Ⅱ160.騎士は上がり、
「す、……フィリップ?ジャックはまだ何かすごいことして見せたの?」
口の中を飲み込んだ後、おずおずとステイルの言葉を確かめるべくプライドが投げかける。
既に目先では大勢の生徒の目の前で何度も受け身を見せてはケロリと立ち上がるアーサーが充分過ぎる喝采を受けている。しかも人数をこなしていく内に男子生徒の何人かは練習した時のようなゆっくりした動きではなく、軽い悪戯気分でアーサーの軽い拳に本気で腕を引いたがやはりそれも瞬時に受け身を取られた。目の前でくるりと宙返りし着地する光景は、それだけでも戦闘慣れしていない彼らの目を奪うには充分だった。
「あれ以外って、……まさか騎士様を倒したとかじゃないよな……?」
この場にいる教師ではなく、むしろいつもは昼休み過ぎまで居るという騎士講師の安否をパウエルは疑った。
それにステイルは首を振って返すと「流石にそれは」と軽く笑った。他でもない優秀なカラムが、身体能力自体は十四歳に戻ってしまっているアーサー相手にたとえ不意打ちでも負けるわけがない。
更に言えば、たとえ相手がカラムではなくただの一般教師であろうとも教えを受けている立場でアーサーが相手に恥を掻かせるような真似をする訳もないと知っている。
ステイルの返事に余計プライドとパウエルは疑問しか浮かばない。今ですらあんなに注目を浴びているアーサーが他に何をしたのかと考える。
受け身や指二本の腕立て、生徒を軽々抱えて先頭集団ごぼう抜きまでも行っているアーサーはそれ以外にも自身の身体能力を意図せず披露してしまっていた。
「もしかして、さっき皆が話していた話のどれか?」
先ほどアーサーが男子生徒達を引き摺って教室に入ってきた時のことをプライドは思い出す。
抽象的ではあったが、彼らはアーサーが飛んだ、回った、急速発射と話していた。それにステイルは「ええ……」と短く返すと、一度指先で眼鏡の黒縁を押さえつける。
確かにあの時彼らはそう話していたが、あまりにも抽象的な言い方で流石のプライドも察するのは無理だろうと理解する。
食べる手を止めてしまうほど自分に疑問の眼差しを注いでくる二人に、説明をしようとステイルが一口囓りきったパンを降ろす。すると、ちょうどアーサーの方向からまた別の男子生徒の声も上げられた。
「ジャック!ジャック!あの木のヤツも見せてくれよ!」
そう叫んだ彼は、校庭の脇にある大木を指さした。
先ほどまで何度も受け身を披露していたアーサーは、ずれかけた眼鏡の弦を両手で直すと指された先へ顎を反らすようにして見上げた。
そうだそうだ見たい!と第一声者に同意する声が次々と男子生徒の間で沸き上がる。当時授業で一緒にいた自分達以外の生徒を驚かそうと、敢えて内容を伏せた言い方で所望する。
アーサー最後のやらかしは、授業最後のメインとも呼べる剣の打ち合いだった。
カラムの指導の元、構えから基礎の基礎である突きと返しを習った彼らは最後に二人一組で打ち合いを行った。本物の騎士であるカラムと教師の手合わせは、あくまで基礎と簡単な打ち合いでしかないとわかっていても生徒達の胸は弾んだ。しかも始めて握る模擬剣となればそれだけで目も輝く。
安全性の高さが重視の安物でもある模擬剣だったが、それでも騎士になれたような錯覚に大ぶりをしてしまう生徒はどの学年にも必ず一人は居た。
そして今回も漏れなく大振りを振ってしまった生徒が出た。
相手に怪我こそさせなかったが思い切り弾き上げてしまった剣は天高く飛び上がり、弧を描くようにしてアーサーとステイルの背後にある大木の上へ引っかかった。
それまではステイルに誘導される形で、お互いに基本の型を順調に繰り返しては〝筋が良いのはわかるが普通〟程度の打ち合いを維持していた。間違いなく目立っていなかったとステイルも断言できる。しかし、騎士であるアーサーは剣が弾かれた音や空に描かれた銀色の軌跡には自然と耳や目が反応してしまった。
ガサッ、と木の遥か上へ引っかかってしまった模擬剣に何人かの生徒も手を止めて振り返った。
なにしてんだよ、騎士様が遊ぶなって言ってたのに、あーあ、早く取りに行けよな、と。半分笑い半分呆れながら、その生徒と頭上の剣を見比べた。
弾き上げてしまった生徒も仕方なく剣を取りに木を上ろうとしたが、あまりの高さに足を引っかけようとする前から疲れてしまった。既に筋力鍛錬から走り込み、格闘術にと繰り返した後の木登りだ。自業自得とはいえ続く肉体労働と、放課後には仕事でもまた疲れるのだと笑いながら溜息を吐いた時。
俺が行きますよ、と。またアーサーが前に出た。
木登り得意なんでと言うアーサーに、彼も遠慮する間もなく任せた。彼の身体能力をいくつも目にしていた為、確かに自分より木登りも上手いだろうなと納得できた。
そしてアーサーの相手をしていたステイルも、格闘や剣ならまだしも木登りくらいならばどれほど要領が良くても悪目立ちはしないだろうと黙認した。何より、困った相手がいれば誰よりも先に動いてしまうアーサーの性格をよく知っている。ここで見て見ぬ振りをできないことぐらいは諦めた。ステイル自身、本来ならば足を捻った生徒も木に引っかかった剣も瞬間移動を使えば簡単に解決できるにも関わらず、敢えて隠している。ならもうバレてしまったアーサーの身体能力での軽い助力くらいは大目に見て、ジャンヌを守る護衛的立場として押し出した方が効率的だと。その時には今後の策も組み直し終えていた。
「……取り敢えず、同じとこまで登れば良いっすか?」
大木を見上げ、空を見上げるのと同じ角度まで顔を上げたアーサーの言葉に男子生徒は「いや行けるとこまで!!」と声を上げた。
今回は大木に引っかかっているものは何もない。ただ悠然と佇む木が真っ直ぐ天へと伸びているだけだ。
太い枝がいくつも四方に伸び、そこから細い枝がいくつも伸び広がっている。地面から四メートルほどまでの位置には枝がない為、幹のくぼみなどに手足を引っかけてよじ登らなければならないがそれさえすれば後は難しくもない。中等部の生徒どころか初等部の生徒でも危なげなく登れるほどにしっかりした枝だった。
行けるところまで、という課題にアーサーはいっそ時間制限でもしてくれればわかりやすいなと思いながら了承した。大人が両腕を広げても抱えきれないほどの太い幹に歩み寄り、そして遥か上に聳える枝の位置を確認したアーサーは
タンッ、とひと跳ねで飛びついた。
三メートル頭上にある枝へ、助走すらも無く。
あまりに一瞬のことにアーサーがなにをするつもりかわかっていなかった生徒は、口をあんぐり開けたままだった。
今、一体何が起こったのか全く理解ができない。常人では助走があろうとも当然ながら三メートル上に跳ねることなどできはしない。それをアーサーは飛び台すら無く、脚力だけで飛び上がったのだから。
生徒達の中には彼が何らかの特殊能力者なのではないかと思う者も増えてきた。しかし、そこで彼が何の特殊能力者か論じ合う暇はなかった。唖然としている間にも、一発で枝のある高さまで飛び上がったアーサーは両手でつり下がった状態から今度は軽々と腕の力だけで太い枝へと上がってしまう。後は初等部でも簡単な細く枝分かれした先を登れば良いだけだ。
すげぇ、なにあれ!と生徒がやっと言葉を見つけたように声を上げる中、まだアーサーは終わらない。
枝の上に二本足で立つと、今度は自分の手でも掴みやすい細めの枝へと狙いを定める。そしてまた自慢の足で軽く跳ねると、掴んだ枝に〝つり下がる前に〟また跳んだ。
ひょいっひょいっ、と頭上の枝を掴んだと思えば、そのまま逆上がりでもするかのように身体を回転させて勢い付け、また次の枝へ跳び移るを繰り返した。あまりにも早すぎるその動きに、見上げた生徒達には銀色の塊がくるくると枝の間を移動しているようにしか見えなくなった。
束ね編まれた銀髪が揺れる中、銀縁眼鏡がずり落ちないように留意する余裕もあるアーサーは彼らが歓声を上げ出す頃にはもう剣を拾った時の位置を越していた。たかが木登りですら常人と違う方法で当然のように登ってしまうアーサーに、歓声どころか絶句する者も多い。
「すげぇなジャック……あれも山で覚えたのか?」
「ああそうだ。山暮らしのアイツにとって自然は友達だからな」
アーサーが登っていく姿を丸い目で見上げ続けるパウエルへ、流れるようにステイルが方便をつく。
その様子にプライドは、きっとアーサーが最初にあれを見せた時も同じ言い訳を使ったのだろうなと考える。
パウエルが「じゃあフィリップもできるのか⁈」と同じ山育ち設定のステイルに期待を込めて声を上げるが、それは「俺は勉強の方が好きだったから」と平然と受け流された。続けてジャンヌも同じだと言うステイルに、プライドも苦笑気味に同意した。
実際は三メートルくらいならラスボスチートで飛び上がることはできるかもしれないが、非力な自分はそこから枝と腕力であんな風に跳び上がることは難しい。ステイルも身のこなしこそ俊敏だが、流石にアーサーの登り方を真似するのは簡単ではなかった。
騎士団でも枝ごとに飛び上がっては掴んで乗り上がり、そしてまた飛び上がってを繰り返す方法なら余裕だ。しかしアーサーのようにひたすら逆上がり方式で跳躍していける騎士はそう多くない。近衛騎士であれば、アーサー以外にできるのはアランと特殊能力を使用したハリソンだけである。
まるで野生動物のような扱いをされるアーサーがプライドは不憫にも思ったが、少なくとも観客の生徒達からは馬鹿にしようとする様子は全く見受けられない。ただただアーサーの凄まじい身のこなしに圧巻されるばかりだった。そしてプライドの目からみてもアーサーの身のこなしは流石の一言だった。彼にとってはあの登り方が一番速く効率的なだけなのだろうと理解はするが、普通ならば真似できない。
ステイルから授業中にも木に引っかかった剣を取る為にあれで登っていたと解説を聞けば、あれだけの男子にアンコールを求められるのも無理がないとプライドは思う。
やっていることは身のこなしどころか曲芸の域である。それを仮にも自分達と同年の生徒がやったと見れば、もう一度と望み、更には騒いででも何も知らない周囲の生徒に見せたいと思ってしまうのは当然だと考える。
ぱくりと最後の三口手前で彼女がサンドイッチを頬張る頃には、早早にアーサーは頂上へ辿りついてしまっていた。
「これで良いっすか?」
一番上の枝の上に乗り、危なげなく仁王立ちで生徒達を見下ろすアーサーは呑気な声で呼びかけた。
枝どころか凹凸も殆どない壁を登ることと比べたら、木登りは彼にとって充分楽の部類に入る運動である。
おおおおおおおおおぉぉぉぉおおおぉぉおおっ‼︎‼︎と。アーサーが頂上まで成し遂げたことに、生徒達の盛り上がりが最高潮まで跳ね上がった。
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