II14.義弟は尋ねる。
「……パウエル……?」
ステイルから僅かに掠れた声でそれが放たれてすぐ、プライドとアーサーはパウエルと呼ばれた青年をステイルと共に見比べた。
漆黒の瞳を丸く揺らし、その名を呼んだ後のステイルはぽかりと口をあけたままだ。視線の先に佇む青年から瞬き一つできずに目が離せなかった。
パウエル。
その名を、彼の面影をステイルは数秒の間に何度も頭の中で繰り返す。忘れた事などない。消息こそ知らずとも、間違いなく彼を想ってきたのだから。四年前に人身売買の巣窟で出会い、ステイル自ら手を差し伸べたフリージア王国民である彼を。
『はじめまして。僕はフィリップと申します』
『ぁ…俺は、…パウエル…だ』
互いに記憶を忙しなく巡らし続ける中、先に動いたのはパウエルの方だった。
ふらり、と弱々しくも見えるが大きな足取りで一歩を踏み、高等部の校舎から背中を向ける。最初の一歩こそゆっくりとしたものだったが、二歩目からはもう迷いがなかった。タン、タン、タンタンタンと一歩ずつから緩やかに、そして普通の足並みから速足へと変わっていく。
駆け込んでこそ来ないが、急速に距離を縮めていくパウエルに、ステイルは僅かに肩が強張り、張り詰めた。息を止め、接近してくるその青年には確かにあの時の面影があった。
中途半端に伸び散らかっていた金色の髪が、今は綺麗な短髪に切り揃えられている。身体付きも全体的に引き締まり、男性らしく鍛えられた身体が服の上からでもわかった。
服装を統一されていない学校内で彼もまた普段着らしき格好だった。初めて会った時のようなボロボロの衣服ではなく、しっかりと洗濯され皺も伸ばされた清涼感もある。騎士団や衛兵の中にもいそうな姿と、十四歳のステイルより遥かに高い身長。元の姿に戻っても今は自分と並ぶか、やや越えるぐらいだろうかとステイルは思う。しかし、腕は自分よりも遥かに太い。出会った時とは別人のように肉付きの良い健康的な身体。何よりその血色の良い、男らしい顔付きを見れば、彼が間違い無く健全な生活を許されているのだとステイルは確信できた。
そう思えば、目の前に佇むパウエルにまだ名前しか呼ばれていないというのにもう口元が綻んだ。良かった、と。その思いが過った途端、緊張で張り詰めていた顔が自然と緩まった。
ステイルのその笑みに、パウエルは一度唇を結ぶと恐る恐る躊躇うように再びその口を開いた。そのっ……と言葉に詰まらせながら下ろした握り拳を震わせ、勇気を振り絞る。
「フィリップ……、……なの、か……?俺、のこと」
「元気そうだな、パウエル。もう、三年……いや四年ぶりか」
敢えて最後に別れた時と同じ口調でステイルは唱えてみせる。
そのまま柔らかく笑んで見せれば、驚愕一色に強張られていたパウエルの目が限界まで見開かれた。
唇を絞り、歯を食い縛り、肩まで震わせたパウエルは言葉が出ない。険しい表情でステイル一人を見つめ、とうとう身震いまで起こした。
成長したパウエルの姿を眺めるステイルは対照的に今は落ち着いていた。「立派になったな」「あの頃とは別人だ」とまるで古い友人にでも会ったかのように言葉を掛け、親しげに彼の鍛え抜かれた二の腕を叩く。
だが口を絞ったままのパウエルは、震えるだけで一向にまだそれ以上が答えられない。その顰めた表情は、第三者から見れば年下の少年に上目線で馴れ馴れしくされた上級生が憤っているようにも見えたが、二人に纏う空気の柔らかさがそうでないことを示していた。
一向に震えたまま動けないパウエルと、珍しく自分達以外の相手へ親しげに話し掛けるステイルに、アーサーは潜めた声を間に放った。
「なァ……〝フィリップの〟知り合いか?」
ステイルじゃなくて。とその意味も込めて尋ねれば、ステイルは嬉しそうな笑みをそのままにアーサーへ向けた。頷き、答え、「以前話しただろう」と手でパウエルを紹介するように示して見せる。
「以前、四年ほど前に俺が出会った光の特殊能力者だ。……まさかこんなにすぐに会えるとは思っ……、…………パウエル?」
奴隷被害だったことは敢えて言葉にせず、言わずとも察せるように選ぶステイルは途中で止める。
アーサーとそしてプライドへと視線をずらそうとしたところで、彼を示す手の方向に違和感を感じた。振り返れば、さっきまで硬直していたパウエルから止め処なく水滴が顎を伝い落ちている。
大粒の涙を目から溢れさせ、顔が上気するように赤くなる。唇を絞るだけでは足りず、食い縛った歯を剥き出しにして息を引く音は、はっきりとアーサーにまで聞こえた。
険しい表情のまま、涙をボロボロと流して溢すパウエルは、堪らず途中から太い腕で自分の両目を押さえつけた。勢い良く押さえつけた反動で涙の粒がぱちりと散る。
腕で押さえ、小さく俯くパウエルはまだ言葉が出ない。茫然としているステイル達を目の前に食い縛った歯からとうとう嗚咽が漏れた。途中からは咽ぶように肩が何度も上下し、更には苦しそうに咳き込んだ。
既に成人前後であろう青年のその泣き方は、男泣きのような姿から一気に幼く映った。彼が泣いてくれる理由を、ステイルは口を噤んだまま冷静に悟る。
それだけきっと、今の彼はあの頃よりも幸せなのだろうとそう思えば、自分まで込み上げた。だが、二人やパウエルの前でまで泣くのは少し悔しく、口の中を噛んで堪える。代わりに黒縁眼鏡の奥を柔らかく緩ませ、これ以上ないほど柔らかな声色で再びパウエルに言葉をかけた。
「パウエル。……お前に会いたかったよ」
心からの言葉だと、プライドもアーサーも声だけですぐにわかった。
人前用の建前でも、相手を喜ばす為でもない。ステイル自身の心から発せられた言葉は、真っ直ぐとパウエルにも届いた。
堪えた鳴咽が酷くなり、えぐえぐとしゃくり上げる声が濁る。しかし、自分に何度も言葉を掛けてくれるステイルに自分からも返そうとパウエルはひくつき濁る喉をガラつかせながら今度は声を絞り出した。
「俺も」とその一言すらも濁り、酷く歪だったが、顔を諌める人間はこの場のどこにもいない。廊下に水溜りを作りながら歪に、ガラつき、溺れているような声でパウエルは自分だけの言葉を紡ぎ出す。
「俺も゛っ……会゛いだがっだ……‼︎お前っ……の、ぉ陰でっ……お゛前が!あ゛の゛時ッ……‼︎‼︎」
四年分の感情を押し込むような強い一音一音が、言葉を作る。
打ち震え、涙が止まらないパウエルの感情は、剥き出しだった。〝お前のお陰で〟と、その言葉を聞き取れた時、ステイルの胸が言いようもなく熱を持つ。あの時、命を懸けてでも彼の手を取って良かったと本気で思う。
会いたかった、礼が言いたかった、会いたかった、感謝してもし足りない、ありがとう、ありがとう、ありがとう、と。濁り溺れた声は喉に痛みを発しても尚、必死に言葉を紡ぐ。
いっそこのまま声が出なくなっても、ステイルに自分の思いの丈を伝えられるなら構わないと思うほどパウエルの喉から言葉は次から次へと溢れ出した。床に落とした涙の滴の数よりも圧倒的に彼の言葉の数の方が多かった。
今の自分が元の姿だったら迷わず抱き締めていたと思いながら、ステイルは彼の背を優しく叩く。彼に会えたことが今はただただ嬉しく、学校の建設がちゃんと間に合ったのだと安堵した。
プライドが学校制度を提唱した時から、彼が十八になるまでに学校を始動したいとステイルは思い続けていたのだから。
『約束してやる』
その為に尽力も惜しまず、ジルベールには授業内容まで彼のような民の為にと提案した。
ステイルにとって、民の中だけで言えば誰よりも学校を利用して欲しいと思った相手こそが彼だった。
ステイルの話とパウエルの言葉に、アーサーは息を吸い上げながらゆっくりと頷いた。アーサーもまた、ステイルが殲滅戦で奴隷被害者だった少年を気に掛けていたことは知っている。自身が探しに行こうかと尋ねたこともあるが、それもステイルはとある理由から断っていた。光の特殊能力以外にもどんな人間かは話していたが、容姿やそして名前すら、ステイルは一度も口にしなかった。教えればアーサーやプライド達が気を回して探そうとすることも、そして見つかってしまえば今度は〝自分が困る〟こともステイルはよく理解していた。
〝いつか見つけ出す〟と、そう口にした彼にとって中級層からそれ以降の民の為に設けられた学校は、まさにその為の何よりの一手だったのだろうとアーサーは思う。更には、たとえもし会えなくとも学校さえあれば必ずフリージア王国の民である彼の未来は開ける。無償の教育と特別な授業と仕事の斡旋。そして自分と同じ年齢や境遇の人間にも会える機会。
その全てが、ステイルがパウエルに与えたかったことだった。
『特殊能力でお前が傷つくことなく』
「パウエル……」
泣き咽ぶパウエルを見上げながらステイルは、四年前に掛けた言葉を思い出す。
瞬間移動させる前、自分が最後の最後に彼へと告げた言葉だ。元は自分がプライドから与えられた言葉でもあるそれは、ステイル自身もよく覚えていた。
そしてきっと彼も覚えてくれているだろうと、ステイルは思う。
呼び掛ける度に苦しげに咳き込み、涙で暴れるパウエルが、それでもガラついた声や頷きでステイルに答える。顔だけでなく身体全体を使ってコクコクと頷く彼は、腕で必死に目を押さえつけたまま潤み溢れた顔が隠れてしまう。
これ以上言葉を催促することも、刺激することも悪いと思いながら、思い出したそれをステイルは尋ねずにはいられない。
『お前も、お前の大事な人も皆が笑っていられるようにすると』
「…………笑って、いられてるか?」
コクン。と、一際大きな頷きが迷いなく返ってきた。
更には鳴咽が更に酷くなり、身体を震わすパウエルは息をすることも困難だった。顔だけでなく、泣き過ぎて首まで真っ赤に染めたまま、震える唇はもう言葉らしい言葉を派生できなくなった。
『俺の、命の限り』
頭を撫でようにも抱き締めようにも、背が足りないステイルは今の身体が少しだけ歯痒い。
しかし自分の問いに即答してくれた彼に、きっと今は大事な人もいるのだろうと思う。
可能ならばもっと積もる話を丸一日掛けてでもしたいと思った、その時。
ガラァンッ……カラァン
予鈴が、鳴った。
一限目の始業を知らせる予鈴だ。次の本鈴が鳴る前に、教室に戻らなければならない。
だが、今目の前で泣いてくれているパウエルを置いていくことも躊躇われた。考えあぐね、答えを探すようにステイルは周囲を見回してしまう。もう自分達三人とパウエルしかこの場にはいない。
いっそ、プライドに断って自分とパウエルだけでも瞬間移動で場所を移そうかともステイルは頭に過ぎった。パウエルがステイルに伝えたい言葉があり過ぎるのと同様に、ステイルもパウエルから聞きたいことは山のようにある。すると、腕から顔を上げたパウエルも戸惑う姿のステイルに気付く。フィリップ、と濁った声で彼を呼び、ゴシゴシと濡れた目を乱暴に擦った。腫れた顔色よりも真っ赤になった目を真っ直ぐと長年会いたかった少年へと向ける。
「授業、終わっ……後に、会えるッが……?昼休みでも、……っ、……どっがで……」
予鈴の音に少し冷まされた頭でなるべく言葉らしい言葉を一語一語発するパウエルは、最後に鼻を啜った。
ぐずっ、と震えた喉に力を入れて話すパウエルに、ステイルはひと息吐いてからにっこりと笑みを返す。
「ああ、俺も話したい。またここで会おう。……彼女らも一緒で良いか?」
プライドとアーサーを視線で指して尋ねるステイルに、パウエルは何度も同じ一音ばかりを頷き、繰り返した。背中が丸くなり、ステイルの身長にすら近づくほど今は小さい。
さぁお前も早く、遅れるぞ、とステイルの方から優しく背を押せば、また目を腕で押さえつけながらも頷き、フラフラとあまり前も見えてないまま高等部の棟へと向かっていった。
遠くなる背中でもわかるほど、しゃくり上げに合わせて大きく肩を上下させる彼を、ステイルは最後まで見届けた。彼が廊下を曲がり、姿が見えなくなってからアーサーはパシッと軽くステイルの肩を叩く。
「ッオラ行くぞ!遅れるわけにはいかねぇだろ⁈」
敢えて明るい口調で呼び掛けたアーサーは、口がはっきりと笑っていた。
更には深い蒼の目が、言葉にせずとも「良かったな」と告げていることをステイルはすぐに気が付いた。そうだな、と表の意味も裏の意味も合わせて言葉を紡げば、今度こそ嬉しそうにアーサーは笑った。
ステイルが会いたがっていた光の特殊能力者にこんなにも早く会えるのはアーサーも想定外だった。走ンぞ!と声を掛け、プライドとステイルをそれぞれ呼び掛ける。
ステイルが「お待たせしました」と断ってから、固まったままのプライドの手を引いた。プライドもそれに言葉を返しながら、ステイルに引き摺られるようにして一緒に駆け出す。目の前にはステイルとアーサー、そして向かうは中等部二年の教室。それを理解しながらも、プライドは考える。
─ パウエルッ……‼︎‼︎
パウエル、パウエル、パウエル、パウエル、パウエル⁈と。
プライドの頭はパウエルの存在一色だった。疑問と共に、混乱したままの頭が教室を向かう為に身体を動かせば更に思考が巡って回る。さっきまでステイルとパウエル、時折アーサーも加わる会話も聞いてはいたものの、自分まで口を挟む余裕は皆無だった。何故ならば
─ どうして彼が……⁈だって彼は……っ
本鈴の前にはなんとか教室に飛び込めた。
ステイルの特殊能力を隠す手前、安易に教室へ瞬間移動することもできない今、アーサーが勢い良く扉を開け、そこへプライドの手を引いたステイルも駆け込んだ。
目立つ三人の登場に一瞬教室内は逸ったが、それよりも慌て過ぎて僅かに息が跳ね上がったステイルは、いつのまにか握っていたプライドの手が熱を帯びていることに気付いた。
大した距離ではないといえ、走り過ぎて体温が上がったのだろうと思いながら、ステイルは妙に暖かなプライドから手を離す。失礼しました、と勝手に手を引いた事を軽く詫びてから、最後列で三つ並んだ机の前で先に彼女の席とするべく真ん中の席を引いてみせた。
顔も赤く、茫然としたままのプライドは何も言わずにちょこんと座る。
ぽわん、としたまま口を開けたプライドに、どうかしたのかとアーサーも尋ねようとしたが、それよりも前に「はい、担任のロバートです」と野太い教師の声が飛び込んできた。
その途端、生徒達は各々の席へ座りに急ぐ。ステイルとアーサーも合わせるようにプライドの両隣の席に着席した。息を荒くし、まだ顔の赤い彼女へ二人は同時に首を捻る。
しかしプライドは、教師の登場も二人からの視線も今は頭に入らなかった。何故ならば
─ 彼は〝三作目の〟隠しキャラなのに……‼︎‼︎
心臓がばくんばくんと音を立てまくる中、震え出す手でプライドは自分の胸を押さえ続けた。
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