交界や外出が増えたことはまだ良い。今更家族を見返したいとも思わなければ、ジルベールの地位へばかり目を光らせる彼らと家族らしくやり直したいとも思わない。しかし結果として自分の為に、宰相として多忙だったジルベールまでも社交界や家族関連の付き合いに何度も身体を空けさせてしまったことは申し訳なかった。


「もう婚約は結んだというのに彼女が十六になるまではとてもと……、お陰で早々に目処がついた屋敷も長らく持て余してしまったよ」

「未成人なのだから仕方がないだろう。お前だって自分が十七になるまでマリアンヌを待たせたのだから同罪だ」

痛いところを突かれてしまい、次の瞬間にはジルベールはその流暢な口を一度閉じ眉を寄せた。その様子にマリアンヌも今度は堪えきれずクスクスと口元を隠して笑ってしまう。

まさかあのジルベールにこんなに勝てる人がいるなんてと思いながら、二人の会話が楽しくなってきた。王族というのだからもっとジルベールとも格式高い会話をすると思ったのに、早速の会話はまさかのジルベールの愚痴の付き合いだ。


ジルベールが迎えに来た時はまだ未成人だった彼女は、それから婚約こそすぐに結べても家を出るまでには時間が掛かった。婚約者なのだからすぐにでも自分の屋敷にと望んだジルベールだったが、流石に未成人の娘をそんなと断られてしまった。

上手く言いくるめられないかと画策したが、結局はマリアンヌの誕生日までは待たされた。貴族の家としての立場もあるのだろうが、それよりもマリアンヌや婚約者になった自分を周囲の貴族に見せびらかすことが目的だったのだろうとジルベールは思う。

もともと自分が成人してからマリアンヌを迎えに行ったのもその場で両親に婚約を許させる為だったが、こんなに彼女を見せ物にされてしまうのならばやはり先立って行動しなくて良かったと思う。特殊能力で年齢偽装したままであればもっと早く彼女に、とも考えたがそれでも十六になるまで彼女が社交界へ連れ回されることは変わらないのだから。

もともとその成人まではという格式がなければ十六になる前に隣国へ彼女が連れ去られていた可能性もあると思えば仕方なくとも思えるが、どうにも最後の最後に彼女を利用されたことが許せない。これからは彼女が望まない限り絶対あの一族とは関わらないと決めていた。


「しかし社交界にも出さないつもりか?彼女も友人が欲しいだろう」

「いえ、私は。……社交界も、もう充分一生分楽しませて頂きましたから」

腕を組み尋ねるアルバートに、今度はマリアンヌが小さく手を挙げる。

ジルベール自身、あくまで彼女が求めるならばいくらでもお茶会やパーティーに連れて行きたいと思う。そうでなくても二人きりで出かけたい場所は山のようにあり、彼女が屋敷に移り住むまでは準備にも抜かりはなかった。しかし、マリアンヌ自身もまた社交界への興味は薄い。

既に両親に連れ回されて辟易していたこともある。両親や姉達の手のひら返しを見てからでは、どうしても他の令嬢達にも自分を見て貰えている気がしない。姉達と重なるような相手とわざわざ時間を作ってまで仲良くなりたいとは思えなかった。

屋敷の中で顔を合わせることが一番多い女性である侍女達に対しても同じだった。前の屋敷ではその侍女にすら父親に任された業務以外は何も人同士らしい関わりをしてもらえなかった。…………ジルベールという婚約者が迎えに来るまでは。


何よりも、ジルベールと一緒に過ごせるというだけで彼女自身は充分に満たされていた。ジルベールが友人と語るアルバートとは仲良くいたいと思うが、正直ジルベールさえいれば他は何もいらない。

こういうことだ、とジルベールも今度は言葉にはせずアルバートに視線と肩を竦めて笑う。自分もアルバートという友人ができたから良いが、それでも元々彼女さえいればそれで良いと思っている為マリアンヌの引っ込み思案にも否定しようとは思わない。もともと社交的ではある彼女ならば、作ろうと思えばすぐに友人を作れることも知っている。


「ならば、今度は是非城に招かせて頂けないでしょうか。是非、妻にも貴方を紹介したい」

「!つっ、……ローザ、女王陛下のことでしょうか……?!」

「勿論。私の妻は彼女しかいません」

先ほどまでの落ち着きが嘘のように目を丸くするマリアンヌにアルバートもハハッと笑ってしまう。

失礼致しました、と直後には慌てて謝罪するマリアンヌだがそれでも額の汗が零れそうだった。

ジルベールの仕事上で王配と関わることが多いのはわかるが、まさか女王にまで会うことになるとはと思う。アルバートのことはジルベールからどういう人物かは聞かされていたが、ローザについては殆ど知らない。伯爵家でも容易に会うことどころか式典に招かれれば奇跡といえる相手に、自分が本当に会っていいのだろうかとまで考えてしまう。


「未だにずっと愛娘に構いきりでして。友人ができることは彼女にとっても良いことでしょう。ローザもああ見えて友人は少ない」

笑い混じりに語る王配に、マリアンヌも中途半端に口が笑った。

社交界やジルベールから聞いてもやはり肖像画を眺めるだけのような遠さと荘厳さしか感じなかった女王が、彼の口からはまるで本当に普通の女性のように聞こえてしまう。

流石はジルベールと打ち解けた御方だと思う。そして自分と女王では友人が少ないの意味が違うとも。


環境上で友人をつくる機会に恵まれなかった自分と違い、女王の場合はただただ他者を寄せ付けなかっただけだと考える。数多の人間が彼女と親しくなりたいと考えているにも関わらず、自分などが仲良くなれるものかと流石のマリアンヌも物怖じしてしまう。

アルバートから「赤子……子どもはお好きですか?」と尋ねられれば、マリアンヌもゆっくりだが頷いた。子どもと関わった経験はないが、愛らしい存在だと思う。しかし彼が語るそれは幼くとも第一王女だ。

マリアンヌからの返答に「ならば是非」「プライドも喜ぶ」と語る王配はそこでジルベールにも視線を投げた。どうだ?と尋ねれば、ジルベールも肩を竦めながら笑んだ。彼のそういう性格は今に始まったことではないことはよく知っている。マリアンヌに友人ができるのならば言うこともない。女王という遥か上の立場の人間とマリアンヌを関わらせることに不安はあるが、アルバートの愛した女性ならばと信頼が勝った。

今度早速招待状を送ろう、と告げるアルバートに恐縮すると答えたマリアンヌもほんのわずかな希望も抱いた。


「そういえばジルベール。共に住むというならばいっそもう婚姻も済ませたらどうだ?どうせ手放す気はないのだろう」

「そうだね。だが、今の私はこれで満足だから」

宰相としての仕事も忙しい。そう続けながら、ジルベールの声は微笑むと共に僅かに低まった。

アルバートの言う通りこのままマリアンヌと共に生き、他の女性に目もくれる気は毛頭ない。しかし婚約以上の関係をこの先も求める気はなかった。彼女と気持ちが通じ合い、そして共に同じ屋根の下で時間を過ごしていけるのならば他は望まない。

ジルベールの静かな笑みを横顔に、マリアンヌは自身の胸を片手で押さえた。ソファーの上からもそっと彼が膝の上に置いた手へと自身も重ねる。この屋敷へ移り住むよりも前から、彼に婚姻はするつもりがないことは告げられていた。

それが自分を愛していないというわけではなく、寧ろ自分を想ってくれているからこそだと理解もしている。しかし何度その度に自分の気持ちを口にしても、彼はそれだけは頑なだったことは寂しくも思う。自分が愛したのは最初から家柄も血も関係ない、使用人にもなる前の心優しい青年だったのだから。


薄桃色の瞳が揺れるのを、アルバートはジルベールと見比べながら確認する。

両想いには違いないが、やはりまだ若い二人だと思う。以前にジルベールへ「お前達にも子どもができたらプライドとも友人になって欲しいものだ」と言った際、やんわりと濁されたことを思い出す。今日くらい自分も子どもの話題で惚気てみようかと思っていたが、考え直す。まだ十六のマリアンヌだが〝彼女本人が子どもを作れない身体〟という事情があれば、酷く傷つける場合もあると考える。ならばやはりプライドと娘にべったりで虜になっているローザに今会わせるのは考え直すべきかと「勿論また次の機会でも」と自ら提案し直したが、マリアンヌは「いえ是非」と柔らかい声で返した。


「ぜひお会いしてみたいです。アルバート王配殿下の娘様にお会いできるのも、とても楽しみにしております」

「アルバートで構いません。ジルベール、夫婦のことに口は出さないが、こんな良い女性を泣かせたら私が許さないぞ」

「嗚呼……わかっているよ……」

眼差しを鋭くするアルバートと、目の前で怒られるジルベールを前に「私のこともどうぞマリアンヌと」と言いながらマリアンヌはまた笑ってしまう。

すっかり背中が丸いジルベールに、肩の力が抜けていると思えば余計微笑ましい。自分の前以外でジルベールがこんなに力を抜いているところを見るのは初めてだった。子どもをつくる気がないジルベールと違い、憧れがないわけではないマリアンヌだが今はこの二人のやり取りを見るだけでも飽きる気がしない。

しかも今度はそのアルバートの娘にも会わせて貰えるというのならば、それだけで今は胸が弾んだ。


「まぁマリアンヌの為に城相手にかなりの無茶を通したお前には不要な心配だと思うが」

「アルバート、その話はまた城で……。今は彼女の前だから」

「私は興味があります、アルバート様。ジルは、……ジルベールはあまりそのことを話してくれませんので」

「私の前でも遠慮なく呼んで下さって結構です、マリアンヌ。彼から貴方の惚気は聞いておりますので。彼は昔から隠し事をするのが上手すぎる」

いつのまにか最も立場が悪くなっていくことを全身で感じながら、ジルベールは眉を垂らした。

思ったよりも早く打ち解けてくれたアルバートとマリアンヌに、やはり二人とも社交性が高いだけあると思う。マリアンヌもあくまで立場関係なく友好を求めてくる相手であればすぐに打ち解けられる。

貴族に対して良く思っていなかった自分にすら、たったの一晩で心を奪ってしまった女性なのだから。

現摂政には未だ根に持たれている、宰相の試験に年齢操作をして現れた、てっきり年が近いと思っていれば、貴方のことは婚約前から惚気ていた、まさか伯爵家の娘とは思わなかった、と会話が弾めば時間も瞬く間に過ぎていた。

時間が過ぎ、気付けば日が暮れ始めていることを窓と時計で確認したアルバートはそろそろと腰を上げる。

夕食前には戻る予定だった彼を見送るべくマリアンヌもジルベールと共に立ち上がった。馬車までお送りさせて頂きますと、その背中に続いた時。


「マリア。……実はこの後、アルバートと共に寄りたい場所があるんだ。君も付き合ってくれるかい?」


「?…………わかったわ」

突然振り返ったジルベールに掛けられた言葉にマリアンヌは小首を傾げながらも頷いた。

ジルべールの向こうでは、既に聞かされていたアルバートもマリアンヌへと微笑んでいた。二人の笑む顔に、今日はアルバートを歓迎する日だった筈なのにと疑問が浮かびながらも彼女は差し出されたジルベールの手を取った。薄手のコートを羽織り、アルバートを王族のお忍び馬車まで見送ってから自分達も屋敷の馬車へと乗り込んだ。


王配と共にということは城下へのお忍び視察か、それともどこかの貴族へご挨拶かしらと馬車の中で思考を巡らす彼女は敢えてジルベールに尋ねはしない。自分を迎えに来てくれる為にどれだけの苦労をしたかも明確には教えてくれない彼は、話を流すのが子どもの頃よりも上手くなっていたのだから。

馬車がゆっくりとした速度で揺れて暫く、アルバートが別の馬車に乗っていることもあり少しずつマリアンヌの緊張の糸は緩んでいく。アルバートが屋敷へ訪れると聞いてから何日も緊張を覚えていた彼女にとって、屋敷での時間は予想をはるかに超えて穏やかで楽しかった。

結局ジルベールが具体的に宰相となる為にどんな苦労をしたのかは聞かされなかったが、その片鱗だけ聞けただけでも良かったと思う。更には宰相となってからこんな素敵な友人ができたということもマリアンヌにとっては救われた。自分を迎えに来る為に彼がそれだけの茨の道を歩き抜いたかも、どれほど苦悩に満ちた役職についたかもただの令嬢である自分にはわからない。ただ、少なくとも今の彼には職場にも理解してくれる友人がいると今日改めて確認できた。


うつろうつろと瞼が重くなっていく。

隣に座るジルベールの肩に頭を寄りかからせ、大きく胸を膨らませた時だった。ゆるやかに馬車の速度が落とされ、愛しい彼から「着いたよ」と声を掛けられた。

扉が御者によって開かれ、まだ冷め切っていない頭で踏み外さないように気を付け段差を降りる。ジルベールに手を取られ、風の冷たさに頬を撫でられながら少しずつ頭が覚醒していった。

既に王族馬車から降りていたアルバートをほんの数秒だが待たせてしまったことを謝罪するよりも先に、視界に広がる全ての光景に目も心も奪われる。





王族の住む城と、城下を一望できるその景色に。





「ここがお前の話していたマリアンヌとの思い出の場所か、ジルベール」

腕を組み、冷えた風を正面から受けながら尋ねるアルバートにジルベールは一言返す。

以前よりジルベールから聞かされていた馴れ初めに、そんな美しい景色ならば一度は紹介して欲しいものだと語ったのはアルバートの方だった。ならばマリアンヌを紹介した帰りにでもとジルベールからも提案し、この日の為に準備も進めてきた。

薄桃色の瞳を大きく開き、息を飲むマリアンヌはすぐには言葉が出なかった。ジルベールに取られた手も一度は離し、両手で口を覆ってしまう。「覚えているかい」と優しい声で尋ねられれば、言葉よりも先に大粒の涙が零れてきた。忘れるわけがない、今までずっと胸に焼き付いて離れなかった大事な場所なのだから。


「本当は屋敷より前に買っていたんだ。……もっと、早く連れてきたかったのだけれど」

伯爵家の妨害と、移り住んだ彼女の生活が落ち着くまではと残していた。

愛しい彼女の手を取り、その甲にそっと口づける。

マリアンヌの為に婚約してからすぐ共に住む為の屋敷も買ったジルベールだが、〝国の宰相の住居にしては小さな〟その屋敷と共に彼が大枚をはたいたのがこの丘だった。

金も地位もなかった自分と伯爵令嬢だった彼女を結ぶきっかけになったこの土地を、独占しようとは思わない。いつか、自分達と同じような立場の誰かが同じようにこの景色に救われることもあるかもしれない。もともと自分もまた金のない両親が連れてきてくれた場所だ。

ただ、この思い出の地が時の流れと共に誰か一人のものになるか姿を変えてしまうことだけは避けたかった。

自分の愛した彼女と共に、彼女と思い出のこの景色も土地も永久に守り抜きたかった。


変わらず、褪せず、変えられず。

その姿を保ち誰一人のものにもならず、誰一人拒むこともない場所で在り続けさせたかった。


「…………愛している、マリア。何度でも、何億でも生涯君にだけ誓おう。私には君だけだ。これからも共に居よう、そして共に何処へでも行こう。この景色にだって君が望むなら毎夜でも訪れよう」

月に一度、週に一度、二日に一度なんて言わない。もう自分達は自由なのだとそう示す。

同じ姓を名乗らせることどころか、彼女に誇れるような姓も持ち合わせない。血を交わすことも互いの子を持つことも恥ずべき出生である自分にはさせられない。しかしそれ以外の全てをかけて彼女を幸せにするのだと何度も誓う。

想像もしなかった彼の言葉と景色に、マリアンヌは手を取られているのと反対手で口を押えたまま喉を震わせた。

夜景の中で星空よりも眩しく輝く城を背中に、この国の宰相となった愛しい人が自分にだけ愛を誓ってくれる。その事実に、やはり自分が愛したのは〝宰相〟ではないジルベール・バトラーという人なのだと改めて確信する。本当に彼しか要らないと、愛を誓われる度に幸せだと実感する。


涙で視界がぼやけてしまう中、取られた手を自分がらひき寄せるマリアンヌは地面を短く蹴った。取られた先にいると知っている彼の胸へと飛び込めば、何の躊躇いもなく今度はその両腕で抱き締められる。世界で一番安心できる腕の中で泣き、涙が止まらないまま顔を上げれば自分の気持ちを読んでくれたかのように唇が合わされた。

愛し合う二人の姿を眺めながら、口を閉じて笑むアルバートはそのまま再び丘の向こうの景色へと目をやった。

宰相の私有地となりながら、それを示すものは何もない。見張るような衛兵も、立板も標識もないこの地にはきっと自分達以外も訪れるだろうと思う。それも、きっと彼女も望んでいると。

そしてこの二人はまた何度でもここで逢瀬を重ねるのだろうと、静かにそれを確信しながらアルバートは広がる景色を目に焼き付けた。


確かに美しい、と。自分の愛する女性が住まう城とその城下へ思いを馳せた。




……




「かーさま!もう一回読んで!」


絵本を閉じたところで、未成熟な声が跳ね上がる。母親の身体へぴとりと頬をつけながら、甘えた声を出す娘は誰の目にも愛らしい。

マリアンヌ・バトラーは娘の髪を撫でてから絵本を表紙へとひっくり返した。父親譲りの薄水色の瞳に自分がされ心まで癒される。


「ステラ様。マリアンヌ様は身重なのですからあまり無理させてはなりませんよ」

「マリアンヌ様、体調は大丈夫ですか?絵本なら私が代わりますから」

「大丈夫。アグネス、トリクシーもありがとう。今日は調子も良いから気にしないで」

ふふっと口元を隠しながら、心配をしてくれる侍女二人に感謝を返す。

二人目を身ごもってからまた身体を大事にする生活が始まり、外出も減ってしまったが全く苦にならない。それも愛しい夫と娘、そして今では友人同然に親しい使用人の侍女達と衛兵のお陰だろうと思う。

昔は侍女に対してもここまで打ち解けられず、前の侍女達は自分が療養の為に屋敷を離れ暫く経ってからジルベールが解雇したと聞いた。しかし今屋敷で自分の身の回りのことをやってくれる彼女達は、それ以上の存在だった。自分が城で人知れず療養している時からずっと親身になって看病し、自分のことを励まし心配し続けてくれた彼女達は今では自分の愛する娘のことも我が子のように大事にしてくれる。

新しいお茶を用意してくれているだろうテレザを待ちながら、マリアンヌはそこで一度視線を上げる。ゆったりと身体に負担の関わらない椅子に腰かけたまま忙しい合間を縫って訪れてくれた来客へ眉を垂らす。


「ごめんなさい、ローザ。申し訳ありませんアルバート様。折角お二人が揃って会いに来てくれたというのに……」

「何言っているのマリア。可愛いステラとマリアの姿を見れるだけでもう幸せだわ。ねぇアルバート、プライドとティアラが小さかった頃を思い出しちゃう。もうあの頃から本当に二人とも可愛くて可愛くて」

「気にしないで良いマリアンヌ。妻は見ての通り相変わらずの上機嫌だ」

客用の上等なソファーに夫婦で腰かけながら城では考えられないほど頬を綻ばすローザに、アルバートはむしろ凝視して申し訳ないと思いながら手の動きで返す。

城を王族二人で開けることは難しい。他国の王族との交流以外では、緊急時を鑑みて必ずどちらか一人は城に残るようにしている。しかし、今日は貴重な揃って外出予定を空けられる日だった。

流石に愛する娘息子達まで連れての訪問はできなかったが、マリアンヌが身重で城へなかなか訪れられない今はこうして夫婦同士時間を共有できるのはそれだけで喜ばしい。

そして、客が着た途端に普段いつも一緒にいる母親へ急激な構ってを発揮する娘ステラは、普段は大人にも見えてやはり年相応だった。母親と父親の友人であるローザやアルバートにも懐いているステラだが、やはり一番が両親であることは変わらない。


「ステラ。次は私が読もうか?母様にちゃんと我慢している分、膝に乗っても良いよ」

「!乗るっ」

ぽんぽん、と妻の負担を減らすべく膝を軽く叩いて娘を誘えばステラは目を輝かせて場所を移動する。

多忙な父親が構ってくれるならばそれは逃せない。今はお腹に妹弟がいる為、母親の膝に乗せて貰えないがその分甘えさせてくれる父親も大好きだった。

にこにこと満面の笑顔で父親の膝へ自分から乗り上げれば、途中でジルベールが抱き上げた。その途端「とーさま、アルバートさんの前で赤ちゃんみたいにしないで」と逆に怒られる。

いつの間にか自分を叱るところがマリアンヌではなくアルバートやステイルから似てきていると思いながら、ジルベールは「そうだったね」と困り眉で謝った。もう手足も伸びて自分で身体の使い方も知る娘は、幼くても立派な淑女だ。

父親の膝で寛ぎ、さっき母親に読んでもらったばかりの絵本をまた開く。昔は一頁目からではなく飛ばして数頁目から始めることも多かった娘だが、今はしっかり一頁から始めている。


「むかしむかしあるところに、美しいお姫様が暮らしていました。その姫はたった一人で塔の上で過ごし、友と呼べる存在はー……」

娘の求めるままに彼女がお気に入りの本を穏やかに読み聞かせる。

何度も何度も今までも呼んでいるというのに、佳境になるとわくわくと表情を輝かせるステラにローザとアルバートも静かに見入った。テレザが持ってきた新しい紅茶とカップを受け取るマリアンヌも、綻ばせた顔でその光景を眺め続ける。

昔はたった一人家の隅の部屋で過ごし続けた毎日が、嘘のように今は満たされている。こんな幸福を当時の自分に聞かせてもきっと信じない。


「…………もう少し日が沈んだら、最後にあの丘へ行きませんか」


沈み始めている夕日を窓から眺めながら提案するマリアンヌに、全員が同意した。

自分達家族と、そして友人夫婦二人しか知らない秘密の場所はプライド達すらも知らない。民の誰もが足を運ぶことができ、しかし価値を知る者は少なく名も知れない丘は彼女達の大事な場所だ。

いつかお腹の中にいる子もこの両腕で抱いて見せてあげたいと思いながら、マリアンヌは屋敷から離れたその丘へと胸中で思いを馳せる。


自分を包む幸福全てに今日もまた昨日と同じように満たされていた。


Ⅰ64.65.


本日ゼロサムオンラインより(https://online.ichijinsha.co.jp/zerosum/comic/rasutame)コミカライズ15話更新致しました。

美しくも可愛らしい場面も満載です。是非お楽しみください。


〝丘〟の所存については当時から何かの折に書きたいなと思っていた為、やっと書くことができて嬉しいです。


もう読んで下さった読者様も、こちらの感謝話の後にもう一度28頁を確認して頂ければ幸いです。

素敵なコミカライズを書いて頂けるのも皆様のお陰です。

引き続き何卒宜しくお願い致します。

心からの感謝を。


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