Ⅱ167.私欲少女は知らされる。
「え……ええと、ジャンヌ……ごめん、僕らが呼び止めた所為で」
「僕ら、じゃなくてディオスでしょ。あと呼び止めたどころか抱きついているし」
頭が鉄球にでもなったかのように重く垂らし肩を丸め打ち拉がれるプライドに、流石のディオスも今は上機嫌ではいられなくなった。
職員室へ急ぎ慌てる彼女は既にネイトという人物が荷物を受け取り去ったと聞いた時から、一気に脱力してしまった。今も人目を忘れて職員室前の廊下で壁に寄りかかり顔を覆っている。アーサーとステイルが交互に慰め、「とにかく家に帰ってから考えましょう!」「俺もジャックに同感です。詳しく話を聞かせて下さい」と言葉を掛けてやっと少しずつ重い頭が持ち上がってくる。
だがそれに打って代わり、ステイルから彼女が職員室で私物を没収された生徒に会おうとしていたことを聞かされればディオスの顔色が悪くなった。まさかのジャンヌの邪魔をしてしまったのだと思えば、暫くは口を僅かに開けたまま掛ける言葉が見つからない。
隣からクロイの「あ~あ」というわざとらしい呆れ声にすら泣きそうになった。絞り出せた言葉も辿々しい謝罪である。
「いえ、ディオスも悪くないわ。私こそこちらの都合で付き合わせちゃってごめんなさいね」
お姉様も待たせているのに、と続けながら何とか笑って見せるが、どうしても眉は垂れてしまう。
二人が悪いと思っていないことは事実だが、ネイトに会えなかったことはかなりの痛手だった。ここが自室だったらベッドに転がって枕に突っ伏していたい程度には落ち込んだ。しかし、今は悪くない二人が気負わないようにとそれだけの為に意識を切り替える。
彼らも彼らで自分に何かを話す為にわざわざ大事な姉を教室まで迎えに行くのも置いて教室前で待ち、その後も職員室前まで付き合ってくれたのだから。
プライドからの覇気の無い笑みにブンブンと首を横に振るディオスは「本当にごめん」と言うが、まだ表情は曇ったままだった。その表情に「大丈夫よ」と言い聞かせるように笑うと、プライドはそっと彼の頭に手を伸ばす。
「そんなことより話を聞かせて欲しいわ。二人の話が聞きたかったのも本当だもの。私に何か話したいことがあるのでしょう?」
ね?と優しく言葉を重ね、ディオスの白髪を髪の流れに沿って撫でる。さらり、さらりと触り心地の良い髪がプライドの細い指の隙間を通った。
その途端、やっと、ディオスの狭まっていた肩からも力が抜けた。うん、と短く返したディオスは撫でられる感覚に心地よさそうに顔を緩ませ、小さく頷く。セドリックの力強い手とも違う女性らしい手の柔らかな撫で方が、姉のヘレネにも少し似ているなと頭の隅で思う。
数度頭を撫でるのを繰り返し、そっと耳に掛けてからプライドが手を引けばディオスも合わせるように顔を上げた。「えへへ」と照れるように笑う顔は、双子の弟であるクロイより二、三歳は幼く見えた。
その様子にクロイは鼻息だけで音も無く息を吐くと、つんっと軽くディオスを肘で突いた。早く言いなよ、という意思を込めれば口の中を飲み込んだディオスは一度姿勢を伸ばしてから改めた。
「あ、のさ実は……」
一度、人目を確認するように廊下から正面の職員室を首ごと動かして確認する。
誰も見ていないか、聞かれないかと声も最小限まで抑える彼にステイルとアーサーは若干嫌な予感が過ぎった。二人もプライドと同様にディオスが何を報告しようとしているのか予想は付いているが、既に一度プライドに求婚もどきをやらかしている彼にはどうにも警戒してしまう。まさか友達からでもと再挑戦をするのでは、もしくは二度目の告白に乗して口付けまで踏みだそうものなら即刻止めに入らなければと緊張感すら張り詰める。
ピリピリとした二人の空気は抑えられこそしたものの、細い空気の伝導がディオスとクロイまで僅かに影響した。ピリッと薄い緊張を上乗せされ、ディオスはまた口に出す前に二度も喉を鳴らし、湿らせた手の平をぐっと強く握った。
大丈夫、あれは夢じゃない、本当にあったことだし嘘じゃ無いと。そう自分に言い聞かせたディオスは意を決し、抑えた声でプライド達へ告白した。
「僕ら、セドリック様に卒業したら働かないかって言われててっ……!!それで、来月から週に二回お城で使用人もさせて貰えることになったんだ……!」
爪が僅かに食い込むほどに握る拳は強い。
これ以上の大事件などあり得ないのではないかと思うほど、ディオスとクロイにとっては大ごとだった。普通の生徒に話せば「嘘つけ」と一蹴されるような夢物語に等しい。
信じて貰えるのか、驚くか、喜んでくれるかと考えれば考えるほど、後回しにされればされるほど自分の中で緊張感が膨らんでかき立てられるのはクロイも同じだった。だからこそ今も大事な姉を迎えに行くのをおいてプライドに会いに待ち、その後も面倒がらずに職員室まで付いてきた。
潜ませても緊張の色がわかるほどに震え、強く放たれたディオスの告白は、勿論プライドも最初から予想は付いていた。セドリックが彼らに打診するよりも前に彼女は相談を受け、そしてその後も彼らが誘いを受けてくれたことを雇い主本人から聞かされているのだから。むしろやっと本人の口から聞けたというのにも近いその話題にプライドは
「良かったじゃない!!凄いわ!本当に本当におめでとう!!卒業前に就職先を見つけちゃうなんて本当にすごいことよ!」
全力で喜んだ。
両手を合わせてパッと目を輝かせ、握手でも交わすように二人の右手と左手を握り締める。
とうとうその嬉しい報告を二人から聞けたことに、曇っていた胸の内へ僅かに陽が差した。わざわざディオスとクロイが自分に報告しに来てくれたことも嬉しくて仕方ない。自分にとっては可愛い教え子でも、二人にとってはお役御免といわれても仕方の無い臨時教師である。しかも一番大活躍した最強家庭教師はジルベール、最高のご褒美を贈ったのはステイルだ。
そう思えば、二人がここまで自分に付き合ってでも報告をしてくれたことだけは充分にプライドには嬉しいご褒美だった。何より、顔を緊張で紅潮させながら報告してくれたディオスと、彼に並び唇を結びながらも自分に真っ直ぐ視線を注いでくれたクロイの若葉色の目両方に光が宿っているのを見れば、手足まで羽のように軽くなった。
おめでとう!おめでとう!と、順々にディオスとクロイに目を合わせながら何度も告げるプライドに、クロイまで段々と口元が緩んだ。花のような笑みを正面から捉えた途端、反射的に目を逸らす。緩む口元を誤魔化すように尖らせれば、不思議と動悸まで感じることに気付いた。握られた手が熱いのがジャンヌの温度か自分の温度かもわからなくなる。
「ジャンヌのお陰だよ!だってジャンヌが紹介してくれなかったら」
「ディオス。一応職員室前だからそれ以上は抑えて。また声大きくなってる」
自分と違ってジャンヌの笑顔にも怯むこともなく、むしろ倍の熱量で跳ね上がるディオスにやっとクロイの口が動いた。
むぐ、とせっかく喜んでいる最中なのに水を差されたことに眉の間を寄せたディオスだが、クロイの言葉も尤もだと一度口を絞った。それから「ジャンヌが紹介してくれなかったら王族になんて絶対会えなかったし」と浮き立つ気持ちのまま声を上げられないことを悔しそうに細く続けた。まさか目の前にも王族が二人いるなど思いもしない。
二人の報告を聞いたステイルとアーサーも「おめでとうございます」とそれぞれ祝いの言葉を掛けると、響かないように配慮しつつもパチパチと拍手を贈る。
ディオスも、プライドから握られた手を両手で包み返す以外は不審な動きを全くしない。むしろプライドに祝われたからクロイに水を差されるまではひたすらニコニコニコニコと無邪気な笑みを浮かべ続ける彼とプライドの様子は二人にも微笑ましく映った。
ステイルとアーサーからの祝いにも気付くとディオスは更に跳ねた声で「フィリップとジャックも本当にありがとう!」と全く含みの欠片もなく叫んだ。今度は潜める必要のない言葉は、思い切り廊下まで響いた。
ディオスの言葉にアーサーは「いえ、自分は……」と謙遜どころか本気で思い当たらないと両手のひらを胸まで上げてしまう。しかしステイルに小声で「これぐらい受け取っておけ」と針で刺すような強さで言われればすぐに口を貝にした。
確かに今はそうするべきだと思い直し、ごくんと飲み込んでから再び開けた口で「本当におめでとうございます」と心からの言葉だけで返した。自分が大して何も出来なかったとしても、そんな自分にも感謝をしてくれるくらいにディオスもそして隣で視線を送ってくれるクロイにも嬉しいことなのだろうと思えば、ただただ嬉しいことだと思えた。
「凄いのはディオスとクロイよ。お気に召して頂けたのは間違いなく貴方達だからだもの。特待生というだけで、セドリック様が選ぶわけないわ」
アーサーの気持ちも汲み、そして自分やステイルにとっても間違いない総意をプライドは言葉で渡す。
彼らをそこまで押し上げる為に女王ローザへの交渉材料になったのは確かに〝特待生〟だが、それ以上に彼らの実力と魅力が大きいのだと考える。基本的に自国やフリージア王国の民には好意的なセドリックだが、自分を利用しようとする人間や悪意の強い人間に対しては寧ろ通常の王族より嫌悪が激しい人間であると知っている。自分の紹介だからという理由だけで彼らを欲しがるわけもない。
そんな彼が、自分から頼み込んでまで彼らを引き取ることを願ったのだから。
その事実も含めてのプライドの言葉に、ステイルとアーサーも深く頷いた。セドリックが二人を城に招き入れたいと願ったことに対しても、全く抵抗はなかった。既にこの数日でディオスからジャンヌへの危機感はあるものの、ファーナム兄弟の人格については全く不安もなかった。
ステイルとアーサーの目から見ても、二人は頭も回り、吸収力もある優秀な人材だと思う。孵化させたのはプライドとジルベールだが金の卵を早早に確保したセドリックの慧眼は、流石はあのサーシス王国国王の弟だとも考えさせられた。
その後もおめでとうおめでとうと飽きることなく繰り返すプライドと、ありがとうありがとうとやはり飽きることなく繰り返すディオスに、段々とクロイの胸の息が減ってきた。ふーっ……と気付かれないように息を吐き、それからやっと頭の中で何度も整理しきった言葉を紡ぎ出す。
「…………それでも。君の、……君達のお陰なのも違いないから。お礼だけは言っとくよ。…………ありがと」
ぽつぽつと言うクロイからの感謝の言葉に、プライドとディオスは殆ど同時に顔を向けた。
彼が礼を言うのは今回が初めてではないが、こうして改めて言われるともの凄く貴重な気がするとプライドは思う。彼がわざわざ言葉にしてくれようとしたのだなとわかれば、力一杯の笑顔で「どういたしまして」と返した。
十四歳のくせに笑い皺が見えるほどの笑顔を向けてくる彼女に、クロイは少し皮肉も言いたくなった。だがそれよりも先に顔ごと背けて表情筋に力を込める。気を抜いたら自分まで顔が緩んでしまいそうだと顔の内側からのくすぐったさで自覚する。今ここで笑顔を向けたら負けのような、またディオスに余計な誤解を言われて腹立たしくなるような気がして防衛するように噛み殺した。
お礼を言ってくれながら怒っているような表情のクロイに、プライドは本当は言いたくないのを我慢してまでお礼を言ってくれたのだなと早々に空気を変えるべく明るい声を投げかけた。
「クロイも。ディオスと一緒に働くのよね。兄弟で一緒の職場なんて素敵だと思うわ!」
ねっ、とそこで同意を求めるようにステイルとアーサーにも視線を投げる。
プライドのその言葉に、きっとファーナム兄弟のことだけを指して言っているのではないだろうなと二人も理解すれば不意打ちに笑ってしまった。
そうですね、と苦笑気味の声で返すステイルと、すげぇ良いと思います、と隣に立つ相棒と城で待つ次期王妹を思い出すアーサーの目は二人とも声色以上に笑んでいた。プライドにとってこの先の道行きが本当に良いものなのだと思えば、それだけで二人の胸まで温まった。
プライドの言葉に「まぁね」と軽く返すクロイは、対称的にわざと冷ややかな目線をディオスに送る。弟からの冷たい視線にまた何か言われると確信したディオスは、僅かに身を縮めて睨み返した。身長は同じの二人が完全に弟が兄を見下ろす形になっている。
「絶対稼ぎの良い仕事だし。セドリック様以上の雇い主なんていないしディオス一人だけそんな所で働かせるのは色々と不安だし。それに、…………ディオスとセドリック様って何か似てるから放っておけないところもあるしね」
兄に対し容赦ない皮肉に、ディオスは「なんだよそれ!」と流石に声を上げた。
鼻から息を吐き、眉間に皺を寄せた顔を真っ直ぐクロイへ近づける。正直にこれ以上ない良い職場だと言えずに淡々と誤魔化す弟に「セドリック様に失礼だろ!!」と叱りつける。
自分のことはある程度クロイから悪く言われても仕方ない部分はあると思うが、セドリックまで妙に悪く言われている気がするのは聞き捨てならない。怒りのあまり無意識に繋いでいたプライドの手まで強く握り締めてしまう。訂正するように言ったが、クロイは「事実だし」と一言で切った。
今にもまた兄弟喧嘩を始めそうな二人にプライドも苦笑いをするが、心の底でほんの少し「確かに」とも思う。
セドリックとディオスの互いの距離の詰め方は似ている気がすると、言われてみれば程度にだがそう思う。
思い返せばクロイはセドリックを慕っているかどうか悩む部分もあったが、ディオスについてはセドリックへの好感度は誰の目から見ても明らかだった。
飛びつけば抱き締め返され、誘えば全力で飛びついてくる。そう考えると、今までセドリックを慕っていたディオスの姿が従者というよりもまるで弟のようにも思えてきた。
双子で姿こそクロイと瓜二つのディオスだが、性格的には完全にセドリックの弟と言われた方が納得がいくと、プライドだけでなくステイルとアーサーも同じことを考えた。
更には特殊能力抜きでもセドリックに同調しやすいディオスを思えば、〝ディオスの〟と言うよりも〝ディオスとセドリック〟の傍にはクロイも必要な気がしてきた。
セドリックが何かを思いついた時にディオスは間違いなくそれを支持して応援し、そしてクロイは間違いなく冷静な判断を進言してくれる立場だと。これまでのディオスとクロイのやり取りからも判断できた。
「……本当に。セドリック王弟殿下を二人で宜しくね……?ディオス、クロイ」
うん!いやこっちが宜しくしてもらう方でしょ、と。全く温度差の違う返事をするディオスとクロイに、プライドは改めてファーナム兄弟二人が揃う重要性を確認した。
まるで思考を巡らす時に出てくる天使と悪魔の囁きのように、彼ら二人なら有力な第二第三の目にもなるだろうと強く思った。
やっとセドリックへの就職報告を終えた二人は、足早にヘレネを迎えに高等部棟へと去った。
プライド達も門前にエリック、そして恐らくは共に待ってくれているであろうセドリック達をこれ以上は待たせられないと急ぎ校門へと向かう。ネイトの所在や状況を確認できなかったまま二日も開けることになってしまったことは深刻だが、それでも城に帰ればやれることもある。ネイトとそしてもう一人についてもできる対策を進めるべく、協力も仰ごうと考えながら焦る気持ちを必死に抑えるプライドは早足で昇降口を飛び出し、ステイルとアーサーと共に校門へ
「ジャンヌごめんねっ!!本当に本当にごめんなさい!!!」
辿り着こうとした、時。
目で捉えられる距離まで校門に近付いたプライド達に、一人の少女が駆け寄ってきた。
校門に並ぶ面面と、そして近付いてくるその女性にプライドはヒュッとステイルの息を引く音を確かに聞いた。
目を丸くし、思わず辿り着く前に急速に足を止める。
駆け寄ってくる少女を迎えながら、一足先に合流したハリソンも含めた校門前に立つ自分達のよく知る人物五名とどこか覚えのある一名。彼らの並びに、一体何がと状況の整理が付かないままプライドは眼前で足を止めた少女の名前を呼んだ。
この上なく申しわけなさそうな表情で、いつものハツラツとした表情とは打って変わり弱々しく首まで窄める友人の名を。
「アムレット」




