Ⅱ204.私欲少女は探る。
「……結構、実技疲れちゃったわね……」
ハァ……と、三人分の溜息が殆ど同時に零れながら私達は階段を昇る。
私だけではない、ステイルもアーサーも今は疲れ気味だった。三限で運良く授業終了を少し早めに言い渡された私達は今こそ好機ということで、三年の教室へと向かうことにした。
授業中ならセフェクのクラスをこっそり窓から覗いても気付かれない可能性が高い。なにより彼女がひょっこり教室から出てきてしまう恐れもない。
だからこそ、教室に戻る同じクラスの子達から離脱して速足でそこへと向かっているのだけれど、……うん。疲れた。
「マナーの授業であそこまで疲弊したのは初めてです……実力試験よりも困難でした」
ハァ……と、また二度目の溜息を吐くステイルに続き、アーサーも「俺もだ」と酷くぐったりとした声を漏らした。私も全面的に同意だ。
三限目は、男女共通のマナーの授業だった。男子女子でも別々に選択授業でマナーはあるけれど、今回のは男女での交流をメインとした為また別の授業科目として選択に含まれていた。
たとえば男性が女性に話しかける時のマナーや、それを女性が受ける時と断る時のマナー。他にも雑談での話し方の受け答えや禁止事項、目上の人に対する所作。同席する時は女性の椅子を男性が引く、という基礎の基礎から今回は実技で順番に行うことになった。
最初にお題のテーマに倣って試しにやってみて、そこから正しい口頭説明と見本で説明を受けて最後に実施。……なのだけれども。
「慣れない動きって……疲れるのね……」
「ジャンヌやフィリップはともかく、まさか俺まで疲れることになるとは思いませんでした……」
私の言葉に、ぼそりと呟くように返してくれたのはアーサーだ。
いやでも、彼も疲れるのは当然だと思う。彼もまた長年染みついた習慣がしっかりとあるのだから。ステイルも「当たり前だろう」と吐く息と一緒に言葉を返していた。
マナーの授業。それは私もステイルも、王族として子どもの頃から受けた教育の基礎だ。
それこそ私なんて、王位継承権を得る八才になる前から教え込まれている。王族は当然、上級層の人間が身に着けて当然の実技はしっかりと身に着けてきた。当然ながらマナーの授業なんてもうとっくの昔に免許皆伝で卒業済みだったりする。そしてだからこそ、今回の実技授業は厳しかった。
座る動作から受け答えまで、子どもの頃から常識として身体に染みついていた私とステイルにとって、〝知らない振り〟はかなりの高等難問だった。
普通に、他の生徒みたいに〝ちょっと惜しい〟レベルとか、〝うーん違うかなぁ〟というレベルの塩梅がわからない。特に私は既に実力試験で一度やらかしちゃっているから、今回こそは普通レベルに紛れ込もうと思っていたらもの凄く難しかった。姿勢とか手の取られ方とか、受け答えとか、普通に無意識に常識として返したら正解になっちゃうし、でも〝正解〟以外の受け答えがパッとすぐに出ない。
大体はなんとか前世の一般庶民の記憶でやり抜いたけれど、マナーの先生に見られている時なんてわざと少し背中を丸めたりしてみたら逆にもの凄く歩きにくいし落ち着かなかった。
しかも、ステイルなんて運悪く最初の「では、試しに女性の手を取って歩く時は?」と正解を伏せられた状態でやってみましょうの時に講師に当てられてしまっていた。
正解なんてステイルはもうパンにバターを塗るくらいに簡単な動作だけれど、そんなの急に何も知らない筈の一般人が全部できたら不思議がられてしまう。結果、わざとぎこちなく動いてミスとかも入れていたけれど、明らかにすごくやりにくそうだった。いつもの動作から敢えて外しているから、違和感も凄まじいに決まっている。
アーサーだって騎士としてのマナーや礼儀は本隊騎士になる時に義務づけられているから、もう完全に板についているものを引きはがさないといけなかった。マナーの講師にも〝姿勢が良い〟と褒められていたけれど、たぶん意識的な悪い姿勢ができなかったんだろうなと思う。
任務中どころか、私やステイルの前で寛いでくれている時でさえ落ち込んでいない限りはピンと背筋が伸びているもの。
結果的にはアーサーが一番男子の中ではマナーの評価も良かったんじゃないかと思う。必死に手を抜こうとはしていたけれど女性を相手に粗野な扱いも躊躇われたらしく、結局丁寧な誘導をしていた。アーサーらしくて素敵だと思うけれど、本人は隠しきれなかったことに少し落ち込んでいた。いっそ今の方が背中も丸い。
「習慣って怖いンすね……」
そう言って長く深い溜息を吐くアーサーは、眉間に皺が寄って騎士団長に似ていた。相当疲れている。
私もこの上ない同意で「そうね」と苦笑してしまう。まさかマナーでこんなに目立たないようにするのが難しくなるとは思いもしなかった。
教養やマナーを一から身に着けるのも大変だけれど、逆に身についたものに逆らうのも結構大変なんだと身を以て思い知る。逆を言えば一度覚えたら一生物と言えなくもないけれど。長年の癖はなかなか抜けるものじゃない。
階段を上りきり、とうとう三年の教室が並ぶ階へと辿り着く。
まだぎりぎりどこのクラスも授業中らしく、廊下に出ている生徒は一人もいなかった。なら今のうちにセフェクのクラスをと私達は足音に注意して廊下を歩く。
「ええと、セフェクって何組だったかしら。名簿では確か……」
「確か二組だったと思います。ケメトが特待生になれたと聞いた時にティ……妹に、話していたのも聞きました」
言葉を選んで言い直してくれたステイルは、眼鏡の黒縁の位置を直しながら断言してくれる。
以前にステイルがティアラと一緒にヴァル達を客間で応対してくれた時のことだ。満面の笑みでケメトの特待生を報告しに来てくれたのを思い出す。流石ティアラ、ちゃんとセフェクとケメトから細かく学校での生活を聞いてくれたのだろう。
セフェクのクラスがわかったことにほっと胸をなで下ろし、私達は早速二組へと向かった。足音を消し、ピシリと閉じられている扉の窓から息を潜めて慎重に教室を覗けば
「……?誰も居ないわね……」
まさかのもぬけの殻だった。
生徒が誰一人いない。どうやらこちらも選択授業だったらしい。男女共有か、それとも男女別か……、ちゃんと確認すべきだった。今日、帰ったらすぐにジルベール宰相に中等部だけでも各クラスの時間割表を見せて貰おうか。
基本的に全校生徒で二限か三限には男女別の選択授業が必ず入るようになっているから、想定できることではあった。
なら、後は教室に戻ってくるところを待ち伏せして確認した方が効率的かもしれない。
教室に突入して歩き回らなくても、全員が順番にベルトコンベア方式で顔を見せてくれるならそれに勝るものはない。そう考えた結果、私達は二組の生徒が戻ってくるまで階段付近の物陰にコソコソと潜むことにした。
ちょっと教師に見つかったら不審者扱いされそうだけど仕方が無い。ちょうど角に階段を上りきって曲がったところの踊り場が死角になっているからそこに気配を消して身を隠す。ここからなら通りがかる生徒も一人一人確認できる。
私達が身を完全に隠しきったところで、ちょうど本鈴の鐘が鳴った。
授業が終わりの合図と共にざわざわとさっきまで無音だった廊下から階段の下までが騒がしくなる。上の階段もあったけれど、そちらは大して騒がしくない。特別教室の階は、最上階な分基本的に移動教室が必要ない作りになっているから授業が終わっても上り下りする生徒は滅多にいない。昼休みすら学食とかで降りなければずっと上階のままだ。今は高等部のセドリックが毎回学食に降りているから、彼目当てで一緒に降りてくる生徒は多いらしいけれど。
暫く待てば、四限を前に移動教室する生徒で階段の前を大勢が行き交い始めた。
二限と三限は特に生徒の往来が多い時間帯だから当然だ。これだと二組の生徒を見逃しかねないと、しっかり階段を上ってくる生徒へ目を凝らす。この階に戻ってくる生徒の中に必ず二組の生徒はいる。
すると、少ししてから男子生徒達がガヤガヤと纏まって階段を上ってきた。顔付きから判断しても十五才前後の子で間違いはなさそうだ。少なくとも今まで確認した二年と一年の生徒ではない。
ステイルが「彼らも二組ですかね」と小声で呟くと、アーサーが「俺、どこの教室か確認してきます」と物陰からそっと飛び出してくれた。アーサーならセフェクに万が一出逢ってバレても唯一問題ない。
もしアーサーが付いていった彼らがセフェクの生徒だったら都合も良い。
攻略対象者は男性だし、彼らさえ確認できてしまえば女子生徒を確認する必要はないに等しい。乙女ゲーム二作目のキミヒカでそれだけは間違いない。
じっと、集中して物陰から男子生徒の顔を一人一人確認する。集団登校のように二、三人ずつ列を作って歩いてくれているから確認もしやすい。一,二,三……と、人数も数えながら連なる男子生徒を捉える。最後の一人までしっかりと確認したけれど、記憶に引っかかる生徒はいなかった。後から遅れて現れる子はいないかと、瞬きも惜しんで見つめ続けたけれどやはりいない。
暫くして、他の男子集団が階段を上って来たから彼らのこともしっかり確認する。他のクラスか二組かと、じっと顔を確認していれば彼らの流れに逆らうようにして一人アーサーがこちらに戻ってきた。目立たないように、他の生徒達の流れから外れて私達のいる物陰に滑り込むように来る。
身長や顔立ちだけでも目立つ筈のアーサーだけど、こういう時にさっと気配を消せるのは流石熟達した騎士だと思う。
「二組でした。全員あのまま一人残らず教室に入っていきました。男女別の授業でした」
「人数は確認したか」
ああ、と。アーサーが教室に戻った男子生徒の人数を教えてくれる。
どうやらステイルもアーサーも私と同じことを考えてくれていたらしい。本当に頼もしい。
アーサーが教えてくれた人数は、そのまま私とステイルが確認した人数と一緒だった。なら、さっき通った男子生徒全員が二組男子の総数ということだろうか。
目だけは変わらず階段を行き来する生徒に向けながらそう考えていると、不意に女子の甲高い声が耳に飛び込んできた。
「本当にセフェクすごい!!」
「どうやってレベッカ達を助けてあげたの?」
その言葉に、慌てて私は息を止め物陰に身を隠す。
ステイルとアーサーも同時に壁に一体になるようにして気配を消した。セフェク、とその言葉が階段の下から聞こえてくればもう確実だった。本人の声はまだ聞こえないけれど我が国であの子の名前は珍しいし二人も居るとは思えない。
耳だけを澄ませて階段の声に集中してみれば、彼女達の言葉に返すようにやっぱり聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「秘密。でも、あんな連中ちっとも怖くないわ。レベッカ達を見つけられたのだって気付いたのは私じゃなくて……」
「でも追い払ったのはセフェクなんでしょ⁈」
「レベッカもすごく格好良かったって言ってたし!」
どうやらセフェクが友達を助けてあげたみたいだ。
ちょっと照れたような声に、大分クラスの子とも馴染んでいるようだなとほっとする。すごいすごいと女の子達が褒めてくれるのに少し押され気味なのが可愛らしい。顔を覗かせなくても、照れ笑いを浮かべているセフェクの顔が思い浮かぶ。……でも助けたって……?
「ねぇ、どこにその高等部の人達がいたの?」
「ええと、ちょうど下の階の……」
タンタンと登っていた複数の足音が止まる。階段を上りきったあたりで立ち止まったようだ。
あの辺、とセフェクが言う声が聞こえたけれどここからでは確認できない。
でも、高等部という言葉に私達はお互い目だけを合わせて確信する。ケメトに続きセフェクまでどうやらその被害に遭ったらしい。そしてその男達をセフェクが追い払ったと。……流石としか言いようがない。
ケメトに触れないと放水車レベルは出せないセフェクだけれど、年上相手に物怖じしないところはやっぱり配達人業務で鍛えられた成果だろうか。
国内外の野盗や盗賊人身売買の裏家業達に見慣れてれば大概の相手には怯まないだろう。しかも彼女達がいつも一緒にいる人が最も凶悪な顔をしているもの。
そんなことを考えていると不意に
……足音が、近付いて来た。
きゃあああっ?!と心の中で叫びながら複数の足音接近に息が止まる。
こっち?えっここ裏側なんてあるんだ、と言う声からして確実にセフェク達だ。まずい!まずいまずい!!
こんなところで彼女達がこっちに来るとは思わなかった。
まさか気付かれたのかとも考えたけれど、多分さっきの「あの辺」が私達のいる場所だったらしい。今はどちらにしろ逃げ場がない。
背後には壁と窓だけで前方からは複数の足音がどんどん近付いてくる八方塞がりだ。振り向けばステイルとアーサーも非常事態に気付いて目を見開いていた。ステイルが背後にいるアーサーに背中をくっつけ、私にも下がるようにと腕を引いたところで
視界が切り替わった。
「……すみません、非常事態だったもので……」
突然切り変わった視界に三度瞬きを繰り返し固まると、低めたステイルの声が掛けられた。
振り返れば私とアーサーの手を掴んだまま見つめ返してくれた。瞬間移動で緊急脱出をしてくれたらしい。背後でアーサーがほっとしたように肩を下ろして息を吐き出していた。
「ううん、ありがとう。助かったわ。……ええと、それでここは?」
本当にあそこで使ってくれて助かった。判断があと一瞬でも遅れていたらセフェク達に見つかって、その後では瞬間移動ももう使えなかったもの。
感謝を込めてステイルに握られた手をぎゅっと掴み返しながら笑みで返す。周囲を見回せば、そこはどうやらまだ学校の敷地内ではあるようだった。
「人目のない場所だとここが一番だったので」と言うステイルの言葉を聞きながら、見覚えのある場所だとわかった。校舎裏だとまで検討がつけば、やっと具体的にどの位置に私達がいるのかも理解する。アーサーが私を抱えて隠れてくれた校舎裏だ。確かにここなら人目もなくて安心できる。
ただし、ここから私達の教室までは結構距離がある。今は昼休みでもないし遅刻しない為には急がないといけない。
教室に戻りましょうか、と声を掛け前回と同じルートで教室へ向かおうと足を踏み出せば
「ヒャハハハハハハッ………」
「「「……………………」」」
不吉な、声がした。




