Ⅱ136.首席生徒は先取りする。
『嫌だ〝クロイ〟が良い‼‼なんでディオスばっかり苦しまないといけないんだ‼‼』
怖くて、この先の一分一秒が怖くて、嫌で、逃げ出したくてやり直したくて。助けてと方法も形もわからずにただただ逃げて逃げて思い続けた。
塞がった井戸の中で叫ぶようで、誰にもどうにもできないと思っていた。
何度も、何度も何度も助けてと頭の中で叫んだ時。その全部にまるで聞こえているみたいに答え続けてくれたのは
『大丈夫、貴方はディオスよ』
助けてと頭の中で叫べば叫ぶほど、何度だって返事をくれた。
訳もわからない言葉ばかりしか言えなかった僕に一つ一つ返してくれた。止めようとしてくれて、助けようとしてくれて、……一度だって突き放そうとしなかった。
狭くて暗くて怖くて息も出来ないような頭と視界の中で、気が付けばその手だけが僕に伸ばされていた唯一だった。嫌っていた筈の、責任を全部押し付けて僕の中で悪者にしようと思っていたあの子だけが僕の味方だった。
クロイにも拒まれて、姉さんにまで迷惑をかけて、セドリック様にも嫌われたと思ってた僕に。
いつの間にか縋るように頼って信じて隠れた僕を、何度もジャンヌは見捨てようとしないでいてくれたから。
『むしろそんな身体で弟とお姉様の為に頑張った自分を褒めてあげなさい‼︎‼︎いい加減自分にご褒美をあげてもバチは当たらないわよ!』
差し伸べられた手の温かさはきっと一生忘れられない、僕だけのものだ。
「ほ……本当にすごいわ、フィリップ。最初からこうするつもりだったのね?」
泣き合う僕らの背中からジャンヌの声がする。
静かだけど感心したような、驚いているような抑揚の声に「ええ」とフィリップの声が続いた。すげぇ、とジャックの声もして気が付けば姉さんに顔を埋めながらフィリップ達の声に耳を澄ます。
「崩壊したら大変ですから。彼ならこれくらいは出来ると思いました。近所に気付かれても困るので、深夜に」
「本当にありがとう、ございます。夜遅くに本当にごめんなさい。……もう、帰してあげても大丈夫よね?」
フィリップの言葉に納得する。お向かいは空き家だけど、左右近所には一応人が住んでいる。今の時間は仕事から皆帰ってるだろうけど、夜だから人影もなく済んだ。
少しあわあわと確かめるようなジャンヌの声の後、また舌打ちが鳴って足音が一人分遠ざかる。
さっきのフードの男が帰るんだと思って、考えるよりも先に振り返る。「あっ……」と少しだけ声が漏れてから、月明かりにうっすらと滲んだ視界に男の遠退く背中が映された。
ジャンヌが見送るように背中を向けて男の方に向いていて、ちゃんとお礼を言わなきゃとクロイと姉さんから手を離す。フィリップに頼まれたのだとしても、騎士の人に連れてこられたのだとしてもちゃんとお礼は言わなくちゃ。
ありがとうございましたとその一言を言う為に引き止めようと喉を張る。待って、の「待っ」まで声が出た時だった。
ボコァ、と突然また地面から音が聞こえたと思ったら、地面を滑るような音と一緒に男が一瞬で消え去った。連れてきた騎士から逃げたのかとも思ったけれど、アランさんもエリックさんも追いかけようとする素振りもない。軽く顔を向けるだけで、男が消えていく方向を確認していた。
苦笑い気味のジャンヌに「気にしないで」と言われても、どうやってあんな速さで消えたのかさえわからなかった。
「じゃあ、私達はそろそろ行くわね。家の人が心配するから」
「えっ、……あ、その、っ……ありがとう……」
僕らに今夜のことを口止めした後、もう帰ろうとするジャンヌに言葉がすぐには見つからない。
パクパク口が何度か開いた後、零れた泡みたいにポコリとお礼だけを言えば、ジャンヌは「私ではなくフィリップに言って」と肩を竦めて笑った。
そうだった、と。どうして今ジャンヌに言っちゃったんだろうと思いながら慌ててフィリップに向き直ると、今度はフィリップの方が「いえいえ」と手を胸の前に上げた。
「僕はさっきの人に頼んだだけですから。元はと言えばファーナム姉弟のことに気付いたジャンヌに」
謙遜するようなフィリップの言葉で、初めてジャンヌに会った時のことを思い出す。
同調から離れた今ならわかる、間違いなく僕の記憶だ。クロイとして学校に通った僕を捕まえて、気づいてくれたジャンヌの言葉。あの時は怖くて気持ち悪くてわけもわからなかったはずの言葉は
『貴方はだれ?』
一番最初に僕らに差し出された手だった。
僕が助けてと思うより、クロイが助けてと思うより、もっと前からジャンヌは僕らを助けようとしてくれていた。
〝弱みを知る〟特殊能力で僕らに酷いことをもっとできた筈のジャンヌの言葉は全部が全部僕らの為だった。
家がある。姉さんがいる。クロイがいる。僕がいる。明日も三人で学校があるなんて、どれも僕らにとっては当たり前なんかじゃなかったのに。
「だァから〝俺らの〟ッつーくらいならジャンヌに話しとけ」
「ちゃんと交渉内容はご存知だ」
「ぶん殴ンぞ」
「……ジャンヌ。また明日も会えるんだよね?」
フィリップとジャックが何かこそこそ言いあってる中で、自分がどんな表情をしているのかもわからない。
ただただ明日と思った途端に気が逸った。昨日も今日も会った筈なのにまた〝早く会いたい〟と思った。
真っ直ぐ顔ごと向けて尋ねる僕にジャンヌは「え、ええとっ……」と少し目が泳いだ。それから「ごめんなさい」と肩を狭めると僕らに向き直る。
「明日と明後日は、家の都合で学校には来れないの。でも三日後にはまた学校で会えるわ」
「明後日ならわかるけど……明日も?山に帰るとか⁇折角明後日はお祭なのに」
ジャンヌの言葉にクロイが鼻を啜りながら返す。
続けて目を擦るクロイに僕も頷いた。明日も会えると思ったのに、二日も会えないんだと思ったら寂しくなった。
それに明後日だったらジャンヌ達とお祭りにも行けたかもしれないのに。今までは姉さんとクロイと三人で、……行く暇もなくて横目で眺めるだけだったけれど。
今年はきっと行ける。ジャンヌ達も一緒ならきっと楽しいのに。
「私も残念だわ。三人は私達の分楽しんでね。三日後ならまた分からないところがあれば勉強だって教えてあげるから」
「…………勉強じゃないと、会っちゃだめ?」
自分でも不思議なくらい不安定な声が出た。
困ったように笑っていたジャンヌの顔がきょとんと変わる。首をちょっとだけ傾けた後「そんなことないわ」と言ってくれたジャンヌに僕は一歩一歩歩み寄る。
すると、じわっ……と何か僕のじゃない緊張感みたいなのが全身に張り巡らされた気がして、一瞬だけそれ以上近づくのに怯んだ。フィリップとジャックもジャンヌの方に前のめりになっていて、もしかしてクロイが前に言っていたみたいに抱きつくのが駄目なのかなと思う。ならやっぱり二人もクロイの言う通り……それに、クロイだってやっぱりきっと。
「……ジャンヌは、フィリップとジャックのことが好き?」
「ええ、大好きよ。大事な人達だもの。……ずっと前からね」
従兄弟だから。そう言いながら照れたように笑うジャンヌに反して、フィリップとジャックの肩が思いっきり飛び跳ねた。
丸くした目で僕とジャンヌを見比べている。さっきまでジャンヌに前のめりだった身体が今はちょっとだけ反っていた。
暗いから顔色まではわからないけれど、それくらいびっくりしたんんだろうなと思うとやっぱりクロイの言ってた通りだと思う。けど、ジャンヌにとっては〝まだ〟違って、〝まだ〟クロイや二人もそれに気付いていないのなら。
「ジャンヌ、良いこと教えてあげる」
手で招いて、もう三歩ジャンヌに近付く。
何かしら、と耳を傾けてくれるジャンヌにフィリップとジャックが凄く止めたそうに手を泳がせるけれど、それでも僕の方が先に近付く。クロイがもうわかったのか背後から「ちょっと、ディオス」と少し低くなった声で僕を呼んだ。
ジャンヌが聞こえるように耳に手を添えてくれた。深紅の髪を綺麗に纏めているジャンヌは、最初からすっきり耳が出ていて月明かりの下でもすぐに場所がわかった。だから
「結婚して」
ひそめた声で、先に取る。
言い切った途端、耳に手を添えたジャンヌが飛び上がるように跳ねて顔ごとこっちに向けた。紫色の目がまん丸で、月明かりの下じゃなかったら顔が赤いかどうかもわかったのにと少しだけ残念になる。
あわあわと唇を震わせて「へっ……え⁈」と初めて声を裏返すジャンヌが可愛くて、更には何を言ったのか気になるみたいに僕とジャンヌを見比べるフィリップとジャックが見たことのない顔をしているのが面白かった。
飛び退いたままフィリップにぶつかって、それでもまだ二歩後退りしたジャンヌは胸を両手で押さえつけたまま目がぐるぐる回っていた。
ははっ、と面白くておかしくて腹を抱えながら笑った僕は、今度はみんなに聞こえるように声を張る。
「嘘だよっ!」
昔に戻ったみたいに、心の底からおかしくて、楽しくて嬉しくて、笑いが止まらない。
一瞬でも本気にしてくれたジャンヌが嬉しくて、取り乱してくれたことも可愛くておかしくて。はははっと夜なのに響くくらい大声で笑うと今度こそクロイに「ばかディオス!」と怒鳴られた。
何言われたンすか⁈ジャンヌ大丈夫ですか⁈と僕より大声で叫ぶフィリップとジャックに、ジャンヌが今度は本当に恥ずかしそうに口を絞る。
ジャンヌより先にフィリップやクロイに怒られる前に「ごめん」と謝った僕は、ぐっと意識して背筋を伸ばす。今だけはちゃんと、ジャンヌの前で男らしくみられたい。
「……でも、本当に大好きだよ。ジャンヌもフィリップもジャックも、みんな。ジャンヌがもし結婚相手が見つからなかったら僕かクロイが貰ってあげる」
「ッちょっと!僕を勝手にいれないで‼︎‼︎」
顔が緩みながら言う僕にクロイが肩を引っ張った。
どんな顔をしてるのか気になったけど、今は振り返らないでおく。それよりもずっと見たい顔が目の前にあったから。
瞬きを忘れたまま僕を見るジャンヌとか、目がまん丸のフィリップとか、口があんぐり開いたジャックとか。この人達が僕らを助けてくれて、僕らからジャンヌを守ってくれて、こんなに笑えるようにしてくれた。
「おやすみ。本当にありがとう、三人と友達になれて良かった。また学校で会えるのが楽しみ。……また、家にも遊びに来てね」
両頬で手で挟んでいるジャンヌが「も、勿論よ?」とこくこく頷いて返事をくれた。
エリックさんが「そろそろ時間だ」とジャック達に声を掛ける。フィリップがジャンヌの手を引いて、ジャックが背中にそっと腕を回して促した。
騎士と一緒にジャンヌ達が通りを抜けて見えなくなるまで、僕らはじっと見送った。ちょっと覚束なく小走りで進んでいるジャンヌからずっと目が離せなかった。
「ほんとにばか」って。「フィリップ達に恩を仇で返してどうするの」って、クロイには何度も何度も言われたけれど。
「僕の勝ち」
そう言って歯を見せて笑って見せたら、唇をとんがらせたクロイは「だから違うから」と言ったっきりもう何も言わなかった。
姉さんになんて言ったか教えたら、女の子にそういうことは冗談でも言っちゃ駄目よと怒られても今回だけはあんまり反省する気にはなれなかった。だってちゃんと冗談じゃないし、本当にジャンヌだったら結婚しても良いやって思えたから。
『貴方はだれ?』
ディオス・ファーナム。
今なら、ちゃんと胸を張ってそう言える。
大好きな家族が居て、大好きな友達がいて、大好きな女の子が居て、……クロイより先にちゃんと気持ちが言えた方。
クロイより子どもな僕だけど、今だけはちゃんと自分の気持ちに気付けて好きな子に気持ちを言えた僕の方が大人だ。しかも、あれだけジャンヌと仲良しのフィリップとジャックより先に言えたんだから。
僕だけの気持ちを、僕の意思で、僕が好きな子に、僕の口から言葉にできた。
実らなくても叶わなくても敵わなくても良いくらい、それだけで充分過ぎるほど幸せだった。




