Ⅱ128.青年達は蹲り、
ガチャン。
無機質な音がそこに響くのも、既に何度か数える気力も失った。
一晩そこで夜を明かした彼らは、目を覚まして今では殆ど無言だった。太陽が昇り切った時間すら薄暗いその空間は鉄格子の嵌められた小さな窓しかない。目を覚ましてから両手足に嵌められた枷で嫌というほどに自分達の状況を理解した彼らは、その重さにもだんだんと慣れはじめていた。
すでに目を覚まして半日以上が経過している。耳を澄ませる時間もそして自分の置かれた立場も思い返す時間もあった。目が覚めて最初の内は喚き、焦り、逃亡の手段を考えた彼らだが、今はもう壁に寄りかかるばかりで気力がない。
大して清掃も徹底されていないそこは息をするのも気分が悪く、呼吸に意識を向けることも今はない。ただ、俯いた視界の中聴覚で入ってくる情報だけが新しかった。
「……どっちだと思う?」
ぽつり、と片方が数時間ぶりに口を開いた。
沈黙が長く続いた中でふいに投げられた自分への問いに青年は目だけを向ける。無言のまま、ゆっくりと顔も上げれば投げかけた本人は未だに俯いたままだ。
どっち、と投げられた問いに意味を尋ねることはなかった。その〝どちらか〟については、もう既に静まり切っていた二人の耳に牢屋の向こうから嫌というほどに聞こえていた。問いへ答える前に彼は目が覚めてから最初に衛兵から浴びせかけられた言葉を思い出す。
『目が覚めたか。……馬鹿なことをしたもんだな、お前達。完全に公爵家を敵に回したぞ』
見下すような声ではなく、心底呆れと窘めるような色合いが強かった。
最初、何が起こったかわからなかった彼らだが、倒れていた状態から身体を起こし、周囲を見回し、そして枷の手足を確認してやっと直前に自分達が何をしてどうなったかのかを思い出した。
混乱し、言い訳やどうなっているのかと騒ぎ立てる二人に答える衛兵の声はひたすらに冷め切っていた。彼らは現行犯で捕らえられたこと、そして捕らえたのが現職の騎士で既に言い逃れは不可能の域に達していること。そしてこの問題を受けて学校からは二人の〝退学処分〟が言い渡されていることも。その一つ一つを告げられる度に二人の身は凍り、息が止まった。
意識を失う直前に見たものをやっと思い出せばそれは、少女一人に対し二人がかりで襲い、拘束しようとしているところを目撃した騎士の怒りに燃える眼差しだった。騎士に見られたと、そう認識した次の瞬間には何が起こったかもわからないまま意識が飛んだ。未だにそれがどのような攻撃を受けたのか、騎士の特殊能力なのか、別方向から誰かに攻撃されたのかもわからない。それほどに、彼らを捕えた騎士の攻撃は電光石火そのものだった。
『プラデストは、我が国の王族直々に手掛けた新機関だ。学校は侯爵家の管轄だが、元は周辺地帯を含んだ領地全てクロックフォード公爵のものだ。学校内で法を犯すということは公爵家に盾突くと同義。しかも、……その顔に泥を塗ったことになる』
衛兵が淡々と告げたことは脅迫でも何ものでもなく、ただの事実だった。
今年で十八歳である彼ら二人も、公爵家の名くらいは耳にしたこともある。大国であるフリージア王国で、城下の一部を任されている公爵家はその屋敷もさることながら、放課後の彼らの職場でも名が知れ渡った存在だった。学校がその敷地内にあることも年齢として大人である彼らにはわかりきったことだ。城下で働き、生きていく中でその名と力を知らない者はいない。公爵家だからこそ新機関である学校を己が敷地内に設立し間接的に侯爵家へ〝管轄〟を任す立場になることができた。
そして彼らは、その二家の命運を握ったとも言える領地内で事件を起こした。しかも王族の手がかかっている機関内で、創設から一ヶ月も経っていない間に。そのことが王族に知られれば間違いなく責任の一端を掛けられるのは任された権力者達である。
衛兵にその事実を告げられた時、二人はもう言い訳も考えつかなかった。もともと、自分達の犯したことがバレれば大変なことになることもわかった上での犯行だ。しかし、こうして牢に放り込まれ枷をされ、今まで自分達を守る側だった衛兵に柵の向こうから事実を突きつけられれば喉も干上がった。言葉も出ず、絶句という言葉が相応しく謝罪すらできなかった。
『お前達が目覚めた今、こちらも報告をする。事情は聞かせて貰うが刑罰に関しては覚悟しておくことだ。……万が一、〝公爵家に引き渡し〟となった場合は。…………』
そこから先は衛兵から告げてもらうことは叶わなかった。
敢えて、というよりも言葉を詰まらせた様子の衛兵はそのまま上へ報告すべく他の衛兵に見張りを任せてその場を去った。その後に静まり切った牢屋の中で二人は同時に同じことを思い出していた。庶民である彼らは一般的な学も、知識も大して持ち合わせてはいない。
しかし学校に通う前からの友人であり、そして学年もクラスも同じになった彼らはちょうど数日前に学校の法律の授業で国の刑罰についても聞いたばかりだった。
まだ一限しか受けていない彼らが聞いた法律、刑罰についての内容はほんのさわりのみ。そして、捕えられた罪人がどういう目に遭うのかを思い知る為の大まかな内容のみ。国の法律に則り、それを犯した者には相応の刑罰が決められている。
重罰であれば処刑や永久投獄。特別処置としては隷属の契約。そして最も軽いものであれば数日の投獄か罰金程度。罪の種類は多くに分かれているが、暴力や監禁、誘拐など他者を害する行為に関しては決して軽い罪では済まない。軽くて鞭打ち、更には罪人の証として元の生活に戻れないように焼き印や傷、身体欠損などもある。奴隷堕ちのないフリージア王国だが、だからこそ罪への裁きは重い。
その後、現行犯分だけでもその背に鞭打ちの罰を受けた彼らだがこれだけで終わるとも思わない。
大罪人であれば長く苦しめる為の永久〝投獄〟という処分があるが、それ以外の小物の犯罪者に逐一一生分の牢や食事を用意することなどあり得ない。それよりも他者に罪人として白い目で見られるための消えない傷こそが、野に放たれる彼らへの刑罰として相応しい。
未遂や他者に命じられたことによる被害者的立場であれば、刑罰が軽くなることもある。が、学不足の彼らはまだそこまでは知らない。だからこそ教師から教わったばかりの焼き印などの刑罰が確実に自分達の身に降りかかるのだと確信した。
そして公爵家の名まで汚した彼らが〝未遂〟として減刑されるわけがないと衛兵もわかっている。むしろ焼き印や身体欠損で済めばまだ救いがある。少なくとも生きて家へ戻ることはできるのだから。しかし、彼らが目を覚まして責任能力を取り戻した時点で自分のところに報告をするようにと公爵家から命じられていた衛兵は、彼らにはそれ以上の地獄が待っていることを察していた。
罪人はあくまで罪人。罪を償うまでは〝民〟とすら見られない彼らが、もしその刑罰を処する公爵家自ら罰することを決めれば衛兵は彼ら二人を引き渡すしかない。
そして、その瞬間に彼らが口で言えるような刑罰で済まされずに内内で処分されることも目に見えていた。あくまで決定権は領地を任された公爵家にある。
クロックフォード公爵家自体が黒い権力者というわけではない。ただ、領主として徴税を含む領地経営や治安維持を任されている彼らは、上の立場であればあるほど単純に規則通りに動くことばかりでは許されない。領地内の最大責任者として臨機応変に〝規則〟外の処理や対応力も求められるのは当然だった。
そうして治安維持と〝罪人ではない真っ当な民〟の生活を守ることこそが彼らに課せられた義務なのだから。上の期待通りかそれ以上の働きと結果を出すことこそが彼らの役割だ。そして
「決まってるだろ。……俺らは殺される。公爵家から逃げられるわけがない」
彼らも、それはわかりきったことだった。
授業や勉学などではない。十八年近く民として生きてきた彼らにとって、それは経験で知る〝常識〟だ。罪を犯せば罰せられる。権力者を敵に回せば闇に葬られる。その程度の知識を彼らが知らないわけがなかった。
だよな、と答えられた側もその返答に驚きはなかった。既に思考が逃げることを許さないほど、何度色々な奇跡を考えても結局はその結論に行きついた。許されない、助からない、もう自分達は生徒どころか、フリージア王国の〝民〟ですらないのだと。
あまりの絶望に打ちひしがれるどころか涙も出なかった。ただ〝死ぬんだな〟という事実だけが枷よりも重く彼らの身体にのしかかる。
「……すまねぇ、ベン。俺が」
「乗った俺も同罪だ。……バレたらこうなることはわかってた」
両ひざを抱え、問いを投げた方の青年は蹲る。
それに対し、はっきりと自分達の行く末を明言した青年は横目だけで睨むように彼を見た。慰める気はない。自分と同様に彼もまた犯罪者なのだから。
昔からそれなりに悪さを繰り返していた青年と腐れ縁という形で友人だったベンの二人が友人になったのは単純に互いの弟と妹が友人になったからだ。運よく捕まったことこそないが積もれば軽犯罪者にもなりかねない悪さと諍いを繰り返したチャド、その弟と中級層で細々と家計を守っていたベン、その妹が仲良くなった、それだけだ。
学校が開かれると知った時、チャドの仕事を真っ当にさせる為にと兄弟二人を入学に誘ったのもベンとその妹だ。学校に通い、真っ当な仕事の技術を身につければ今の仕事から抜け出せる。弟に真っ当に生きて欲しいならお前もそうしろ、と。説得を重ねた結果、彼ら四人は入学を決めた。
そして最初こそ大人しく学校生活を過ごしていた彼らだが、そこで最大の誘惑が舞い込んだ。
〝特待生制度〟だ。
『なあベン、わかるだろ?中等部二年には一人だけ馬鹿みてぇに頭の良い生徒がいるって』
昔から勉学に向き合えた弟と妹と違い、二人は早々に仕事に就いた為に学はない。しかし中等部二年である弟妹達には特待生の可能性がある。
ここで特待生になれれば、弟妹達だけでも良い生活をさせてやることができるとチャドは考えた。そして、その為にはまず一人でも可能性を潰すこと。そして中等部二年に、一人だけ高等部の生徒すら凌ぐ天才の女生徒がいることは特待生制度発表前から噂になっていた。
実力試験後に自分達の答案と弟妹達の答案を見比べた二人は、その噂の二年生の尋常ではない優秀さもよくわかった。彼女が特待生を狙えば、間違いなく三人分ある枠が一つ減るとチャドも理解した。
『だからって試験を受けれなくするなんて……‼!犯罪だぞ?!バレたらそんな』
『別に殺そうって言ってるわけじゃねぇよ。高等部で聞いて回ったけど、強いのは銀髪の方だけでジャンヌはか細い身体の田舎娘だ。俺ら二人で脅せば十四の女くらい黙らせれるし証拠もでねぇ。……お前も、アンに特待生になってほしいだろ?』
『何の為にお前を学校に入学させたと思ってるんだ‼︎そのジャンヌって子も、もしかしたら家の事情がー……、……っ』
最初は当然ベンは止める気だった。
犯罪を犯せばどんな処分を受けるかも想像には難くない。今だって細々とはいってもちゃんと自分や両親の稼ぎで生活もできている。
チャドも親との仲は良くないが同じだ。別に犯罪に手を染めずとも、特待生を二人が逃そうとも生活は今まで通りできる。わざわざ危険な橋を渡る必要はない。だが、しかし、それでも。その時もベンがチャドを止めきれなかったのは
『同年の恋人を作る為なんです』
偶然、職員室で聞いてしまったジャンヌの言葉を思い出してしまったからだった。
教師の手伝いとして職員室に資料を運んだベンが、たまたま担任教師に呼び出されたジャンヌの言葉を聞いていた。
ちょうど自分が教師に「ここに資料置けば良いですか」と尋ねた後のことだった。
にこにこと満面の笑みで学校に来た理由は勉学でも将来の為でものない。ただ恋人を探したいだけだと。だから飛び級すら興味はないと宣い、更にはどんな恋人がと尋ねられれば絵本に出てくるようなと夢物語を語る愚かな少女の姿を。
自分達が将来を考えて、仕事の為に、人生を変える為にと学校に訪れてわざわざ稼ぐ時間を削ってまでいるというのに、頭が良いというだけでその少女は特待生まで取るつもりだという。
チャドが高等部の生徒から聞きまわった噂からジャンヌが特待生を狙っていることも、更に二人の少年を巻き込んで三人で特待生を取ろうとしていることも、そして山育ちで祖父に過保護なほど甘やかされているということも聞いていた。
だから勉学をする余裕も時間もあったのかと思えば、嫉妬や憎しみを少なからず覚えないわけがなかった。自分達が爪に火を点す思いで生活してその人生を変えようと足掻き、そういう生徒の為に王族がわざわざ機会を与えてくれたというのに各学年三人しか許されない貴重な切符をそんな全てに恵まれている頭の軽い少女に奪われるのかと知れば、何も思わないわけがない。たとえ、妹やチャドの弟が特待生になれずとも、〝ジャンヌ〟にだけはその権利を与えたくないと思う程度には。
更にはその時の職員室での出来事を思い出せば、ベンはちょうど教師が「二階空き教室の鍵ならそこに」と、〝施錠できる教室の鍵〟をどこに保管し吊るしているのかを話しているのも覚えていた。高等部の鍵のかかる空き教室。そこなら少しの間だけ生徒を閉じ込めて監禁しても、鍵さえ閉めればまず見つからない。怪我を負わせるわけでもない、ただ特待生を受けるに〝相応しい生徒〟にその権利が行くだけだと思えば、彼の心に魔が差し込んだ。
『アン達が言ってたろ⁈そいつらの学級は二限が男女別だ!その間にジャンヌだけちょこっと捕まえりゃあ良いんだ!俺が聞き回った限り高等部ボコったのは銀髪だけだ!』
『じゃあ何処に捕まえるんだ⁈守衛に今は騎士も見張ってるのに校外に連れ出せるか⁈校内なら生徒か教師に見つかるに決まっ……てる、だろ』
時間を置いてもまたチャドに誘われた。
一度断り、二度断り、下校した後にも仕事へ行く前に話を聞いてくれとまた誘われた。今度はあの空き教室の存在が強く頭の中で蘇った。
厄み、嫉妬、逆恨み、妹の為、友人の誘い、悪友がやり過ぎないようにする為、間違った正義感、独善、八つ当たり。言い方など無数にある。その中でベンを犯罪に急き立てる理由もまたいくらでもあった。
そして、それでも悩み、犯罪に手を染められないと最悪の場合自分達がどうなるかと様々なものと可能性とを天秤にかけたベンと、学校内での犯罪というそれを単独で成功させる自信まではなかったチャドを実行に駆り立てたのは。
『学校って、恵まれない子の為のものだったんじゃないの?』
「…………」
あの時の言葉を思い出したベンは、そこで一人首を振った。
違う、あれは関係ない。あれこそ単なる偶然だ。あくまで自分達が自分の意思で決め、実行した犯罪であることに違いない。ここまでやっておいてその責任をチャドに押しつけるどころか、そんな他人にまで押しつけるなど間違っている。最期を見極めてしまった今だからこそ、せめて自分の罪を正しく受け入れなければならないとベンは思う。
そして、当日。〝もし誰かに見られそうなら諦める〟〝あくまでバレないように〟〝妹弟達は巻き込まない〟〝怪我は負わせない。閉じ込めて脅すだけ〟という約束のもと実行されたそれは驚くほどに都合よく成功した。いつものように教師の手伝いでベンが職員室へ訪れれば、ジャンヌのクラスは移動教室だと知れた。そして彼女は都合よく例の空き教室の前を通る。教師が特待生試験の準備で慌ただしくなる中で鍵を盗むのはあまりにも簡単だった。本来ならば保管場所も、どの鍵がどの部屋のものかも知らない筈のそれをベンは把握していたのだから。
そしてジャンヌはすんなりと一人で行動し、か細い身体は自分一人でもすんなり教室へ連れ込めた。扉の鍵を閉め、あとは何でも手に入ると思い込んでいる少女を特待生試験が終わるまで閉じ込めるだけ、の筈だった。
『ッ何をしてる‼‼︎︎』
偶然通り縋った騎士に自分達の犯罪が見つかるまでは。
そうして彼らは意識を失い、捕まり、目が覚めれば領地内の詰所にある牢屋に放り込まれていた。
こんな筈じゃなかった、と何度も思った。
別に誘拐するつもりでも、犯すつもりでも、傷付けるつもりもなかった。
少し痛い目はみて欲しかった、という欲は否定できなくとも彼女にそれ以上の被害を与えるつもりはベンもチャドもなかった。彼女自身もし特待生を逃しても困る家庭事情ではないこともチャドが裏を取っていた。
しかしそれでも法律の元に判断すれば自分達のやったことは犯罪だ。騎士にさえ見つからなければジャンヌがいくら騒ぎ立てても自分達が監禁した証拠がないように、自分達もまたジャンヌにそれ以上の危害を与えるつもりがなかったという証拠はどこにもない。未遂で終わったからこそ自分達がジャンヌをその後に殺すつもりだったとも売るつもりだったとも判断できる。それもまた、今のベンもチャドもよくわかっていた。
そして後悔しようとも、もう全てが遅すぎる。
『これからクロックフォード公爵が来られる。全員、無礼のないように』
『お待ちしておりました、クロックフォード卿』
『その、隣に居られる御方は……?』
鞭打ちを受けた後も耳を澄ませていた彼らには衛兵の声が届いていた。
自分達が目を覚ましたことでとうとう本当に公爵家が足を運んできた。もし、決まった刑罰で裁くだけならばわざわざ逐一公爵が訪れることなどあり得ない。その判決だけを衛兵に伝えるに決まっている。公爵自らが現れたということは、もう〝普通の刑罰だけでは済まされない〟と判断されたのだと理解する。
これから自分達は公爵家に引き取られてしまうのだと、チャドは恐怖で両耳を塞ぐ前に確信してしまった。今までも悪さをしてきた自分がこうなるのはまだ諦められる。だが、自分と違い真面目に生きてきたベンまで処分される。そしてそれは同時に自分の弟の友人が兄を失うということになる。
こうなる筈じゃなかった、今までと同じ少しの悪さの筈だった。退学くらいなら別に痛くもかゆくもないと。真っ当に生きてきたベンよりも遥かに、チャドの方が自分の犯した罪の深刻さを理解できていなかった。いくらベンに持ち掛けた時から犯罪だと言われても、今まで通りの小さな犯罪の筈が、ここまで大きなしっぺ返しになると思っていなかった。
タン、タン、と足音が近づいてくる。
今までの衛兵の足音とは違う音の響きに、二人は口を絞ったまま震えあがった。先ほどまで沈黙が続いていたこの空間に足音が近づく理由など一つしかない。執行人が今、自分達を迎えに来たのだと嫌でも理解する。
逃げたい、逃がしたい、やり直したい、最後に家族に会いたいとその一瞬だけで何度も思う。
しかし枷も嵌められ、屈強な衛兵に監視された自分達に選ぶ権利はもうない。あるとしてもこれ以上の責め苦を受ける前に舌を噛む程度のものだ。最期からは逃れられない。
ただの小さな悪意だけだった。〝魔が差した〟とその言葉で充分過ぎるほどのものだった。
妹の為に、弟の為に、恵まれない環境で生きていく自分達にできる手段で最も都合の良い展開をその手で引き寄せようとした。ただそれだけだった。しかし、その結末は。
「いやはや、流石はクロックフォード卿。まことに頭が下がります」
私も見習わなければなりませんねぇ、と。
この場にそぐわない抑揚のつけた明るい声が異様に響く。あまりにも響いた声に俯いていた二人は同時に顔を上げた。
見れば、明らかに上等な服に身を包んだ二人の男が護衛を引き連れて歩み寄っていた。湿った目をそのままに自分達の手には届かない世界で生きる存在を、穴が開くほどに見つめてしまう。
切長な薄水色の眼差しが、彼らを写した。
Ⅱ35.72-1




