Ⅱ147.義弟は目覚める。
〝愛しています〟
〝今も変わらず愛しています〟
〝いくら月日が経とうと変わらない。十年経とうと百年経とうと、心から貴方を愛しています〟
「……ん」
太陽の眩さに気付くと同時に目が覚めた。
薄目のまま、何より先に時計を確認し身体を起こす。昨日はそれなりに忙しかったが、早めに就寝したお陰で目覚めも良い。
今日の為に日頃から準備を整えて置いて良かったとつくづく思う。動きやすい寝衣の内に軽く肩から腕まで伸ばして血を巡らせる。自分でしっかり目が覚めてきていることを実感してからベッドを降りた。
トン、と。慣れた足裏の感触を感じながら、早々に身支度を整える。まだ大丈夫だ余裕はあると思いながらも気が逸る。前夜に侍女に用意させていた水で顔も整え、完全に目を覚ます。髪を整え、身なりを整え、全てを終えた後も落ち着かず、ベッドどころかソファーに掛ける気にもなれなかった。
いつもは侍女に手を借りる分、できているとは思ってもやはり抜けているものはないかと鏡を確認してしまう。眉間に皺を寄せている顔が映り、もうこの顔を誕生日の朝に見るのも何回目だろうと思う。昔は表情など意識しなければ難しかったほどなのに、今は無意識にこうなる。
大丈夫、できている。そう思いながら右手で胸を押さえれば僅かに鼓動が大きく感じた。やはり落ち着かず、また去年と同じように窓際に背中を預けて心拍を誤魔化すように眼鏡の黒縁を指で押さえつける。
時計を見ればもうそろそろだと気付いてしまい、無駄にまた拍動した。
『だからね、凄く図々しいお願いで言いにくいのだけれど……』
……三年前の言葉を思い出す。
未だ鮮明に残ったその言葉と、プライドの申し訳なさそうな表情に思い出すだけで擽ったくなる。いつもいつも当日まで運試しくらいの気持ちでいた俺に、その年だけは前日に彼女が提案してきた。
落胆の後に湧き上がった喜びは、何度も彼女はずるいと思わせた。
『だって、誰よりも私がそうしたいんだものっ!』
元々は俺から頼んだことなのに。
それでも、そう言って花のように笑う彼女にもう何も逆らえなかった。
わかりました、プライドが言うならと。流されるままだったが、……きっと冷静でもそう返しただろう。それくらい彼女からの提案は願ってもなくて、何より嬉しかった。
目を閉じ、眼鏡の縁を押さえたまま俯き耳を澄ます。一時期は、今年はないかもしれない、今度こそ忘れているかもと何度も思い巡らせては不安に駆られたり落ち込んだりと忙しかった時もあったが、今はただただ待ち遠しい。彼女が忘れるわけがないという確信が胸にある。
そう思えば、まだ何もないのに口端まで勝手に緩んできた。それに気付いた瞬間、誰が見ているわけでもないのに反射的に表情筋を引き締めようとしてしまう。すると
ピィィィィィィイイイイイイッッッ
……来た。
指笛の甲高い音が鳴り響き、心臓が呼応するように高鳴った。引き締めかけた顔がさっき以上に緩み、今度はそのまま堪えず諦める。もうどうせすぐにもっと緩まるに決まっている。
壁から背中を起こし、眼鏡に添えていた手を降ろす。一度だけ短く呼吸を整えてから俯けていた顔を上げ、特殊能力を使う。視界が切り替わり、見慣れた自分の部屋からそこは
「十八歳の御誕生日おめでとう、ステイル」
「……ありがとうございます。」
揺らめく深紅の髪と共に花のような笑みを広げた彼女だった。
当たり前の返事をしながら、自然と笑みが溢れ出す。
上から下まできちんと身支度を整えられた彼女は、今は部屋に一人きりだ。専属侍女も、近衛騎士も近衛兵もいない。
当然だ。まだ起床時間の遥か前の早朝なのだから。本来ならば俺もプライドもベッドにいる時間だった。
瞬間移動で現れた俺に、続けて「それとおはよう」と朝の挨拶を掛けてくれたプライドは部屋の外の衛兵に聞かれないように声を潜め続けている。静かに笑い、胸の前に手を重ねる彼女はその笑みも佇まいも何年経っても変わらない。
「大丈夫?待たせなかった?」
「いいえ、全く。それにプライドは女性ですから、俺より身支度に時間は掛かって当然です」
待っている時間だって、今は嫌いじゃない。
彼女がちゃんと覚えてくれていると思えるようになってから、自分がこうしている間も身支度を整えてくれているのかと思うとむず痒くなるほどに浮き立った。
本来ならば侍女に任せるところを、第一王女であるプライドが一人で支度し鏡の前で整え、立ってくれていたのだから。……俺だけの為に。
「毎年ありがとうございます、プライド。今年も覚えていて下さり、嬉しい限りです」
「当然じゃない!〝約束〟だもの。それに私だって毎年楽しみなんだから」
いつもの感謝にいつもの答えをくれる。
最後に目を細めて微笑む彼女に、危うく熱が上がりかけた。口の中を噛み、抑えた後口元が引き伸ばされ緩んだ。
毎年、敢えて俺はこの日の約束についてはプライドに事前確認は取らないようにしていた。そして、それは彼女もだ。だから昨日も、お互いにまた明日の早朝に一言後は「おやすみなさい」以外語らなかった。
彼女が忘れていた場合、良い歳をして催促することが気恥ずかしかったことと、もう忘れているのならこのまま風化させても良いとも思った。惜しい気持ちはある。だが、それ以上に十年経った今でも彼女にここまでさせることの申し訳なさが勝っていた。毎年この日、ただでさえ俺の誕生祭の為に夜まで忙しい筈の彼女は
「誕生日おめでとう」を言う為だけに目覚めてくれるのだから。
『僕の誕生日に、そのっ……許される間だけで構わないので、……誰よりも先に、一番に「おめでとう」と……言ってくれますか……?』
今からちょうど十年前、幼かった彼女に願った我儘だった。
初めて迎えた城での誕生日で、プライドとティアラはわざわざ部屋の前で俺を待っていてくれた。扉が開かれた瞬間「八歳のお誕生日おめでとう」と言われ、迎えられた喜びは一生忘れられない。
あの時から素晴らしい贈り物をくれた二人だったが、プライドは更に俺へ一つの願いを叶えてくれた。今思えば、あれだけで本当に充分過ぎるほど嬉しいですと断っておけば毎年プライドに手間をかけることもなかった。が、…………正直今はあの時の断る勇気も気配りも足りなかった自分を褒めてやりたい。よくやったの一言だ。お陰でこうして今も俺は一番にプライドに誕生日を祝って貰えるのだから。
あの時プライドとティアラに祝われた俺だったが残念ながら……と言っては失礼な話だが、しかし最初に俺へ誕生日の祝いの言葉をくれたのは起こしに来てくれた侍女達だった。だからこそ、プライドから何でもできることならと言われて最初に望んでしまったのがそれだった。
プライドから一番最初にその言葉を聞きたいと。
普通ならば無理だ。俺よりもティアラよりも先に起きなければならないだけではない。朝目が覚めたら最初に会う筈の侍女よりも先になど普通はあり得ない。
だが、翌年からプライドはそれを叶えてくれた。
去年のことを覚えているかさえ言い出せなかった、九歳直前の俺はその前夜も寝るのが遅かった。そして翌朝目が覚めれば、……プライドは俺の侍女達と一緒に部屋に訪れてくれていた。
「おはよう」の後に微睡みの頭へ「お誕生日おめでとう」と囁かれた時は、飛び起きた後も暫く本気で夢かと疑った。くすくすと侍女達に微笑まれ、更には当の本人であるプライドは寝衣姿のままで「じゃあまた後でね」とすんなり部屋を去ってしまい、あまりの衝撃に顔の火照りが暫くは止まなかった。
お陰でその翌年は寝不足にも関わらず緊張で早くに目が覚めた。俺を起こしにくる侍女達と一緒に入ってきた彼女は、「十歳の誕生日おめでとう」と今度は身嗜みまで完璧に整えてから訪れた。俺よりも早くに起きてくれたことは間違いなかった。
その翌年またその翌年と繰り返しそして俺の十五になる誕生日前夜、一度終止符を打たれた。プライドに近衛騎士を朝から付けることになったからだ。
前夜にそれを彼女が話し出した時は、てっきりもう今後は難しいという意味だと思った。ただでさえそれまでも、近衛兵のジャックが付く前だって代わりの衛兵は付いている。近衛騎士をつけることになった状況下で、彼らが任務に就く前の早朝に部屋を出るなど憚られる。だからといって彼女が自分の私情で彼らに早朝出勤をさせることを躊躇うのもわかった。
ちょうど俺もヴェスト叔父様付きになったばかりのこともあり、それなりに心の整理はついていた。だが、プライドは
『だからね、凄く図々しいお願いで言いにくいのだけれど……次からは〝私から〟呼んでも良いかしら……?』
貴方の誕生日なのに申し訳ないのだけれど、と続けながら言うプライドの言葉に最初は耳を疑った。
まさかの彼女は、それでも俺の願いを続行してくれるつもりだった。しかもそれが駄目なら窓さえ開けておいてくれれば縄で降りてくるとまで言い出すから余計に困惑した。
確かに俺の部屋はプライドの下の階だが、ロープで窓から義弟の部屋に侵入を試みる第一王女など前代未聞だ。知られたら大ごとでは済まされない。ロープで窓からという時点であり得ない。
しかし、彼女がそれを言い訳や冗談で言っているのではないともわかった。最終的には俺が頭を抱えながら、彼女の最初の提案を飲むことになった。もう充分あの時の約束を守ってくれたのだしもう結構ですと遠回しに伝えたが、それも彼女には通じなかった。
『だって、誰よりも私がそうしたいんだものっ!許される間はずっとステイルの誕生日をお祝いしたいわ』
そう太陽のような笑顔で言われて断れるわけがない。
ただでさえ当時レオン王子と婚約することでプライドとの日々が終わりを告げたと、一度諦めた後だったのだから。そこでまさか彼女から俺の誕生日を祝いたいと言われて嬉しくないわけがない。折れないわけがない。
それからの誕生日はこうして身支度を終えた彼女の合図を受け、俺が直接プライドの部屋へ瞬間移動で訪れるようになった。合図をくれた彼女を待たせないようにうっかり寝過ごして聞き逃さないようにと神経を張り巡らせた結果、今まで一度も寝坊したことはない。
「では、プライド。また後ほど」
「ええ、今日もティアラと一緒に行くからちゃんとお部屋で待っていてね」
昨晩はよく眠れたか、今日はまた忙しくなるわねと。本当に他愛もない会話を終えてすぐ俺も部屋を後にする。
本当にただ、プライドから誕生日を祝う言葉を貰う為だけの時間だ。
長く居座って侍女に見つかっても困る。毎年の贈り物は朝に俺の部屋前で迎えてくれた後、ティアラと一緒に渡してくれる。本当にそれだけは十年前から変わらない。
「最近は学校で忙しかったでしょう?今日は第一王子として目一杯楽しんでね」
瞬間移動しようとするその直前、そう言って俺の髪を撫でてくれた。
ただ一言を送る為だけに朝早く目覚めてくれ、その為だけに身支度を一人で行い、そして俺を呼んでくれる。
彼女のお陰で、俺は誕生日を待ち遠しく思わなかったことがない。十八にもなって未だに一年の中で一番大事な日は自分の誕生日だ。
プライドが俺の誕生日に与えてくれる物はあまりに多過ぎる。十年分の来賓から誕生日祝いの献上品を積み重ねても、彼女がくれる一回にすら遠く及ばない。誕生祭など些末と言えてしまうほど、プライドが特別なものにしてくれた。
十年前のあの日から。
「はい、ありがとうございます」
笑みで答え、俺は視界が切り替わるその瞬間までプライドの笑みから目を離さなかった。
時間で言えば五分程度。それでも毎年のことながら最高の幕開けを済ませられた自分の誕生日に、充足感から思わず溜息を吐いた。
まだ時間があると思えば、そのままソファーではなくだらしなくもベッドへ腰を下ろし背中から両手を広げて倒れ込む。目を瞑り、たった五分の余韻に浸ってしまう。
『最近は学校で忙しかったでしょう?今日は第一王子として目一杯楽しんでね』
確かに……忙しくはあった。
だが、その分今までよりずっと彼女との時間が増えたことは正直予期せぬ幸運だ。今まではヴェスト叔父様の補佐で忙しかった俺が、こうして半日近くまた彼女の傍にいられるのだから。
今まで真面目にやってきた甲斐があったというものだ。四年前から早めに摂政業務に携わったお陰で、今はこうして余裕もできた。
……まぁ、学校も学校でなかなか慌ただしい日々ではあるが。ファーナム兄弟の試験対策もそうだが、初日からパウエルとの再会は想定外だった。学校を作ればいつかは視察に行くことになる。そうすればきっと見つけられると。それくらい……パウエルが、通いたいと思えるような良い学校を作ってみせるとは思っていたが初日に会えるとは思わなかった。
今思い返せば、十七歳の一年が人生で一番濃密なものになった気がする。プライドの奪還と誓い、婚約者候補にそして学校。プライド、アーサーとの時間にパウエルとの再会。それに─
『アムレット・エフロン』
「……………………………………………」
考えた途端、閉じていた目蓋に余計に力が加わった。広げていた手で拳を作り、ベッドを軽く殴る。
これ以上思い出したら今度こそ頭を抱えたくなってしまう。その前に思考を閉じようと、意味もなく寝返りを打ってうつ伏せた。眼鏡を外し、右手に握る。
過去を全て捨てたわけじゃない。アーサーだって話せばすぐわかってくれた。プライドだって事情を言えていない今も協力してくれているんだ、話したところで変に騒ぎ立てたり責めるような人じゃない。……人じゃない、ことはわかっているんだが……。
「〜〜っっ……」
駄目だ。やはり言えない。
なのにここに来てアムレットとプライドに関係まで生まれるとは思わなかった。
残すところ約三週間、絶対に正体を隠し続けなければ。あいつにバレたら確実に泣かれるか最悪の場合凄まじく面倒なことになる。ジャンヌが第一王女と気づかれないようにするのも大事だが、俺も今回は同列にさせてもらう。
全て隠し通し、学校を去ったあとも絶対に煙すら立てはしない。その為にも今後ファーナム兄弟にはみっっっっちり口止めをしなくては。
セドリック王弟があの双子を従者にするのは構わない。城に通わせ働かせることも、彼らにとってもそして我が国の民に馴染みたいと考えてるセドリック王弟にとっても良いことだろう。
それにあの二人は覚えも良いから、卒業の年には優秀な人材に育っている筈だ。今から誘い育てることは賢明な判断ともいえる。だが‼︎間違っても俺の正体を口外はしないように釘を刺しておかねばならない。プライドや聖騎士のアーサーもそうだが後から噂になったり知られれば、……特に、この俺が。
「……駄目だ。誕生祭に集中しろ……」
突っ伏すベッドに向かい、ぶつぶつと自分へ言い聞かす。
折角の誕生祭。第一王子としての今日を大事にしなくては。プライドがせっかく今年も良い一日の幕開けをくれたのだから。
この後には侍女が来て、身嗜みの再確認を終えたらゆっくり待ってから扉を開けてプライドとティアラ、アーサー達が迎えてくれる。愛しい姉妹から贈物を受け取り、開き、感謝を伝え大事に仕舞おう。そして三人で朝食へ向かうんだ。
大事な一日の予定を何度も頭で繰り返し、侍女がくるまでひたすらに俺はアムレット関連を頭から打ち消し続けた。
〝愛しています愛しています〟
〝明日の僕も愛しています〟
〝十年後の僕も愛しています〟
〝ずっと変わらない〟
〝十八になっても〟─…




